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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【ひぐらし】賽殺し編考察【キコニア】

 賽殺し編を軽く再読したが、少々記憶が間違ってたわ。
 神のいない無味乾燥な世界とか私言ってたけど、そんなことはなかったぜ。
 それなりに幸せに満ちている世界だった。
 神のいない世界というのは合っていたけど。

 そんなわけで、改めて神のいない世界について考察したいと思う。
 執筆者にとって賽殺し編はどんな意味を込めたのか。





 フレデリカ・ベルンカステルの人格が古手梨花の人格を乗っ取った。

 これは作中で示されたもの。
 確かにこれまでループの度に、体(アバター)の本来の持ち主である人間である古手梨花の人格を圧し潰し、体を乗っ取ってきた。

 ループする度に元の人格から乖離していく。
 百年を生きる魔女の人格は、何も知ることがなかった無垢な人間の人格とは別人と言える。
 人にとって世界は一つ。
 なら異なる世界を知ることのできる魔女は、それよりも上位の階層に住む存在だと言えるだろう。
 その上位存在にとって体は唯一の拠り所ではない。
 肉体が死んで使い物にならなくなったら、別の世界の自分の体を使えば良いだけ。
 それは限定的とはいえ、アバターを服のように変えることができる、上位階層よりゲーム盤にログインする、魂を拠り所とする存在となったことを意味する。

 うみねこやキコニアにも通じる話だよね。

 人生を物語に喩えるなら、その物語の主人公は自分自身だ。
 フレデリカ・ベルンカステルという魔女の物語は、梨花という別の物語の主人公を乗っ取って、自身の物語を延々と続けていく。
 梨花を猫と喩えるなら、猫を食らって生き延びる猫がベルンカステル。
 うみねこEP7でベルンがフェザリーヌに教わったと言っていた、猫を食らって生きる道とはこれのこと。


 でだ、フレデリカにそれを教えた羽入とは一体何なのか。

 フレデリカが猫を食らう猫でいられるのは、羽入の力のお陰。
 羽入がいなければ、フレデリカはいなかった。
 つまり羽入が主で、フレデリカは従。
 フレデリカが駒なら、羽入がプレイヤーとなる。

 羽入はフレデリカの人生という物語の観測者。
 羽入という観測者が、猫箱の梨花を観測することで、梨花の生死は決まる。
 逆を言えば、羽入が観測しなければ、世界を跨いで存在し続けるフレデリカは存在しないのだ。

 人にとって、世界とは一つだけであり、人の人生という物語は、生れてから死ぬまでである。
 だが羽入はその梨花の死による物語の結末を受け入れられず、満足する結末に至るまで物語を紡ぎ続けることを選んだ。
 それを羽入は、自身が梨花の人生を汚したと表現した。

 ま、要するに、梨花の人生を物語に喩えるなら、羽入は物語の作者という名の神なわけだ。


 祭囃し編によれば、罪を背負い自ら人としての死を選ぶことで神へと至る道が開かれると言う。
 賽殺し編の世界である、罪が一切ない世界とは、即ち神である羽入が人としての完全な死を選んだ世界なのだろう。
 故にその世界に羽入はいない。

 罪はそれを背負った羽入と共に消えた。
 それは逆を言えば、世界に蔓延した罪は羽入から生じたということ。
 人として生きようとする願いから罪が生じるのだ。

 罪のない人間などいない。
 生きるということは即ち罪なのだ。
 だから生きても良いのだと誰かに赦されたい。

 罪のない世界とは即ち、人のいなくなった世界だ。
 その世界にいた唯一本物の人間である羽入がいなくなった。
 だからその世界にもはや罪などない。

 世界とは物語であり、その物語の作者が即ち神だ。
 作者は人間であり、物語の中のニンゲンは全て虚構で幻想。
 つまり、その世界の中で本物の人間は、作者である神だけなのだ。

 羽入が人として完全に死んだ世界では、羽入の姿はない。
 羽入が人の姿を取っていたのは、羽入が人としてありたいとどこかで願っていたから。
 人には見えない亡霊でしかなくとも存在していたのは、人として生きたいという未練から。

 魔女は人と関わりたいから人の姿をしている。
 人の姿を失ったということは、人間に興味をなくしたということ。
 人として生きたいという未練が完全になくなったということを表している。

 人生という舞台の主役は自分自身。
 それが人として生きるということ。
 なら人として生きないという選択は、人生という舞台から降りるということ。
 その舞台の主役の代理を誰かにやらせ、裏から舞台を踊らせるのが神としての生き方。
 人として生きることを諦めるということは、現実に背を向けて永遠に夢を見続けるということ。

 作者とキャラクターの関係が母と子の様なものだとすると、主人公代理である梨花は、人としての羽入を殺したことになる。
 フレデリカの人格が梨花の人格を圧し潰した様に、梨花の物語が羽入の人としての物語を圧し潰してしまうのだ。
 つまり、母殺しだ。


 賽殺し編のテーマは“母殺し”。
 羽入が娘に自身を殺させたという話も、梨花が生き延びるために母のいない世界を選択していたことがすでに母を殺していたのだという話も、全てそこに繋がっている。

 羽入を殺した娘は、いつか羽入が人として共に生きられる世界を望んだ。
 それがつまり祭囃し編の世界。
 梨花が賽殺し編で最終的に選んだのもその世界。

 もし梨花が賽殺し編の世界を選んでいたら、人としての羽入は死に、完全に神になったことだろう。
 それは神としての幸せに満ちているのかもしれない。
 しかしそこには人としての幸せはない。

 そうなっていたらうみねこの物語はなかっただろうね。
 あれは神の世界に触れながら、それでも帰還したフェザリーヌが紡いだ物語だから。
 人としての幸せと、神としての幸せ、それを天秤に載せた決闘を描いた物語。
 うみねこは人として生きたいという願いを手放さなかったから紡げたのだろう。






 おまけとして賽殺し編から幾つか抜粋してそれぞれにコメントしてみた。


“かつて私は、元の世界に戻るためにはどんな努力でもすると誓ったのではないか。”
“自分がその誓いを破れば、私に運命を賭けている羽入は、永遠にひとりぼっちとなって取り残され、…私だけがひとり、勝手に幸せになる。”


 一人で生きるのか、二人で共に生きるのか。
 自分一人だけの運命ではない。
 二人分の運命を背負った選択なのだ。
 一人で生きるということは、もう一人を運命の袋小路に取り残すということ。
 故に、相方のいない世界を生きることを選ぶ時、相方を殺したという罪を背負わなければならない。

 これもまた鏡写しができるだろう。
 母殺しの鏡写しは子殺し。
 子のいない世界を生きるという選択。
 子のいない世界を生き、元の世界との違和感と戦い、子を殺したという罪に苛まれる。
 それを経験したんじゃないかな。
 きっとそれが罪の根源。

 子殺しの真実、子を蘇らせる儀式、懐かしき故郷へ戻る話は、その後うみねこで語られることになる。


「僕が、…………いえ、…私が神になろうと決めた時。……私の娘、……梨花のご先祖はそれをとても悲しみました。私がそう決めたのが、…人の世に絶望したからだと知っていたからです。」

 人として生きる。
 それは「執筆者」にとって、子殺しの道を歩むということ。
 罪に塗れるということ。
 人として生きたいと願い、人として生きることに絶望した。

 罪が祓えない。
 だってその罪を赦せる人はもういないから。

 罪を赦せない。
 大切な人を殺してまで生きる自分自身を赦せないから。

 罪を隠して真実に背を向ける。
 人としての生を止め、神と成る。
 決して覚めぬ夢を紡ぐため。

 それでも亡霊としてあったのは、人になりたいという未練があるから。
 誰かに罪を赦して欲しかった。
 亡くしてしまった子に。
 あるいは別の誰かに。
 だから羽入はずっと謝り続ていたのだろう。
 

「この千年は、人の世を見限った私に対する罪だったのかもしれません。人は、人の世に生きる。そして生まれた世界に懸命でなくてはならない。…それを軽んじ、世界を容易に手放そうとする者は、千年にも及ぶ流罪に等しい罰を受けなければならないのかもしれません。」

 人生という舞台を降りて、ただ舞台を眺めるだけの傍観者となった。
 舞台の上で懸命に生きる者たちを眺めていた。
 それを羨ましく思った。
 また舞台に戻ろうとしても、簡単に人生を諦めた者に舞台に上がる資格はない。
 その舞台は懸命に生きる者だけが上がれる場所だから。


「………でも、それはとてもとても心地よいことなのです。……梨花はそれを僕の死と考えるようですが。…僕も、その世界における自分は死んでいると、最初はそう考えました。…ですが、その世界における羽入は、消えてしまってはいますが、喜びに満ちているのです。……あなたのお母さんと人生を供にして、楽しい時間を過ごした。お母さんはまだ生きていますが、その世界の僕はやさしさに包まれながら、二度と目覚めぬまどろみの中で楽しい夢を見続けているのです。……その温かさと心地よさは、きっとこの世に生まれ出る前の母の胎内にも似ている。………それを知っていしまったから、僕は梨花がむしろ、その世界を受け入れてくれないかとすら思っているのですよ…。」

 羽入にとってその世界は“夢”。
 二度と覚めることのない“夢”。
 人であることを完全に止めた。
 だから人として羽入は、生まれてくる前の状態に戻った。
 つまり、人として生きる苦しみから自身を切り離した状態。
 そこに人としての幸せはない。
 あるのは神としての幸せだけ。


「…………その世界は、誰かの夢が作り出した『理想の世界』なのです。あなたに関わる全ての人間に罪がない。それはとてもとても純粋で透き通った美しい世界なのです。その世界では、私はすでに消え去っており、梨花の人生を穢していない。…だから僕にも罪がない。そして梨花。あなたも自らの人生を穢していないから、罪がない。」

 “誰か”っていうのはつまり“羽入”のこと。
 自身が消えることで罪を禊いだ理想の世界。


「…………梨花のお母さんならこう言うでしょう。娘が幸せになれるなら、自分の命など惜しくないと。……梨花にはまだわかりません。子を持ち母となった身にしかわからぬ気持ちです。かつて一度は母になったからわかる。…もし梨花が元の世界の方が幸せだったと言えるなら、梨花のお母さんは喜んでその命を差し出すでしょう。」

 梨花の“母”とはつまり、羽入自身のこと。
 正確に言えば、羽入の大元である「執筆者」のこと。
 子の幸せのためには、自身の命すら差し出せる。
 その世界がつまりは、賽殺し編の世界というわけ。


「……死んだ方は気楽よね。勝手に献身美徳に酔って成仏できる。でもね、殺した方はその十字架を背負ってずっと生きていくのよ。………あんた、さっき言わなかった? あんたを討った娘が、あんたのために助け合いの心の宿る雛見沢を作ると誓ったって。そして千年掛けてあんたの娘たちは、あんたの罪に付き合ったのよ。…あんたは死ぬべきじゃなかったんじゃない? 何の罪を背負わされたのか知らないけど、生きて戦うべきだった。子孫が罪を背負わずに済む様に戦うべきだった。なのにあんたが屈したから、千年もの間、あんたの子孫たちがあんたの十字架を背負い続けた。……そうじゃないの?!」

 一理ある。
 羽入が、即ち「執筆者」が人として生きることができていれば、何も問題は起こらなかった。
 ひぐらしの世界だって生まれることはなかった。

 だが逆を言えば、そうじゃなかったからこそ今のひぐらしの世界がある。
 失いたくなかった。蘇らせたかった。元に戻りたかった。
 「執筆者」にとって生きるとは、一人で生きることではなく、皆と一緒に生きることだったのだ。

 皆と一緒に生きるという奇跡に繋がるための選択がこれだったのだろう。

 しかし、奇跡に繋がったから良かったものの、羽入が完全に死んでいたら梨花の意見が正論になる。
 だから「執筆者」も最後には戦わなければならないと思うんだよ。
 その戦いがうみねこであり、キコニアなのだろう。

 そしてこの台詞は、キコニアの青都雄の言いたいことと同一のものだと思うんだよね。
 母を殺して平然としていられるはずがない。
 母を殺した罪を背負い、母のいない世界を生きる。
 そんな未来など己ごと消し去りたくなるのも無理はない。

 それでも親子の絆を断ち切れば、完全にキコニアが飛ばない世界に成れば、罪はなかったことになるのだと言うのだろう。
 だが、思い出さないことが罪なのだと、貴女が言ったのだ。
 それは子を殺して子のいない世界に生きている自分自身に対する言葉なのだろうけど。
 その言葉は鏡写しのように還るんだよ。
 ホント自分には厳しく、子には甘いよな。
 それは自身が味わった苦しみを子に味わわせたくないという親の愛なのだろうけど。
 子がそれに反発するのも当然なのだよ。

 子は母殺しを厭い、母は子殺しを厭う。
 ならどんなに可能性が低くても、二人が共に生きられる奇跡を願うしかない。
 それが子がPLに頼んだ注文なのだろう。
 ひぐらし・うみねこであれだけの文量をかけて書かれれば、否が応でも分かるわ。


「なら、梨花。……私は生きて戦うべきだったという梨花。あなたはその世界にいる今、どうするというのですか。………その世界にいるという現実を受け入れ、元の世界と異なるいくつかの違和感と戦いながら、その世界で生きることを望みますか。百年の果てに掴んだ、手垢と汗に塗れた、それでもなお美しいあの世界を見捨てて!」

 羽入にとっては、千年の果てに掴んだ世界だよな。
 あと、「執筆者」も子のいない世界に違和感を感じながら生きていたのだろうね。


「そして、あなたは百年の末に掴んだあの世界を、元の世界と今なお呼ぶ。……なら、この世界の居心地がどんなによくても、それを全て投げ捨てて、この世界に留まりたい気持ちと戦い打ち払って、元の世界へ帰るできなのではないですか。あなたに関わる人々が罪から解放されたこの世界を打ち壊してでも!」

 人として生きるということは、罪を背負って生きるということ。
 自身に言い聞かせている言葉でもあるんだろうね。


「……でも、あんたはそれでいいの? …私がいないと寂しくなるって、かつてあれだけ駄々をこねていたのに。」
「……もう大丈夫ですよ。新しい友人ができましたのですから。」
「へぇ? 誰よ、紹介してよ。」
「……………教えませんのです。あぅあぅ。」
「……そういうことか。……ということは、…私はつまり、『古手梨花』、…なのね?」


 今の世界を生きることを選んだ『古手梨花』だから次の世界には行けない。
 次の行けるのは世界を跨いで生きることを選んだ『フレデリカ』の方。
 次の世界とは、うみねこの事。
 人として生きるために戦うことを選んだ羽入、もとい「執筆者」が戻らなければならない世界。
 そこでかつて出来なかった決闘を行うことになるのだ。


“…………今、わかったわ。こちらの世界へ戻るなら母を殺せという意味。
 殺さないとカケラがどうのこうのというのが問題なんじゃない。
 …母がいない世界を選ぶという行為がすでに、母殺しなんだ。
 私はこれまで、何の罪も感じずにこの世界を選び続け、「母を殺し続けてきた」。
 …あんたは、「それ」を私に気付かせたかったんじゃないの…?
 あんたが私に感じている罪。
 …多分、そのひとつがこれ。
 ……私が、両親を敬わなくなってしまったこと。
 あの世界で、……私はそれにようやく気付くことができたわ。
 梨花。気付いてくれて、ありがとう。
 僕が、あなたに感じてきた一番の罪が、ようやく祓われた気がしますのですよ……。
 大丈夫、梨花。
 あなたはその手を母の血に染めてなんかいない。
 あれは全部、……梨花に意地悪したかった僕の見せた、「夢」なのですから。
 …だから、あなたがその眠りから目覚めたら全て忘れているように。”


 両親を敬うという話はキコニアに繋がるものだろう。
 母のいない世界とは、キコニアが飛ばない国のこと。
 キコニアの飛ばない国で、都雄がキコニア生まれて来たということは、子である都雄がそれを求めたということであり、母もまたその繋がりを求めたという証だろう。
 やはり一緒が良いのだな。

 母のいない世界なんて、ホント意地悪な夢だよな。
 それを選択したら、躊躇なく自分を犠牲にするつもりだったくせに。
 うみねこで実際にそれを選ばせようとしたよな。
 ラストノートなんかは分かりやすい母殺しの話だし。
 子が母の血に染める選択をするはずがないし、プレイヤーである私だってそうだ。
 だからこそキコニアでは、母と子が殺し合う結末を覆すのだと信じている。
 今度こそ物語にハッピーエンドを。


 母と子の物語は、ひぐらしからうみねこへ、そしてキコニアに繋がる。
 なく頃には、この“軸”は一切ブレていないんだよね。
 必ず存在する要素だもん。


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  1. 2020/06/27(土) 21:12:10|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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