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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【WHEN THEY CRY】シリーズまとめ考察

 現在キコニアを考察しているが、うみねこやひぐらしにまで話が拡大してしまっているので、シリーズを通しての見解を示したい。



 まずひぐらし・うみねこ・キコニアの各ゲーム盤の製作者は同一人物。
 作中作者とでも言うべき存在の手によるもの。
 この「作中作者」の存在はゲームの最奥に隠されていて、この人物の心を推理するのが各ゲームの共通の目的。

 各ゲーム盤は「作中作者」の心の中に構築されたもので、つまり「作中作者」こそが各ゲーム盤で繰り広げられた舞台の観劇者にして物語の観測者。
 ゲーム盤世界の神とも言うべき存在。


 ひぐらしはこの「作中作者」が生きる力を取り戻すまでを描いている。

 作中作者=神=羽入。
 羽入は「作中作者」の分身の駒。

 祭囃し編や賽殺し編で神の設定が明かされた。
 神に成るためには、人であることを止め、人としての自分を殺し、人の世を去らなければならない。
 それは人生の舞台を自ら降り、己のいない舞台を延々と見続ける傍観者となるということ。

 ひぐらしの惨劇は、一人が死んで一人が消えるというもの。
 それらはセットであり不可分。
 必ず死ぬのが梨花であるなら、同時にもう一人が必ず消えていることになる。
 それがつまり羽入だ。
 ひぐらしは、死ぬはずだった梨花が生き延び、消えていた羽入が姿を取り戻すまでを描いた物語なのだ。

 梨花が懸命に生きる圭一の物語から生きて戦うことの意味を学んだように、羽入もまた懸命に生きる梨花の物語から生きて戦うことの大切さを学んだ。

 圭一の駒としての役割は、主人公の座を退いた梨花の代わりに主人公の役割を代わりに果たすこと。
 よって、梨花が生きる力を取り戻し運命と戦う決意をした時点で、その役割は終わり、主人公ではなくなったのだ。
 そして梨花の駒としての役割も、羽入という真の主人公の代理であり、それを覚醒させるための起爆剤。
 駒たちが懸命に生きる物語を見て、自分も懸命に生きようと決意する。

 強い意志で圭一が奇跡を起こし、次にそれを見て奮起した梨花が奇跡を起こした。
 だから次は羽入の番。


 「作中作者」が生きるために戦うという強い意志を得て、ひぐらしの舞台に幕が下りた。
 次の舞台、うみねこの幕が上がる。

 ひぐらしが未来に踏み出すための物語なら、うみねこは過去に決着をつけるための物語だろう。
 「作中作者」がなぜ人を止めて神となったのかが描かれている。

 いるといないの中間である小数点以下の存在。
 それはまさしく、舞台から姿を消し、けれどもまだそこにいる、未練を残した亡霊の如き「作中作者」を表している。
 19人目、そしてメッセージボトルの執筆者「右代宮真里亞」。
 そういう意味ではEP1の時点で、「作中作者」は確り登場しているんだよな。

 猫箱の中には「作中作者がニンゲンと存在している世界」と「作中作者がニンゲンとして存在していない世界」が入っている。
 「作中作者がニンゲンと存在している世界」での事件の犯人が「作中作者」であるなら、「作中作者がニンゲンとして存在していない世界」では代わりの犯人がいなくてはならない。
 主の代わりに殺人を行う駒、それが「ヤス」だ。

 片側の世界の犯人が「作中作者」で、もう片側の世界の犯人が「ヤス」で、それらが表裏を合わせて一つの真相を形作っている。
 それが言うなれば「一なる世界」とでも言うべきもの。
 この「一なる世界」を保つためには、両側の世界を隔てる平和の壁を支えなければならない。
 もう片方を圧し潰さないために。

 よって、明確に自分が犯人であると主張できない。
 「作中作者」即ち19人目は、自身を小数点以下の存在としてしか示せないし。
 「ヤス」は紗音と嘉音の人格が同一の肉体を共有しているとは示せない。
 できて「同一である可能性は否定できない」まで。
 必ず反対側に、「同一であると誤認させたい者がいる可能性」を置かねばならないからだ。
 ゆえに、両者ともニンゲンではなく家具。
 小数点以下の存在。

 家具から脱却しニンゲンになるために決闘が必要だった。
 「一なる世界」を壊し、一人分の魂を持つニンゲンとしてある世界に再構成するために。
 が、これは戦人が来ず開催せずに時間切れ、戦わずして決着してしまった。

 戦わなかったことの後悔と喪失。
 それが罪となり、それを払うための生贄として舞台を去り、神と成って紡いだのがひぐらし。
 そこから再び立ち上がって紡いだのがうみねこ。
 過去の清算。
 後悔を晴らし、望んだ未来を掴むために、今こそ決闘を。

 そんなわけでEP6で12年越しの決闘が行われた。
 喪失の後悔からか、天秤は「ヤス」を蘇らせる側に傾いた。
 だから次のEP7では「ヤス」側が存在感を色濃く出すものになった。
 だがその反対側の可能性も僅かながら残す形にはなっている。
 EP7のラストで示されたように、絶望の運命から二人揃って逃げ延びるというのがゲームの本質。
 両方のロジックを成立させられる道を作るというゲームなのだ。
 一つの真実しか認めない世界で、二人一緒に逃げ延びていつか奇跡を掴もうとしている。
 片翼の鳥は、二人一緒なら飛べるという意味。
 比翼の鳥は引き離しては生きていけないのだ。

 そして、黄金郷に至るまでの道を完成させた。
 そう、作ったのは道。
 読者が真相に至るまでの、二人が読者の心の世界に至るまでの、道。

 読者に運命を委ねた。
 でもこれは諦観でも消極的でもない。
 絶対の意志で、奇跡を掴むためのもの。
 待つだけの後悔はしきっているのだから。


 キコニアはうみねこで真相に至った読者、PLのターン。
 用意された道を辿り、絶望の運命を覆して奇跡を起こすための物語。

 要するに、「作中作者」が真相に至ったPLをゲームに取り込み、PLを含んだ三人で共にいられる世界を紡いでいるのだと思う。
 「なく頃に」三部作の完結として。


 うみねこの決闘で、駒を戦わせたのは読者というプレイヤー。
 駒の罪は、主の罪。
 片方の世界を選ぶということは、もう片方の世界を選ばないということ。
 それはつまり、「誰かがいない世界」を選ぶということ。

 例えば、「ヤスのいる世界」を選ぶということは、「嘉音のいない世界」を選ぶということ。
 独立した肉体と精神を持つ嘉音などいないという選択。
 「嘉音のいない世界」を選ぶということは、「嘉音を殺していた」ということ。
 「母のいない世界」を選ぶことは「母を殺していた」ということと同じ。
 つまり、嘉音を殺したのは、それを選んだ読者なのだ。

 読者にも罪がある。
 「誰かのいない世界」を選び、その「誰か」を殺したという罪が。

 キコニアの「神の代理人」はその罪滅ぼしとて、罪を赦し合える世界を紡ごうとしているのかもね。


 皆が罪を赦し合える世界はひぐらしで提唱されていた。
 つまり、原点回帰。
 ひぐらしが明白な答えだったり説教臭いのも、なく頃にシリーズのゲームの目的を明確にするためだったのだろう。
 目標さえ明確にできれば、過程は後から付いてくる。
 要するに、フェアなゲームということ。

 ひぐらしの一番最初の冒頭も、繰り返される謝罪で始まった。
 全てはそこから始まり、皆が赦し合える世界で終わる。
 極自然な決着。
 ひぐらしで目標を掲げ、うみねこで根本の原因にまで遡り、キコニアでゲームを構成する三者で罪を赦し合う。
 実に綺麗な流れじゃないかな。


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  1. 2020/07/11(土) 20:58:51|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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