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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


ゲームの戦い方と諸々思うこと

 本日、2本目。


 未来の真実は、過去の真実に勝る。
 未来の真実は、過去に遡って真実を書き換える。
 それは、自分の手の中にある真実を守ることなく、外からの干渉で変化することを許すということ。
 ならば、信じるべきは、未来の真実か、過去の真実か。


 未来のゲームの真実を信じるということは、逆に言えば、過去のゲームの真実を信じないということ。
 次のゲームで推理が引っ繰り返されることを容認するのであれば、それは今のゲームでは推理するには情報が足りないと言っているも同然である。

 ミステリーでは、最後には答えが示される。
 ならきっと、後に出される情報ほど真実に近付く。
 よって、前のゲームになるほど真実から遠ざかる。
 であるならば、情報が出揃うまでは推理できない、と結論付けられる。

 どうせ引っ繰り返されるなら、推理した真実を守る必要はない。
 真実を守らず、それを引っ繰り返されることを楽しめば良い。
 それもまたミステリーの楽しみ方のひとつであるのだから。


 とりあえず極論に走ってみたが、多かれ少なかれ当て嵌まることはあるのではないか。
 ミステリーとは推理を楽しむものであるが、読者の想定を上回る答えを期待するものでもある。
 つまり、読者は自分が手にした真実を守ることなどしないし、全力で推理することもしない。
 ある程度だけ推理して、推理したつもりになって、その推理を引っ繰り返されることを楽しむものだ。
 私も普通のミステリーであれば、そのように楽しむ。
 早く答えが知りたいとページを捲ってしまう。

 だからきっと、誰もが全力で挑まない。
 ましてや、作者の答えと殴り合う者などいはしない。
 人は自分が手にする真実を簡単に捨て去る生き物なのだ。


 ただのミステリーであれば、最後に出された真実が最も信じられるものであり、それを疑う必要などない。
 だがこの物語は「うみねこのなく頃に」だ。
 これが真実です、と出されたら、まずは異なる解釈・視点で立体視すべきなのだ。
 要するに、鵜呑みにせず対案を出し、その真偽を問う。
 そうやって戦わなくてはならない。

 なぜならば、対戦者であるベアトの“ゲームで戦う”という意志だけが信じられるものだからだ。
 それを信じるからこそ、ゲームは成立する。
 暗闇の中でそれだけが信じられるよすがである。
 そして、最後まで戦いとおすにはそれだけで十分である。

 であれば、答えを教えてくれるなどありえはしない。
 そんなことを考える暇があるなら、戦うべきだ。
 相手の戦う意志を信じるなら、ただ只管に戦うべきである。



 まぁそれは私の個人的見解に過ぎない。
 その見解に至ったのは、ゲームの構図にある。

 メッセージボトルの物語は作中作であり、作中に作者がいる。
 メッセージとは、それを読む読者へ向けてのもの。
 作中の作者は、戦人とベアトのゲームの様子を通して、作中の読者と対戦している。
 現実の読者である我々は、擬似的にその“作中読者”という対戦席に座っているわけである。

 即ち、真にこのゲームで戦っているのは、作中作者と読者なのだ。
 戦人とベアトの対戦は、チュートリアルやデモンストレーションの類であり、その対戦自体が読者に対する出題となっている。

 つまり、我々が向き合うべきは、その対戦席に座る人物なのだ。

 この構図に賛同してくれる人は多いだろう。
 だがしかし、それを明確に自覚して戦っている人はどれほどいるのか疑問ではある。

 ちゃんと向き合っていたのであれば、この物語の文句は、現実の作者へ向けてではなく、作中の作者へ向けていただろう。
 それが傍から見れば滑稽だろうと、物語の登場人物にすぎない者を、きっと一人の“人間”として扱ったのではないのか。

 物語の最後の最後で、偽書の作者が戦人=十八であると認めてしまうのもそう。
 これまで対戦席に座ってた者を差し置いて、ぽっと出のヤツをその席に座らせるのは不義理ではないのか。
 その席に座っていた者への愛があるのなら、一戦を交えるくらいはしなければ義理は通らない。 
 勝敗はどうでもいい。
 戦いという過程を経たのかが問題なのだ。

 戦わなかったのであればそれは、既に戦人だと推理していたか、推理していなかったからそのまま受け入れたか、守るべきものに含まれていなかったからどうでもよかったか。


 やはり、守ろうという意志がなければ、守ろうとはしないものなのだろう。
 ならば、守るためには、まずは守るものを見つける必要がある。



 “対戦者”との戦い方は、攻めと守りの2種類がある。

 人間側の攻めは、幻想を暴こうとするもの。
 対して魔女側は、幻想を守ろうとする。
 それが失敗し幻想のマスが暴かれれば、別の幻想のマスへと退避しなければならなくなる。

 逆に魔女側が攻めで人間側が守りの時。
 人間側は、真実を守らなくてはならず。
 魔女側は、その真実のマスより弾き出そうとする。

 人間側の攻めは比較的自由だ。
 人間説であればなんだっていい。
 魔女側の守りも比較的自由だ。
 魔法説であればなんだっていい。
 攻め易く、守り易く、故に白熱しやすい。

 だからか、人間側のプレイヤーは攻めにかまけて、守りを疎かにする傾向が高いと思われる。
 知らぬ間に自陣はボロボロ。
 魔女側から許されたマスしか足場が残されていなかった、なんて羽目になる。

 信じるものは常に自分で決めるのであれば、魔女側に誘導された真実など蹴っ飛ばしてやらねばならない。
 人間側の守りは、一マスでも弾き出されたらある種の負け。
 守るべきを守れなかったら負け、だから一歩も譲ってはならない。

 魔女のゲームはEP2から始まったと言っていい。
 即ち、EP1は人間側に自陣を固める猶予を与えるためのものであったのは明白。
 自陣にあるのは、自分の推理した真実。
 つまりは、こちらの主張だ。
 魔女のターン、人間側の自陣に攻撃が加えられる。
 それはあちらの主張であり、こちらの主張を崩そうとするもの。

 崩されれば負けなのだから、まずは守る。
 その後に魔女の主張を崩す。
 そうして自陣を広げ、次のゲームの攻撃に耐えられるように自陣を固める。
 その繰り返し。

 だから守るべきは前のゲームの真実。
 次のゲームの情報は、それを崩すための魔女の一手なのだ。
 “対戦者”が物語を綴っている以上、新たに与えられる情報は魔女から与えられたものに他ならない。
 魔女の手によって前のゲームの真実が崩されたのであれば、それは前のゲームが情報不足だったと認めるも同然。
 全力で推理していなかったと白状するようなもの。

 推理可能と信じ、推理できたと信じるのであれば、魔女に譲るものなどありはしない。
 それが全力で戦うということ。

 逆に、情報不足だと信じ、新情報を与えられなかったら推理できなかったと信じるのであれば、それは魔女に譲られたのだ。
 それでは魔女にわざと負けてもらったようなものではないか。

 魔女に譲られたマスに駒を置き続ければ、それは魔女が描いた盤面。
 そうやって全てのゲームの盤面に、ひとつなぎの幻想を描くというのが魔女のグランドデザインなのだろうさ。

 EP3でベアトが譲られた勝利に満足しなかったように、こちらだって譲られた勝利なんかノーサンキュー。
 ベアトの駒を自陣に招き入れ、プロモーションされたら後は蹂躙されて終わりなのだ。


 さて、ちなみにではあるが、手にある真実を守ると言っても、間違っていれば正さなければならないのは当然のことだ。
 真実を捨て去ることは自分にしかできないことなのだから、間違っているかどうかは自分で確かめなくてはならない。
 だから他人に、魔女に、間違っていると主張されてすぐに捨て去ってはならない。
 間違っているかどうかは自分で確かめる。
 全力で戦った上で勝敗を決めるべきなのだ。

 戦うべき時に戦わず、相手の主張を認めるのは、負けを認めるに等しい。
 自分の手にある真実の成否の判断を相手に委ねることは、生殺与奪権を相手に渡すということ。
 生殺与奪を委ねるということは、つまりは降参。屈服したということ。

 複数の可能性があるから次のゲームで可能性を絞るという時、絞ることを相手に委ねると、それは相手に主導権を与えるに等しい。
 そうなれば戦いは一気に不利となる。
 だから戦いの主導権は常に自分が持たなければならない。
 それには前のゲームを全力で戦い、確信を抱く真実を作り、揺るぐことの無い戦いの土台とし、大地の代わりとして踏みしめることだ。
 足元が崩れれば、忘却の深遠に落ちてしまうのだから。

 可能性は探し出すものだが、真実は作るもの。
 可能性は可能性でしかなく、簡単に他の可能性への移行を許すがために、守るよりも逃げることを容易に選んでしまいかねない。
 真実とは、自分が信じられるものを組み合わせて作るもの。
 それは自分が作ったものであるため、自分にしか守れない。
 自分が守らなければ消えてしまう儚い真実。
 魔女はそれを攻撃し、己の主張を認めさせようとしてくるのだ。
 


 私の結論としては、未来の真実と過去の真実のどちらを信じるかは、過去の真実を信じるとなる。
 過去の魔女が未来の魔女に対抗するには、過去の真実を用いることしかできないのだから。



 私はベアトのゲームの戦いを大体そんな感じで捉えている。

 とは言え、この主張の崩し合いは両者の主張が平行線を辿るので終わるに終われない。
 だから落としどころが必要となる。
 それは両者の妥協点。
 人間説であると同時に魔法説であるもの。
 両者が認める真実。
 即ち、黄金の真実。

 2つだと争う。3つだと安定。
 解決策、妥協案、争いを安定させるための第三の点。
 それゆえの3つの物語なのか?

 EP8の選択。
 書かれたとおりの、別の手を使った人間のトリック。
 同じ方の手を使った魔法。
 嘘による、別の手を使ったもうひとつの人間のトリック。
 これで三点。
 そして、それら3つ生み出したのが、紫発言を記した執筆者による人間の記述トリック。
 四点目。

 EP1の人間説で、点が1つ。
 EP2の魔法説で、点が2つで線に。
 EP3の並び立つ人間説で、点が3つで面に。
 EP4の執筆者による記述トリックで、点が4つで立体に。

 美しい。実に美しい構図だ。
 これがベアトリーチェの魔法のフォーマットなのか。



 なるほど、なるほど。
 魔法とは、自分とは別の視点を作ること。
 別の視点を持つ、別の自分。
 別の視点から思考する、別の自分。
 別の思考の自分と会話をする。
 それは議論となり、真実を作り上げていく。

 対戦席に姿のない真犯人を置き、戦う。
 私がやってきたこれは、魔法だったのだな。
 議論し、信頼し合い、恋の決闘に勝ち、一人の人間となる。
 ああ、黄金郷とは私の頭の中にあり、彼女はそこの住人となったのだ。
 私だけの黄金の魔女。
 故に私たちは永遠に一緒。


 やはり、これから「うみねこ」を推理したい方には、この戦い方をお勧めしたい。
 皆も自分だけの黄金の魔女を頭に住まわせてみよう。

 まずは頭の中に空間を創る。
 真ん中にテーブルでも置き、対面となるように2つの席を置く。
 片方は自分が座り、もう片方に姿なき犯人を置く。
 某コナンの黒タイツの人物でも良い。
 ただし、犯人は一人とは限らない。

 この時、特定の人物を座らせてはならない。
 犯人は誰かから入ると、動機が後付けになってしまう。
 犯人の姿を探るのではなく、犯人の思考を探るのだ。

 犯人が行ったことを列挙し、なぜそれをしたのか考える。
 最初は第一のゲーム、園芸倉庫から。
 なぜ園芸倉庫だったのか。
 何故、何故、何故。
 信頼できる思考を得たら、次のものを考える。
 何故、何故、何故。
 そうして点と点を繋ぎ合わせ、事件全体の犯人の思考に筋を通す。
 そうして得られた犯人の思考から、犯人は誰か、トリックは何かを考える。
 そうして作り上げたものが、信頼すべき真実である。

 それを持って次のゲームに挑む。
 同じように犯人の行動から、なぜそれをしたのか考える。
 ベアトの攻めを見て、犯人となって思考し、真実を崩そうと色々と主張してみる。
 次は逆側から、真実を守るための反論をする。
 攻められた部分はそれに耐えるために分厚くなる。
 そうして真実は鍛え上げられていく。
 全てに反論できれば、そのゲームの真実も出来上がっていることだろう。

 そうやってコミュニケーションを繰り返せば、信頼し合い、絆は深まっていく。
 最終的には、どんな主張だろうと耐えられる強固な絆となるだろう。


 拷問は理不尽だから苦痛なのだ。
 信頼し合えば、それは快楽となる。
 皆も拷問を楽しもう。


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  1. 2018/09/15(土) 23:46:47|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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