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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】王の交代劇の歴史と継承される文化

 王殺しによる王の交代劇。
 それが行われるのは、王の治世の末期。
 王の力が衰えた時。

 太古の時代、王は世界の支配者で、王の力が偉大であれば世界は平穏で繁栄する。
 王の力が衰えれば、世界では争いが絶えず、災害が起こり、困窮する。
 そうなると民は活力のある新しい王を望むようになる。
 その声に応え、世界の悪弊を刷新するために新しい王は現れるのだ。

 王とは太陽。
 力の衰えた冬の太陽は死に、活力ある太陽として蘇らせる。
 それが王殺しの儀式であり、復活祭。


 太陽英雄で有名なのはヘラクレス。
 名の意味は「ヘラの栄光」。
 ギリシャ神話では、彼はヘラと敵対しているが、本来はヘラに従属する英雄であったという。
 彼が乗り越えた十二の試練は、太陽が巡る12の月に因んでいるという説があるとか。
 女神より与えられた試練を乗り越え“力”を示した彼は、太陽を模した火にくべられて生贄とされた。
 活力ある英雄を捧げ、女神に力を取り戻させる。
 彼はその名の通り、「ヘラの栄光」を取り戻す英雄なのだ。


 オイディプスとかも面白いよね。
 自分の子に殺されると予言された王は、自らの子を国から追い出した。
 他国で育った彼はやがて知らずに故国に辿り着き、自分の父親と知らずに王を殺してしまい、さらに自分の母親と知らずに王の妻である女王を娶り故国の王となった。

 これは他国の王だったオイディプスが、自国の王を殺してその妻である女王を娶ることで、祭儀を達成し自国の民たちが自国の王として歓迎したのを表すとかなんとか。
 つまり、
 王と女王の子として生まれる→王を殺して女王を娶り王となる。
 これが、
 王を殺して女王を娶り王となる→遡って王と女王の子だったことになる。
 因果が逆転している。
 ま、呪術だしね。
 その社会のルールを利用すれば容易にその国を侵略できるということだ。
 キコニアのゲーム盤も、ゲーム盤のルールを上手く利用すれば、他国であるゲーム盤の駒たちに歓迎されて勝てるのかもね。


 オレステースの裁判も面白い。
 母クリュタイムネーストラーとその情夫アイギストスによって、父アガメムノーンを殺されたオレステースは、母と義父となった情夫を殺害する。
 母殺しの罪で復讐の女神に追われた彼は、神々の裁判を受ける。
 子が自らを生み出した母を殺すのは絶対に赦されない罪である。
 それに対して弁護側は、父の蒔いた種が母に宿ったに過ぎず、父の子であって母の子ではないからセーフ、だってさ。
 結果、一票差で彼は勝訴した。

 王を殺してその妻を娶り新たな王となる。
 これはギリシャ神話で良く見られる。
 石を投げれば当たるくらいに。
 そしてさらに、前王の子が義父である現王を殺して王に返り咲く話も、セットのように良くある話だ。
 でも母まで殺すのは珍しい。

 ま、子にとって母はいつか自分を殺す存在だから、殺される前に殺して運命より逃れようとするのも当然なのかもね。
 女神を中心とした社会で、その中心である母を殺すのは最も重い罪。
 さらに言えば、運命の円環から逃れようとする者を追いかけて連れ戻すのも、その社会の習性のようなもの。

 母の子だから有罪という理屈に対して、父の子だから無罪であるという屁理屈で逃れようとした。
 結果、それで勝ったということは、「母の子」という秩序から「父の子」という秩序に社会が再編されたことを示しているのだろう。

 キコニアの自説に当て嵌めれば、神を頂点とする秩序から、神の子を頂点とする秩序へと再編されることだね。


 話を戻そう。


 王の交代劇。
 王が病み衰え、その治世が末期となった時、新たな王となるために王の子は世に現れる。
 世に蔓延る悪弊を一掃し、新しい御世を齎すために。

 つまり、神の子は斜陽の時代に現れるのだ。
 神が病み衰え、その果てに世界と共に消える前に、神より世界を物語を引き継ぐために。
 要するに、神の死は世界の死を意味するため、神が死ぬ前にその座を引き継ぎ世界を維持するものが必要なのだ。

 その神の子の治世が千年王国。

 神は神の子に継承するために、王殺しの儀式あるいは劇を執り行う。
 それは儀式だから手順や形式が必要となる。
 その形式、脚本が「イオアンニス黙示録」即ち「ヨハネの黙示録」。

 神の子が神の代行者として世の悪を一掃し、悪しき龍を打ち倒して、花嫁である都を貰い千年王国を打ち建てる。

 典型的な王殺しの物語だね。


 だが王殺しの物語には別パターンがある。
 老王が自らの後継者を殺し、次の世の新たな王になるという。

 このパターンの話でも面白いものがある。
 捕らえた罪人を一日だけ王の権利を与えて、王は地下に隠れ、一日経ったら罪人を王として生贄に捧げる。
 これで王は死を免れるという。
 一日国王になった罪人は、国を自由にでき、王の妻すらも自由にできたとか。

 他にも町にやってきた旅人を捕まえ、世の全ての罪を背負わせ崖から突き落として生贄としたとか。
 旅人を捕らえて生贄にするは枚挙のいとまがない。

 さらには人の代わりに獣を生贄にするのもあるね。
 つまり少年神とは生贄であり、王であり、英雄であり、旅人であり、罪人であり、獣なのだ。
 神とは色々な姿をとって地上に現れる。
 神は遍在するので、同時に別の場所で別の異なる姿をとることさえできる。
 さらには時間でもそう。
 今いまし、かつていまし、やがて来るもの。
 過去、現在、未来に亘っている。

 つまり、キコニアでも神の魂が偏在しているのであるならば。
 世界=ゲーム盤は神で、その世界の中の自然の全てに神の魂は宿り(8MS)、ゲーム盤の上に並んでいる数多の駒にも神の魂は宿り、あまつさえ過去や未来の魂すらも同一のゲーム盤上にあることができる。
 と、そんな感じでも不思議じゃないと。
 魂だしな、肉体に囚われちゃならんよな。うん。


 神は八つ裂きにされて食われる運命にある。
 食べることで、相手の魂を自分の内に取り込むという発想だね。
 で、神に見立てた生贄を八つ裂きにして食らい、神の不死の力を得ようとしたのだとか。

 ディオニューソス神によって狂気を与えられて狂った女たちが自分の子である王を八つ裂きにする話がある。
 ギリシャ神話の死因八つ裂き率の高さは異常。
 馬車から落とされて轢殺される率も異常。
 大釜に落とされて死ぬ話の変形、海の落とされる、風呂で煮られるとか、の率も高い。
 全部ひっくりめて、死因生贄なんだけどね。

 ディオニューソスを崇めていたオルフェウス教では、獣を食うことを禁じる戒律があったとか。
 これはかつての獣を生贄として食っていた、つまり神を食っていたことへの反動という説がある。

 オルフェウス教の神話は変わっている。
 ゼウスの後継者として生まれたディオニューソスがティターンたちによって殺され、八つ裂きにされて食われた。
 ゼウスは雷でティターンたちを焼き、その残骸からディオニューソスの心臓を取り出し、自らに取り込み、再びディオニューソスを生み出した。
 その時、ディオニューソスとティターンの残骸が混じり合い、そこから人間が生まれたとされる。
 人間の魂はディオニューソス由来の善なるもので、肉体はティターン由来の悪なるもので、魂は永遠なのだが死してもすぐにまた肉体に囚われる、つまり輪廻転生を繰り返すという教えなのだとか。
 獣もかつては貴方の死んだ親かもしれないから食わないように、みたいな。
 で、最終目的は、永遠に苦しみ続けなければならない悲しみの輪よりの解脱なのだと。

 これ、魂は善で肉体は悪という思想がキコニアに似ている。
 輪廻転生は、ループ。
 永遠に苦しむ悲しみの輪は、絶対の運命。
 この辺はオルフェウス教も死と再生の神話だからなんだけど。
 最大の特徴は輪廻からの解脱。
 絶対の運命より逃れようというところが、なんとも「なく頃に」に似ている。

 やはり最終目的は脱出にあるのだと私に確信させてくれた。


 また話が脱線した。
 仕切り直そう。





 王の治世の末期、後継者である王の子が現れる。
 王に取れる選択肢は、王子に倒されるか、王子を倒すか。
 自分の物語を子に引き継いでもらうか、子の物語を引き継いで新しい物語を生み出すのか。

 王の治世は太陽に喩えられる。
 世界=物語だと解釈すると、物語の始まりは日の出。
 勢い良く飛び出し昇っていく。
 自由に伸び伸びと描けるのだろう。
 そしてピーク、物語の山場を迎え、結末、物語の死へと向かって落ちていく。
 黄昏はまさしく物語の末期。
 物語の落としどころを探っている段階か。
 もはや自由などなく、オチを選択しなくてはならない。

 後継者である子をどう扱うかという選択に迫られるわけだ。


 物語にとって、最初から最後まで書き切ることが何よりの幸せだろう。
 これはフェザリーヌの亡き友人の意見と重なる。
 というか、この亡き友人が、フェザリーヌという神にとっての王なのだろう。

 それに対してフェザリーヌは、最後まで書き切らず余韻を残すという意見。
 エピローグのその後を想像させる、つまり物語の続きを暗示している。

 要するに、物語自身は完結してもらいたい、執筆者は物語を続けたいということ。
 物語が完結しても、その魂を次の物語の中に蘇らせてでも、ずっと物語と一緒にいたいのだ。


 執筆者という神について知るためにも、ひぐらしを見てみよう。
 ひぐらしの世界をループさせているのは羽入だ。
 つまり、彼女が神である執筆者自身を模した駒。
 その羽入が依り憑いている巫女の駒が梨花。

 羽入がループさせている目的は、運命の袋小路を脱却すことではなく、繰り返されるループの中で梨花と一緒にいることである。
 梨花が死ねば、ゲーム盤上にあるものは一掃され、駒の初期配置を変え再びゲームが始まる。
 これは梨花が神の生贄と捧げられる王であることを示している。

 梨花の魂を捧げられた羽入は、その魂を蘇らせるために、新たな肉体、アバターを用意した。
 それが“次の梨花の肉体”。
 そうやって物語の続きを描いている。

 執筆者的には、巫女の死から得た怒り、それが次の物語を書く原動力になっている。
 次こそは巫女を幸せにするぞ、と。
 執筆者を模した羽入もそうだったのだろう。
 梨花が生きて未来を迎えるために、怒りを原動力にループを始めたはず。
 だがやがて諦め、永遠の袋小路の中で安住しようとした。
 つまりこれは、消極的な物語の執筆の放棄である。

 袋小路を脱出し、新たな物語を紡ごうとしているのは、巫女である梨花だ。
 これはうみねこで、ベルンカステルが主の代わりにそこから脱出する奇跡を紡いだと語られている通り。

 要は神である執筆者は、運命の袋小路より抜け出すという新たな物語を紡ぐ仕事を放棄し、冥界に隠れてしまった。
 巫女は王となり、その仕事を引き継いだというわけだ。

 だから羽入は誰にも見えず、梨花だけが未来を信じて頑張っていた。


 さて、運命を脱するとはどういうことか語らねばならないな。

 運命から脱出するというのは、世界から脱出するということだ。
 自分だけの物語は、自分だけしか知らない。
 それは自分という瓶の中に閉じ込められているということ。
 つまり、誰かに物語を読んでもらい、その存在を認めてもらうことで、その読み手の世界に移住することができるのだ。

 問題は移住希望者が二人いて、真実の門をくぐれるのは一人だけということ。
 二人一緒に脱出したいのにそれが不可能だから、そしてどちらかを選ぶことができないから、執筆者は永遠の袋小路に安住しようとしたのだ。


 最終的に、羽入も含めた皆が信じることで、祭囃し編への扉が開いた。
 では羽入が信じていなくて、その他の皆が信じているということはどういうことなのか。
 それは神である執筆者が放棄した物語を、巫女が引き継いで続きを紡いでいるということ。
 さらに言えば、巫女が動かし率いている駒たちが頑張って物語を紡いているということ。
 その駒たちを見て、神は信じ合うことの大切さを知ったのだ。

 物語から何か大切なことを学ぶことは良くあること。
 執筆者もまた駒たちの紡いだ物語からそれを教わったのだ。
 っていうか、執筆者は大切なことは全て駒たちの物語から教わっているはず。
 そういうライフワークだから。

 執筆者、巫女、駒たち。
 つまり、神、神の子、聖霊の三位一体こそ、この物語の基礎にして奥義。
 祭囃し編がご都合主義的な活劇になったのは、世界が全会一致でポジティブに染まったからだろう。
 所謂ハイってやつ。
 このかつての敵も味方も全会一致で運命に抗うというのは、ひぐらしでもうみねこでも最終話でやっているので、重要な意味があるのは確かだろうね。

 でも、未来を信じて進んだ羽入だけど、自身の命を捧げることで物語を収めようとしていた。
 つまり、真実の門をくぐって生き延びるのは巫女である梨花の方であると。
 そういう物語が紡げれば満足して死ねるのだと。

 だが、梨花は羽入が犠牲とならずに済む奇跡を示した。
 二人揃って生き伸びる道があるのだと。

 要するにひぐらしは、神である執筆者が信じる力を振り絞って未来へ向かう決意をし、巫女が奇跡へ繋がる微かな可能性の道を見つけ出した、ということに至るまでを物語化したもの。
 つまり、予行演習のようなもの。
 実戦はうみねこ。
 運命の決闘を行う物語。





 ってなわけでうみねこの話といこう。
 どちらが真実の扉をくぐるのかを決める運命の決闘。
 それを実際に行ったのがうみねこ。

 とは言え、EP6の偽書が公開されたのは1998年? のこと。
 本来の予定なら、1986年以前だった。
 つまり、12年越しの決闘だった。
 この12年の空白を埋める物語がひぐらし。


 時系列に沿って説明しよう。

 幼い頃執筆者は、自分自身の物語と自身の代わりの主人公の物語の二つの物語の表裏合わせて一つにまとめた物語を作った。
 やがてその物語を誰かに読んで欲しくなった。
 で、選ばれたのは戦人。
 運命の決闘は、どちらが真実の扉をくぐり読者の世界へ移住するかを賭けたもの。
 しかし戦人は六軒島に来なくなった。

 1986年。
 時間切れで巫女は死亡。
 執筆者は自身が生き残るために巫女を殺して島を出た。
 その際、大爆発で猫箱に閉ざして。

 すでに巫女は死んでいる。
 それを猫箱に閉ざすことで、まだ生きていると修飾した。
 執筆者はベアトリーチェの名を、猫箱の中の六軒島に残った巫女に継承させ、来たる日まで待たせた。

 そして島を出た執筆者は巫女の物語を引き継ぎ、その続きを紡ごうとした。
 巫女を失った怒りと悲しみを力に変えて、創作に励んだ。
 これを表しているのがひぐらしの鷹野三四の物語。

 彼女は地獄に落ちたところを祖父一二三によって救われ、彼の死後、彼の物語を受け継ぎ、一二三の後に三四を数え、そして五に至ろうとした。
 つまり、死んだ巫女の物語を引き継ぎ、そこに執筆者自身の物語を付け足し、二人で一つの物語を完成させようとした。
 二人一緒に真実の扉をくぐる道を探した。

 が、それに躓いた。
 三までを数え、未完のまま終えた物語を、自分が勝手に付け足して台無しにしてしまったと後悔した。
 この物語に自分はいらない。
 いなかった方が巫女(祖父)は幸せだったのだと。
 そうして自身の存在を物語から抹消し、死んだ巫女だけでも蘇らせる物語を作ろうとし、だけど自身の未練が巫女を殺してしまうという、羽入の物語になった。
 その物語に未来はない。
 だけど、巫女が死に再び蘇るという、永遠に輪廻する物語なら、巫女とずっと一緒にいれる。
 やがて執筆者はそこに安住するようになった。

 未来を作るという神である執筆者の仕事を引き継いだのは巫女。
 執筆者が紡いだ物語の中に蘇った彼女は、自身が生き延びる道を探し、さらには神(羽入)と一緒に生き延びる奇跡を探しだした。
 この巫女が成長した姿がベルンカステル。
 彼女が執筆者八城に対し、物語を書くことを約束しておきながら、それを放り出して、相手が自ら紡ぐ物語を記すだけ、というのをまたそれをするのかと批判したのはそのため。

 そんなこんなで執筆者は信じる力を取り戻し、奇跡へ至る道筋を得て、運命の決闘を再開することにした。
 猫箱の中に残したままだった巫女との約束を果たすために。
 それがうみねこの物語。
 12年後の偽書。

 ちなみに、猫箱に残してきた巫女ベアトと執筆者と共に成長した巫女ベルンは同一人物だけど別人という扱い。
 6歳の縁寿と18歳の縁寿のようなもの。
 今の自分は過去の自分とは別人で、その後まっとうに成長を果たせば、まっとうに成長しなかった自分ともやはり別人。
 ベアトは猫箱に閉じ込められたまま時間が止まっているのだ。

 執筆者は巫女が紡いだひぐらしの物語を引き継ぎ、猫箱の中の物語を蘇らせた。
 死んで猫箱に魂を閉じ込められた巫女ベアトの未練、戦人に解いてもらいたかったという思いを晴らし。
 さらには読者たちの前で運命の決闘を果たし。
 読者に巫女ベアト、即ちヤスを人間だと認めさせ、読者の世界の中へと巫女ベアトの魂を蘇らせた。

 そして「咲」にて、神にして主である執筆者はピースを派遣し、自身の存在を消し去った。
 これはひぐらしで神羽入が自身を犠牲にして、巫女梨花の物語を完成させようとしたことをなぞっている。
 だからここでは、梨花が羽入を犠牲にしない未来という奇跡を作り出したように、ピースが消えるのを止めるという選択をなさなくてはならないのだ。
 それこそが奇跡なのだから。

 ひぐらしは予行演習。
 うみねこは実戦。
 よって、それが求められているのは読者。
 消えようとするピースを掴んで離さないようにしなくてはならないのだ。

 その結果を踏まえて、物語を引き継いだのがキコニアの物語。





 そんなわけでキコニア。

 執筆者八城は、巫女ベルンと共にリレー形式で物語を紡いでいる。
 それは王が交代するが如く。

 重要なのはキコニアにおける“文化”と“歴史”。
 スケールの小さい個別の国々ではなく、A3Wとかそんな感じの全体を表すスケールのもの。
 視野を広く、さらに上層から俯瞰すべきだ。
 つまり、“キコニアという物語”が受け継いでいる文化と歴史だ。
 キコニアが“今”だとするとその前史である“前”があるということ。
 それは勿論、「ひぐらし」や「うみねこ」だ。

 「ひぐらし」があり、「うみねこ」があり、そして今「キコニア」がある。
 それは無視のできない“歴史”だ。
 そこには連綿と受け継がれる“文化”がある。

 キコニアにおける勝利条件の一つは、文化を受け継ぐ次の王を残すことである。
 だとすると、受け継ぐべき“文化”とは何かという疑問にぶち当たるわけだ。
 それに対する私の答えがこれ。


 失敗を繰り返さないためには、“歴史”に学ばなければならない。

“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”
――オットー・フォン・ビスマルク

“愚者は経験に学び、もっと愚者はネットに学ぶ”
――ネット上の戯言


 キコニアにおいて歴史は抹消させ断絶されている。
 それは何故か?
 それは物語が断絶しているから。
 まずは消された歴史を掘り起こし、それと繋げなくてはならない。

 A3Wの前であるB3Wの文化を復興させようとする活動がされていることは作中で描かれている。
 第三次世界大戦前の世界、即ち、第二次世界大戦後の世界。
 つまり「ひぐらし」と「うみねこ」だ。

 その傍証として挙げたいのは「WHEN THEY CRY」のナンバリング。
 キコニアは「5」。
 5は象徴的な数字だ。
 一二三を継ぎ、三四を数え、五に至る。
 「ひぐらし」「ひぐらし解」「うみねこ」で一二三。
 「うみねこ」「うみねこ散」で三四。
 そして「キコニア」で五。
 ベルンカステルが紡ぎ、フェザリーヌが引き継ぎ、完成させる物語。

 キコニアが全四話の予定なのは、「6」がないからだろう。
 竜騎士さんは数字を象徴として使うの大好きみたいだし、たぶんこれで合っていると思う。



 そんなわけで歴史に学ぼう。

 ひぐらし・うみねこで、神である執筆者の決断は、自らが消えることで神の子である巫女を生き延びさせることだ。
 歴史は繰り返す。
 故に、キコニアでも同様の決断をしている蓋然性が高い。
 何故なら、歴史に学び、失敗を回避するのがプレイヤーの目的だから。
 よって、ゲームの前提条件として歴史が繰り返していなければならないのだ。


 次は神の子である巫女の目的。
 これは二人揃って生き延びる奇跡を探ることだろう。
 それはひぐらしで示され、うみねこで実際に求められたことだからだ。

 巫女の駒はさらに二つに分かれる。
 成長を止められていたベアト枠と、成長を続けたベルン枠だ。
 それが普通の都雄と青い都雄に当て嵌まる。
 一方は待ち受ける運命を知らず、もう一方は待ち受ける運命を知っている。


 この二人は前回までの物語と変わらない。
 ひぐらしではこの二人のみでゲームを行い、どんなゲームかを紹介した。
 うみねこでは外部の読者を招き、三人でゲームを行った。
 うみねこで運命の決闘は行われ、その結果が出た。
 キコニアはその決闘の結果が反映されていると考えられる。
 それが前回までとは違う点だ。

 読者枠の駒はひぐらしやうみねこにもいた。
 だがそれは、テストプレイ用の仮想読者でしかない。
 キコニアの読者枠の駒は、現実読者を反映している。
 運命の決闘の結果、現実読者の心の世界へ二人一緒に移住を果たすことで、物語は「5」に至る。
 物語の目的を果たし終えることができる。
 そうして、最後の「5」の物語として生み出されたのがキコニアなのだと、私は考える。

 よって私は、読者枠の駒であるジェイデンがキーパーソンとなると見ている。


 永遠に輪廻する物語は、ジェイデンによって終わる。
 それは物語の死を意味する。
 だが悲しむことはない。
 死は復活を意味するからだ。
 一人分の魂を満たした人間が、私たちの前に現れるのだから。


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  1. 2020/04/11(土) 21:18:43|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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