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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


疑う必要がないということ

 本日、一本目。

 私は今でこそ「うみねこ」は全て作中作であると考えているが、最初の頃は創作説では何でもありとなってしまうから推理不可能だろうと思っていた。
 起こった事件が“(作中)現実=疑う必要のない情報”でなければ推理できないと。

 推理をするには“疑う必要がないもの”が必要である。
 そこを起点に推理が始まる。
 だからそれがなければ始まらない。
 人は推理可能だと信じることで初めて、推理を始められるのだ。
 だから推理可能だと信じるためには、事件は疑う必要のない現実でなければならない。
 そう思い込んでいたのだろう。


 今思えば実に愚かなことだった。


 他に“疑う必要がないもの”があれば、“疑う必要がない(作中)現実”の描写は必須ではなくなる。
 作中作の執筆者の推理して欲しいという意志が疑う必要のない段階に至れば、全ての描写が作中作のものであろうと推理可能なのだ。

 執筆者の意志が、メッセージボトル及び偽書を生み出した。
 それらの物語は執筆者の意志に従って描かれている。
 逆を言えば、執筆者の意志に反したものは物語内に存在できないのだ。
 即ち、執筆者の意志こそが物語世界の法則でありルール。
 “推理して欲しい”という意志があれば、それに従って物語は“推理できるもの”として綴られる。
 少なくとも執筆者の意識の上では。

 故に、執筆者の“推理して欲しい”という意志があると確信できれば、推理することは可能である。
 それ以外に推理可能を保証するものはなくても構わない。
 いや、執筆者の意志こそが推理可能を保証するのであれば、それが絶対であるために、それ以外の保証などない方が良い。
 だから、“疑う必要のない(作中)現実”の描写などいらない。
 全ては作中作の内でいい。
 それでこそ“執筆者の意志”の“純粋性”が保たれるのだから。


 逆を言えば、当時の私はまだ執筆者の意志を信じられなかったからこそ、推理するために疑う必要のない現実の描写に違いないと縋ったのだろう。

 しかしだ。

 そうしなければ、私は本気で事件を推理することはなかったかもしれない。
 そして、本気で推理したからこそ、推理可能なように作られていると信じられ、執筆者の“推理して欲しい”という意志を信じられるようになっていった。

 だから今こうして、古き自分を脱ぎ捨てて、新しい自分になることができた。
 作中作の外にある“疑う必要がない”ことを保証する“作中現実”がなくてはならないという思い込みから開放されたのだ。





 純粋性。
 たとえるならそれは真里亞の心のようなもの。
 自分が約束を守るから、相手も約束を守るのだと信じるように。
 必ず果たされるのだと。

 真実と虚構に隔てられても、真犯人が片割れの魔女に手を伸ばしたように。
 読者は虚構のキャラに手を伸ばす。
 叶えられないものであっても。
 それでも叶えるために。
 有限を越えて無限の先へと。
 自分も守るから、相手も守るのだと。
 相手も守るから、自分も守るのだと。
 ただ純粋に。

 読者が虚構に向かって手を伸ばすことができる、そういう物語としてうみねこは作られたのだろう。
 ひぐらしでもそのようなことを試みていたはず。
 傍観者たる読者の姿を仮託されたキャラに向かって、見ていることしかできなくともその意志は物語の人物を救う一助となれるのだと。
 全員の力を合わせれば奇跡は起こる。
 全員とは物語の登場人物だけではなく、画面の向こうの貴方もなのだと。

 それをさらに強力に推し進めたのがうみねこなのだろう。
 画面の向こうの貴方だけにしか救えないのだと。
 奇跡を起こせるのは貴方だけだと。
 さあどうする、と重い選択肢を課された。
 故に、そこに託された意志に応えるならば、その“意志”を認め一人の“人間”として認めることになる。
 それは一人の人間の重さを背負うということ。

 虚構のキャラに過ぎない者を、“意志を持つ一人の人間”と認め、それに本気で向き合うことができるのか。
 これをどこまで理解できていたのだろうか?
 現実の作者と戦っているつもりの人達は大勢いるだろう。
 だが、作中作の作者と本気で相対していた者はどれほどいる?
 相手をちゃんと“認めている”のか。
 “認めている”からこそ“本気”になれるのだろう。
 これはそういう話なのだ。
 本気だろうと対象がズレれば答えもズレる。
 “現実の作者なら作中現実を描いてくれるだろう”という甘えも出てくる。
 それは二人で対峙しているところに第三者を呼ぶようなもの。
 例えるなら、告白を友達経由で聞くようなもの。

 現実に存在する人間だから重視するのか。
 虚構の存在だから軽視するのか。
 現実の人間と虚構のキャラでは存在の軽重が違うことは重々承知している。
 物語でニンゲン側と幻想勢は平等であると描かれてきた。
 読者の中にはそれを尊重して平等に扱った者もいるだろう。
 しかしそれは虚構の世界においての平等だったのではないか?
 作中のキャラと作中作の中のキャラを平等に扱っただけで。

 だとしたら現実と虚構の存在を平等に扱うとはどういうことだろうか。
 現実の存在と同等の扱うをするということか?
 それとも、現実の読者が虚構の世界へと降りていくということだろうか。
 面白い。
 たぶん、後者の解釈がうみねこの階層的な世界観に沿うように思える。
 現実において虚構の世界を俯瞰する自分と、虚構の世界に駒として置いた自分。
 そんな感じで捉えるべきなのだろう。

 ああ、そうだ。
 これは現実世界の読者と虚構の世界の犯人が、推理勝負を通して対等な相手と認め合い、住まう世界の隔たりを越えようとする試みなのでは?


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  1. 2018/12/08(土) 20:16:26|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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