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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】駒たちの雨乞いと神々による天災

 物語の話は十分したと思うので、今回はゲームの話をしよう。

 ゲームを行うにはまずゲームの席へ着席しなくてはならない。
 これは作中で雨乞いと天災の話でされていた。
 そこから話を始めたいと思う。


 天災を模倣することで、本物の天災を呼ぶ。
 これは呪術的考えだ。
 玩具の天災を依り代に、本物の天災を降ろそうという。

 そしてそれは雨乞いでもある。
 天にいる何者かにメッセージを送り、本物の天災を要請している。

 つまり、ゲーム盤にいる駒が、ゲーム盤の外にいるプレイヤーに対するメッセージだ。
 そのメッセージを受け取ったプレイヤーが、ゲームの席に座ることになる。
 そして、それに対する応手を指す。

 これは駒とプレイヤーの二者間で行われているのだろうか。
 そんなはずはない、正しくはこうだ。

 GMの意思 → 駒の行動 → PLの応手。

 GMが駒を使ってPLにメッセージを送ったのだ。
 実に迂遠だね。
 これは上位存在が、ゲーム盤上しか見えてないからだろう。
 要するにGMとPLは、互いの姿が見えない暗闇の中でゲームを行っているのだ。


 さて、私はゲーム盤であるA3Wを仮想世界だと考えている。
 仮想とはつまり、幻想だ。
 幻想を全て取っ払えば、真実だけが残る。
 仮想が排除された真っ白な部屋に残るのは真実の人間。
 つまり、GMとPLの二人。

 その二人が互いの姿が見えない暗闇でゲームをしている。
 GMがこのゲームを開催したというならば。
 これはPLが姿を隠したGMの真実の姿を探るゲームだと言える。
 これがゲームの核心。

 仮想世界とは現実世界を模倣したものだ。
 模倣することで仮想世界と現実世界は繋がりを持つことになる。
 つまり、仮想世界を探ることで、現実のGMの真実を見つけることができる。
 逆を言えば、それができるようにGMは現実と仮想世界を繋がりを作っている。
 うみねこでのPL側から見たノックスと、GM側から見たノックスみないなもの。
 要は、GMは解けるようにゲームを、仮想世界を作っているということ。


 模倣された世界で、駒たちが天災を模倣する。
 ならば本物の天災とは、PLとGMの間で勃発する戦いのことではないだろうか。

 駒同士の戦いは、所詮駒ができる範囲のもの。
 上層でのPL・GM間の戦いで起こるのはその比ではない。
 まずGMは、真実を解釈することで仮想世界を創造する。
 その仮想世界の出来事からメッセージを受け取ったPLが、仮想世界を再解釈して真実を推測する。
 それはつまり、世界の分解と再構築だ。

 上位存在による世界の創造、破壊、そして再創造。
 これに駒たちは巻き込まれることになる。
 これこそがまさしく本物の天災だろう。
 この世界の創造と破壊は、うみねこEP8でベルンとラムダの戦いで表現されている。

 その上位存在たちによる戦いが、下層である仮想世界に反映する。
 そういう構造。





 ここまでは物語の中でのこと。
 さらに物語の外でこそ本当のゲームが行われている。

 仮想という幻想を取り除いた真っ白な部屋にいる二人は、下層のゲームプレイヤー。
 物語の中にいるゲームプレイヤーたちだ。

 物語の外では、物語をゲーム盤に見立てた、読者と執筆者によるゲームが行われている。
 物語の中のゲームプレイヤーは、要するに物語の外にいる本物のゲームプレイヤーたちを模した駒なのだ。

 つまり、
 駒たちの戦い → 作中プレイヤーたちの戦い → 作外プレイヤーたちの戦い。
 という三段階、三階層になっている。

 で、作中に込められたメッセージ、つまり雨乞いに応えてゲームの席に座った読者がPLとなり、GMである執筆者と共に、物語の分解と再構築、世界の創造と破壊を楽しむというわけ。


 だとすると、キコニアのHPのストーリーのところで書かれていた、ゲームを楽しんでいるだろう“私たち”は、このゲームの席に座った読者も含まれている可能性がある。
 だって、世界の分解と再構築で遊ぶんだよ。
 絶対楽しい。
 駒たちをゲーム盤から一掃して、再び並べ直して、また一掃して、とそんな感じで遊ぶわけだから。
 積み木を積み上げて、崩して、積み上げては崩す。
 どう考えても楽しい。

 逆を言えば、メッセージを受け取れず席に就けなかった読者はプレイヤーにはなれないということ。

 さらに言えば、神が見であるプレイヤーたちが世界を破壊、再創造を行うわけだが、それはその世界に住まう駒たちからの要請であることに留意しなくてはならない。
 駒に意思を認めるなら、駒の意思を尊重しなければならない。
 何故彼らは世界の破壊と再創造を願うのか?
 これがゲームの重要なポイントだろうね。


 まぁ、私の結論は決まっている。
 これまで通り、何も変わらない。

 仮想世界を破壊すれば、残るは真実の人間二人。
 そして再創造。
 もう一人の人間を生み出す。
 幻想の系譜を受け継いだ人間を。
 これで三人。
 それが残せる人類の数。

 どこかのインタビューで竜騎士さんが言っていたが、自分と相手と物語、その三点が揃うことでゲームになるとか。それを三人の関係だとすると、物語が三人目となる。
 つまり、関係を形成しそれを保てるなら、三人目はいるのだ。
 これはTRPGでGMとPL達が皆で物語を作り、主人公などのキャラを育てていくようなもの。
 竜騎士さんも読者がキャラを育ててくれるところもある的なことを言っていた気がする。



 そんなわけで、プレイヤーの席に着いた読者は、対戦相手と共に駒を使った神々の遊びを愉しみ。
 その席に着けなかった読者は、駒の視点に自己投影し、その駒ごとゲーム盤が一掃される天災を味わう。
 そんな感じに振り分けられるんじゃないかな。





 思えばミステリーという物語は、死と再生の物語に当て嵌まる。
 探偵の推理は、旧世界を支配していた常識を破壊し、新しい論理によって秩序が打ち建てられた新世界を齎す。
 旧世界の王は犯人であり、探偵はその犯人を倒して新世界の王となる。
 まさしく王道の王殺しの物語。

 だが「なく頃に」には、全てを解決してくれる探偵は現れない。
 ヒーローが現れない物語。
 それは新世界がやってこないということ。
 だから誰かがヒーローの役を、探偵の役を果たさなければならない。

 結論を言おう。
 それは読者に求められている。

 読者が探偵となって事件を解決するゲーム。
 それが「なく頃に」。
 読者がゲーム盤に降臨し、世界を支配する謎を打ち倒し、推理によって新しい秩序を打ち立てる。
 物語を分解し、再構築する。
 読者視点で物語を編纂し直す。
 そうして、読者による物語を生み出す。
 そういうゲームだ。

 しかし、それは駒たちからの要請であることに留意しなければならない。
 民の要請で新しい王は立ち。
 人類の要請で神は現れる。
 世界の神たらんとするなら、駒たちの要請にしっかり応えなければならないのだ。
 できなければ失政で、次の王に討たれる運命が約束される。


 この駒からの要請は、ひぐらしから連綿と続いている。

“これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。”

 ひぐらしの鬼隠し編では圭一が、うみねこのEP1では執筆者右代宮真里亞が、そしてキコニアでは藤治郎が雨乞いの喩えで。
 その要請を受け取った者だけがプレイヤーだ。


 PLはGMと協力して新しい世界を作る。
 形式としては、PLがGMからバトンを渡されてという感じ。
 ちゃんとバトンを受け取るためには、意思疎通を図り信頼関係を深めなくてはならない。
 そのためのコミュニケーション手段がゲームであり、駒たちを介してやりとりするわけだ。

 GMの意思 → 駒の行動 → PLの応手。

 こういう順番に伝わるわけだから、GMの意図を探るにはそれを遡る必要がある。

 駒の行動 → GMの意思。

 こんな感じでね。


 駒の行動から駒の意思を探るのは正しい。
 それがゲーム盤を探るということに繋がるわけだから。
 だが同時に、PLはその駒の行動よりGMの意思を探る必要もあるということ。

 つまり、駒の行動という一つの結果には、駒の意思とGMの意思という過程が二つ重なり合っている。

 駒の体に駒の魂の他にGMの魂も宿っているということ。
 神の魂は遍在し、森羅万象の全てに宿る。
 それはつまり全ての人類にも宿っているということ。
 曰く、八百万の神々、8MS。
 その“設定”は要するにこれの暗示だったのだろう。


 GMの魂が駒に宿っているからと言って、それは駒の意思を無視した行動をとらせることができるということじゃない。
 それはうみねこでも言及されていたし。
 駒の人格は尊重されている。

 駒にとって自身に宿ったGMの魂は、自身の無意識みたいなもの。
 駒自身の人格は、駒にとっての意識。
 GMの魂は奥深くに宿り、その意思は駒の人格フィルタを通して、外に表れる。
 駒が知りえないことを知りえることにはできないし、駒ができないことをさせることはできない。
 情報の伝達は、GM → 駒の人格フィルタ → PL。
 つまり、情報は駒の人格によって濾過される。
 その濾過された情報から、濾過される前の情報を推測するのがPLの仕事。

 喩えるなら。
 GMは脚本家で、駒は役者。
 役者は脚本に従って演じるのだけど、どう演じるかは役者が決めれる。
 そんな感じ。

 どちらにせよ、駒の意思に反することはできない。
 逆にGMは、駒の意思に沿うことで情報を落としている。

 GMは駒の意思に寄り添っているわけだ。
 逆から見れば、駒はGMの意思に寄り添っている、となる。
 互いに寄り添い合っているGMと駒の姿は尊いじゃないか。


 でもって、神は神羅万象に宿るので。
 GM → A3W → PL、という感じで伝達しているのもあるだろう。
 世界情勢やら、地球環境やら、それらに対する人類の仕打ちやら、思想やらなんかだね。
 地球から霊素を採掘してるのとか、人類が神を搾取しているのだろうしね。


 さらにもう一つ上層では。
 執筆者 → キコニア → 読者。
 我々読者は、キコニアというフィルタごしに執筆者と相対している。
 だから我々読者は執筆者の正体とその心を、キコニアという物語を通して探る必要がある。
 そんな形のゲームだと私に認識している。

 ちなみに私は、竜騎士さん=執筆者とまでは考えていない。
 間に竜騎士さんの代わりに作中で物語を紡いでいるキャラを置けば、そのキャラを推理するという形になるし。
 人によっては、一種のフィルタ、あるいは緩衝材、またはデコイなどと認識するかもしれんね。
 私はちゃんと人格を持った人間として見てるけど。
 そんな感じ。

 で、執筆者にあたる立場のキャラとして、うみねこで八城が登場しているわけで。
 なく頃にの現実ラインはそのあたりだろうなと考えているわけだ。





 ま、色々とごちゃごちゃ書いたが、単純化してしまおう。

 主であるGMが頭脳なら、駒たちは手足だ。
 その手足の身振り手振りによるジェスチャーから、GMのメッセージを受け取ればいい。
 そんだけ。

 雨乞いは空の向こうにいるはずの存在と交信しようとする試みなのだから。


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  1. 2020/04/12(日) 20:59:23|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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