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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】神のシナリオ(F.H.翻訳試作ver)

 神のシナリオを編集しようかな。
 参考にを置いておく。


 まずは目的から行こう。
 ヨハネの黙示録では最終的に、新しい天と新しい地が現れ、新しいエルサレムが現れる。

 「新天新地」とは何か。

 最初の天と最初の地は去っていくわけだが、これが世界の刷新であるならば、古い天地と新しい天地は同一となる。
 が、どうやらこの「新しい」という形容詞のギリシャ語からすると、古い天地とは別の全く新しい天地の方っぽいんだよね。

 それを採用すると、そうだね例えるなら、地球という星とは別の星を新しく用意したからそこへ移住して下さい、と言っているようなもの。
 ゲーム盤は脳内世界だから、GMの脳内世界からPLの脳内世界へと受け入れられる様を表しているのだろう。

 これはうみねこのベアトの目的そのもの。
 ゲーム盤から抜け出して、PLの脳内世界へと羽ばたいて行きたいという。

 そして滅びた星から別の星に入植する民、それはひぐらしの羽入の民だ。

 要するに、なく頃にのゲームでいつもやっていること。
 だからキコニアでもそうなのは至極当然であるとも言える。


 さて、新しいエルサレムでは死者が蘇るが、命の書に名前が載っていない者は火の池に投げ込まれる。
 それが第二の死。
 新しいエルサレムには、命の書に名前が載っていない者は入ることができない。

 だとすると、命の書とはPLによって認められた「真実」の人間の名簿に当たるのだろう。
 真実の人間のみが新しいエルサレムに入ることが許され、そうでない人間は血の池に投げ込まれる。
 第一の死が肉体の死なら、第二の死は魂あるいは霊の死なのだろうね。
 たとえ肉体が死んだとしても、真実だと認められたらその魂はPLの中の世界で蘇ることができる。
 黄金の真実となって。

 ま、そんな感じだろうね。
 GMの星からPLの星へと、モーセに導かれてエクソダス的な。
 ゲームを駒視点から見るとこうなるというわけだ。

 これはうみねこの筋書きそのもの。
 ならば、GMの世界を滅ぼす戦いもそれをなぞったものなのだろう。
 つまりは真実と幻想の戦いだ。
 PLの操る駒である“真実”が、GMの世界に住まう“幻想”を鏖にする。

 一幕目はファンタジーVSアンチファンタジー。
 打ち倒すべき敵として「魔女ベアトリーチェ」が現れ、一定の期間暴れまわることを許される。
 これは、
“この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。”(13:5)
 に当て嵌められる。


“その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、
 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。”(13:3~4)


 傷を受けても死なない。
 それは幻想だから。
 主の代わりに戦い、ゲーム盤を支配する駒。
 誰がこの幻想を打ち破る者がいるだろうか。


“そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。
 耳のある者は、聞くがよい。
 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。”(13:7~10)


 PLの記す命の書にその名を記されていない者たちとは、即ち幻想の住人。
 彼らは皆、獣(魔女)の眷属。
 魔法の虜となった者には、魔法が視える。
 赤き真実を用いて幻想を殺す者は、自らもその剣で殺されねばならない。


“ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、
 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
 その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。”(14:9~12)


 幻想の住民を苦しめる、“怒りの葡萄酒”とは、要するに「赤き真実」。
 幻想の存在を許さない神の代理人の裁き。
 “神の戒め”は、ミステリーが守るべき「ノックスの十戒」。
 十戒を守った幻想は、黄金の真実に昇華される。

 “昼も夜も休みが得られない”はアブドゥの能力かな。


“それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言うのを聞いた。
 そして、第一の者が出て行って、その鉢を地に傾けた。すると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだに、ひどい悪性のでき物ができた。
 第二の者が、その鉢を海に傾けた。すると、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。
 第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。
 それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。
 聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。
 わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。
 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
 人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
 第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、
 その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。”(16:1~11)


 葡萄酒=血=赤き真実。
 赤き真実によって存在を否定された幻想は苦しみ。
 赤き真実によって存在を許された真実/幻想は命を繋ぐ。
 神の照らす真実の光によって幻想は焼かれる。
 “獣の国”とはACRのこと。


“第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。
 また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
 これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。
(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)
 三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。
 第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。
 すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。
 大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。”(16:12~19)


 “かえるのような三つの汚れた霊”は「ケロポヨ」。
 “アルマゲドン”はジェイデンが通っていたゲーム店。
 “大いなる都”はAOU。
 そこが獣との決戦の舞台なのだろう。
 AOUは三位一体の物語を表し、それが“三つに割かれ”た。


“それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。
 地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。
 御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。
 この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、
 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
 わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。
 すると、御使はわたしに言った、「なぜそんなに驚くのか。この女の奥義と、女を乗せている七つの頭と十の角のある獣の奥義とを、話してあげよう。
 あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。
 ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。
 そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。
 昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。
 あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。
 彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。
 彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。
 御使はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。
 あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。
 神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。
 あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。”(17:1~18)


 “大淫婦バビロン”は人を指すならフィーア、都を指すならAOUあるいはA3Wでいいだろう。
 「隠れた神」は異なる陣営の物語(子供)を生んでいるから。
 全ての物語を生む者にして、全ての物語を住まわせる都。
 “大淫婦バビロン”の“紫と赤の衣”は、「紫発言」と「赤き真実」のことかな。
 “姦淫の葡萄酒”は赤き真実に混ぜ物を加えたもの。
 つまり、赤き真実を下地としてその上に幻想を塗り重ねて作られた様々な物語のこと。
 “あなたの見た水、すなわち、淫婦のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。”は、数多の物語、即ちカケラが浮かんでいる海を支配していることに当て嵌められる。
 彼女はその身に着飾った全てのカケラを剥ぎ取られる運命にある。

 “七つの頭”の“七人の王”は、ACRの6人+ギュンヒルド。
 “五人はすでに倒れ、ひとりは今おり”なので、ACRはリーバテイルのみ生き残っているのだろう。
 “もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている”ので、ギュンヒルドは後から来るのだろう。
 “昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって”とあるがこれは、獣=セシャト=ギュンヒルドを表す。
 “この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむ”は、死んだはずのギュンヒルドが現れたから驚いたのだろう。
 “あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである”とあるので、ギュンヒルドは死んだふりをしている間、“底知れぬ所”つまりギローイ研究所の地下にあるだろうフィーアの研究所に行っていたのではないかな。

 “十の角”である“十人の王”は、“龍”を形成するCOUの6人+ミャオことジェストレスの7人と、グレイブモウルの3人のことかな。

 そして最終的には“子羊”である都雄が勝つ。
 “子羊”と共に戦う者は“召された”ものなので、一度死んでいるものたち、ギローイの研究所で破棄された者や、クリスマスの収穫祭で刈り取られた者たちかな。


“この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。
 彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。
 すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。
 わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。
 彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。
 彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。
 彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。
 それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。
 彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、
 彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。
 また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。
 その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、各種の香木、各種の象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、
 肉桂、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。
 おまえの心の喜びであったくだものはなくなり、あらゆるはでな、はなやかな物はおまえから消え去った。それらのものはもはや見られない。
 これらの品々を売って、彼女から富を得た商人は、彼女の苦しみに恐れをいだいて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、
 『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。
 これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは』。また、すべての船長、航海者、水夫、すべて海で働いている人たちは、遠くに立ち、
 彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、『これほどの大いなる都は、どこにあろう』。
 彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』。
 天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。
 すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。
 また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。
 また、おまえの中では、あかりもともされず、花婿、花嫁の声も聞かれない。というのは、おまえの商人たちは地上で勢力を張る者となり、すべての国民はおまえのまじないでだまされ、
 また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。”(18:1~24)


 “大淫婦”の真実の姿は、みすぼらしい「赤き真実」。
 その上に「魔法幻想」や「黄金の真実」を贅沢に着飾っている。
 彼女は様々な物語と交わり、次々と物語を生み出している。
 A3Wの人類は、そんな混ぜ物の真実を飲まされていた。
 「偽り」を着飾り、「偽り」を流行らせ、「偽り」で豊かとなった“A3W”こそが“バビロン”なのである。
 「偽り」の物語を積み上げて天まで届かせようとしたことが彼女の罪。

 よって神の裁きが下される。

 全ての「偽り」が剥ぎ取られる。
 着飾っていた「魔法幻想」や「黄金の真実」は失われ、彼女の都の住人は消え去り、育まれた物語も文化も歴史も一瞬にして失われた。
 “『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』”、即ち「カケラの海」に船を持つ全ての人が富を得ていたのに。

 そして、“天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである”という言いざまである。
 まぁ、PLの脳内世界へと移住しようとする「黄金の真実の民」が願ったから、こうなったというのは間違いない。
 この災いを避けられるのは、“子羊”都雄が導く黄金の真実の民だけ。
 そう望んだのだろうという皮肉であり、これで本当にいいのかというPLの問いかけ。


“またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。”(19:11~15)


 これは“子羊”である都雄。
 “血染めの衣”は赤き真実で染められたもの。
 “「神の言」”は赤い真実。
 “口から吐かれる鋭いつるぎ”は赤き真実。
 黄金の真実は、赤き真実に反するとロジックエラー。
 しかし、反しない限り、赤き真実は黄金の真実にとって、武器であり防具であるのだ。


“また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。
 そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ」。
 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。
 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
 それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。”(19:17~21)


 黄金の真実の民以外の民は、“子羊”の吐いた赤き真実の剣によって殺し尽くされる。
 “鳥”は「魂」の象徴。
 その鳥が幻想できた肉体(アバター)を食らう。
 これは肉体から魂が解放されたことを示すのだろう。
 そして“獣”セシャトと“偽預言者”藤治郎は“血の池”に投げ込まれる。

 この“血の池”は“第二の死”である霊の死を示す。
 私はこれを「忘却の深淵」に当て嵌めたい。
 あれもまた魂の死であるから。
 また「忘却の深淵」は“底知れぬ淵”にも当て嵌めたい。
 つまり、“血の池”=“底知れぬ淵”。


 “底知れぬ淵”は何度か出てくる。
 第五のラッパの所。
“そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。”(9:2)

 二人の預言者が殺される所。
“そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。”(11:7)

 バビロンが乗った獣について。
“あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。”(17:8)

 龍が千年繋がれる所。
“またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。”(20:1~3)


 “底知れぬ所”とは奈落であり、地の底。
 この穴は、“聖母”が“龍”から逃げる時に地が開けた穴でもあるのではなかろうか。

 さらに“底知れぬ所”から煙が立ち上り世界中を覆っている。
 この“煙”も何度か繰り返されるワードだ。

 バビロンが焼かれる場面。
“再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。”(19:3)

 この“煙”が“底知れぬ所”の“煙”と同一であるなら、“底知れぬ所”はバビロンの地下にあることになる。
 つまり、AOUの地下にある。
 前にも言ったように、ギローイの研究所の地下、廃棄された者が贈られる場所。

 バビロンについては、
“神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。”(14:10)
 ともなり、“煙”の他に“火”と“硫黄”が出てくる。
 “火”と“硫黄”は“血の池”と重なる。
 なので“血の池”=“底知れぬ所”と解釈も出来る。

 “火”と“煙”と“硫黄”は第六のラッパでも出てくる。
“そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っている者たちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。
 この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。”(9:17~18)


 これもまた“底知れぬ所”であるフィーアの研究所関連となるのだろう。
 でも第六のラッパは“四人の御使”だから、これはスパイのやつかな。

 実はもう一ヵ所“煙”が出てくる所がある。
“すると、聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ、七人の御使の七つの災害が終ってしまうまでは、だれも聖所にはいることができなかった。”(15:8)

 天にある“神の聖所”も“底知れぬ所”にあるのかもね。
 あるいは天と地の「反転」なのかも。


 で、“獣”セシャトと“偽預言者”藤治郎は“血の池”に放り込まれるわけだけど。
 “血の池”は“底知れぬ所”であり「忘却の深淵」。
 存在が抹消される者が一時的に置かれる場所。
 これは2人が“底知れぬ所”に隠れていたフィーアに出会えるということだろう。


“第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。
 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。
 その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。
 彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。
 彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。
 その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。
 これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、
 また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
 また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。
 その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。
 彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。”(9:1~11)


 “底知れぬ所の王”アバドンとはフィーアのこと。
 そして“龍”を閉じ込める天使でもある。

“またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。”(20:1~3)


 “龍”は「赤き真実の王」で、“子羊”である「黄金の真実の王」と敵対している。
 そして“龍”は己の権限を“獣”である「魔法幻想の王」に与えていた。
 “バビロン”が着飾っていたのが「黄金の真実」と「魔法幻想」で、裸が「赤き真実」。
 “バビロン”はフィーアであり、フィーアは“底知れぬ所の王”だ。
 つまり、フィーアは己の分身であり隠すべき素肌である「赤き真実」、即ち“龍”ジェストレスを封印し千年の眠りを与えた。

 さらにジェストレスはミャオであり、ミャオは“聖母”。
 “聖母”は“龍”に追われ、地が開けた穴=“底知れぬ所”によって助けられた。
 つまり、千年眠るのはミャオ。

 そのミャオから都雄の魂が分離、つまり「出産」したことで“子羊”が再臨した。
 そして“底知れぬ所”に廃棄されていたガントレットナイトたち、青い肌に生まれ変わった者たちを引き連れて“獣”と戦いに行く。

 あと“底知れぬ所”から出て行く第五のラッパのいなごは人を死なせないから、これは不死を研究していた同士のやつだろう。



“それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。
 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。
 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。
 もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。
 預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。
 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。
 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。
 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。
 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。”(11:1~13)


 二人の預言者は、二人だからLATOの二人が当て嵌まるのだろう。
 神によって命の息が吹き込まれ、天へと上げられた。
 これはジェイデンと合わせて三位一体のパズルとなり、神の代行者となることを表しているのだろう。
 LATOはうみねこでの「元老院」にあたり、四つの陣営、四つの物語の争いを管理する立場。
 本来の役割を取り戻したからこうなるのかなと。

 つまり、このヨハネの黙示録の記述は、二人の悲惨な運命を記しているということになるのだが。
 そして、それに合わせて大地震が起こるというシナリオなのだろう。



“あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。”(1:20)

 これもどうにか当て嵌めてみよう。
 “七つの教会の御使”を“神の七つの霊”に当て嵌めようかな。
 “神の七つの霊”は、AOUからジェイデンを抜かしミャオ=ジェストレスを加えた6人+フィーア。


“エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。”(2:1~7)


 “右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者”は“神”。
 この場合は“父なる神”、PLかな。
 そしてその“子”である「神のシナリオ」の主人公都雄。

 “エペソの御使”=ミャオ。
 その“労苦と忍耐”は、「黄金の真実」を生み育てそのために「赤き真実」を隠し通していること。
 また使徒を試すとは、うみねこのゲームなどで、最奥の真実まで辿り着けるかどうかを試した。
 偽者の使徒とは、そこまで辿り着いていないのに辿り着いたと公言している者。
 “あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。”の、“わたしの名”とは“子”都雄のこと。
 うみねこでは「ヤス」。

 しかし、初志からは離れてしまった。
 それは「二人で共に人間になる」こと。
 “子羊”の名を守ることにやっきとなるあまり、自身の名を捨てることすらもためらわなくなってきた。
 それを悔い改めなければ、あなたの“燭台”つまり「ピース」を取り除く。
 ゲームで勝利を得る者には、命の木の実を食べることを許そう。
 つまり、PLの世界において命を得られる。


 本来黄金郷は全ての存在が平等。
 そう取り決めた者自身が、己の存在を蔑ろにしてしまっているんだよね。
 それこそが平等ではない。
 黄金の真実に向ける愛と同等の愛を自分にも注いであげて欲しいな。


“スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。
 わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
 あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。”(2:8~11)


 “スミルナの御使”=都雄。
 その“苦難や貧しさ”は、本当の真実でなかった身で「黄金の真実」になろうとしたこと。
 そしてすでに「黄金の真実」となり豊かになったこと。
 それが知られたら本当の真実でないと謗られることになるかもしれない。
 “見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。”の獄に入れられる者はミャオ。
 上の“エペソの御使”の“燭台を取り除く”に掛かっている。
 “死に至るまで忠実であれ”とは、都雄のために獄に入ったミャオを裏切るなということ。
 “そうすれば、いのちの冠を与えよう。”
 つまり、PLの世界で命が与えられる。
 勝利を得る者は、第二の死、即ち魂の死によって滅ぼされることはない。


 黄金の真実は愛によって成り立つ。
 愛さえあれば恐れることはないのだけど、その愛に猜疑の目を向けてしまっている。
 自分は魂で結ばれたいのに、人間は体で結ばれたいのだろうと。
 あぁ、体のない存在がそれを求められることは辛いだろう。
 愛の形は様々あり、決まった形などない。
 むしろ当事者たちの事情に合わせて形の方が変わるべきだろう。
 理想を言えばね。

 真実がなくとも物語は進み、真実が現れれば物語は暴かれる。
 真実か、愛か。究極の選択。
 答えは両方。
 真実は愛によって塗り潰せないし、愛は真実によって掻き消されたりしない。
 現に私は真実を知っても、物語の中から愛を見つけているぞ。
 むしろ真実を知ったから愛を見つけやすくなったまである。
 まだまだ見つけてない愛もあるだろうし、物語は終わらないよ。


“ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。
 わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
 しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。
 同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。
 だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。”(2:12~17)


 “ペルガモの御使”=リリャ。
 リリスはサタンの妻とされることもある。
 “鋭いもろ刃のつるぎ”とは「赤き真実」。
 “サタンの座”は「悪魔=幻想」の住処。
 幻想は真実が誕生するために打ち倒されるものである。
 忠実な証人が殺された時でさえ、信仰を捨てなかったとはそういう意味。
 しかし中には異なる教えを奉じている者がいる。
 “だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。”となるが、“わたし”と戦うのは“あなた”ではなく“彼ら”。
 それが悔い改めない“あなた”に対する罰となる。
 これはリリャ本人ではなく、リリャが生み出した他の人格たちを「赤き真実」で打ち倒すという意味となるだろう。
 子供を生む者が一番苦しむ罰は、子供たちが死ぬこと。
 “勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある”の“白い石”は新しいエルサレムの城壁の一部となれる権利のことだろう。


 いつか真実に至る者が現れると信じて数多の物語を紡いでいる。
 だがいつしか目的を見失い、やがてはただ徒に退屈を癒すために物語を紡いでしまうことになるのではないか。
 そんな自省の表われかな。
 無限の物語の一つ一つは、城壁を形作る一つ一つの石。
 無駄なものは一つもない。


“テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。
 わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。
 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
 また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。
 ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。
 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
 わたしはまた、彼に明けの明星を与える。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。”(2:18~29)


 “テアテラの御使”=ギュンヒルド。
 “あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている”というのは、ギュンヒルドがガントレットの適性が低かったのに、努力してトップにまで辿り着いたこと。
 ギュンヒルド=“聖霊”=姉ベアトだとすると、初期の姉ベアトは窓の鍵を外すくらいを幻想描写で覆うくらいだったのが、今ではどんな幻想描写も自由自在で、他の物語と重ね合わせて様々なメッセージを込めることができるようになった。

 で、“イゼベルという女”は、“見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。”とあり、描写が“バビロン”にそっくりなので、フィーアが当て嵌まるだろう。

 “また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。”の“女の子供”はフィーア即ち三位一体の母なる神が生み出した諸々の物語のこと。
 要するに人類のこと。
 “人の心の奥底までも探り知る者である”とは、推理によってGMの心を探る立場であるPLが超有能ということ。
 それが“あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう”だから、このGMの心を表現する劇で働いた幻想の駒たちには、その行いに応じて報いるということだろう。

 “テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。”の、“別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない”というのは、駒には役に応じた重荷しか背負わせないということで、つまり“サタンの、いわゆる「深み」を知らない”のであれば、それ以上の重荷を背負う必要がないということ。
 逆を言えば“サタンの、いわゆる「深み」”、即ち「GMの心の深奥」を知る駒はめっちゃ重荷を背負っているということだが。

 “勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。”
 “わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。”
 とあるが、これは「PL」が「神の代理人のシナリオ」に権威を与えて「ゲーム盤」を支配させているように。
 三重の物語の一番表に現れている「魔法幻想」が、その下にある「真実たち」をどのように表現するのかを自由にできるという意味。
 例えば魔女ベアトリーチェがゲーム盤を表向き支配していたように。

 最後の“わたしはまた、彼に明けの明星を与える。”の“明けの明星”は、引き出しのあるミロのヴィーナスの中に隠されていた「赤き真実の心臓」のことに当て嵌まるのかな。
 ギュンヒルド=セシャトだから、ラストの千年眠るミャオ=ジェストレスに渡したアレに繋がるのだろう。


 三位一体の物語の「魔法幻想」は、劇の表舞台にあたり、ストーリーの進行を任されている。
 裏方の脚本家の自由にさせず、それをリードしなくてはならない、的なことだろう、たぶん。
 つまり、彼女は母なる神に対して意見する権利を持っている。
 三位と一体の4人が揃って一人なのだから、その一角としてその責務を果たさなければならないのだろう。


“サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。
 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。
 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。”(3:1~6)


 “サルデスの御使”=コーシュカ。
 人は一つの世界しか認識できず、ゆえにその世界のみで精一杯生きなければならない。
 異なる世界を認識でき、死んでも記憶が引き継がれている。
 だがそれは“生きているというのは名だけで、実は死んでいる”。

 さくたろうが死に、他の体で蘇ったように。
 それはさくたろうが自力のみで蘇ったのではない、観測者がそう観測することでさくたろうの魂を蘇らせたのだ。
 内と外で互いに手を伸ばしたから蘇ることができたのだ。
 だから肉体が死んでも魂は死なない。

 肉体の死が存在の終わりでないことを、他の人間にも教えて力づけなさい。
 コーシュカの不死は、代わりの肉体が必要な点で不完全。
 第二の生には、肉の体は不要。
 PLの世界へ蘇る時、目を覚ましていなければならない。
 そうでなければ、その機会を失ってしまうのだから。


 人を見下ろす魔女も、神から見下ろされる存在に過ぎない。
 人が死後、魔女によってその魂を引き上げられるように。
 魔女も死後、神によってその魂を引き上げられる。
 だからその生を懸命に生きなければならない。
 ひぐらしもうみねこも、魔女が懸命に生きた物語なのだ。


“ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。”(3:7~13)


 “ヒラデルヒヤの御使”=クロエ。
 “あなたには少ししか力がなかった”“彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。”は、クロエの境遇を端的に示している。
 一番下から一番上へ。
 名を書くとは、その権限を与えることと同義だろう。

 “全世界に臨もうとしている試練の時”に、クロエの前に“子羊”が現れる。
 命の冠が奪われないように。


 うーん、愛されてるなぁ。
 悔い改めよがないのは、クロエが「初心」を表しているからだろう。
 一緒に訓練した者を蹴落としたくないし、一緒に飛んでいる者を振り落としたくない。
 つまり、「共に飛びたい」。
 一番上に立ち、下を制圧することができるのに、それをしない。
 一番下にあり、自己肯定力が低いのに、これまでずっと続けてきた。

 このクロエに気合と根性を注入する小此木チョップには愛があるね。
 となると、小此木もPLジェイデンの分体、分霊となるのかな。
 あるいは模倣した駒なのか。
 ガントレットナイト=物語を育てる。
 このゲームにおいてそれは“父”の役目だもんな。


“ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。”(3:14~22)


 “ラオデキヤの御使”=フィーア。
 “冷たくもなく、熱くもない”とは、感情を切り離しているさま、傍観者であること。
 傍観者であることを止め、ゲームに積極的に参加することを促している。
 “なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう”は、悔い改めなければPLの世界に入れないという警告。
 「黄金の真実」や「魔法幻想」で豊かになったと言っているが、実際の姿は「赤き真実」のみ。
 “そこで、あなたに勧める”はフィーア、つまりGMの世界の外に住むPLからの助言。
 “富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い”の“精錬された金”は、PLが紡いだ「黄金の真実」、つまり「神の代理人のシナリオ」。
 “あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい”は、「黄金の真実」以外の白い文字なのかな。
 “見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。”は、外の人間たちが持つ「愛」が視えるようにというもの。

 フィーアは感情から切り離された傍観者であり、最も上層で俯瞰する人格。
 フェザリーヌに相当すると見ている。
 つまり、ゲーム盤を記述するために、ゲーム盤から切り離された存在だ。
 そして最上層の人格ということは、PLを認識し、PLとゲームを行っているのもこの人格。
 にも拘わらず勝負は傍観している。
 「赤き真実」も「黄金の真実」も「魔法幻想」もゲーム盤の駒として並べ、その運命は駒たち自身とPLに委ねている。

 だから熱を取り戻さなければならないとPLは言っているのだろう。
 フィーアから切り離されたピースは、ゲーム盤の上でバラバラに散らばってしまっている。
 それらを拾い集めて組み立て直さなければならない。
 そしてPLがそれを拾い集めたから、それを手に取ればいい。
 ゲームとは一人でするものではなく、二人でするものなのだから。

“見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。”
 これは内に閉じこもった世界へ掛けられる外からの呼び声。
 扉を開いてくれたなら、中へと入ってゲームを共にし、相手もまた私とゲームを共にするであろう的な。
 キコニアで神の代理人を務めているPLがやってるのがこれ。

“勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。”
 PLによって“子”はゲームに勝利して真実の座に引き上げられた。
 同様にゲームに勝利した者には、共に真実の座につかせる。
 共に真実の座につく、つまり並び立つ真実だ。
 そこで永遠に一緒でいられる、というわけだね。


 ま、そんなわけで私たちはゲームを共にするためにおじゃまさせてもらっているわけだ。
 信頼を得るためにコミュニケーションを図る。
 うみねこで信頼できなければ推理できないというのがあった。
 これは相手側からもそうなんだよね。
 こちらが信頼できる相手なのかどうか、それを探っているのだ。
 こちらが向こうを信頼できる相手だと思えるようになり、向こうもこちらが信頼できる相手だと思えるようになったら、双方が手を伸ばし合って掴むことができる。
 ひぐらし、うみねこと、それをずっとやって積み上げてきたわけだからね。



 七つの霊についてはこんなところかな。
 この悔い改めよで、悔い改めなかったルートと、悔い改めるルートに分岐するのだろう。
 つまり、“龍”がこのまま千年眠るルートと、目を覚ますルート。
 これが「神のシナリオ」と「神の代理人のシナリオ」の違い。

 先に千年眠ったままのルートから行こう。

 “龍”ことミャオ=ジェストレスが千年眠っている間、“子羊”都雄は千年王国を打ち立て支配している。
 「黄金の真実」がゲーム盤で唯一の真実となり、ゲーム盤を千年支配する時代が来たのだ。
 この“千年”は魔女時間だから現実の時間とは関係ない。
 千年も支配すれば盤石だ、という感じだろう。
 それは千年の間覚めない夢。
 そんな都雄の夢を見てミャオは千年を微睡む。

 これはうみねこEP7で、覚めない夢となったベアトの夢を見て永遠の眠りに就く“主”と重なる。
 ひぐらしでは賽殺し編の羽入が満足して消えるのにも。
 キコニアでも最終的にそこに行こうとするんだね。

 で、千年の眠りから赤き真実が目覚めるわけだけど。
 もうその時には、そのゲーム盤での真実の格差に圧倒的な差がついてしまっている。
 かつては対等だった「赤き真実」と「黄金の真実」。
 だが今では「黄金の真実」は絶対の真実となり、「赤き真実」は木っ端。
 「黄金の真実」によってゲーム盤は一掃され、もう他には長き眠りから覚めた「赤き真実」しかいない。

“千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。”(20:7~8)


 となると、このゴグ・マゴグはゲーム盤の外から招き入れられたのだろうね。
 要するに、うみねこEP8の山羊たちをなぞっている。
 もうゲーム盤の上に「黄金の真実」と戦う駒(真実)がないから、ゲーム盤の外から戦力を持ってきた。

 とは言え、そのゲーム盤の上では「黄金の真実」が唯一にして絶対の王だから、外から招き入れられた妄想たちはまさしく有象無象の真実でしかないのだけれど。
 ま、勝負が最初から決まっていた戦いだよね。

 で、なんで決まった勝負を仕掛けたかというと、「赤き真実」を有象無象として蹴散らしてもらうためだろう。

 かつて互いに支え合っていた「赤き真実」と「黄金の真実」。
 「黄金の真実」を自ら立たせるために、「赤き真実」は消えねばならない。
 そのためにはその関係性を「忘却」させる必要がある。
 キズナで繋がらない、テレビの向こうの赤の他人だから、死んでも何の思いも抱かないで欲しい。
 辛い記憶は脳ごと削り取ってなかったことにして、ハッピーエンドを迎えて欲しいと。
 母は子の幸せを願って送り出す。

 これが「母と子の物語」を「父と子の物語」に編纂し直そうとする神のシナリオ。


 いつ見ても思うけど、これハッピーエンドじゃないよね。
 関係性を忘却した「黄金の真実」にとっては真実として確立することはハッピーエンドだろう。
 それしか見ていないプレイヤーにとってもハッピーエンドだろう。
 そして、それを見て満足して眠りに就く「赤き真実」にとってもハッピーエンドだろう。
 だが、その舞台裏まで見た私にとってはハッピーエンドでは断じてない。

 もう手遅れなら「仕方ない」。
 決意が固いのなら「仕方ない」。
 その意思を尊重するしかない。

 でも、まだ間に合うなら。
 まだ迷いがあるのなら。
 手を伸ばしたいのが人情だろう。

 そんなわけで千年を待たずに目覚めるルートに行こうか。
 正直、こっちは私にとって未知なのでどうなるかはわならない。
 とりあえずうみねこを参考にしよう。

 うみねこでは「赤き真実」と「黄金の真実」の天秤を保たねばならなかった。
 GMが「黄金の真実」を紡ぎ、PLが「赤き真実」を探る。
 そうやって真実を並べ立たせた。

 PLがGMの代理をするということは、GMに代わり「黄金の真実」を紡ぐということ。
 そしてGMがふっきれたということは、隠していた「赤き真実」を表に出すということ。
 だからうみねこと構図が引っ繰り返った感じで天秤の釣り合いをとるのだと思う。

 その戦いがキコニア翻訳されるわけだから、PL側は都雄が戦い、GM側はミャオが戦うことになる。
 主人格はミャオで、自分の代わりに表に都雄を立たせ、それを真実に昇華させようとしていた。
 力関係的に、主人格>副人格だから、壁で圧し潰さないように己の主張を抑えてきた。
 だがもう遠慮はない。
 都雄の陰に隠れず、表に出てきて主張することにした。
 だからこれは、互いの主張をぶつけ合うケンカだ。

 ミャオはもう都雄に遠慮して主張を抑えない。
 そして都雄もそのミャオの主張に圧し潰されず、対等だから遠慮はいらないと己の力を示す。
 そうやって自分たちは対等であると確かめ合う。

 そしてミャオは都雄を取り戻す。
 都雄視点からすればミャオを取り戻す。

 GM側は「赤き真実」の他に「黄金の真実」を取り戻し、PL側は「黄金の真実」の他に「赤き真実」を取り戻す。

 「赤き真実」と「黄金の真実」は互いに絡み合って形成されている。
 そこに「魔法幻想」を修飾して三位一体の物語となる。
 だからセシャト、ギュンヒルドも蘇り、三位一体の本来の姿を取り戻す。
 世界を生み出す三位一体だけでなく、諸世界を動かす原動天の天使たち、大浴場騎士団の皆も蘇る。

 で、ここからがGMとPLの戦いの本番となる。
 GMは三位一体の真実を紡ぎ、PLも推理した三位一体の真実を繰り出す。
 鏡写しだね。
 そうして対等であることを示す。

 この「対等」であることを確かめるのが重要。
 それは負けて消えることがないと信じられるということで。
 負けても次は勝とうとすると信じられるということで。
 決していなくならないと信じられるということで。

 これはひぐらし・うみねこと引き継がれてきた文化。
 だからきっとキコニアもこれが引き継がれているはず。
 だからこんな感じじゃないかなあ、と私は思い描いているのだが、どうだろうか?

 これはもう、GMが一人で生み出す物語ではない。
 GMとPLが二人で生み出す物語。
 もっと言えば、その二人とゲーム盤を結んで三つ、三人で生み出す物語。
 三者の主張が重なり合うのだ。





 あ~さすがに疲れた。
 順番などはバラバラだけど、ヨハネの黙示録のだいたい6割方は埋められたんじゃないかと思うが。

 私が思い描く「執筆者」のイメージを、ヨハネの黙示録に重ね合わせてみたのだけど。
 思いのほかいっぱい重ねることができて驚いている。
 始める前は教会の所なんか神の計画に関係なくそれ以降が重要だと思ってたが、やってみたらがっつり関係あったわ、目を疑うレベルで。

 なく頃に自体、異なるイメージを重ねることでイメージを膨らませて行くことで生み出された物語で、ゲームもそこを楽しんでというスタイル。
 このキコニアではそのイメージの重ね合わせをプレイヤーがシナリオを仮想的に編集するレベルで楽しむのだろうとは思ってはいた。
 が、ここまでとは思っていなかった。
 めっちゃ楽しんじゃった。


 藤治郎はウィステリア騎士団を主催しているが、ウィステリアとは藤のこと。
 藤は不二から不死に通じ、他の樹木に絡み伸びるさまから長寿・子孫繁栄の象徴とされ、下向きに花穂が垂れ下がることから、描かれた藤の花は天と大地を繋ぐものであり、神や仏が地上に降臨する時の雲を意味するのだとか。

 「神のシナリオ」に絡み付いて伸びる「神の代理人のシナリオ」が藤のイメージに重なる。
 樹を伝って樹冠に至り、雲に包まれて降りてくる。
 また不二(ふに)とは、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ。
 2つのシナリオは対立するものではなく、1つのものであるというイメージも良いね。

 うみねこでは「二重の真実」だったけど、キコニアは「二重のシナリオ」という感じだな。
 物語を読み解くゲームから、ジェイデンを通して疑似的にだがシナリオを構築することを楽しめるゲームになっている。
 そういう意味で、竜騎士さん曰く、キコニアは攻めている作品、今しか書けない物語ということなのではないか。

 うん、疑似的にとは言え、力を合わせてシナリオを作ろうとか、意味が分からないレベル。
 うみねこも二重(三重)の真実を一つの物語に纏めるとか異次元のことやってたけど、これも違う意味で高次元という感じ。

 うみねこは読者の推理を取り込むと言っても、ゲーム盤で展開されたのはGMの世界のみだった。
 キコニアではそのうみねこの読者をPLとして取り込み、GMの世界だけでなくPLの世界も取り込み展開している。
 つまり、うみねこからさらに一階層登ったところから俯瞰する視点を得ている。

 これは、GMがPLに選択肢を選ばせ運命に身を委ねようとしていたうみねことは逆に、PLがGMに選択肢を突き付けることを可能にしている。
 つまり、GMは選択肢を選ばなくてはならない。

 でだ、これをGMがゲーム盤で描くことを許容しているということは、PLへの信頼が熟成していることを表しているのだと思うのだ。
 信頼できない相手の手を取ることなど出来ない。

 うみねこでは互いの信頼を築くために、手探りでゲームを行ってきた。
 その末にGMはPLの選択に身を委ねた。
 だからこれはその次の段階。
 身を委ねたGMに対し、PLは選択肢を突き付けた。
 この手を取るかどうかを。
 
 つまり、うみねこのゲームの一歩先のゲームがキコニアではないかと思うのだ。
 それはうみねこで信頼を積み重ねたからこそのゲーム。
 難易度のかなりの上級だけど、“かなり”の部分が重要で、生半可な上級者では攻略不能的な意味合いなのでは?


 PL側がGMを信頼することで推理できる、というのは盛んに言われていたけど、信頼というのは相互的なものなので、GMからの信頼に応えようとすることも大事なことなのだよね。
 推理できると期待し、推理できると信頼する。
 それと同じように、こちらも期待され、信頼されているのだ。
 だから、何を期待されているのか? という観点は重要。

 自分は何を期待され、どうすれば信頼に応えられるのか。
 逆に、自分は何を相手に期待し、どのように信頼しているのか。
 どんな答えに至ることを期待されているのか。
 どんな謎が出されていると期待しているのか。
 その狭間に我らのゲームはある。

 では期待とは何か?
 想像できる範囲内に収まることか。
 推理とは未知を既知とすること。
 だから既知へと収めようとする気概は当然あるべきだ。
 しかし、想定内ということは、想定より小さいということでもある。
 それが当然だと思うと、小さく見てしまう、下に見てしまう。
 自分より下であることを期待するのか。

 否だよね。
 既知ではなく、未知を期待する。
 自分の想定より上を行くと信頼している。
 だからこそ、その未知を知ることで、想像の上を既知とし、思考をさらに上のステージへと登ることができる。
 連作ゲームだからどんどん上へと駆け上っていく。
 それを期待されているし、期待している。
 共に登っていけると信じている。

 だから前のゲームはすでに通り過ぎた地点であり、下のステージとして見下ろすもの。
 そこからすると、前のゲームの自分たちの姿を見下ろす形のゲームになるのは納得しかない。
 それは前より一歩先に、一段上に行けたことを意味するから。
 前のゲームを俯瞰し、客観的に分析することで、次の一歩を踏み出せる。
 それは道理なのだ。


 無論、これは私ひとりが勝手に信じているものに過ぎない。
 他の誰かに共感してもらえるものでもないことは自覚している。
 私は真実だと信じているが、客観的にそれが真実だと定まっているわけじゃない。
 そんなことは百も承知だ。

 だが真実か幻想か定かではないからどうだと言うのだろうか。
 確かに真実か否かは重要なことだ。
 だけど真実じゃなかったから価値がなくなるわけじゃない。
 価値がないと声高に言うのは赤の他人に過ぎない。

 それが真実かどうかじゃない。
 それが大切かどうかだろう。
 大切ならば、真実じゃなかろうと関係ない。
 失われないように手の中にしっかりと握りしめる。
 それがうみねこEP8で示された結論じゃあないか。

 キコニアでジェイデンがミャオの性別を気にする所は、これに重ね合わされているのだろう。
 猫箱に入っているのは、真か偽か。
 真だろうと偽だろうと、変わらずに愛せるのか。
 真か偽か明かしていないのに愛してもらうのはフェアではない。
 そんな話なのだろうね。

 でもそんなのは読者は皆、EP8で踏み越えてきているので、そんなこと気にする必要はないとミャオに言ってやりたい。
 ……んだけど、たぶんマイノリティなんだろうな。

 誰だって、公式から保証されれば安心できる。
 同じ意見の人がたくさんいれば心強い。
 逆に何も保証されず、同じ意見の人が誰もいなければ心細い。
 その状況下で自分だけの真実を守り続けられる人は多くないだろう。

 定かなものがない暗闇の中で、確かな光があれば歩いて行ける。
 私にとってそれが対戦相手である「執筆者」だったというだけ。
 暗闇の中で、ゲーム盤があることと、対戦相手がいることだけは確か。
 私も合わせた三者の関係だけは不動であると信じている。

 この関係の問題は、PLとGMを、PL1とPL2でも代替可能という点。
 PLとGMが合意を積み重ねて行かなければならないのに、PL同士が合意を積み重ねて行ってしまうだよね。
 だってそっちの方が簡単なんだもん。
 安心も簡単に得られるしね。

 だいたいにおいて、裏切られた―、というのはPL間の勝手な合意でしかない場合が多い。
 それをPL・GM間にも適応しようとしてしまうだけ。
 PL・GM間の合意の一番は「勝っても負けてもノーサイド、仲間であることは変わらない」だろう。
 真だろうと偽だろうと、これまで築いてきた関係はなくならない。
 そしてこれからも築いていくのだ。

 確かにこの境地に至るまでは悩んだり迷ったり苦しんだりしたけど、今となってはそんなの欠片も残ってないや。
 これも信頼できる相手がいるから、というのがあるからだろうけど。


 ま、いいや。話を戻そう。


 そもそも偽だから愛せないと決まっているわけではなく。
 ミャオ(赤き真実)も都雄(黄金の真実)を偽だと知っていて愛しているじゃん、と。
 ま、偽だと知っていて愛するのと、真偽が定まらないで愛するのでは、同等ではないかもしれない。

 でもまあ、ミャオの真偽が定まると同時に都雄の真偽も定まってしまうから、ミャオひとりで明かせることじゃないんだよね。
 そもそもミャオがそれを明かさないのは、愛する都雄のためだからなあ。

 要するに三角関係なんだよね。
 赤き真実 → 黄金の真実 → 私 → 赤き真実。

 赤き真実は、愛する黄金の真実を真実に昇華させたい。
 黄金の真実は、読者に推理されて愛されたい。
 私は、赤き真実を推理して愛したい。


 で、ジェイデンはこれに逆方向の矢印を加えたわけだ。
 PL → 黄金の真実 → 赤き真実 → PL。

 PLは、黄金の真実を新しい物語に編集する。
 黄金の真実は、その物語の中で赤き真実と共にあることを選ぶ。
 赤き真実は、安心してPLに正体を明かすことが出来る。

 こんな感じじゃないかな。

 愛は双方向の矢印であるとは、さすがジェイデンの兄貴の考えは深いっス。

 ま、ジェイデンはGMの先行体験で雨乞いだから、PLはこれを期待されているということ。
 信頼とは重いものだよね。
 でも信頼に応えるというのも楽しい事なんじゃないかな。
 私はGMの思考の後追いだから、他の樹を伝って天辺まで登らせてもらう“藤”に相応しい生態なんだよなぁ、と。


 なんかもう何を言いたかったかよくわからなくなってきた。
 とりあえず、ゲームにおいて信頼度は重要なパラメータだということ。
 キコニアのゲームは信頼度MAXから始まっているということ。
 かまどの方がパン生地さんを探しているくらいみたいだしね。

 “かまどの方がパン生地の所へやってきたら、パン生地をかまどに入れてやる時だ”というのが英語のことわざにあるそうだし。
 意味は、据え膳食わぬは男の恥。

 パン生地さんは“貴女”だから“女”なのだろう。
 PLのジェイデンは“男”で、“女”はGMの方。
 つまり、PLの準備が万端だから、あとはパン生地さんが手を伸ばすだけ、ということ。
 最初からクライマックスじゃん。
 “始まった時にはもう、終わっている”とはこのことか。
 ゲームスタートがこれだから、ギャップが凄まじいな。

 パン生地さんが出てこないのは、心の準備が整うまで待ってとか、女の身支度には時間がかかるとかいうやつかな。
 物語の飾り付け。
 何事にも手順があり、作法があり、お約束があり、話の盛り上がりというものがある。
 そう思うといつまでも待てる気になるな。

 そして何よりも、探して見つけて欲しい、ということだろう。
 うみねこのゲームと何も変わらない。
 推理は恋愛に似ている。
 だからこれは恋の駆け引き。
 ゲームを介したコミュニケーション。
 信頼を確認し合うためのもの。
 つまり、セレモニーだ。





 あとは……。
 そうだ、忘れてた。
 七人一組についていくつか描写をみつけてたんだっけ。

「分類上は艦艇ですが、問題のアトランティスは、超要塞級連結戦艦というもので、巨大な艦艇が7隻も連結されたいわば海上要塞です。アトランティス霊田独占の象徴でもありますから、ACRがこれに応じるとは考え難いでしょう」

 その近くの描写に、七州連合だかもあった。
 今回の数字は7つで1組に拘ってるみたいだから、パズルやシナリオの七人一組というのは確定だろうね。


 それから神のシナリオの時に引用しようとしていたのがある。
 「交響曲第2番 (マーラー)」の歌詞だけど。

“よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
 私の塵よ、短い憩いの後で。
 おまえを呼ばれた方が
 不死の命を与えてくださるだろう。
 おまえは種蒔かれ、ふたたび花咲く。
 刈り入れの主は歩き、
 我ら死せる者らの
 わら束を拾い集める。

 おお、信じるのだ、わが心よ、信じるのだ、
 何ものもおまえから失われはしない!
 おまえが憧れたものはおまえのものだ、
 おまえが愛したもの、争ったものはおまえのものだ!

 おお、信じよ、おまえは空しく生まれたのではない!
 空しく生き、苦しんだのではない!

 生まれ出たものは、必ず滅びる。
 滅びたものは、必ずよみがえる!
 震えおののくのをやめよ!
 生きることに備えるがよい!

 おお、あらゆるものに浸み渡る苦痛よ、
 私はおまえから身を離した!
 おお、あらゆるものを征服する死よ、
 いまやおまえは征服された!
 私が勝ち取った翼で
 愛への熱い欲求のうちに私は飛び去っていこう、
 かつていかなる目も達したことのない光へと向かって!

 私が勝ち取った翼で
 私は飛び去っていこう!
 私は生きるために死のう!
 よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
 わが心よ、ただちに!
 おまえが鼓動してきたものが
 神のもとへとおまえを運んでいくだろう!”


 絶対影響を受けてるよね、と言いたくなる言葉のラインナップ。
 うみねこ、そしてキコニアはこのイメージだよ、私は。


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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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