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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


推理は可能か不可能か

 EP1本編で、魔女を目の前に出されたら証明終了と言われ、最後まで魔女は現れなかった。
 しかし、EP1のお茶会にベアトが現れて魔法を見せた。
 戦人はそれを、皆が信じなければ存在できないものであると看破した。


 ゲーム盤の現実では、悪魔は姿を現さないから猫箱は猫箱足りえる。
 メタ世界で「魔女」と「魔法」が目に見える形で現れても、それはブラウン管裁判により、目に見える形で示された主張にすぎない。
 では誰の主張なのかと言えば、それはメタ世界の上にいる「創造主」のものになる。
 その傍証がEP1で示されたボトルメール。

 創造主は自身の主張を目に見える形、即ち「作品」にして世に出した。
 極論すれば、作品の全描写が創造主の「主張」である。

 作品の描写には「真実」と「嘘」が入り混じっているが、「嘘」もまた創造主の心から生み出されたもの。
 だからそれを遡れば心を探ることができる。
 なぜ嘘を吐いたのか、その意図は、なぜそのような形の嘘にしたのか、どんなことを主張しているのかなどなど。
 作品内の真実も嘘も幻想も全部、創造主の「愛」に立脚していて、「愛」がなければ存在できない。
 故に問うのだ。創造主の愛は、心とは何ぞや、と。


 創造主が心を推理させたいと考えているのであれば、嘘にも意味があり、幻想にも意味がある。
 存在しないものだから意味がない、ということはない。
 全ての描写には意味がある。

 後は読み手の判断で真偽を分ければ、推理可能だろう。



 とりあえず、私の判断を説明してみよう。

 推理は可能か不可能か。
 いつから推理は可能なのか。
 推理可能だと保証されなければ推理不可能なのか。


 後期クイーン問題において、前に出された結論は、後に出されるかもしれない情報によって引っ繰り返されることを否定できない。
 よって、情報の全てが出されなければ推理できない。
 だから最後に出された情報こそ信じる。

 そのような考えだと、最後とされたもののさらに後に出されるかもしれない情報によって引っ繰り返される可能性を否定できない。
 それでは何も定まらない。

 逆に考えるべきだろう。
 後で出される情報によって引っ繰り返されるのであれば、引っ繰り返されないような強固な推理に仕上げれば良いのだと。

 後から出される情報がないと推理できないなら、それは当初の情報では推理不可能ということ。
 それではアンフェアだ。
 フェアであるならば、当初の情報、要するに1ゲーム毎に推理可能でなくてはならない。

 魔女のゲームは守りが肝心。
 EP1の事件の真実はEP1までの情報で解けるし、EP2の事件の真実はEP2までの情報で解ける。
 前のゲームの推理を以って、次のゲームの情報の真偽を判断すれば良い。
 後から出される情報を待って判断すれば良いという考えでは、魔女の手を防ぐ強固な真実を構築することは不可能なのだ。

 魔女もまた、人間側が守りを固めていることを前提に次の手を打つことになる。
 必然それは、人間側がした推理を攻撃するものになる。
 だからそれに耐えうる守りを固めなくてはならないのだ。



 全ての描写の真偽が不確かな中で、赤き真実だけは絶対であると保証された。
 それは推理を可能とするためだ。
 逆を言えば、赤き真実があるからこそ、それ以外の描写が不確かであることが許されていると言えるだろう。

 であるならば、赤き真実が登場する前であるEP1は、真偽が確かな描写でなければならないことになる。
 赤き真実がなくても推理可能でなければならないからだ。


 EP1において、全てはボトルメールに書かれたものであることが示唆された。
 それは、全ての記述が神の視点によるものではなく、私見を交える観測者の手による描写であるということ。
 要するに幻想描写が許されている。

 しかし、どれが幻想かそうでないか判断できないのであれば推理不可能。
 推理可能であるのなら、判断可能なようになっていなければならない。

 EP1で幻想であると明らかな描写は、黄金の蝶である。
 黄金の蝶によって、描写の真偽を明確にしていると考えられる。

 黄金の蝶の幻想で覆い隠しているのは犯人についての描写。
 犯人の姿を覆い隠す手法は、俗に言う「黒タイツの男」などの形で他作品でも多用されている。
 それが許されるのは、犯人の正体や殺害の様子を隠さなくては、謎は謎でなくなってしまうからだ。

 それ以外の描写は真実。
 夏妃は生きている金蔵に会ったし、使用人たちはチェーンによる密室を目撃した。
 真偽が明確になれば推理は可能となる。


 その視点に立てば、後から出される情報は真実を引っ繰り返そうと次々と繰り出されてきた指し手となる。

 EP2では、赤き真実を登場させ全ての描写の真偽を不確かなものに貶め、使用人を疑わせることで使用人のみが登場したシーンを疑わしいものにした。

 EP3の南條殺しでは、検死と金蔵の生を疑わせた。

 そしてEP4では、第1~3のゲームを推理させたところに、後出しの情報でそれを攻撃した。

 全ては前の推理を否定し、その否定の「主張」を認めさせようとするものだ。


 さて、最初の一手、魔女の手番が先か後かを考えるなら、最後の一手も気にするべきだろう。

 EP8の最後で、十八が戦人であったと主張され引っ繰り返された。
 誰もが驚いたことだろう。
 最後に真実が引っ繰り返り隠されていたものが明らかにされるというのはミステリーの醍醐味だ。
 ミステリーを読む誰もがそれを期待することだろう。

 だがそれでいいのだろうか。
 読者が推理した以上の真実、それは未知だ。
 だがそれでは、真実を解き明かすという意志が絶対ではなかった、ということになりかねないのではないだろうか?

 読者が作者に対して期待する未知、その期待に作者が応えた“物語”。
 それが“ミステリー”であると定義するのなら、作者が全てを既知とする絶対の推理を期待した“物語”は“アンチミステリー”と言えるかもしれない。


 読者が期待する未知を出して引っ繰り返して終わりなら、その展開は作者にとって既知の展開である。
 作者は読者を掌で踊らせて、読者は作者の掌で踊って楽しむ。
 それは作者から読者に未知を送るという一方的な関係だ。

 しかし、「うみねこ」は対等なゲームである。
 読者が愛して欲しいのであれば、作者もまた愛して欲しい。
 そうであるように、読者が未知を期待するのであれば、作者の方も未知を期待していてもおかしくはない。

 最後のチェックメイトを決めてゲームを終えるのは、作者なのか読者なのか。
 作者が読者をしのぐのか、読者が作者をしのぐのか。
 実際にしのいだのかは置いといて、しのぐという意志の有無がそこに表れているのではないか?
 私は自身の手で最後の一手を打ちたい。
 それがベアトが期待していたことだと信じるからだ。
 さらには、魔女の最後の一手を防ぐというゲームの姿勢を完遂するためでもある。


 よって私は、推理は可能か不可能かと聞かれたら、「推理は最初から可能であり、最後まで可能である。そう創造主が創ったと信じている」と答えるだろう。





 作者が用意した幻想を読者が暴くということは、ファンタジーに対してアンチファンタジーで挑むということ。
 アンチファンタジーは、ニンゲンに可能ならそれで十分。
 なので、否定されれば別の説に変えるだけ。
 壁を避けることを方針とすれば、水が高木から低きに流れるが如く、着地点まで導かれてしまうことだろう。
 間違っていたら修正することは正しいことだが、そもそも間違っているかの判断は自分で下すものであり、誰かの主張によって左右されるものではない。
 それが作者の主張・解釈であっても。

 否定の主張に屈することのない強固に信じる推理ができたなら、ゲームは別の様相をみせるようになる。
 読者が用意した推理を作者が覆そうとする、ミステリーとアンチミステリーの対決に。


 これが私の「うみねこ」ゲーム観。

 前者の対決でゲームをするなら、後になればなるほど情報は多くなったり、真実に近い情報が手に入るので、後のEPからゲームを始めるほどに有利に始められることになる。

 後者なら、後からゲームを始めるほどに不利に。
 つまり、最初から手が抜けない対決を楽しめる。

 私としては、簡単に手に入ったものは簡単に捨てることができると思っているので、戦って守ることで価値が高まる後者をお勧めしたいところだけど。
 ま、各自好きなようにゲームすればいいかな、と思う。

 戦いの評価は、結果ではなく、過程。
 何を手に入れたのかではなく、手に入れるために何をしたのか。
 誰とも共有できない個人の体験こそが、手に入れた真実の価値を決めるのだろうと信じているからだ。


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  1. 2015/06/13(土) 20:44:09|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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