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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


究極にして一なる原始のトリック

 私の解釈するアンチミステリー、並び立つ真実についてからすると、ラムダが語ったベアトの魔法大系の核である「究極にして一なる原始のトリック」の「原始のトリック」とは、「偽りの真実を信じさせようとする」ことだと考えることができる。

 ミステリーにおける犯人は、自身の犯行を誤魔化すために「自分には犯行は不可能である」と信じさせようとする。
 または、さらに一歩踏み込んで、「別人が犯人である。故に自分は犯人ではない」と信じさせようとする。
 そのために犯人はトリックを使用する。
 つまり、「偽りの真実を信じさせようとする」のだ。

 「魔法」を信じさせるのが「魔女」であるというのなら、「魔女」が信じさせようとするものが「魔法」だ。
 即ち、「偽りの真実」が「魔法」なのだ。
 

 真犯人は真実に至ることを「奇跡」と定義し、そのために「偽りの真実を信じさせる」ことを「絶対の意思」で生み出そうとした。
 「絶対」のトリック。
 つまり、「究極のトリック」だ。


 ヱリカ曰く、ミステリーで暴くべき謎は3つある。
 フーダニット。誰が犯人か。
 ハウダニット。どうやって犯行したか。
 ホワイダニット。どうして犯行に及んだか。

 「偽りの犯人」「偽りの犯行」「偽りの動機」を揃えれば、「偽りの真実」によって「本当の真実」を完璧に覆い隠すことができる。
 その3つを兼ね備えたものを核として話を膨らませた「偽りの物語」。
 「偽りの物語」も愛(推理)されれば真実と成る。

 「偽りの物語」が愛されるとは、「偽りの犯人」が愛されることであり、「偽りの犯行」が愛されることであり、「偽りの動機」が愛されることである。
 それは即ち存在しない人間が、存在する人間と同格に扱われるということ。
 即ち、「一人分の魂を持った人間」に成ることを意味する。

 そんな「人間」を生み出すと言うことは、偽りの犯人の経歴、動機に至った思いの変遷を生み出さなければならない。
 生きてきた歴史があり、感情があり、心がある。
 その結果の犯行がある。
 そういう「一人の人間の物語」を生み出さなければならない。

 そして、読者に愛がなければ視えないのであれば、作者には愛がなければ作れない。
 だから、己が生み出した駒であるベアトを一人の人間として愛したことだろう。
 まぁ、娘のようなものだな。
 その娘を人に愛されるように、絶対の意志でトリックを生み出したことだろう。



 完璧なトリックとは即ち、否定されないトリックだ。
 否定できないが故に真実に取って代われる。
 そのためにもその「物語」、トリックは「可能」でなければならない。
 「偽りの犯人」に「可能な犯行」でなければ信じてもらえない。
 勿論、真犯人にも「可能な犯行」でなければならないのは言うまでもないだろう。

 この時、2つの「可能」が並び立つ。
 並び立つが故に互いを否定できず、どちらかを信じる者が現れた時のみ互いが互いの「物語」を殺しえる。
 赤き真実に並び立つ黄金の真実。
 それこそが「究極にして一なる原始のトリック」だ。

 逆を言えば、並び立つ状況でしか究極足り得ないのだ。


 通常のミステリーでは真実は解き明かされるのが普通である。
 それはある意味、その物語が真犯人の物語であるからと言えるだろう。
 真犯人の物語であるが故に、トリックである偽りの物語が殺され、真実である真犯人の物語が明かされる。
 そういうことではないだろうか。

 それに対し「うみねこ」は、真犯人が生み出した偽りの犯人である「ベアトの物語」だ。
 普通なら犯人は自身の犯行を誤魔化すためにトリックを用いる。
 しかし「うみねこ」の犯人は、「偽りの真実」を「一人分の魂を持つ人間の物語」にすることを目的にしている。
 手段と目的が入れ替わってしまっているのだ。


 殺されるべき「偽りの犯人」を、愛されるべき「一人の人間」として生み出そうとしてしまった。
 孤独から開放されるために理解できる者を望んだ。
 しかし、その孤独の時を共に過ごし、退屈を癒してくれたのは自らが生み出したベアトリーチェだけだった。

 結ばれるべきは、己か、己が愛した黄金の魔女なのか。
 作者である己が決めてしまえば、片方は必ず死ぬ。
 しかし、真実が並び立てばどちらの可能性も残すことが出来る。

 故に後は読者に運命を委ねることにしたのだろう。
 生かすも殺すも読者次第。
 どちらを愛しても構わない。愛した者を大切にしてくれるのなら。
 だから作中では真実が明かされることなく終わったのではないかと思う。





 聞きかじりで申し訳ないが、人の心理の傾向としてこんな話がある。

 他人に構ってもらえない子供が、悪戯をして構ってもらおうとすることがある。
 価値がないと扱われた子供は、自身に価値を見出すことができず、自身を蔑ろにすることがある。
 愛されなかった子供は、自分が与えられなかった分、自分の子供に愛情を注ごうとしたがる。

 その話が思いっきり当て嵌まってしまう。

 自分のことを知って欲しくて、考えて欲しくて悪戯を仕掛けた。
 他人にとって考える価値すらない自分を、価値のないもの無意味なものとして扱い、自分の命すら蔑ろにした。
 愛されなかった自分の代わりに、娘同然のベアトに愛情を注いだ。

 ベアトを生み出した者がどれほどベアトを愛していたのか、一つ前の記事を読んでもらえれば想像できると思う。

 愛されるべきは、価値のない自分か、それとも自分が愛情を注いだベアトなのか。
 そんな自問自答を長い間続けていたのではないか。
 そして、戦人が1986年に六軒島に帰ってくることが決まった時、その選択を自分以外の者に委ねたのだろう。





 ま、簡単に言えば、真里亞に対して「真里亞とさくたろうのどちらかしか生き残れないけど、どっちを選ぶ?」と聞くようなもの。
 選べないからルーレットに任せるしかないよねって。

 トリックも究極に至れば魂が宿るというお話。


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  1. 2014/09/06(土) 23:30:01|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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