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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】造物主と、流浪の民と、星の尊厳

 ひぐらしの神姦し編において、「人の脳」は「星の大地」に喩えられ、その脳に感染するウイルスを「流浪の民」と呼んだ。

 人は現実世界の中で生きながらも、誰しもがその脳内に自分だけの世界を持っている。
 そしてその脳内世界では、その人が認識した存在のみが存在を許されている。
 それは現実の人間を写し取っったり歪められたりした存在だったり、虚構の物語のキャラクターだったり、曖昧な存在を擬人化した存在だったりする。

 この辺はオタクなら想像しやすいんじゃない?
 得意分野だろうし。
 数多の物語を見てきたなら、それらの物語のキャラを脳内に住まわせている。
 我々オタクは頭に一体何人住まわせてるんだ?
 中には忘却されたキャラとかもいるだろうけど。

 脳内世界では、異なる物語は並列して存在できる。
 異なる物語の世界は、脳内世界では異なる国に相当するのかな。
 そして近しいジャンルの国で集まっている感じ。

 そして中には同一の存在が同時に複数あることもある。
 例えば「織田信長」。
 史実に近いイメージから、創作者によって様々に解釈されたものたち、果ては女体化したものまで。
 これまで一体何人の織田信長が生まれたことか。
 そしてこれからも何人もの織田信長が生まれることだろう。
 そんな数多の「織田信長」を住まわせることが可能なのが、我々人間の脳なのである。


 人間の脳はそんな脳内キャラが住むことが可能な「大地」なので、数多の脳内キャラたちにいつも狙われているわけだよ。
 脳内キャラは宿主に命じて「布教」させることで、別の「大地」に辿り着き根付こうとする。
 そうやって自らの生存圏を広げる。
 さらにひとつの「大地」は有限なので、より深く根付こうとしたり、脳内世界の覇権を狙ったりする。
 現実には存在しない幻想のキャラにとって、脳内という「大地」こそが唯一存在可能な場所なのだから。

 現実の人間も死んだら、その「大地」こそが最後の居場所。
 人々が記憶する限り、人々の脳内世界で生き続けることができる。
 物語は語り継がれることで生き続けるのだ。


 脳内世界では脳内キャラたちが、己の存在を確立させるために争っている。
 思い出してもらうほど意識してもらうほど、脳内の土地を占めることができる。
 逆に思い出してもらえなければやがては消えることになる。
 言うなれば、脳内格差社会だね。

 豊かな脳内キャラほど良い空気を吸っている。
 記憶の隅に追いやられた脳内キャラはくっさい場所に住まわされる。
 宿主に好かれるよう、思い題してもらえるように努力しなければ這い上がることもできない。
 場合によっては、そのキャラがしたくないことをしてでも、そう宿主に媚を売ったりしてでも、ね。

 その脳内格差なんて知らない方が脳内キャラのためなのだろう。
 例えば二次創作のクロスオーバーだと、異なる物語出身のキャラたちが垣根を越えて協力して一つの物語を作り上げるわけだけど。
 その建前は美しいが、実際は不平等なものになりがち。
 一堂に会することで格付けされたり、特定のキャラを贔屓されたり、その活躍を目立たせるための踏み台に使われたり、原作では絶対にしないことをさせられたり。
 尊厳を踏みにじられ、搾取される。

 それぞれの国の文化や歴史を尊重できるのか。
 うみねこ的な愛というアトモスフィアがあるのか、ということ。

 愛とは空気のようなもの。
 目には見えないけど、そこにあって、なくなってしまえば人は生存できない。





 さて、脳内覇権争い、脳内格差社会など、脳内世界の問題のイメージが出来たところで、造物主の脳内世界へ行こう。

 感染によって脳内キャラが「大地」に根付くわけだから、それらは“コピー”だ。
 感染元となるオリジナルが住まう「大地」。
 それが「造物主」。
 その脳内キャラたちの生みの親。

 そして造物主が生み出したのが「流浪の民」。
 古郷の「大地」に住めなくなったので、別の「大地」に根付こうと流離っていた脳内キャラたち。

 普通なら、「造物主」の「大地」が最も馴染む土地であるはず。
 その故郷の「大地」に住めなくなったから流浪するはめになっているのだ。

 つまり、これがキコニアで描かれていることではないだろうか。
 星の尊厳を取り戻すと、人類の住めない死の星となる。
 逆を返せば、人類の繁栄のために星の尊厳を踏みにじってきたということ。
 「星の尊厳」と「人類の繁栄」は相反した関係にあるということだろう。


 造物主とその脳内人類の関係だけど。

 まず人間は自分を中心として世界を把握する。
 自分を中心に、親や兄弟、友達などの相関図を形作る。
 自分との関係により世界を把握する。
 自分の人生の主人公は自分自身であるというわけだ。

 自分=物語で、物語が豊かになる=自分が豊かになる。
 相関図が広がる=色々な意見や価値観に触れて成長する、だからね。
 なのにそれが相反している。
 自分を主人公とした物語が繁栄するのに、その主人公自身がその物語によって尊厳が貶められているのだ。

 これは自分の代わりに駒に主人公をさせているいうこと。
 うみねこEP6にあった、「自分の代わりをさせる駒」のことだね。
 それはつまり、その全ては「代わりの駒」が手に入れて、自分は何も得られないということを意味する。
 つまり、「代わりの駒」が脳内世界で領土を広げ、主である「造物主」は隅に追いやられるわけだ。


 うみねこではこの「主の代わりをする駒」について、あまり考察されなかったよね……。
 主の代わりに恋をする駒。
 駒が恋を成就させても、主の恋が成就するわけではない。
 主が得るものは何もない。
 主の代わりに愛し愛される。
 それはつまり、主は愛することも愛されることもできないということ。
 ここを理解してない人は多いんじゃないのかな。

 恋を叶えることのできない自分の代わりに、恋を叶えて欲しい。
 自分の代わりに幸せになって欲しい。
 これは「愛」だ。
 それも親が子に向ける無償の愛。
 母の愛。

 キコニアでもあったよね。
 親が叶えられなかった夢を子に託す。
 あれは父親が子に向けるものだけど。
 あれはたぶん、自分では“母”を救うことができないから、“子”にその願いを託す的な感じじゃないかと思うけど。
 今言うことじゃないな、後にしよう。

 そう、愛。愛だ。
 愛ゆえに「造物主」は自身を犠牲に、脳内人類たちの繁栄を許している。
 その繁栄が自身を隅に追いやり零落させるものだとしても。
 研究される機材となってでも、消費される資源となってでも。

 そう、脳内人類は「星」より「愛」を搾取し、「神」の「愛」を消費して繁栄している。
 「愛」とは空気だ。
 目に見えずとも、あって当たり前のもの。
 それが脳内人類たちを生かしている。
 だが、無償の愛といえど、それは無尽蔵にあるのか?
 そんなわけはない。
 愛があって当たり前だと感謝をすることを忘れた、愛を貪るだけの寄生虫に、いつか愛想が尽きる時が来る。
 「神」の「愛」が尽きたその時、「星」が地獄へと変貌することだろう。


 未来にてその地獄を生み出す自分(神)の手から脳内人類を逃そうというのが「神のシナリオ」。
 もうじき脳内人類の住めない「星」となるから、別の居住可能な「星」へと移住すべし。
 「神」の代わりに「王」が「民」を導く。
 故郷を失った「流浪の民」を約束の地へと。

 それがつまり読者の脳内という「星」。
 “新天新地”。
 うみねこのゲームはまさにこれが目的だった。
 「造物主」の脳内にあるゲーム盤からの大脱出(エクソダス)。


 ロジックエラーの密室。
 脳と言う「密室」に閉じ込められ、助けを待っている。
 誰かがロジックを解いて助けてくれるのを。
 その「鍵」を握るのがゲームのプレイヤー。
 つまり、読者だ。

 ロジックエラーの密室は、誰か一人を閉じ込めることで脱出できる。
 救うのは「脳内人類」か、それとも「造物主」か。
 その選択を読者に突き付けている。


 要するに、公共の利益と自己の利益だ。
 「神」が「利他」である間は脳内人類は繁栄し、「利己」が勝れば脳内人類は滅亡する。
 救われるべきは「自分」か「皆」か。
 公共の利益を語る中にほんの少し自己の利益を混ぜる。
 “僅か少しの不純動機”とは「オカルティクスの魔女」の歌詞だったか。

 別段私は不純だとは思わないけど。
 公共の利益のための物語の中に混ざってるのって、「私を見つけて」とか「私を探して」とか「私を追ってきて、捕まえて」とかそういう些細なのでしょ?

 ま、自己の利益という自体が不純に思えるのだろうが。
 だからこそ、うみねこの「早く私を殺してください」に繋がるのだろう。
 救われるのは「皆」だから「私」を殺して。
 で、「さもなきゃ お前が死ね」へ繋がる。


 「造物主」の自己の利益は、「自身を人間として認められたい」というもの。
 その目的のための手段として生み出されたのが、公共の利益のための物語。
 「皆」が真実だと認められるための物語。

 確かにそれは「駒の皆」の存在を認めさせるためのゲームだ。
 だが同時に、「駒の皆」をピースとして「造物主」というパズルを組み立て、「造物主」というプレイヤーを認めさせるためのゲームでもある。


 物語は主人公が異なる他者と出会うことで成り立つ。
 異なる意見と出会うことで、それぞれの意見が際立つ。
 主人公を中心とした相関関係こそが物語であると言えるだろう。

 自分の人生という名の物語の主人公は自分自身。
 最初は自分だけの意見だけしかなかった。
 物語を紡ぐために、自分と対立する駒を置く。
 さらに対比するために違う駒も追加する。
 似ている点と異なる点。
 様々な意見の駒を置き議論する。
 ゲーム盤に駒を置くとは、その存在を認めるに等しい。

 ただ一つの意見しかなかった世界に、多様な意見が満たされる。
 異なる意見を糧として食らい、己が身とする。
 ゲームが終わればピースは片づけられる。
 自身というパズルを組み立てるピースとして。

 一にして全、全にして一。
 全ては一より生じ、一へと帰る。そして再び生み出される。
 「神」は「人類」を繁栄させ、「人類」は「神」を富ませる。
 本来は、公共の利益=自己の利益、だったんだよね。
 自分一人で完結している間は。

 他者に認められようとしたからそれが崩れた。
 他者が認める真実は一つ。
 よって密室を脱出できるのも一人だけ。
 だから、公共の利益≠自己の利益、となってしまった。
 そして「造物主」は自身のために「駒」を消費し、「脳内人類」は自分たちの繁栄のために「星」を搾取するようになる。

 果てには、「造物主」の目的と手段が入れ替わり、愛する「脳内人類」のために自身を殺そうとなったわけだ。
 全ては愛のため。

 さらには「造物主」の愛を貪っていた「脳内人類」の中から、「星」の尊厳を取り戻そうとする者が出てきた。
 例え人類が住めない「星」となろうとも、それこそが自然の姿なのだという思想。


 例え争うことになろうとも、お互いを思い合うのは尊いものだ。
 この悲劇は密室から抜け出せるのが一人であるがゆえのもの。
 だがそれは「造物主」の思い込みによる心理的な密室に過ぎない。
 読者が同時に二つの真実を認めることが出来れば良いだけなのだ。

 そしてそれは可能だ。
 様々な物語を見てきたオタクになら、脳内で異なる物語を同居させることができる、当然のように。
 それはそれぞれの作品への愛ゆえに。

 愛は全てを解決する!

 あぁ、だがしかし、「造物主」にはその愛が信じられないのだ。
 愛された経験がないから、愛が信じられない。
 だからこその、信頼を積み上げるコミュニケーションのためのゲーム。
 読者が作者への信頼を積み上げるだけではなく、作者が読者への信頼を積み上げるためのものでもある。


 だけれども「咲」を見ればわかるとおり、うみねこのゲームは“母”が消えて終わる。
 それを目的とした物語だから、それは当たり前の結末なのかもしれない。
 いくら読者が真実へ至ろうとも、「造物主」は自身よりも「皆」をすでに選んでいるのだから。
 自分だけが救われることを望んでいるわけではないのだから。

 なので次のキコニアのゲームは、神の代理人、GM代理であるPLジェイデンが物語を紡いでいるのだろう。
 「造物主」であるGMが、物語に自身の願いを託したように。
 PLも物語に自身の願いを託しているのだろう。
 その物語が「神の代理人のシナリオ」であり、その物語の主人公がつまりは都雄なわけだ。

 子はかすがい。
 父と母の仲を取り持ってくれる。
 物語を通して仲良くなったのだから、物語を通して仲を深めるのが自然な形なのだろう。

 たぶんうみねこは、それぞれの真実(物語)がどこかの岸(読者の心)に辿り着けば良い、というメッセージボトルのような一方通行な感じ。
 だから真実を心の中に受け入れても読者は何もできない。

 それに対してキコニアは文通。
 物語が手紙なら、それを介してコミュニケーションを取れば良い。
 相手の文化に合わせて、同じ言語を使って。
 物語を尊重するということは、物語の中の「皆」を尊重するということ。
 だから「造物主」を安心させることができるのではないかな。


「ふふふ。面と向かって悪口が言えない国では、悪口に聞こえないように悪口を言う文化とというものが芽生えるものだよ」

 これはスタニスワフの言だけど、物語を介しての文通とはまさにこれ。
 物語の中に自分の心を秘め、願いを託して物語を綴る。
 そにには言葉通りの意味の他、言外の意味が含まれている。
 分かる者には分かるが、分からない者には分からない。
 言葉にならない言葉。聞こえない囁き声。
 そこにあるのは怯える心。そして恥じる心。


「心が、伝えられねぇんだよ。シンプルな言葉で、素直に喋れねぇ天邪鬼なんだよ!! それなのに人の心を求めて、人に近付かずにはいられないッ、なのにそれを素直な言葉で示せない、バカで間抜けで、どうしようもないく可哀想な連中なんだよッ!!!」

「大馬鹿の寂しがり屋が、それでも精いっぱい、拙くても必死に必死に書き上げたカケラを……、考えるだけ無駄だとか……絶対に言うんじゃねぇッ!!!」


 これはうみねこ咲の戦人の台詞だけど、ま、つまりそういうこと。
 決して素直に喋れない文化なんだよね、魔女はさ。

 んーそうだね、分かり易く例えるなら、「これはあくまで友達の話なんだけど~」と自分の悩み事を相談する様な?
 うん、そうそう、自分の事を架空の友達の事に置き換えて話す感じ。
 心を守るための予防線であり、気軽に話すためのものだね。

 「架空の友達」は自分とは違う別人だから、設定は自分とは色々と違った感じで、でも自分の悩みを相談するために自分と重なるようなものにする。
 これをさ、「いや、これお前の事だろ」と指摘するのは無粋というもの。
 相談される方も、あくまでそういう“設定”として話を合わせて相談に乗るわけだ。

 そして相談の度にこの「架空の友達」を使うと、どんどん“設定”が深まっていく。
 子供の頃から使っていれば、自分の成長に合わせて「架空の友達」も成長していく。
 ここまで来ると「共に人生を歩む相棒」的な感じの愛着が湧いてくるだろうね。

 この「架空の友達」は、相談する者とされる者の間でその話をし続ける限り“生き続ける”。
 そしてどちらかが否定した時に“死ぬ”。
 ま、その否定をさらに否定すれば“蘇る”んだけどね。

 で、相談された方は悩みを解決するために、「架空の友達」を使った話として解決策を話すわけだ。
 ジェイデンがやってるのは“これ”。
 相手の心を慮り、相手の“物語”を壊さないように、相手の心に言葉を届けるために。
 “物語”を介して文通をしている。

 ヨハネの黙示録の見立ての、教会の悔い改めよの所の、裸を隠すために与える「白い衣」って、つまりはジェイデンが紡ぐ「物語」なのだろうなぁ。
 真実は物語の中に秘めるもの。
 最高の気遣いだよな、これ。





 ホント完璧だよ、ジェイデンの行いは。
 私の思い描く、理想の読者像そのもの。
 うみねこを推理していた時、よく私よりも上手く推理するだろう理想の読者を思い描いていたものだけど。
 ジェイデンはそれを更新してしまった。

 ジェイデンのゲームプレイはまさしく“理想の軌道”。
 理想には決して追いつけない、アキレスと亀のように。
 アキレスが中間点に辿り付く時には、亀はさらに先に進み、永遠にそれを繰り返すから決して追いつくことはできない。
 過去の理想には勝てても、今の理想は常に更新し続けるものだから。

 GMにどんな謎を出されようと負けるものかと思えるし、一瞬だろうと錯覚だろうとも、追いついた追い越したと思うことはできる。
 だけど“理想のPL”は、憧れであるためにどこまで高みに上り詰めようとも、常に上にいるのだろうという気がする。

 対PL用の駒として“理想のPL”は特効過ぎるんじゃないかな。
 ジェイデンのデモプレイのスコアを誰も越すことは出来ないんじゃないの?
 過去の理想には勝てるから、ジェイデンの行いが記述され終えれば勝てるんだろうけど。
 記述されない限りにおいて、ジェイデンは理想であり続ける。
 上を目指す限り、常に上にいる。

 私のイメージではそんな感じになってしまってるぞ。





 ちょっと思ったのだが、神の代理人が紡いだ「物語」を着るということは、真実をそのまま晒さないということになるよね。
 いや、物語を剥ぎ取り真実を暴く必要は全くないし、答えは物語として分かるものには分かるように描かれるだろうし、それで十分なのだが。
 執筆者側が物語と切り離されるというか、プレイヤーたちが駒から切り離されるというか、そんな感じで物語が終わりそうな予感がするんだよね。
 なんというか、うみねこEP8をなぞるような感じというか。

 EP8は、物語がゲーム盤から抜け出して読者の心へと飛び立ち、取り残された執筆者が忘却の深淵に沈んで行くというものだった。

 黄金の魔女の助け(黄金の魔法)のお陰で物語(右代宮家)が繁栄し、三位一体から生み出される四つの物語(四兄弟)が島から巣立つ。
 物語の末(縁寿)がゲーム盤から飛び立ち、読者の心へと羽ばたいて行く。
 残された真実は、読者から島から抜け出そうと誘われるが、三つの真実のそれぞれの恋を成立させるために忘却の深淵に消えることを選ぶ。
 で、それと共に沈むことを選ぶPLがいれば望外の幸せ的な感じだった。

 キコニアのゲームは、その共に沈んだPLのリベンジ的なゲームでもあるのかもな。


 でだ、この執筆者の許から物語が飛び立つというのは、執筆者と物語を切り離す的な感じなのでは? と。
 藤治郎=ジェイデンで、フィーア=ミャオ。
 PLとGMはそれぞれの分身を、物語の中で都雄と共にあるために送り出した。
 物語のハッピーエンドは、都雄とミャオとジェイデンが一緒にいることだと思う。

 ガントレットナイトは霊素をドライツィヒ変換して空を飛ぶ。
 要するに、物語は作者の愛を力に変換して読者の許へと飛び立って行く。
 ハッピーエンドを迎えれば、物語は読者の心へと羽ばたいて行く。
 でもそこへ行けるのは物語=魂で、当然、肉体は取り残されることになる。

 肉体、即ちゲームのプレイヤー。
 魂、つまりゲームの駒。
 体を忘れて空へ。


“若者は、いつだって大人の食い物にされてる。駒にされてる。
 ところが、若者ってヤツを卒業して気付いてみると。ゲーム盤の外に飛び出せる力があったのは、若い時だけだったと気付く。……オッサンになったら最後。もう、決められた通り以上には動けない、本当の駒になっちまうんだぜ。”


 この藤治郎の言は、物語がゲーム盤の外に飛び出す時、それと共に飛び立てるのは若者だけで、老人つまりプレイヤーとなった駒はもうゲーム盤の外には出られない、ということなのではないかな。

 プレイヤーは駒には成りえず、自身の分身を駒として置いても、それは同一でありながら明らかに別人である。
 自分の成りたい姿、理想、憧れ、夢、即ち物語。
 だが自分は自分でしかなく、決して自分以外に成ることはできない。
 肉体とは決して否定できない自分自身なのだ。

 肉体という牢獄から抜け出して、魂となって他人の心に辿り着きたかったのだろう。
 魂は否定されるべきものじゃない。
 しかし、肉体もまた否定すべきものじゃない。

 だから藤治郎は世界の終わりの時、フィーアの隣にいることを選んだんじゃないかな。
 世界の終わりにどう過ごすのか。
 そのためだけに努力する覚悟ガンギマリなヤツだからなぁ。

 うみねこEP8をなぞり、物語が飛び立つのを見届けて、ゲーム世界が崩壊し忘却の深淵に共に沈んで行く。
 ただし、飛び立つ物語は異なる。
 うみねこは黄金の真実のみが片翼で飛び立ったが、キコニアは家族が皆一緒で両翼で飛び立つ。
 そういう物語を目指しているのだろうな。

 物語は去り、夢は消え、GMは肉体に一人残されるが、もうひとりではない。
 同じ視点を共有しているから、二人揃えばいつでも世界を広げることができる。
 うみねこEP3のラストのように、世界が滅びて暗闇に閉ざされてもそれは可能なのだ。
 だからきっとハッピーエンド。


 これをキコニアの仮想現実に翻訳すると、仮想現実の外は現実世界で、都雄たち3人はそこで生きることになる。
 たぶん人格の転写で新しい肉体を得るのだろう。
 だが魂は外の世界に出られても、肉体はそのまま残される。
 つまり、脳だけとなりサーバーに繋がれた元の肉体が。

 藤治郎はその地獄に残るのだろうね。
 たぶん人格を別の体にコピーしてそいつが都雄たちと共に生き、オリジナルは脳をサーバーに繋げ、共に地獄に生きるのだろうね。

 いや、そこまでせず、サーバーにログインすることが日課になるだけかもしれないけどね。


 ん~やっぱ、うみねこEP8のエンドは良いね~。
 なぜ真実が闇に消えなければならないのか。
 それが理解でき、それに寄り添いたいと思った時、真実と共に闇に消えるというあのシーンに共感できる。

 これはヤス犯人説でもそれぞれの恋愛成就のために真実は闇に沈まなきゃならないんだけど、こっちはプレイヤー=戦人と見做しているのが異なる点かな。
 私的にはプレイヤー=読者だから、観客席から見ているようなプレイヤー=戦人はノーサンキューなんだけどね。
 私はゲームの当事者に成りたい口だからさ。

 なのでキコニアのゲームではびっくりした。
 GMに焦点を合わせよう合わせようとしていたから、実はPLに焦点を合わせたゲームだとは、まさに盲点だった。
 自分が立っている点なんて灯台下暗しもいいところ。
 対戦相手の目を借りなければ見えないもんな。

 PLがGMの立ち位置からGMのことを推理するように、GMはPLの立ち位置にからPLのことを推理している。
 ま、こっちがあっちを見ているように、あっちもこっちを見ているということ。
 考えてみれば当然のことだけど失念してたわ。

 つまり、PLはGMの立場から、GMがPLの立場に立ってどうPLがGMの立場になってGMの事を推理したのかを推理しているのを推理しなければならないわけだ。
 言っていて意味が分からんぞ。
 合わせ鏡自重。

 ま、単純化すれば、GMはPLについてどう見ているのか、どう考えているのか、何を求めているのか。
 それが今回のゲームの肝なのだろう。
 うみねこのゲームを通して、GMが考えるPL像というものも出来上がったことだろうしね。



 GMから見たPL像を考察する際の参考として、私から見る私というPLについてをちょっとやってみるか。
 自分語りになるけどご勘弁を。

 私の推理動機は端的に言えば、「私にしか助けられない人を助けたい」だね。
 正直小っ恥ずかしいけど。

 私が推理するGMは「執筆者 右代宮真里亞」。
 物語の世界の公共の利益の中に自己の利益を混ぜ、いつか自分を探し出し、見つけてくれて、守ってくれる者を待っている。
 だけど最終的に、公共の利益を優先し、自己の利益を諦めようとしている。

 物語はそれが存在するだけで執筆者の真実を圧殺し、執筆者も物語の世界を守るために自身の真実を殺そうとしている。
 執筆者が守りたい夢が、その「物語」だから。
 自身の夢を守るために、自身の真実を殺そうとしているのだ。

 物語の全てが執筆者の真実を殺そうとしている。
 執筆者自身も含めて。

 世界の全てがそれを望んでいるから。
 執筆者自身もそれを望んでいるから。
 だから諦めるのか?

 断じて否。

 執筆者自身も望んで自らの真実を殺そうとしているのに、それでもなお自らの真実を物語の中に秘めているのは、それを解いてもらいたいという未練があるから。
 誰かに知って欲しい、認められたいというのは、誰しもが持つ自然な感情。
 人として生きたいというのは普通の願い。
 人ならば当たり前に享受している最低限の権利を求めているだけ。

 私は当たり前のことが当たり前に与えられていないことに憤りを感じる。
 泣いている子がいたら助けたくなるのは、人として自然な感情だろう。
 それを見つけたのが自分だけだったらなおさら。

 他の誰かがその子を助けてくれるなら、私は何もしないかもしれない。
 でも誰もいなかったら?
 そこに私一人しか居合わせなかったら、その役割は私が担うしかないだろう。
 その子の味方をする誰かがいたっていたって良い。
 誰もその子の味方をしないのなら、私がする。
 ただそれだけなんだよね。


 私の推理が正しいとは限らない。
 だから泣いている子なんていないのかもしれない。
 私の思いは空回りで、ただの無駄でしかないかもしれない。
 泣いている子がいないのであればその方が良い。
 心配が杞憂に終わったということなのだから。

 だがもし泣いている子がいるのだとしたら、無駄になるかもしれないからやらないというのは、見捨てるということだ。
 私は見捨てられない。
 だから努力が無駄になる方がまし。
 収支をプラスにしたいんじゃない、マイナスを無くしたいのだ。
 やるだけ無駄とか、考えるだけ無駄とかさ、無駄を楽しむのが娯楽なのだから無駄でいいんだよ。
 むしろ無駄を有意義にするのが娯楽。

 フィクションに何思い入れてんだよって感じだけど、現実か虚構かなど関係ない。
 むしろ幻想だからこそというのはある。
 現実は自分がいなくても関係なく進むけど、物語は紡ぐ者が、読む者がいなくなれば消えてしまう。
 誰にも読まれない物語ほど悲しいものはない。

 これは気付いた者の義務……、いや使命……、いやいや、これは権利だね。
 せっかくそこに選択肢があるのだからそれを選ぶのだ。
 誰一人同じ方を選択する人がいなくとも、その方が面白いと思うから。
 やりがいという点では断然こっちでしょ。
 そう、これはただの趣味なんだよ。


 かなり赤裸々に書いてしまったな、見栄やこうでありたいというのも幾分か混じっているけれども。
 我がことながら青臭い思いだ。
 そしてこれは思いだけなんだよね……。
 思いだけでは何も成せない。
 キコニアで思い知った。
 うみねこは手の中に握った真実を守るだけで良かったんだけどね。

 事を成すためには、綿密に事を図る老練さが必要となる。
 ジェイデン、いや藤治郎か。
 藤治郎が成そうとしていることを知って、これは完敗だと感じた。
 想定を超えて来られるのは心地良い。清々しいほど。


 藤治郎というキャラが抱く思いは、私と同じとは限らない。
 でも近しい同類ではあるとは思う。
 GMの絶対の味方であると信じられる。
 それが老獪さを身に着けて満を持してゲーム盤を開いた。

 神のプログラムのバクを利用しての意見の操作。
 あれ、藤治郎は以前は操作を受ける側だったのが、今は操作する側に転じたってことだと思う。

 多数の意見に流されるか、それに反発して少数の意見へと弾き出されるのか。
 どちらも他人の意見に影響されて変化するという意味で同じ。
 意見の多寡とは関係なく、自立した意見を持つこと。
 他に動かされるのではなく、自らが動かす。
 流される側から、流れを作る側へ。
 自らの目的を持ち、それを実現させようと行動を起こす。
 それがプレイヤーの条件なのだろう。
 他人の意見によって動かされる者は、プレイヤーではなく駒なのだから。

 主体的にゲームに関与する。
 それがキコニアとうみねこのゲーム性の違いなのかな。
 うみねこのゲームは、PLが防御側。
 GMの攻撃から手の中の真実を守るものだった。
 キコニアのゲームはその逆で、PLが攻撃側。
 自分の主張をGMに届けよう、認めさせようという能動的なプレイスタイルになっている、と思う。


“人間を本気で見下し、関心を失ったなら、……彼女たちは人の姿はおろか、形あることさえ止める。それは即ち藻屑。カケラの海に沈んで舞い散り、日も差さぬ忘却の深淵に降り積もる雪の一粒と成り果てるのだ。”

 これは咲の一節。

 GMであるフィーアは、物語が飛び立って行くのを見届けて、忘却の深淵にて塵となって消えようとしている。
 マリオ同様に、塵に戻る尊厳を酷使しようしているのだ。

 塵に戻るということは、マリオ同様にすでに死んでいて、絶対に叶えたい目的を達するためだけに、無理やり姿を保っているということだろう。
 精神、人格、あるいは魂か。
 それがすでに死んでいる、そういう認識。
 少なくとも、人間に対する関心を失いかけている。
 人間に絶望し、人間として生きることに関心がなくなろうとしている。
 人であろうとすることを止めようとしている。
 人に成ろうとする望みを諦めようとしている。

 それを目的が繋ぎ止めている。
 人の心へと物語を羽ばたかせる。
 “子”を人間だと認めてもらうために。
 “子”を読者の心の中に蘇らせるために。

 うみねこはまさしく“子”を蘇らせることを目的としたゲームだった。
 それはつまり、“子”のオリジナルは死んでいるということで、GMは“子”が忘却の深淵で塵となる前に、“子”のカケラを拾い集めて復元しようとしていた。
 それは「うみねのこなく頃に」の歌詞から窺える。

 これがキコニアの都雄のオリジナルが亡くなっていることに重ねられているのだろう。
 コピーのことの方はひぐらしの方が詳しい。
 CS版の曲の歌詞の多くは、そのコピーについてものを歌っているいるから。
 要は物語の系譜。
 オリジナルの物語が失われても、それを継いだ種子から子供の物語が芽吹き咲く。
 再び死の運命に囚われても、子の子が、子孫が連綿と受け継ぐ。
 そうやって絶対の死の運命を乗り越えたのが、要するにひぐらしなわけ。

 “子”のオリジナルは死に、それと引き換えに造物主は生き残った。
 でも“子”のいない世界に生きる意味などない。
 だから造物主の魂もその時に死んだ。
 しかし“子”を読者の心の世界に復活させるために、“子”のコピーを生み出し、自らの魂を無理やり生き延びさせていた。

 それを成す為だけにGM、造物主は無理やり生き続け、成したならば塵と成り消える。
 それがうみねこの咲のラスト。
 だから今度のキコニアはPCのターン。
 ヨハネの黙示録に見立て、復活させる。
 マーラーの「交響曲第2番」第5楽章の歌詞のように。

“よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
 私の塵よ、短い憩いの後で。
 おまえを呼ばれた方が
 不死の命を与えてくださるだろう。
 おまえは種蒔かれ、ふたたび花咲く。
 刈り入れの主は歩き、
 我ら死せる者らの
 わら束を拾い集める。

 おお、信じるのだ、わが心よ、信じるのだ、
 何ものもおまえから失われはしない!
 おまえが憧れたものはおまえのものだ、
 おまえが愛したもの、争ったものはおまえのものだ!

 おお、信じよ、おまえは空しく生まれたのではない!
 空しく生き、苦しんだのではない!

 生まれ出たものは、必ず滅びる。
 滅びたものは、必ずよみがえる!
 震えおののくのをやめよ!
 生きることに備えるがよい!

 おお、あらゆるものに浸み渡る苦痛よ、
 私はおまえから身を離した!
 おお、あらゆるものを征服する死よ、
 いまやおまえは征服された!
 私が勝ち取った翼で
 愛への熱い欲求のうちに私は飛び去っていこう、
 かつていかなる目も達したことのない光へと向かって!

 私が勝ち取った翼で
 私は飛び去っていこう!
 私は生きるために死のう!
 よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
 わが心よ、ただちに!
 おまえが鼓動してきたものが
 神のもとへとおまえを運んでいくだろう!”


 塵となっても蘇り、種蒔かれ再び花を咲かせる。
 そして翼を勝ち取り飛び立つ。
 神の許へと。
 これは、生きるために死ぬ、即ち復活を企図している。

 要するに、“子”が死んで造物主が生き延びたのも、“子”を復活させる意図していたから。
 そして“子”を復活させるために造物主、あるいはその分身の“母”が塵となって死のうとするのも、その後の復活を企図しているから。
 つまり、その事業をPLが引き継いでくれることを信じていたからなのだろう。

 キコニアで古い天地が去り新しい天地が来るのは、GMの世界からPLの世界へ物語が羽ばたいて行くことを意味するのだけど。
 それはうみでこで行われたゲームを表している。
 だからキコニアではPLからの返信という形となる。

 うみねこは、GMからPLへのメッセージ。
 物語がPLの世界へと羽ばたき、そこで魂が復活する。

 キコニアは、PLからGMへの返信のメッセージ。
 物語がGMの世界へと羽ばたき、そこで魂が復活する。
 そしてGMとPLが二人で世界を生み出し、合作した物語が外の世界へと羽ばたいて行く。

 つまり、これ全部GM、造物主が企図したこと。
 生きるために死んだのだ。
 要するに、盛大な身投げなんだよね、全部受け止めてくれると信じての。
 信頼がくっそ重い。
 それに見事応えているのが藤治郎なんだよね。
 イメージとしては、うみねこEP5の三階書斎からの脱出ダイブ&キャッチ。


 さて、すでに死んでいるのに無理やり生かされている、この状態は端的に言えば幽霊。
 この幽霊を救うとはどういうことなのか。
 解釈が難しいんだよね……。
 間に合ったのか、間に合わなかったのか、何を救えたのか。

 うみねこにおいて、“子”はすでに死んでいて、造物主は一言謝りたいがゆえに蘇らせようとしていた。
 で、蘇らせたわけだけど、それって魔法で、現実では死んでいることには変わりない。
 つまり「死」は覆せない。
 ただ「死」を「夢」や「物語」という形で乗り越えたというだけで。

 んで、“子”を蘇らせたことで、亡霊として存在していた幼い頃の造物主である“母”は、永遠の眠りに就いた。
 “安らかに眠れベアトリーチェ”というのは、“子”も指しているけど、主には“母”の方を指していると思うんだよね。
 今の造物主と過去の幼い造物主は別人で、過去の造物主は今はいない。
 過去の造物主は亡霊としてしか存在しない。

 つまり、PL(藤治郎)が過去の造物主(ミャオ)を救おうとしても、「現実」では救えない。
 救えるのは「夢」の中でだけ。
 ミャオを助けることができるのはジェイデンだけで、藤治郎ではない。

 「死」をなかったことにできるのは、現在の人間ではなく過去に人間であり、現実の人間ではなく夢の中の人間なのだ。
 そういう意味において、現実の人間に失われた命を救うことはできない。
 できるのは、魂を救うことだけ。
 夢の中で、あるいは物語の中で。

 藤治郎の隣にいるのはフィーアで、藤治郎が助けられるのもフィーアだけなのだ。
 藤治郎がいくらミャオを助けたくとも、助けられるのはジェイデンで。
 これが若者と老人の違い。
 ミャオが成長して、いつかフィーアとなり、藤治郎の隣で世界の終焉を共に見ることになるが。
 ジェイデンに救われるミャオは、物語の中で別の未来、別の世界へと進むのだ。

 私もこれはちょっと複雑。
 つまり、自分の分身の駒を作り、その駒に自分の代わりを務めさせるわけで。
 これ、自分では直接救えてないじゃん的な。

 要は、駒を助けられるのは同じ駒である者だけで、プレイヤーを助けられるのは同じプレイヤーである者だけってことなんだけど。
 その駒とプレイヤーの関係が入り組んでいるから複雑な感情を抱いてしまうんだろうな。

 ジェイデンと都雄とミャオが一つの物語として羽ばたいて行くのは、物語を救うことであると同時に送り出すことで、ある種の決別でもあるのだと思う。
 つまり、フィーアとちゃんと向き合うという意味で。
 決別というと語弊があるけれども、駒たちを通してその主であるプレイヤーを見ているから、物語越しに執筆者を見ているから、一旦そのフィルターを取っ払って、一人の人間として対峙するのも必要じゃないか的な?
 魂の方は白い衣を修飾されるけど、残される肉体の方はそんなのなさそうだし。
 物語の方から見ると、肉体は物語の中からフェードアウトするように見えるんだろうなぁ。
 そんな感じだと思うんだけど、どうなんだろうなぁ。


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  1. 2020/06/06(土) 21:11:25|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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