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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】加工された物語、伝統の味付け

※PCをPLに修正。



“正体不明の誰かが調理した食事など、不気味で誰も食べないはずなのに。それが情報だと、誰が加工したかも考えずに鵜呑みにして信じる。……そういう馬鹿が世界中にいてくれるから、我々はひと稼ぎが出来るわけですが。”

 与えられた情報は、誰かが加工したものである。
 ならば与えられた物語は、誰かが加工したものであることだろう。
 例えば、ラストの様々なシーンの切り取りやフラグメントなんかはそういうのが際立っている。
 誰があれを切り抜いてきたの? と。

 そうなると「誰」が加工したのか、物語に加工される前の「素」の状態はどういうものだったのかが気になるところ。


 さらにこれに関連するだろうフラグメントが存在する。
 「臭い料理対決!」だ。
 “料理”を“物語”に変換すればだいたい通じるんじゃないかな。

『物語。それは世界各地で独自に育まれてきた個性豊かな文化。
 読書が人類最高の快楽の1つであることを否定できる者はおるまい。
 時代を問わず、場所を問わず、人類は物語に美味を追求してきた。
 その結果、世界各地で素晴らしい物語が育まれることとなる。
 しかし、進化とは時に、必ずしも正方向へは進まない。
 普通なら、より味が良いように良いように進化していく。
 ほとんどの場合、そうなのだが、……時に、少し偏った進化を見せる時がある。
 どんな物語でも、ずっと食べていると飽きる。変化や驚きが欲しくなってくる。
 その変化や驚きが一定の域を超えると、……地元民にとっては美味な伝統の味でも、それ以外の人間の口には到底合わない代物が誕生する場合がある……。
 そのような進化のズレたモノは、多くの場合、外国人旅行者の悪評によって見直されて正気に戻るものなのだが……。
 ……時に。
 むしろ外国人撃退に特化したかのような、恐ろしいモノを生み出してしまう時がある。』

 って感じ。
 つまり、サルミアッキ=キコニアのなく頃に。
 そう読み換えると、断然キコニアを理解できると思う。

 サルミアッキとは北欧の言葉で、塩化アンモニウムを意味する。
 つまり“アンモニア臭”がする。
 アンモニア臭と言えば、A3Wで主にする臭いがそれ。
 要は、サルミアッキ=キコニアだと言いたいのだろう。
 北欧人(比喩)以外には食えない味だと。

 そして北欧人(比喩)は何でもかんでもサルミアッキで味付ける。
 ひぐらしでも、うみねこでも、それ以外の作品ですら。
 それが北欧人(比喩)の伝統の物語の味付けなのだ。


 長年その土地で育まれたってところで、一般社会とは隔絶した環境で長年過ごしたことを窺わせる。
 肉体を捨ててでも魂を重視する傾向にある価値観は、一般社会の常識とは大きく乖離している。

 現代の日本では、魂より命の方が重視されている。
 延命できるならできる限り延命をする。
 安楽死は禁止されているし、意識が戻らなくても延命装置に繋ぎ続ける。
 どういう形でも生きていてくれる方が良いという傾向がある。
 極端に言えば、「命は地球より重い」という価値観。

 それに対して、魂の方を重視するというのは、場合によっては魂を守るために命すら捨てるということ。
 極端に言えば、「生きるために死ぬ」という思想。


 物語の正方向への進化は、一概には言えないけど、より万人受けるように分かりやすい、直接的なメッセージなどが込められた物語だろう。
 その反対は、分かりにくい迂遠的なメッセージが込められた物語となる。
 そっち方面に進化してしまったのは、世間と隔絶されていたから。
 つまり、交流がなかったから。
 要は拗らせてるんだな。

 うみねこも推理して欲しい、理解して欲しいというのと同時に、理解できるはずがない的な防衛的攻撃性が垣間見えるからな。
 所謂ハリネズミのジレンマってヤツ。
 その攻撃性も引っ繰り返せば、これを考えてーっていう道案内なんだよね。
 こっち来ないでーって言いながら、こっち来てーっていう。
 アンビバレンツな心理なのだろう。
 「逃げるから追ってきて」は、うみねこの当初からある伝統文化と言っていい。。

 うみねこでは3つの物語を紡いだのだから、物語の味わいは三段階に分かれているのだと思う。
 見れば分かる物語と、考えれば分かる物語と、より深く考えなければ分からない物語とに。
 相手に何かを信じさせたい時、こちらが主張したことをそのまま信じてもらうのは難しい。
 こちらの主張に反発する勢力が必ず出るから。
 だから答えを明かすのではなく、相手が自分から気付かせるのが良い。
 その気付きは相手のもので、ゆえに反発は起こらない。
 マジックでもあるよね、相手にこちらが選んで欲しいカードを選ばせるってヤツ。

 つまり、人って自分がそれに気付いた時、そこで思考停止してしまうのだ。
 一歩進んだ、しかしその一歩で歩みを止めてしまう。
 あるいは、勢いで二歩目、三歩目くらいは進むこともあるだろう。
 しかし、一を聞いて十を知るほどは進まない。
 途中で満足してしまう。
 思考を止めなければ、まだまだ味わうことができるかもしれないのにもかかわらず。

 なく頃には、一つの真実を異なる角度から色々と味わうことができるというコンセプト。
 色々な味を味わうには、読者側のテクニックが必要になる。
 場合によっては、製作者側も想定していない味わい方すら開発することも可能だろう。

 これはどれが偉いという話ではなく、そこの文化に馴染めるのかどうかという話。
 物語は読んでもらうということは、広く世間に公開されるわけだから、より多くの人の口に合うように進化するのが正方向。
 しかしその逆に進化してしまったのは、ただ一人の王子を待っているからだろう。
 なく頃にの物語は読者に対して広く開放されていて、どうぞ好きに解釈してくださいとなっている。
 しかし最後の一線だけは踏み込ませないイメージ。
 そこは王子だけが踏み入れることが許されているのだろうね。

 きっとキコニアもその伝統を受け継いでいるじゃないかな。


“ところがところが! 恐ろしいことに(笑えることに)、北欧人はサルミアッキが自分たち以外の口には合わないことを、知っていて外国人に勧めてくることがあるのだ!
 そかもその上、にやにやしながら、食べるところを動画で撮ってもいいかと聞いてくることさえ……!!”


 これは、お前もじゃねーか! っていうツッコミ待ちに違いあるまい。
 物語を的確に咀嚼できないだろう者たちに食わせて、その反応を見て楽しむという悪趣味な一面があるということだろう。

 確かうみねこのインタビューでくさやの話があったな。
 知的な背伸びの話で、挑発されたらつい食ってしまう的な。

 自分の土地の文化、物語の味をちゃんと理解して味わってくれる人を探しながらも、そういう人は滅多にいないから、口に合わない者の反応を見て楽しもう方向に行っているのかな。
 一番嫌なのが、食ってくれない、反応してくれないことだと思うので。
 反応を返してくれるだけで嬉しいのだろうね。

 ま、一種の自己紹介の様なもの。
 こういう文化の者ですってね。


 で、その後の料理対決は、「神のシナリオ」と「神の代理人のシナリオ」のことなのだろう。
 PLからの、じゃあ次はお前が食ってみろよ的な。
 注文したのを忘れてしまい、料理ができるまで時間が掛かっているというのは、都雄が天災のお子様ランチを注文したことに掛かっているのだろう。



 そんなわけでこのフラグメントは見方によっては、物語本編に対する自己言及的なものになる。
 うみねこのTIPS、小冊子も大半はそんな感じだった。
 普通に見るとただのサイドストーリー、でもメタ的に見ると作品の解説書的な。

 物語の中で物語について、暗喩的に自己言及をする。
 そうすることで自らの尾を飲み込むウロボロスの如く、元の位置からより高次の存在になる。
 自己に言及するということは、自己を俯瞰する自己を作るということだから。
 要するにメタ構造のゲーム盤を構築できる。
 なく頃にのゲーム盤はそれがデフォだろう。





 さて、物語を加工しているなら、メタの領域にいる誰かがそれをしていることになる。
 ミステリー的には、
 フーダニット。誰が加工しているのか?
 ハウダニット。どうやって加工したのか?
 ホワイダニット。どんな意図で加工したのか?
 これらを解けばいいってことになる。

 さらに言えば、加工される前の「素」の状態はどんなものなのか?
 そういうのも問われているんだろう。


 私的にはやっぱり「素」はうみねこのゲーム内容だと思うんだよね。
 うみねこのゲーム結果を素材として作成・加工されたゲームがキコニア。

 ベアトが紡いだ3つの物語、幻想1、真実2。
 そしてそれらを包括した真相1を加えて計4つの物語。
 それがキコニアの四陣営で、それらが相争い読者の心の世界への移住を賭けて争っている。

 その争いはヨハネの黙示録に見立てられており、そこで良く用いられる七人一組に都雄たち仲間が組み分けられる。
 COUの6人+ミャオ(ジェストレス)が赤い龍。
 ABNの6人+都雄が七人の御使い(子羊)。
 ACRの6人+ギュンヒルドが黙示録の獣。
 AOUの6人(ジェイデンとミャオを入れ替え)+フィーアが神の七つの霊。

 そして神がフィーアで、神の代理人が藤治郎でその分身がジェイデン。
 LATOの2人はジェイデンと組んで三人一組となり争いを管理する。

 そんなイメージが個人的にはぴったり合うと思っている。


 ん~このイメージって、私の記事を読んでいる人と共有できているのかな?
 自分で言うのもなんだけど、私のうみねこの見解は世間一般とは乖離しているので。
 今頃までうみねこ・キコニアを考察している人で、「ヤスの肉体が犯人」にあらずんばうみねこにあらずって極端な人はいないと思うが、どうなんだろう。


 1つ目の物語は、魔女であるベアトが犯人の物語。
 2つ目の物語は、ニンゲンであるヤスが犯人の物語。
 ここまでは普通に共通認識で良いと思う。
 残りの3つ目に、赤字を抜けることができて、かつ犯人がヤス以外の人間の物語と仮定する。

 真実は並び立つことがあると知っている人なら、信じるかどうかは別として、この仮定をイメージすることはできるはず。

 で、3つの物語と、それを纏めた4つ目の物語だけど。
 これは真里亞とさくたろうを例に出すとイメージしやすいかな。

 個別の物語は、真里亞がいない世界を(人間として)生きるさくたろうの物語と、さくたろうがいない世界を生きる真里亞の物語。
 纏めた物語は、真里亞とさくたろうが一緒に生きている世界の物語。

 真里亞がいない世界を生きるさくたろうは、ひぐらし礼の「賽殺し編」の羽入のいない世界で生きることに決めた梨花を想像すると分かりやすいと思う。
 羽入と一緒にいた世界を夢として忘れて、今いる世界の生を全うしようとしている。

 それがイメージできれば、二人一緒にいたいというのが本当の願いだと分かるはず。
 しかし読者に認められるための決闘が行われ、3つの物語はバラバラになるため、纏めた4つ目の物語は奇跡が起こらなければ勝つことはできない。
 そしてファンタジーである幻想の物語も勝ち残ることはほぼ不可能。
 となると残る真実の物語2つでタイマンとなる。

 また同じもので例えるけど、主人格である真里亞がさくたろうを殺せるわけがない。
 よって、さくたろうが勝ち残るという結末に辿り着く。
 これが私から見たうみねこの結末のイメージ。

 それに対して否を唱えたのが、読者の一部であるPL。
 さくたろうが一人残されるのはハッピーエンドではない、真里亞と一緒にいられてこそハッピーエンドであると、物語を編集しているのがキコニアのゲーム。
 さくたろう視点で言えば、一人で生きること否を唱え、PLに真里亞と一緒にいられる物語を要望し、PLはそれに応えたって感じになる。

 そして、PLはそのうみねこの結果を素材として物語に加工した。
 二人一緒にいられるハッピーエンドにするために。
 そんな感じのイメージ。


 私が気に入っているのは、物語を加工しているのがPLであること。
 トリック的には、習慣的にGMに焦点を合わせようとしたら、盲点だったPLがゲームを進行しる点とか。
 ある意味GMの一方的だったうみねこのゲームのリベンジを、今度は逆にPLがする的なところも続編のゲーム的で良い。

 自分は死んだ方が良いというGMに対し、PLは生きても良いんだと言う。
 これはまさしくひぐらし・うみねこのラストで繰り返されたもの。
 鷹野に対して富竹が。
 ベアトに対して戦人が、罪を赦す。
 生きて罪を償おう、一緒にいるから、自分を取り戻していこう、と。
 このラストはひぐらし・うみねこで共通したもの。
 だからきっとキコニアでも踏襲されるはず。
 それが綺麗な流れだから。

 全ての罪を背負って死ぬというのは羽入も同様で、こちらは欠けを埋めることを選んだ梨花によって救われる。
 これは先ほどのさくたろうの例え、さくたろうが真里亞と一緒にいることを望むイメージ。
 物語からの要望。即ち、注文。
 そして神の代理人はそれを形にする。

“…傍観者を気取った少女が、舞台に上がる決意をし、…もう充分と思い、降りようとした。
 ……舞台の上の輝かしい瞬間を思い出に、…舞台を降りようとした時、…その袖が引っ張られ、止められた。
 舞台の上に、いてもいいんだよ。
 気付けば、自分はまだ舞台の上にいて、……しかもこれからも舞台を降りなくていいのだ。
 カーテンコールにも自分の居場所があり、…私はもう傍観者などでは断じてないというのだ…。
 それは、…ありえない奇跡。
 …台本にない役なのに、…私はいなくていいはずなのに、…存在が認められる奇跡。”


 これは祭囃子編の全てが解決された時の地の文だけど、この“舞台”という表現はうみねこでも用いられている。
 EP7ではもろだし、ヱリカにもよく使われている。
 それまでいなかったヱリカが舞台に上がり、殺し直すことで全ての罪を背負い、舞台から退場する。
 これは羽入と同じプロトコル。
 EP7のクレル、EP8のベルン、ラストノートのピースも同様。
 それまで舞台に上がらなかった者が舞台に上がり、何らかの罪を背負い消えることで、舞台上に和を取り戻す。

 リフレイン。
 何度も繰り返されるということは、それが言いたいことであり、考えて欲しいことだということ。
 メッセージでありプロトコル。
 舞台に上がり、その後舞台から降りようとするから、それを引き留めて、という。

 ピースがヱリカに似ているというが、それは当然なのだ。
 同じ役割を持たされた駒なのだから。

 ヱリカは舞台から降りた後、忘却の深淵に捨てられた。
 そしてEP8でベルンに勝ったらヱリカを救うと約束した。
 舞台から降りた者を、再び舞台に上げるために勝負する。
 それがPCに課された目的。

 ヱリカが駒としての本来の役割を果たしたEP6で、羽入に相当するフェザリーヌが登場するのも、フェザリーヌ即ち八城が舞台の上に上がらない者という暗示だろう。


 造物主、即ち神については、ひぐらしを参考にしようか。
 祭囃し編のラストの鷹野と羽入のやりとりから抜粋。

「そなたの右手に持つ鉄の火で。己が生に別れを告げるがいい。……神の座に肉の器は不要。人にその姿を認められようなどと思ってはならぬ。」

「何故に嫌か。常に、人の世で和を求めるためには、1つのケガレに1つの生贄がいる。…それが人の世の理、罪の禊の方法ではなかったのか。
 ……そなたの望む未来に1人の少女を生贄に求めたのはそれを理解していたからではなかったのか。」

「…私は、…人間でよかった…。ただただ、人間として生きていいよって、誰かに赦してもらいたかった…! 生きてもいいよって許してもらいたかっただけなのッ!!」


 神の座に就くには、肉体を捨てる必要がある。
 自身の姿、即ち自身の真実を認められようとしてはならない。
 要するに、舞台の上から姿を消し、傍観者としてあらねばならない。
 それが神であり造物主。
 それが羽入でありフェザリーヌなのだろう。

 神に至ろうとしていたが、本当の願いは人間としていいよと誰かに赦してもらうことだった。
 そのために、1人の少女を生贄に求めた。
 逆に神に至るためには、自分が生贄となり舞台から消える必要がある。

 要するに、ニンゲンとして生きることが赦されない家具が、ニンゲンとして生きることを赦されるために、罪を1人の少女に着せて生贄に捧げることにしたが。
 それを厭い、代わりに自分が罪を着て舞台から消えることで、少女の生きる世界の和を取り持ったと。
 その後、舞台の陰から少女の生を見守り、それに満足したら完全に消える。

 そうして世界という舞台から消えて、満足して永遠の眠りに就くのが「賽殺し編」の世界。
 だが少女、梨花はその世界を選ばず、羽入と共にいられる世界を選んだ。
 これまで自覚なく母を殺し続けていたという自覚を得て。

 愛する魔女のために、神を捨てて人に還る。
 散った花が咲く。
 それがラストノートに込められた願いだろう。

 そしてキコニアで“雨乞い”がされた。
 物語からの要請を受けて、PLが物語を加工する。

 ジジ抜きの欠けたピースが埋まり物語に和を取り戻し、共に罪を背負い、共に罪を赦し合い、過去と決別し、人としてこれからを生きる。


 やはり綺麗な流れ。
 人は高きに歩き、水は低きに流れる。
 ひぐらし、うみねこ、キコニアのこの流れは、水が高きより低きに流れるように、これは自然の道理なのではないかと思う。





 そういえば、賽殺し編のラストを見ていて気付いたが、小此木について記憶違いしてたわ。
 あいつ、自分が負けたら、鷹野に自死を強要していた。
 再考察での小此木について修正すべきだな。

 小此木が読者に重ね合わされているというのは変わらない。
 小此木が示す読者像は、負けることでそれをちゃんと認めるというもの。

 つまり、自分が負けたことで、自分が守っていた“真実”を見捨て、自死を強要した。
 それは要するに、“真実”が本当の真実であると信じていたのではない。
 世間に認められるかどうかが重要だったということ。
 だって、本当の真実だと信じているのであれば、たとえ負けたとしても“真実”を守り続けるはずだから。

 私的には、負けたら共に忘却の深淵に消えて行く、うみねこEP8の戦人の方が断然良いね。
 本当の真実だと信じなのなら、その真実を握りしめて離さないようにしなきゃだめだよ。

 やはり鷹野にとってのヒーローは富竹だな。
 キコニアでもよろしく頼むぞ。

 実際、キコニアでも舞台から消えようとする予兆はあるからな。
 都雄の前にプレイヤーが現れるというミャオの台詞。
 あれ、自分たちの前ではなく、都雄の前だから、自分のことは含めてないんだよね。
 都雄のことはプレイヤーに任せて自分は消えるという、別れの前振り、伏線だと思う。
 今回のゲームでも舞台から消えようとしているから、ちゃんと引き留めないと。


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  1. 2020/06/20(土) 20:40:06|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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