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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


真実はいつも二つ

 本日一投目。

 私は執筆者関連で真実は二つとか、二人で一人とか言っているが、キコニアのところから私の記事を読み始めた人は、真実が二つとかどういうことやねんと疑問に思っている方がいるかもしれないので簡単に説明したいと思う。
 ついでにそこからキコニアに繋げられれば上出来。



 正解の方法以外、全て不可能であれば話は簡単なのだが、可能性が複数並列できるのがうみねこ。
 となると選択する必要があるわけだが、問題は判断基準だ。
 私の判断基準は、ミステリーの答えとして面白いかどうか。

 それはどういうことかというと。
 例えば、マスターキーを持つ者にしか犯行は不可能のように見える事件があったとする。
 ならマスターキー所持者が犯人である、と受け入れるのは素直に過ぎる。
 となれば裏を読める。
 マスターキー所持者が犯人であるとあからさまに主張されているのなら、その主張を行う利があるのはマスターキー所持者以外である。

 この二択を選択するのだが、後者の方が面白いしよりミステリー的だよね、というのが私の個人的な見解。
 マスターキー所持者以外に犯行が不可能に見えるから、マスターキー所持者が犯人であるってさ、AのようだからAであると言ってるだけじゃん。
 そんな論理面白くもない。
 それなら、Aだと見せつけられたからAではない、という方が断然面白い。

 常識的な結論で足りるなら探偵はいらない。
 探偵の出番がいないミステリーはミステリーじゃない。
 探偵しか辿り着けない結論こそが、ミステリーをミステリーたらしめているのだと思うのだ。


 他にも19人目のベアトリーチェからの手紙とか。
 作中で19人目を装った18人の内の誰かという解釈がでてきたわけだけど。
 あの論理は正しいと思う。
 だだし、18人の内の誰かを疑っていない者が大勢を占めていれば。
 18人の内の誰かであると周知されたら、それが新しい常識となる。
 そうなると、犯人の19人目を疑わせたい思惑は意味をなくす。

 もし仮に、犯人の思惑が勝っていたとするならば、それを超えた想定をなしているはずだ。
 皆が18人の内の誰かだと疑うならば、そう思わせることに利があることになる。
 つまり、18人の内の誰かが19人目を装って手紙を出した、そう思わせたい19人目の仕業であると解釈できる。


 金蔵の名前の継承も。
 金蔵から誰かへ、名を継承したという解釈。
 戦人は前回のゲームでのベアトの名の継承というヒントから考えたと言ったが、今代ベアトから次代のエヴァに継承した他に、先代ベアトであるワルギリアから今代ベアトへの継承もあった。
 つまり、現金蔵もまた先代金蔵から名前を引き継いでいた可能性がある。
 名前を複数持つ人物がいるという青き真実に対して、金蔵は「言えぬ」と消えたが、それは自身の名前が二つあったからかもしれない。
 要するに、金蔵は金蔵ではなく別の名前で存在することで、“金蔵は死んでいる”から金蔵は何も出来ないという理屈をすり抜けることが可能なのだ。


 複数の名前と言えば人数についても。
 一人で二つの名を持つ者がいれば、人数が一人分減るという理屈。
 裏を返せば、同名が二人いれば、一人分増えるということになる。


 一つの物事から何かを解釈すると、その反対側に別の解釈が生じてしまう。
 分かりやすいのはヘンペルのカラス、即ち対偶だね。
 『Aでないなら、Bである』が真であれば、『Bでないなら、Aである』もまた真である。
 猫箱を開けなければ、その二つの結論は同時に存在する。

 他の解釈の余地がないなら、それは解釈ではなく証明となる。
 解釈の余地を作るということは、別の解釈を生み出そうという試みに他ならない。
 その余地に読み手が好きな想像をすることを許されているように、作り手もまたそこに好きな真実を捻じ込みたかったのだろう。

 読み手側は一つの物事から二つの解釈を導き出し、そこから一つ正解だと思う方を選ぶ。
 これを続けて全体に筋を通していくと、正解だと思う一つの筋を作る傍ら、反対側にもう一つの筋が自然と出来上がるわけだ。
 その内の片側が「ヤスが犯人」というもの。



 EP7のヤスの舞台劇をそのまま見れば、それはヤスが犯人になるまでを描いたものだ。
 ヤス以外に犯人はいないように見える。
 だがヤスが主体ではなく客体であればどうだろう。
 舞台劇の黒幕は脚本家だと相場が決まっている。

 表がヤス視点の回想であるならば、裏はヤスの生活を覗き見ていた人物視点の回想だ。
 そんなヤツ登場していないと思われるかもしれない。
 しかし、うみねこは階層世界なのだ。
 上層から魔女が覗いていたのかもしれない。

 世界という舞台劇の観劇者。
 箱庭世界を覗き込む造物主。
 ゲーム盤の駒を操るプレイヤー。

 そいつが黒幕だとずっと示唆されていたと思うのだが。


 つまり、犯人は二人いる。
 駒の犯人と、その駒の主である真犯人と。

 主である真犯人は、自分の代わりに駒に殺人を行わせる。
 それがヤスが犯人のゲーム盤。
 そして、駒は主が成せることだけを成せる。
 つまり、ヤスが犯人のゲーム盤とは別に、真犯人が殺人を行うゲーム盤も重なっている必要がある。

 要は主の犯行と駒の犯行、その両方の推理を提示しなくてはならない。
 それが並び立つ真実であり、真実は常に二つ愛がなければ視えない、ということ。
 それが私の結論。





 んー、舞台の上の主役と観客である読者の二者間のことなら私だってあれは犯人の自白と解釈するが、もしその舞台裏に第三者がいたならばそいつの演出でしかないと解釈するしかない。
 そして私はその何者かの気配を濃厚に感じたというわけだ。
 ま、これは個人的な感覚だから同意は求めないが。

 昨今、探偵の推理を組み込んだトリックがあって油断ならないそうだけど。
 だったら読者と対決する推理ゲームで、読者の推理を組み込んだトリックが使われていても何らおかしくはないだろう。
 つまり、読者が釈迦の掌の上でコロコロされている可能性。

 ゲーム盤の上に「読者がするであろう推理」という駒を置くGMがいるとしたら?
 それはつまり読者の駒化であり、我々読者を上層世界から見下ろす何者かいるのかもしれない。
 無論、現実世界の上にそんな世界があるというわけではなく、思考上に仮定した思考ゲームにおいての話。

 人間は自分が考えられる範囲までしか想像できないから、その自分の考えを想定した上でそれを超えてくる者というのは想像しづらい。
 ある種の思考の死角だろう。


 なんだろ、読者側は真実を暴くという攻撃側であるという意識が強いのかな。
 でも相手はかかしじゃないんだから反撃くらいする。
 防御側が態と隙を作りって攻撃を誘い、そこを狙い澄まして反撃する。
 誘引撃滅。
 当然の戦術だよね。

 相手に隙が出来た時、それが狙い目なのか、それとも誘いなのか。
 その二択を迫られるわけで、それがゲームの駆け引きとなる。
 どちらが戦いの主導権を握っているのかは超重要。
 自分が選んでいるなら良いけど、選ばされているのならまずい。

 うみねこはさ、好きなように推理していいよって感じだった。
 つまり、好きに攻撃してこいってこと。
 好きに攻撃できるから、戦いの主導権はこちらにあると思ってしまいがち。
 好きに攻撃できるってことは、攻撃し易い所から攻撃したくなる。
 だからこそ、相手からはどこを攻撃されるか予測できる。

 至極当然だよね。
 でもってそれに対してうみねこは、面の推理を推奨している。
 つまり、相手の反撃の可能性を考えて予備計画を持っておけということ。
 ヱリカがEP6で披露した、並び立つ真実に対する方法だね。

 さらに言えば、魔女との戦い方は守りが肝要という助言も貰っている。
 ならば本命がどちらかなども判断可能だろう。



 んー、深く考えすぎ作者はそこまで考えていない、と言われるんだろうなと思う。
 でも私から見れば、逆にそれは考えなさすぎなんじゃないかなって感じになるんだよね。
 例えるならEP6のチーズのクイズの様。

 私から見ると、ヤスが犯人だとか、紗音嘉音の体が同一だとかは、個体のチーズの様に硬いなーって感じ。
 そもそも真実が一つという固定観念からして視野が狭い。
 真実は二つと考えればもっとチーズはグニャグニャになるのにな。

 そんな感じなので紗音嘉音同一トリックは、その先に進むための前提条件に過ぎなかったんだよね、私にとっては。
 式の途中に組み込んだものを、それが答えなんだと言われたら戸惑うしかない。
 え、それが答えで良いの? って。

 守勢の思考をする私にとって、反撃に備えることは常識で。
 反撃を考慮もせずに攻撃する思考はその埒外。
 理解不能。
 なぜそんなにも楽観的なのか。
 用心が無駄になっても笑い話ですむが、楽観が無駄になると致命的だと思うのだが。
 まぁ、時と場合にもよるのだろうけど。
 攻撃が当たることを期待して攻撃するというのはどうも、ね。
 反撃は折り込み済みで、それすらも捻じ伏せるつもりで攻撃していたのなら、絶対の魔法的にありだし、むしろ応援したいぐらいだけど。

 その辺の意識の断絶は深いよね。
 壁に穴があったら、当然そこから抜けるよね。
 でも私は、これは罠だ別の道を探そうと判断し、それを当然だと思っている。
 別の当然なんだから、そりゃ道は断絶する。

 攻めるのか、守るのか。
 勝とうとするのか、負けないようにするのか。
 その意識の差が戦い方の差になり、そして最終的に至る場所の違いとなって表れるのだろうな。



 でさ、真実は一つ側からは二つ側の方の真実は視れないし、理解もできないだろう。
 しかし、逆に二つ側から一つ側の真実は視れるし、理解も可能。
 二つ側はメインの説が破れてもサブの説にスライドできるからね。
 ダメージコントロール。
 生存のための知恵。
 思考停止が死であるならば、決して思考を止めてはならない。
 生きるとは、即ち負けないこと。
 面の推理とはつまり、多様性による思考の生存術である。

 その分割並列思考による仮想人格たちの内、誰か一人でも生き延びれば良いという思想は、キコニアに通じるもの。
 要するに、キコニアの世界は神のゲーム盤で、その世界に住む人類は神の分割並列思考による仮想人格たちがアバターの姿をとった駒で、思考の生存を懸けて争っているという考察に繋がるわけだ。

 うみねこはEP7のラストのように、逃げ延びて、生き延びて、希望を繋ぐことを至上目的としている。
 生存のための面の推理、並び立つ真実。
 それは守勢であり、それは壁を押し倒すのではなく、壁を支えるということ。
 絶対に死守すべきキングと、そのために犠牲になることを求められる他の駒たち。
 キコニアもまた、守るためのゲームであり、生き延びるためのゲーム。
 そこは変わりないと思うのだよね。


 んー、なんかグダグダしてきたからここで終わろうか。


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  1. 2020/03/28(土) 19:51:48|
  2. うみねこ雑多
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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