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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


思考の果て/ゲームを始めるために

 咲とキコニアの紹介ページが開設された記念に投稿。
 長くてまとまってないがご容赦を。


 うみねこの物語を記述する最上位者は誰なのか?
 この“記述”とは、紙面に書くことだけでなく、頭の中で物語を作ることも含める。
 八城幾子は頭の中で物語を作り、それを紙に記述し、パソコンで打ち直す、の3度手間をしているとか。
 要するに、物語の全てを観測し生み出している最上位の観測者のことである。

 大別すると2つ。
 人間が記述しているのか、魔女が記述しているのか。
 ミステリーか、ファンタジーか。
 現実の上に魔女の世界があることを許すのか、魔女の世界もまた人間の想像が生み出したものとするのか。

 ミステリー、即ち全て人間の仕業であると突き詰めていくならば、行き着く果ては「うみねこの全ては作中の人間が記述した作中作である」となるだろう。
 創作であるなら何でもありだから考えるだけ無駄と感じるが、物語の執筆者の推理して欲しいという意思を信じることができたなら推理は可能なのである。
 と前回辺りで書いたと思う。
 人間の思考より生み出されたものは、その思考を辿れば解けるのである。



 魔女が用意したゲーム盤で起こる惨劇のパターンは複数あり、それらが現実であるとすると並行世界があることになりファンタジーになる。
 それをミステリーで解釈するならば、それらの並行世界は思考の産物となる。

 起こり得る偶然を網羅し、それぞれに対応する惨劇を用意し、無数の並行世界を作り出す、通称悪魔のルーレット。
 これはある種の思考実験と言ったところか。
 そしてベアトのゲームはそれを用いた思考ゲームである。
 よって、その思考は現実的でないと否定するのは無意味だ。
 このゲームは思考を辿り、心を推理することを目的としている。
 現実のみを推理することは目的ではない。


 EP7においてベアトリーチェ殺人事件が起こる。
 ベアトリーチェはそれを生み出した者自身の手によって殺された。
 現実においてベアトは誰も殺していない。

 無数の惨劇は現実とならず、よってその犯人も存在できず、主の頭の中で生まれそして殺された。
 犯人ベアトリーチェを知る者はおらず、その物語は主の心の海を揺蕩いて忘却の深淵に消えていくのみだった。
 にも拘わらずその物語を拾い上げ現実の海へと投げ放った。

 なぜベアトリーチェを生み出したのか?
 なぜベアトリーチェに何もさせずに殺したのか?
 なぜ自分が殺したベアトリーチェの物語を人々に知らしめたのか?

 これらの疑問に対して、起こった事実のみでは答えにならない。
 事件の日に起きた現実は、膨大な思考という過程の果てに辿り着いた結果に過ぎないのだから。。
 現実は氷山の一角に過ぎず、その正体の大部分は海の下、即ち心の中、思考の海の中にある。
 つまり、思考を辿り心を推理することが肝要なのである。


 ベアトリーチェは主の思考より生まれ、思考の中で惨劇を起こし、現実に何もなせずに殺された。
 全てが思考のみで完結した存在。
 思考実験の産物。

 ベアトリーチェのゲームはそれを用いたもの。
 純粋に思考のみで成り立っている。

 思考ゲームは思考を楽しむもの。
 だから、考えても無駄だから考えない、という姿勢こそが無意味であろう。
 娯楽は無駄を楽しむもの。
 その無駄だというものを楽しむのだから。

 ベアトのゲームは思考することの楽しさを教えてくれる。
 ベアトリーチェという思考実験が余程楽しかったのだろう。
 メッセージボトルを作って自分の思考を辿らせようとしたくらいだ。

 実際楽しい。
 真実を異なる角度から見れば違う顔を見せてくれる。
 真実に辿り着いて終わりではない。
 思考する限り、楽しむことが可能なのだ。

 真実が1か0かなら、1を得て終わりか、0だから無駄に終わるかになる。
 真実が1と0の間なら、その揺らぎが無限を生む。

 EP8で語られたのは、知ろうとしないことを良しとしたのではない。
 知ることの楽しさを失わないために、考えることを楽しみ続けるために、知ることによる思考停止を戒めているだけなのだろう。



 閑話休題。



 さて、メッセージボトルを流さなければ、ベアトリーチェは忘却の深淵に消えていた。
 ではなぜメッセージボトルを流したのか。
 これは明白だろう。
 EP1ですでに書かれている。

 皆が認めなければ存在できないベアトリーチェを、認めさせること。

 一周回って戻ってきたが、これまでの思考の旅路の結果、異なる意味合いが見えてくる。
 要は、当初魔女ベアトリーチェのことだと思われていたのが、実は犯人ベアトリーチェのことだったということ。

 思考上の事件の思考上の犯人。
 現実に存在しない人間を認めさせる。

 そのための無限の惨劇。そのためのベアト殺害。そのためのメッセージボトル。

 ベアトを殺したのは、ゲームの対戦相手にベアトを新しく生み出させるため。
 即ち、ベアトを蘇らせるために、まずはベアトを殺した。


 まあ論理的ではある。
 生きているなら蘇らせる必要はないのだから。

 思考だけで終わっておけばただの思考実験だったのだろうけど、思考の結果を現実に反映させてしまっているからなあ。
 思考が信念になったのだろうが、これは狂気的ではある。
 例えるなら、真里亞が楼座にさくたろうを認めさせ蘇らせるために、自身の手でさくたろうの首を捩じ切ったようなもの。
 他の人間に認めさせたいほどに大切な存在を、結果が保証されていないのに壊したのだから。

 そして、結果が現れたということは、それに至る過程の証明となる。
 過程がなければ結果には至らない。
 よって、結果があれば過程は存在する。

 結果を伴う魔法。
 その魔法とは即ち、過程であり思考である。
 結果を伴う魔法は、表と裏が合うように辻褄合わせをしなければならない。
 よって、結果を伴う魔法とは、辻褄を合わせた結果である。
 なので辻褄を合わせる必要がなければその結果には至らない。
 要するに、結果が魔法の存在を証明する。

 魔法という解釈が、執筆者の思考上に存在することを証明するのだ。
 これが悪魔を証明するということ。
 つまり、悪魔は人の心の中に棲んでいる。
 トンチかな。


 ベアトリーチェが存在しなければ無限の惨劇は作られず、悪魔のルーレットは回らず、ベアト殺害は起こらず、猫箱を作る必要はなく、メッセージボトルは記されることもなかった。
 それらがあったということは、ベアトリーチェは確かにその主の心の中に存在していたということ。
 その真実を誰も否定することはできない。

 現実でないならそれは幻想。
 だが幻想ならそれは全て嘘なのだろうか。
 嘘ではないのなら、その幻想は真実なのだ。
 真実だから結果が伴う。
 自身の人生を左右するほどの決断を下せる。
 現実に影響を与える幻想は、その幻想が存在することを証明している。


 人を殺すのは、人の心。
 だから心を推理する。

 心を推理してほしいから、心から生まれた物語を送った。
 ならそれを推理するのに物語以外、神から見た現実は必要ないだろう。


 悪魔の証明を証明するには、悪魔が姿を現さずに証明しなければ意味がない。
 それを突き詰めた結果がベアト殺害なのかもしれない。

 ベアトの存在を動機とした殺人は、ベアトが動機として存在することを目に見える形で証明することになる。
 つまりは悪魔を連れ出したようなもの。
 悪魔が姿を現さずに証明するためには、それらの事件も幻想とするしかない。

 悪魔のルーレットに身を委ねることで、その結果、起こらなかった事件を幻想とした。
 しかしそれは、ルーレットに身を委ねるという意思が嘘であったなら、それら全ての幻想が嘘だったことになってしまう。
 よって、絶対の意思でルーレットを回したのだろう。

 ルーレットの出目によって、姿を現して殺人を犯して証明し、または姿を現さずにその証明を試みる。
 ベアトが存在した証とするという意味ではどちらでも満足する。
 だが思考実験としては、より突き詰めた姿を現さないままの証明こそが本命のはず。
 本命を成し遂げるために、本命を行わないことも容認する。

 本命の実現という目的のためにルーレットという手段をとったが、手段であるはずのルーレットを作るのが目的となり、本命は出目のひとつとしてルーレットが行う手段のひとつになり下がったが、ルーレットの上には依然として本命が大目的として不動のまま鎮座している。
 と実に倒錯的だ。
 そしてそれを思考で留めず現実にしようとするのは狂気的だ。

 決断できないからルーレットに委ねる。
 どれでも構わないからルーレットに委ねる。
 それなら実に人間的だ。
 だが、明確に出したい目があるのに平然とルーレットに委ねるのは、人間離れしている。
 たとえそれが、ルーレットに委ねた上で出た目でなければならないのだとしても。

 人間に可能な決断には思えない。
 理解は難しいな。
 感覚的な納得は、論理では量れない。
 同様に、論理的な正しさを、感覚では捉えられない。
 彼のモンティホール問題の答えのように。

 ルーレットに運命を委ねる苦悩と葛藤、即ち感情は理解できる。
 ルーレットを形作る思考と論理、即ち理屈も理解できる。
 出したい出目があるにも拘らずルーレットに身を投じる感覚は完全には理解できない。
 人の感覚から離れているように思う。



 現実の自分を俯瞰して見下ろしているもう一人の自分がいるという感覚。
 まるでゲーム画面を眺めるかのように。
 現実の自分をゲーム盤の駒として見下ろし、さらには複数の盤面を用意し、大勢ある自分という駒の中のひとつとして扱う神の如き視点。

 並行世界の自分の集合体こそが真の自分という感覚か。
 はたまた、それらを見下ろす神の如き視点こそが真の自分という感覚か。
 現実の自分の命が失われても、真の自分は存在し続けるかのような決断のように思える。

 ゲーム盤から駒を除外しても、プレイヤーは存在し続けるように。
 駒として扱っている現実の自分の命を除外しても、プレイヤーとしての自分は存在し続けると。

 まあ、それは錯覚に過ぎない。
 肉体があるから、意識はある。
 その逆はない。
 もしあるとしても人間には関知できない。
 だから現実的には、存在し続けると錯覚したまま、肉体ごとその意識は消え失せることになるだろう。


 だがしかし。
 ルーレットの中にひとつだけ、その神の如き感覚を、意識を保ったまま猫箱を生きて出られる出目が存在する。
 それが本命の目。
 それ以外の目は本命のための捨て駒。

 確率が低い賭けに勝った時には魔法が宿るという金蔵理論。
 魔法だから勝つのではない。
 勝ったから魔法が宿るのだ。
 優れるから勝つのではない。
 勝ったから優れるのだ。
 未来の真実が過去の真実を書き換えるのだ。

 自分自身に魔法を掛けるのが一番難しいという。
 信じようとも信じきれないものを、自身に信じさせようとしたのか。


 ほぼ確実に猫箱の中で死ぬことが決まっていたのに、奇跡的な出目でひとつだけ入れていた当りを引いた。
 賭けに勝ったモーセの前で海が割れたように。
 無論、それはただの偶然に過ぎない。
 だがそれが実際に起きた時、人はそれを奇跡だと信じる。

 根拠なき錯覚に根拠が与えられ、偶然は奇跡となり、石は金となり、人は神となる。
 人以上の存在を魔女とするならば、自分は魔女であると。
 それを認める証として奇跡が起こるのだと。

 同じ結果を得ようとも、自らの手で成し遂げなければ達成感は得られない。
 山の登頂を達成したという実感が、それまでの道程を肯定する。

 百聞は一見に如かず。
 論より証拠。
 百の思考よりも、一の実践あるのみ。
 一回奇跡を起こしてみせれば、それを根拠として信じることができる。

 強烈な神秘体験こそが、神秘を真実だと信じさせる。
 悪魔のルーレットに打ち勝ったという自負が、人の領域を超えたのだという自覚を齎すのか。
 ベアトリーチェを殺したあの瞬間、神懸った、ある種の悟りを開いたかのような精神状態だったのではなかろうか。
 ベアトのゲーム盤の赤き真実が真に絶対のものになったのはこの瞬間だったのかもしれない。
 それは即ち、親の総取り、ルーレットの全てを掌握したということ。
 そしてそれをもってベアトリーチェの存在を世に問う準備が整ったということ。
 全ては再びベアトリーチェに微笑んでもらうために。
 これについては、EP1の時点ですでに金蔵が語っているのだよな……。


 これが実現すれば、神の如き感覚を己のものとし、現実はゲーム盤のひとつになり、現実の自分すらも駒と認識することが当然となる。
 それは肉体と精神の乖離を促す。

 主観を肉体に置かず、俯瞰視点を主観に定める。
 現実の出来事をまるで画面越しに見るかのように、肉体と精神の距離が遠い出来事のように感じることだろう。
 人を見る時、肉体ではなく精神を見る、肉体<精神の価値観。
 肉体に価値を見出さない。
 それどころか魂を縛る檻と感じ忌避している。
 太陽の七の魔法陣は檻からの脱出。
 それを組み込んだ儀式の完遂は、その価値観の完成を意味しているのではないか。

 そうなれば肉体に付属する苦悩や葛藤は相対的に矮小化され、純粋に思考を楽しむことができるようになるだろう。

 ああ、これで自身の負の感情が渦巻く惨劇を使って、思考を楽しむゲームを共にしようとする矛盾に説明がついてしまうな。


 今思えばEP6のラストで縁寿が八城にした質問は核心を突いていたのだろう。
 八城がフェザリーヌなのか、フェザリーヌが八城なのか。
 どちらが主なのか。

 ミステリーで考えるなら、無数の惨劇の真犯人は人間であり、物語を執筆した最上層にいるものは人間となる。
 それに間違いはない、
 だがそれだけで足りるのだろうか?

 例えば、私が探偵となって「八城幾子、貴方が真犯人だ」と追い詰めたとして、参ったと言うだろうか疑問だ。
 真実が二つ並び立つ時、どちらも同時に塞がなくてはならない。
 片方だけだと、もう片方から逃げられるだけなのだから。
 つまり、「フェザリーヌ、貴方が真犯人だ」も同時に突きつけなくてはきっと降参しないのではないだろうか。

 ラスボスを倒したと思ったら裏ボスがいた気分だ。
 裏ボスを倒さなくてもエンディングを迎えられるという意味でも。

 現実においては、ペンを持ち紙面に記述しているのは人間である八城幾子である。
 しかし、幾子も言った通り、紙に書く前に頭の中で物語を記述しているのだ。
 頭の中で物語を記述しているのは、人間の八城なのか、それともフェザリーヌなのか。
 八城視点なのか、フェザリーヌ視点なのか。

 事件は思考上にしかなく、全ては物語として記述されたもので、推理すべきは真犯人にとっての真実である。
 現実はそれに付随する一要素に過ぎない。

 言えるのは、フェザリーヌを追い詰めない限り、推理は片手落ちだということだけだろう。
 八城とフェザリーヌは同一人物であるが、それと同時に別人であるというのが彼女の真実だろうから。



 よって結論は、「うみねこ」はミステリーであると同時にファンタジーでもある。
 そしてそれらを記述しているのは人間である。

 精神をどれほど高めようと、それは人間に可能なことだろうから。
 人間を超えようと、人間は人間である。

 しかし、八城幾子は、人間から神に成り上がったのか、それとも人間から駒に成り下がったのか。
 ベアトのゲームは他人を駒として弄んでいるが、それも間違ってはいないが、本質は自分自身を駒として弄ぶことにあるのだろうからなあ。





 この奇跡の魔法について、勢いのまま書いたので分かりにくかったと思うので、異なる角度から色々な表現に挑戦してみる。


 某インタビューで瓶の蓋を開ける話があったのでそれに倣おう。

 固い瓶の蓋は、開けられると思ってやらなくては開けられない。
 開けられないと思っていれば、ある程度で開けるのを諦める。
 物語本編でも魔法の話で、極小の可能性でもやれば叶う可能性があり、やらなければゼロであると言明されていた。

 その結果得られるのが奇跡の魔法。
 それは困難を打ち勝ったという達成感。
 困難が大きければ大きいほど、それは得られるだろう。

 それでそれはどう精神に影響するだろうか。
 その道に詳しくない私ではわからないが、とりあえずは二つばかり精神論的なのは思いつく。

 スポーツの練習で本番の試合よりも困難なことをやらせて、それを克服できればそれ以下の困難である試合は困難ではないの思わせるやり方があるとかなんとか。

 闘犬を育てる時、最初の闘いの前に噛ませ犬を用意し、勝利の味を味合わせるとかなんとか。
 逆を言えば、噛ませ犬を使わず初戦で負ければ負け癖が付くのだろう。

 これらも一種の魔法と言える。

 最初の瓶を開けた者は、次の瓶も開けられると信じる。
 だから困難だとしても諦めることはない。

 極限の苦難を乗り越えた者は、あらゆる苦難に対して諦めない精神力を身に着けられる。
 言うなれば、究極の勝ち癖。

 リスクを背負いそれに打ち勝つことで、絶対に勝つという意志力を得る。
 それが金蔵の魔法。
 金蔵は常に勝つことを考え、勝つ方策が思いつかなければ自爆する覚悟をしている。
 その意志力の前では、凡百の輩は戦うまでもなく膝を屈するしかないだろう。

 そして、その奇跡の魔力を得る前にそれを豪語するのが王者の傲慢。
 勝とうとしなければ勝つことはできない。
 絶対の意思が絶対の結果を紡ぎだす。
 とは言え結果が出るまでは、それを認めるのは自分だけ。
 逆を言えば、結果が出ればそれは追認される。
 絶対の結果が絶対の意思を保証するのだ。

 結果が伴う魔法は、結果が伴わなくては魔法とならない。
 ある意味虚勢に過ぎなかったそれが、結果を得ることで本物に化け実勢になる。
 そしてその結果により、過去に遡って真実が書き換えられる。
 その意志は本物であったと。


 結果だけが、意思を証明してくれる。
 誰にも視えない、誰にも認められないそれを。

 人の意思が事件を起こす。
 意思が事を成す。
 事を成すには意思の力がいる。
 意思の力を信じるには、事を成しそれを証明せねばならない。

 ベアトリーチェを認めさせる。
 それを成すには、まず絶対の意思を得なければならない。
 それを得る為に、悪魔のルーレットに打ち勝つ必要があったのではないか。

 黄金の真実を飾り立てるには、まず土台となる赤き真実が必要となる。
 それを己に信じさせるために、悪魔のルーレットを踏破した。
 そして満を持して黄金の真実を世に問うためにメッセージボトルを流した。
 己に黄金の真実を信じさせる奇跡を願って。


 奇跡を起こすために、まずは最初の奇跡を起こす。
 瓶を開ける為に、まずは最初の瓶を開ける。

 その信条はベアトのゲームにも反映されているのではないか?
 具体的には、各ゲームとして。

 つまり、9つのエピソード、8つのゲーム盤、8つの瓶。
 最初の瓶を開けられたなら、その後の瓶も開けられるだろう。
 しかし、最初の瓶が開けられないなら、その後の瓶も開けられないだろう。

 要するに、「うみねこ」を八つの山の連なりと見るのだ。
 それを大きな一つの山だと見てしまえば、最初のひとつのゲーム盤だけでは情報不足であると判断してしまうだろう。
 あるいは、うまく開かないからと別の開けやすいものを開けることにするか。

 そういうコンセプトのゲームなのだろう。
 奇跡を得ることで絶対の意思で思考できるようになった八城は、対戦相手に同じことを求めたとすれば辻褄は合う。



 思うに「うみねこ」は、観測することによって異なる世界を新たに生み出せるのか、という思考実験だったのでは。


 真実は2種類ある。
 観測せずとも存在している真実と、観測することによって生じる真実だ。

 それに伴い世界も2種類に分けられる。
 観測せずとも存在する真実によって構成されている世界と、観測によって生まれた真実によって構成されている世界とに。

 では、世界と観測者のどちらが先なのか。。
 先に世界があり、そこより観測者が生まれたのか。
 それとも、先に観測者がいて、世界を生み出したのか。
 物が先か、心が先か。

 もし、心が世界を生み出すのであれば、思考によって別の新しい世界も生み出せるのではないか。
 別の可能性、異なる視点、新たな解釈。
 それらによって生み出される様々なカケラ世界。

 仮に、絶対の意思で思考し、絶対に思考を止めない存在がいるとするならば、無限に世界を生み出すことが可能なのではないか。
 その仮想の存在をフェザリーヌと仮に名付ける。


 殺人儀式は、それを現実において人工的にその模造品を作ろうという実験。
 オカルト的に解釈すれば、その仮想の超越存在の召喚儀式。
 と見なすことができる。

 だが現実的に考えるなら、世界は一つしかない。
 だからこそ、他人の心の中に新しい世界を生み出すことにした。

 現実と同時並列的に観測可能な別の世界を他人の心の中に生み出せたなら、その世界を己の観測によって生み出したのだと、その者に認証してもらえる。
 それをもって証明終了。

 全ては人間に可能なこと。
 そして、ベアトリーチェは“い”る。


 後は悪魔のルーレットを突破できる方法か。
 これは現実で通用する理屈であることよりも、自身に信じさせることができる理屈であることが重要。

 悪魔のルーレットには極小の確率で生還できる目が存在する。
 これを試行一回で当てるのはほぼ不可能。

 ならば試行回数を増やせば良い。
 現実で試せるのは一回だけなので、可能性を分岐させて複数の並行世界で試行すれば良い。
 がこれは、自分を百人に増やして99人を捨て駒にして一人成功すればいいという考え方。
 自分がその成功する一人になれるかわからない。
 自分ではない成功した自分は、かつて自分だったが、もはや別人である。
 つまり、回数を増やそうが、成功した自分に成れる確率は変動しないのだ。

 この理屈でも二の足を踏むのは避けられない。

 では並行世界を俯瞰する存在を仮定しよう。
 それは依代に憑くことで世界に留まることができる。
 そして、悪魔のルーレットの目の数にだけ分裂した依代を通して複数の世界を観測していた。
 が、10月6日時点で生きている依代は一人だけ。

 つまり、俯瞰存在は必ず依代に憑きながら猫箱を生還できる。
 そして、俯瞰存在が観測する真実は、猫箱の中で拡散し、箱の外に出ると収束する。

 収束し全ての自分を統合した存在をこそ“自分”であると信じることができれば、捨て駒である全ての自分を救うことができる。


 さて、この時統合されるのは何か、もう少し詳しくやってみよう。

 まず統合されるのは肉体ではない。
 なので、精神や魂の類となるだろう。

 そしてそれは、猫箱の中では拡散し、外に出ると収束する性質を持つ。
 ある時は波のように振る舞い、ある時は粒子のように振る舞う、まるで量子のようなもの。
 魂をそう定義すれば、魂は生還した自分、あるいはそれに依り憑く俯瞰存在に統合されることによって確実に救われる。

 また、魂は真実であると看做すこともできる。
 真実もまた量子のように振る舞う。
 観測する度に姿を変え、猫箱の中では波のようであり、外では一つのように視える。

 さらに、統合される真実は、真犯人のモノだけでなく、被害者たちの真実も含まれていることだろう。
 カケラ世界を生み出す時、被害者たちの真実が定まっていなければその者たちの行動は確定しない。

 儀式殺人を第十の晩まで完成する=そのカケラの全ての人間の真実が定まる。
 第十の晩に至る=黄金郷の扉が開き、そこに迎え入れられる。
 つまり、黄金郷は死んだ全ての人間の真実を迎え入れる場所と定義できる。
 そこでは全ての真実が平等である。

 真実=魂であるのなら、黄金郷とは死者の魂が向かう所、即ち冥界。
 その冥界の支配者が俯瞰存在。


 魂を定義し、その行く先を論じるのは宗教の領分。
 魂を救済し、死を受け入れる。
 宗教とは、世界を体系化して説明するもの。
 誰よりも真実というものについて考えたであろう人物は、その独自の解釈で世界を体系化したことだろう。
 それは多分そんな感じだったのではないかと思う次第。


 ファンタジー的な魔法面は決断の後押しとなる。
 後はそれをどう現実的に落とし込むか。


 真実は他を排斥する性質を持つ。
 頭の中に放り込めば、そこにある他の真実を排して一つになろうとする。
 まあ、これは真実の性質というより、人の頭の性質と言った方がいいが。

 人の数だけ真実が存在するというが、それはつまり、一人に一つの真実しか存在しないということ。
 一人の頭の中に許容できる真実は一つなのだ

 それを前提に一人の頭の中に複数の真実を並び立たせる方法はないか?

 とりあえず思考を分割してみる。
 そして分割した思考それぞれに別の目的を設定する。
 例えば、Aが犯人である可能性とBが犯人である可能性をそれぞれ思考させることで、異なる真実を構築させる。
 そうすれば、それぞれが異なる真実を信じる別々の人格が誕生する。
 人格を人間として扱うなら、頭の中に複数の人間を住まわせてたことになる。

 一人一つの真実しか持てないなら、頭の中に複数の人間を住まわせればいいじゃない。

 複数の人格を住まわせる頭の中=黄金郷。
 思考によってそれは生み出せる。


 これの問題点としては、全ての真実を平等に扱うために、それらをまとめ上げる人格は、どんな真実にも縛られないことが求められる。
 これがベアトリーチェ殺害の原因のひとつであるのかもしれない。


 この他の人物の知識や経験を己に追加するのは、EP1で記述されている。
 未熟な子供が精神面で他者と差別化を図るときによくやる方法として。
 例えば、千年を生きる魔女が憑依したとして、「自己+千年の魔女」の経験を得ようとするように。
 そうして異なる可能性を辿った自分や裏の世界のヤス、他人の視点などを自身の魂に追加してきたのだろう。

 千年の魔女を額面通りに受け止めれば、猫箱の2日を18万2500回ほど繰り返していることになる。
 人数に直せば18万2500人ほど。
 金蔵の魔法は挑戦する者が多いほど魔力を集めるという。
 つまり、悪魔のルーレットに挑む異なる可能性の真犯人たちが多ければ多いほど、勝った真犯人は多くの魔力を得るのだろう。


 とりあえず、ここから適当に理屈を作ってみる。
 確率についての論理と感覚のギャップを使おうか。

 18万2500分の一の確率で成功する時、試行回数が一回で成功すると思うことができるのか?
 常識的に考えれば、何度も繰り返さなければ出せないと考えるだろう。

 さて、現実において試行一回でその目が出るというありえないことが起きた時、何を思うのか?
 常識的な感覚では一回で出るはずがない。
 だから、実際には目に見えない所で何度も繰り返し試行されていたのだと、そう考える者もいるかもしれない。
 可能性によって分岐した並行世界について考えているものは、その並行世界で試行が繰り返されたのだと信じてしまうかもしれない。

 奇跡の出目が出たという結果から、その結果に至る試行n回数分の過程を生み出し修飾する。
 そういう理屈付けすれば、一回やるだけで仮想のプラスn回分の経験を付け足すことができる。
 つまり、現実において真犯人がベアトを殺したその時、傍目にはわからないが千年を経たのだ。
 人間にはわからない魔女の理屈で。


 人間は現実に起こったことを重視する。
 だから起こらなかった可能性は、起こらなかった時点で意味はなくなる。
 しかし、魔女は起こらなかった可能性にも意味があるとする。

 現実は観測せずとも存在する。
 人は観測することで世界を、真実を生み出す。
 その際、主観によって歪む。
 人は内なる真実をもとにして行動し、それは現実を変化させる。
 その2種類の世界はそうやって相互に生成し合う関係にある。

 故に人が抱いた幻想が現実に爪痕を残すこともありうるのだ。
 よって結果から、そこに至る思考という過程を辿らなくては真実は見えてこない。


 あの事件があった日に現実に起こったことなど、実につまらない。
 真犯人は事件を起こさず降参し、連続殺人の原因は事故でそこからなし崩し。
 綿密な計画などなく、事件発覚前に全てを終わらせようとするもの。
 もちろん密室殺人などはない。

 観劇者のことを考慮しない駄作と言っていい。
 いや、観劇者のことを考慮した事件を作る犯人の方がおかしいわけだが。

 事件を起こすのは人。
 観劇者を考慮した事件は、人に見てもらうために行うもの。
 人に見てもらって初めて意味を持つ。
 人に見てもらえなければ意味をなさない。

 人と対峙するのは人。
 そこで行われるゲームにおいて、勝敗という結果だけを見ても面白くないだろう。
 そこに至る過程こそが面白いのだから。

 よって、真実に意味はなく、勝敗も意味がない。
 そこに至るまでの過程、思考にこそ意味があるのだから。






 何度も同じことを繰り返して書いてしまった。
 それが言いたかったからこそなのだが。

 まあいいか。

 ルーレットに打ち勝つ奇跡については大分理解できてきたと思う。
 でもこの考察はEP3時点でしておきたかったなあ。
 ルーレットとそれに託した奇跡については、出題編までで金蔵が何度も言っていたし、ヘンペルのカラスの「自身が優秀である証明」はルーレットの奇跡のことそのものだろうし。
 人を超えたという自身に証明するために。
 それに未来の縁寿が登場したことで、執筆者が未来に生きていることは推測できただろうし。

 無限の魔法、奇跡の魔法、執筆者の生存。
 これは出題編で考察可能なんだよなあ。
 そこまで至れば、黄金の魔法にも手が届いただろうに。

 当時の私の不甲斐なさよ。
 本気で推理していなかった証左だな。
 執筆者の本気に見合っていなかった。





 オマケ。

 うーん、作中現実との整合性を考えれば、未来の出来事は現実となっているはず。
 とは言え、その作中現実の上にいる我々読者が直接観測したわけではない。
 私は確信しているが、確定ではない。

 つまり、私が観測した物語は、執筆者が思考上に生み出したものであり、それを現実化させた後の可能性もあるが、現実化する前である可能性も微粒子レベルで存在する。
 得る前に豪語するのが王者の傲慢なのだから。
 よって、現実の時間軸が事件前である可能性を論じることも可能。

 記述された未来の出来事は、絶対の意思による思考で生み出された、疑似的な未来予知。
 それを例えば戦人が事件前に読むことで、疑似的に未来を知りそれを変えることが可能になる。

 我々読者は、作中現実で物語を誰が記述しているかは観測できる。
 だが、作中現実でその物語を誰が読んでいるかは観測不可能。
 未来において縁寿が読んでいるのは確実だが、それも物語の中に収まっている以上確定ではない。

 作中現実の読者ではない、その上層にいる我々現実の読者には、作中現実を知りえないということを理由に、ハッピーエンドの奇跡を得る魔法を構築可能。
 「物語が記述された」という結果を変えず、「いつ記述されいつ読まれたか」という過程を変えたカケラを生み出せる。


 では現実であるのかどうかだが、私はそれは現実ではないと思う。
 事件の前だったというのは、大どんでん返しというよりはちゃぶ台返しのようなもの。
 それに結果が伴わなくては魔法が真に完成しない。
 本気が証明されない。
 振り返って後悔することもない。

 取り返しがつかない。
 そういうビターな感じが「うみねこ」だと思うので。

 というか、ここまでゲームをやってきたのだから、対戦者の席を戦人に譲りたくはないというのが本音というところ。
 戦人には悪いが、対戦していたのは“私”で、だからこのゲームは“私たち”のもの。
 ゲームを終わらせるのは“私たち”2人でやらなければならないこと。
 黄金郷の扉を2人で閉ざすのが作法なように。

 だから、ゲームの決着を相手に委ね、答えを明かして終わりにしてくれると期待するのは、どれだけ推理していたとしても本気にはなれなかったということなのだろう。
 本気であるのなら決着は2人で着ける。
 それがEP8で示されたこと。
 スタートの案内文にあったように、最後くらいはゲームに参加したら良かったのだ。

 だからきっと、“自分たち”2人のゲームだと豪語して終わらせるべきなのだろう。
 物語の真の主人公は読者自身である。
 ミステリーの物語を読むのでなく、読者が“ミステリーをする”物語。
 読者自身が探偵になれるのは「うみねこ」だけ。
 そう言える「うみねこ」は、本当に最高の物語だと思う。


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  1. 2019/04/06(土) 21:47:41|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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