FC2ブログ

うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】神の力は左腕に宿る/付け替えられる右腕

 さて、全人類に神の魂が宿っているのであれば、パラレルプロセッサーはさぞ神の寵愛深き者たちなのだろう。


 人は神の依り代。
 より神に似る者ほど、神の力をより宿すことができる。
 全ての人は神の魂を宿しており、神の魂は意識できぬ無意識に宿っている。
 人は皆、自身の魂と神の魂の二つの魂を持つ。
 つまり、人類は潜在的なパラレルプロセッサーなのだ。

 そして、全人類という数多のアバターに宿っている神は、世界最高のパラレルプロセッサー。
 その神の魂、神の力がより表れた人間がパラレルプロセッサー。
 神の寵愛深き者たち。

 神は自身の物語を引き継がせたい。
 ならば、自身に似た子は可愛いことだろう。
 そしてその子たちは、神の何らかの要素を色濃く受け継いでいる。
 そしてその要素はガントレットナイトの力として現れている。

 ガントレットはまるでパラレルプロセッサーに誂えたかのような兵器だ。
 ま、実際そうなのだろうが。

 神は最高のパラレルプロセッサーだ。
 そしてA3Wのパラレルプロセッサーたちはその神の模倣である。
 つまり、神は最初のパラレルプロセッサーであり、その分野を切り拓き確立させた第一人者だ。
 そして、仮想現実A3Wを切り拓いた第一人者であり、もっともその法則に詳しい。
 さらに、A3Wの裏の法則、仮想現実改変もまた神の叡智だ。

 ならばガントレットは、その神が力を振るうために作られた叡智であることだろう。
 人類が持つガントレット技術は神の模倣。

 つまりガントレットナイトは、神の模倣なのではないだろうか。
 ならば、ガントレットナイトが振るう力は、神が与えたものだ。


 神の寵愛、それは物語の主人公たちに向けられる。
 若く可能性に溢れた者たち。
 故に、活躍の場が用意され、試練を与えられる。

 だからキコニアでは若者の手にそんな力が与えられたのだ。
 世界を決する力を若者が手にする?
 与えたい何者かがいなければ、そんな状況になんてなるはずがない。
 作為を疑わずにはいられないな。

 舞台が用意され、その上に役者が上げられたのなら、脚本家の存在と観劇者の存在を疑った方が良い。


 ガントレットは神の力の模倣。
 神の寵愛の証。
 借り物の翼。
 つまり、神は左腕に宿るのだ。
 神がそこにある限り、神の加護があり続けるだろう。





 神が左腕に宿るなら、神の子は右腕となる。

 右腕の話と言えば、都雄が自身の右腕を切り落としロケットパンチに付け替えてやると騒ぐ話。
 あれは何度か繰り返された。
 繰り返されたということは、重要な話であるということ。

 「右腕」は神の子である都雄自身を示している。
 その「右腕」を切り落とし付け替えるのは、都雄の死と復活を暗示しているのだろう。
 それは都雄の右半身が綺麗に削り取られた死体と、ヨハネの黙示録の聖母の産みの苦しみやキリストの再臨で予告されている。
 生身の腕をロケットパンチにという話は、生身のアバターから機械のアバターに乗り換えること。
 つまり、あの青い都雄の姿になることを示しているのだろう。

 都雄に限らずなく頃にの神の子は、死の運命が約束されている。
 それは神がその死の運命に半ば諦め、神の子の死の運命を許容し、再び生み直せば良いと考えているからだ。
 だが神の子は決して諦めない。
 ひぐらしで梨花が示したように。

 同様に、都雄が腕を替える動機は、負けたから次に勝つためにだ。
 約束された死の運命に敗北しても、決して諦めず勝つことを考える。
 何度破れても不死鳥の如く蘇り、何度でも成長する。
 そして最後には必ず勝つ。

 そんな圭一の物語を見て、梨花がそれを学んだように。
 そんな梨花の物語を見て、羽入がそれを学んだように。
 そんな戦人の姿を見て、ベアトがそれを期待したように。

 神はそんな物語を愛しているのだ。
 そんな主人公に期待しているのだ。
 そこから学び、その力を得たいと願っているのだ。


 主人公は作者という神に愛され、神にバックアップされて舞台の上で輝くことが出来る。
 前線で戦うのは駒たちで、その後方で前線を支えるのが主である神。
 神より力を与えられることで、駒たちは戦うことができる。

 神が表に立てばその構図は逆転する。
 前線で戦うのは神で、その後方で前線を支えるのは駒たち。
 駒たちから力を得ることで、神は戦うことができるのだ。

 自分の人生という舞台の真の主人公は自分自身。
 だが自分一人で輝くことはできない。
 その陰で主人公を輝かせようと働く裏方がいることを忘れてはならない。
 たった一人では戦い続けることなどできはしないのだから。


 支え合わなくては人は生きていけない。
 支えてくれた人の顔や名前を思い出そう。
 忘れたことが罪なのではない、思い出せないことが罪なのだ。

“合わせ鏡に映る姿に顔が無いと、顔が無いと、泣いたら”

 これはひぐらしのコンシューマ版のOP曲「嘆きノ森」の歌詞の一部だけど、ひぐらしの時からこのテーマが織り込まれているのがわかる。
 うみねこでその合わせ鏡を突き付けられたのは、造物主にして執筆者である神だったけど、キコニアでは神の子の方に合わせ鏡が突き付けられるのだろうね。
 誰か忘れてねーかって。
 ま、それは神自身が自身の存在を消そうとしているからなんだけど、だからこそ神の存在を思い出す必要がある。


 神を敬う心を忘れてはならない。
 目に見えないからといないことにはならない。
 神は万物に宿る。
 つまり、神はどこにでもいて、そこにだっているのだ。
 神への敬いを忘れた時、神は祟るのだ。

 ひぐらしでの話だが、うみねこでも追加TIPS「魔法についての重要事項」で同様な話がされている。
 神によって生まれた世界の住人は、神の存在を忘れてはならない。
 人々が平和に暮らせるのは、神がそうしてくれているから。
 神がそれを止めたら世界は地獄となる。
 ま、当然の話だよね。

 ひぐらしは最終的に人間の仕業ということで決着したわけだけど。
 あえて別の解釈をすれば、オヤシロ様という神、即ち執筆者の機嫌を損ねたために祟りにあったと見做せる。
 執筆者の気分がネガティブになったから、物語もネガティブなものになる。
 ネガティブな気分では、ポジティブな物語など作れない。
 祟殺し編で、大石を敵に回すとどこで不利益を被るかわからない、みたいなのあったねよ。
 ま、つまりそういうこと。
 執筆者の機嫌を損ねたら、どこで不利益を被るかわからない。
 だって、キャラをどういう目に遭わせるかは、執筆者の匙加減一つなのだから。
 そう言えば、うみねこでは魔女を敬わない人間が大勢いたよね。
 それを傍で聞いていた神様魔女様はどれほど気分を損ねたのだろうな。


 「魔法についての重要事項」でも雨乞いの話がされている。
 今となってはホント分かりやすい。
“干ばつに苦しむ人々が、天に雨を懇願し、それが届いて雨が降る。”
 これは物語の中のキャラである魔女が、物語を執筆している神に願って、幻想描写を書いてもらうという魔法。
 叙述トリックというのは、執筆者が書かなくては成立しない。
 執筆者が何かの拍子に“魔法”を描写してくれなくなれば、“魔法”は成り立たないのだ。

 だとすると、ベアトが魔法を証明したかったのは、神を証明するためだったと言い換えることも可能だよね。
 本当ベアトは主想いの健気な駒だな。


 これをさらに反対側に引っ繰り返す。
 駒たちのいるゲーム盤世界から、主のいる現実世界へ。
 その世界では、人として生きているのは主である神だ。
 そして、目に見えない存在とは駒たちのことだ。

 ああ、どれだけそれらの存在を敬い、日々大切にしていたことだろう。
 雛見沢のルールにそれは明確に表れている。

 外の人間は反毒素に満ちていて、その存在を否定してくる。
 だから決して外に出てはいけないよ。

 元はそういうのだよね。
 外に出て誰かにその存在を認めてもらいたい、でもその存在を否定さて踏み躙られたら悲しい。
 否定されたら生きていけないのが幻想の住人だから。
 そうやって彼らをずっと守っていた。

 駒とは主にとって大切に大切に扱ってきた人形ようなもの。
 それは真里亞にとってのさくたろうの存在のようなもので。
 その人形は喋れない主の代わりに主の言葉を語る。
 外の人間と直接語ることは怖くてできないから、人形の口を借りて喋るのだ。
 つまり、その人形は神の魂を降ろし代弁する巫女。

 主が言えないことを代わりに言ってくれる。
 紗音の代わりに怒ってくれる嘉音のように。
 心を察し、慰めてくれて、励ましてくれて、代わりに怒ってくれる掛け替えのない親友。

 駒たちが代わりに怒ってくれる。
 だから心が平穏に保てる。
 だが、その怒りが閾値を超えれば、駒たちは怒りに染まり騒乱となる。
 それは主の怒りに同調してしまうから。
 その騒乱を収められるのは主のみ。
 これがオヤシロ様が調停の神である所以。

 主、機嫌を損ねる → 駒が代わりに怒る → ゲーム盤上で惨劇が起こる → その悲劇を見て主冷静になる → 主、駒たちを調停する。

 きっとこんな感じ。
 主である神の心に平穏を取り戻させるためのルーチン。
 そうして現実で主が行動に起こさせないようにしている。
 つまり、主がケダモノに堕ちないのは、駒たちの献身のお陰。

 キコニアでの、年寄りたちが若い子が大好きで、特に若い子の犠牲が大々々好きで、それを見て正気に戻るという話は、ここから来てるんだろうね。

 主は自身の感情を切り離して駒に担わせている。
 そうすることで表面上は冷静になれる。
 主のみを見れば超然としたものに見えるだろう。
 しかし、ゲーム盤を見ればめっちゃ感情的だとわかる。
 例えるなら、人形を持った子が無口で無表情でも、その手にある人形が主の代わりに感情を露わにするように。
 何も言わないから、何も表情に表さないから、何も考えていないんじゃない。
 他人とは表現の仕方が違うだけ。
 むしろ意思疎通が困難だった分、言いたいことはいっぱい溜まってるし、表現したいことだってたくさんあることだろう。

 要するに、舞台の上の駒たちは、主の心を観客に伝えるために頑張ってるってわけ。
 凄く健気だよな。


 普通だったら作者と創作物は切り離されたものとなる。
 普通なら作品の中に作者は登場しない。
 だがなく頃にでは“神”として世界観に含まれている。
 それは“神”が自身のために“物語”を作ったためだ。

 例えば、真里亞がさくたろうなどのぬいぐるみたちに囲まれて、ベッドの上でパジャマパーティーを楽しんでいるようなもの。
 ぬいぐるみたちの輪の中に、主である真里亞も加わることで、その世界観は完成する。
 つまり、執筆者とその物語は不可分なのだ。

 普通の物語なら、“読者”と“物語”の二者間で成り立つ。
 だがなく頃には本来、“執筆者”と〝物語”の二者間で成り立っていたもので、〝読者”は後からそこに招かれたに過ぎない。
 “読者”、“物語”、“執筆者”の三点を結んだ関係。
 つまり、それがゲームなわけだ。



 神は人類を搾取し、人類は神を搾取する。
 それは一方的な関係だから搾取となってるだけで。
 人類は神より力を授かり、神は人類より力を貰う。
 そうやって双方が与え合えば、力は循環する。
 それがこの世界の正しい姿だと私は信じる。

 人はさ、物語から何かを学んだり、力を得たりできるんだよ。
 物語というのは、そういう素晴らしいものなのだ。


 そしてその輪に読者が加わる。

 執筆者は物語に学び、その学びを物語に反映させる。
 読者はその物語から何かを考え何かを学ぶ。
 その学びをネットで発表すれば、そこから執筆者は何かを得て次の物語に反映させる。

 そんな感じで読者もその循環に加わるのだと思う。
 輪に入るとはそういうこと。
 閉じた世界に吹き込む新しい風となるのだ。


 閉じた世界に新しい風を呼び込むのが「ひぐらし」。
 閉じた世界から外の世界へ飛び立つのが「うみねこ」。
 「キコニア」ではどんな感じになるのだろうね?


スポンサーサイト



  1. 2020/04/18(土) 20:01:10|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0
<<【ひぐらし】神姦し編を考察 | BLOG TOP | 【キコニア】駒たちの雨乞いと神々による天災>>

comment


  管理者にだけ表示を許可する
 

trackback

プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

現在時刻

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

咲 (3)

来訪者数

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR

Designed by U-BOX