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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


ひぐらしを再解釈する

 今日は私の誕生日なので特別に投稿。

 バケウソから見るひぐらし考察。
 いつものごとく執筆者視点で読み解くよ。



 雛見沢村はバケモノの巣であり、つまりは「執筆者」の頭の中が表現されたもの。
 よって、雛見沢の住民は全て「執筆者」の分割された一面を表している。
 主要キャラはそれが色濃く出ている。

 そこに外からやって来た圭一は、「読者」を表している。
 それは「執筆者」が求めた外からの救いの手である「王子」である。
 鬼隠し編では、その圭一が雛見沢症候群を発症させて惨劇が起こる。
 雛見沢に住む住人は皆これに感染しており、その症状は妄想を現実だと思い込むというもの。
 つまりこのバケモノの巣では、真実と幻想が二重になって存在しているわけだ。
 そして、バケモノには幻想を現実だと信じ込ませようとする力がある。

 要は鬼隠し編は、執筆者に幻想を植え付けられた読者が自滅する様を描いたものなのだ。

 その対となる罪滅し編では、現実と妄想の区別をつけ、現実に引き戻す様を描いた。
 しかし留意したいのは、最終的には妄想にも一部の真実が含まれているのではという含みを残していること。
 これは現実に足を残しながらも、もう片方の世界もちゃんと見るべきだという主張。
 要は両方見ろってこと。


 さて、バケモノの巣である雛見沢を支配するバケモノが羽入。
 真実と幻想。
 それが並び立っても良い、という思想。世界観。

 田村媛命と比較すると解り易いか。
 田村媛命は日本人の脳に寄生している。
 要は、社会の常識という脳の内にしか存在しない世界を擬人化したもの。
 この寄生虫に感染すれば、日本人としての常識を植え付けられてしまう。

 そのように見れば、羽入がどういった存在か理解できるだろう。
 うみねこ風に言えば、田村媛命は真実は常に一つであるとする思想、羽入は真実は常に二つあるという思想。
 つまり、イデオロギーの対立。
 それを脳を支配する寄生虫に喩え、そういう設定にしたのがひぐらしのゲーム盤。

 そこから考えられる雛見沢症候群の基本効果は、普段ならしない思考をさせるというものなんじゃないかな。
 それが理想的に働けば、常に真実を二つ考慮して、そのどちらでも対応できるようにさせるのだろう。
 だがそれが暴走するとああなるわけだ。

 キコニア風に言えば、後天的にパラレルプロセッサーを作る感じ。
 まぁ、効力が低すぎて人格にまで育たないのだけれど。


 要するに、「執筆者」のこの思想“真実は常に2つある”を表現するために作られたのが、雛見沢というゲーム盤なのだ。





 さて、雛見沢は「執筆者」の頭の中を表している。
 そこに置かれた駒は「執筆者」の一面を切り取って生み出されている。
 ヒロインたち主要な駒はそれを色濃く受け継いでいる。


 まずは梨花と羽入から。

 梨花は雛見沢の中心。
 うみねこで言えば、魔女の心臓。
 取られたら負けな駒。
 しかし魔女の心臓はもう一つあり、それが羽入。
 羽入まで取られない限り、もう一度ゲームを始められる。

 つまり、羽入こそが真の心臓であり、バケモノの巣の、心の中心。
 梨花はその巫女であり代弁者。
 主の代わりとなって物語の主人公を務める駒である「子」。
 同じ脳を共有しながら、そこに引きこもっている主が羽入。

 梨花が死んでも鬼が溢れ地獄が顕現しないのは、梨花の死と共に羽入がループしているから。
 梨花の精神が死んだ時が、梨花の本当の死。
 それが訪れた時、羽入が絶望し、封じ込めていた羽入の悪夢が溢れ、鬼が闊歩する地獄になるのではないかな。
 怒りに染まり全てが敵に見える、それが封じたい過去であり、悪夢。

 羽入=執筆者であり、自身の心を分割して駒を生み出し、それをゲーム盤に置いて遊んでいる。
 そして自分の代わりとなる駒である梨花を配置し、梨花たちが紡ぐ運命を眺めていた。
 しかし執筆者の心の中に罪があるため、その心より生まれた駒たちにも罪が生じる。
 ゲームには観測者たる執筆者の心が反映してしまう。
 執筆者が楽しければゲーム盤上にも楽しさが表れ、執筆者に怒りが満ちればゲーム盤にも怒りが満ちる。

 つまり、ゲーム盤は執筆者が誰にも伝えられない自身の心を表現するための場であり、心の内を吐き出す場であるのだ。
 そう、執筆者は最初、自分のために物語を紡いでいた。
 それがやがて、物語のために自分の身を削るようになった。
 主客が逆転し、手段と目的が引っ繰り返った。

 自分の心を対戦者に知ってもらうための手段として生み出されたゲーム盤だった。
 しかしやがて自分の心を裂いて生み出した駒たちのことが大切になったのだ。
 自分を犠牲にしても構わないほどに。

 だから駒たちの罪を引き受けて自らの心を消し去ろうとしている。
 例えるなら、ぬいぐるみのさくたろうを守るために、真里亞が自分を犠牲にするようなもの。
 この価値観は特殊だから、理解できない人には全く理解できないと思う。
 「真実は一つであり、その真実以外には価値がない、考えるだけ無駄である」と思っている人なんて特にね。

 「執筆者」がゲームの席に座っているのは、対戦者に己の心を探ってもらうため。
 それなのに対戦者が「執筆者」を見ないのであれば、駒たちのためにその席を譲ると決めている。
 その心が表れているのが祭囃し編と澪尽し編。
 あれこそが「執筆者」の心の表と裏。
 子のために消えようとする母の心と、みんなと共にいたいという願い。





 レナ。
 この駒は二面性の象徴。
 レナは現実的に推理しかがらも、同時に妄想的な推理もする。
 穏やかな面と苛烈な面。
 人には表と裏があり、真実にも表と裏があり、世界にも表と裏がある。
 何事にも異なる解釈が存在するという、バケモノの巣の世界観を示している。

 ゴミを拾い集め大切にする。
 それはカケラを拾い集める「執筆者」の習性を模しているのだろう。

 彼女の雛見沢症候群の症状、体中から沸く虫の幻覚は、執筆者の脳内で生み出される駒たちが劇症化したものの喩え。
 自分の体から自分以外の生き物が沸くという悪夢。
 雛見沢症候群が猛威を振るったのは昔のことで、今は徐々におとなしくなってきているという設定は、「執筆者」の精神を蝕むこの病の症状も治まってきたことを示しているのだろう。

 鹿野は一度バケモノの巣である雛見沢を出て、雛見沢症候群を発症させて戻ってきている。
 このことから、頭の中から人間社会ででることができる、肉体を持った「執筆者」を表しているのだろう。
 六軒島を出て、一人の人間として生活し、病を発症させ、島を出たのは間違いだったと思い至り、島に戻ろうとする八城が当て嵌まる。

 彼女が病を再発症させてしまう罪滅し編では、「読者」である圭一が雛見沢症候群を発症させていたカケラの記憶を思い出し、末期症状までに至った彼女を奇跡的に助け出した。
 つまり、“常に真実は二つ”という思想を理解した「読者」が対等な決闘を行うことで信頼を取り戻し、現実と幻想の区別がつかなくなった末期症状の「執筆者」に現実を取り戻させた。
 この“奇跡”が「王子」としての圭一の役割。
 この役割を果たし終えたから圭一は主人公ではなくなったのだろう。
 この対等な決闘というのが、うみねこではブラウン管裁判であり、キコニアではガントレットナイトの模擬戦。





 沙都子。
 梨花と同居していること、そこから脳内で同居している執筆者と「子」に重ねられる。
 梨花が「子」に当たるので、沙都子は「執筆者」が当て嵌まるだろう。

 疑心暗鬼となり親を崖から突き落としたのは、「執筆者」が「うみねこ」で親族たちを惨劇に突き落としたことを彷彿とさせる。
 「執筆者」の物語である沙都子の義父は、物語を読み育てる「読者」に当たる。
 その「読者」が信じられないという「執筆者」の疑心暗鬼の表れ。

 いつも助けてくれる兄の悟志は「子」に当たるだろう。
 全てを「子」に頼り切った、幼き頃の執筆者の姿。

 兄を失い家を出たのは、「子」であるベアトを失い六軒島を出る執筆者の姿に重なる。
 その後に同居することになる梨花は、駒の方の「子」を失い変質したプレイヤーの方の「子」を表しているのだろう。
 そこでの暮らしで兄に頼りきりだったことを反省し、自立するために努力する。
 いつか兄が帰ってきても良いように。
 「子」の物語を蘇らせるために、成長し作家となった執筆者、八城の姿に重なる。

 かつて住んでいた家は沙都子にとっての地獄。
 それは鷹野が沈んだ地獄でもあり、そして「執筆者」にとっての地獄でもある。
 沙都子を救おうとしても、沙都子も手を伸ばさなければ救えない。
 物語の内側と外側。
 脳内世界と外の人間社会。
 いくら外から手を伸ばそうと、脳内に引き籠った人格である執筆者自身が助けて欲しいと手を伸ばさなければ救えない。
 そのことに重ねられている。

 幼少期にかくれんぼで祭具殿に入って御神体の右腕を壊したことで「世界が変わってしまった」。
 神の右腕は「子」を表す。
 「子」を失い「執筆者」である沙都子の世界は狂っていくことになる。





 魅音と詩音。
 双子の入れ替わりは、どちらか一方しか世界(雛見沢)に居られない駒であることを示す。
 つまり、「執筆者」と「子」の関係を一部切り取って作られたのが魅音と詩音。
 真犯人は双子の一方。
 真実の犯人と幻想の犯人が重なり合っている構図。
 綿流し編では、犯人の自白を聴いた読者は犯人を誤解したまま死んでいく様が描かれている。

 その対となる目明し編は、重なり合った可能性が収束する様を描いている。
 逆を言えば、明かさない限り並び立つ真実は重なり合う。
 そして、片方しか見なくてそれが間違っていた場合、相手の尊厳を貶めるのだという忠告。
 まあ、簡単に決め付けてはならないよってこと。

 双子の内、当主になれるのはどちらか一方のみ。
 これは脳内のスポット人格になれるのは一人のみというのを表している。
 そして次期当主の入れ墨を入れる際、入れ替わってしまったことは、本来はスポット人格にはなれない「子」の人格がスポット人格になったことを示す。
 さらに本来次期当主になるべき方が、その地位と名前を取り戻して双子の片割れを殺害するのは、本来の人格である「執筆者」が末期症状の果てに本来の地位を取り戻す際に、「子」の人格を殺してしまうだろうということを描いたから。

 あと、詩音と沙都子は両方とも「執筆者」を表している。
 悟志、「子」が帰ってくることを信じて待ち、自身の成長した姿を見せるのだと研鑽しているのが沙都子。
 それを信じれず惨劇を引き起こしたのが詩音という対比。
 即ち、自身を映す鏡。
 人の振り見て我が振り直せという諺があるけど、これは我が振り見て我が振り直せと言ったところか。





 鷹野。
 地獄に落とされ、それでも生還し、助けてくれた祖父の論文を認めさせるために神を目指す。
 これは「執筆者」の辿ってきた道を表している。
 誰にも認めてもられず、人以下の存在に落とされて地獄を這い、脳内に「子」を生み出して「子」に認めてもらうことでそこより生還した。
 自身を助けてくれた「子」の物語を認めさせるために神を目指した。
 だがその道は、一歩踏み外せば梨花、即ち「子」を殺してしまうものである。

 一二三を継いで三四を数え、いつか五に至る。
 一二三を数えたのは「子」の物語。
 それを受け継いで三四を数えるのは「執筆者」の物語。
 そして五に至り、彼女たちの物語は完成する。
 「子」の物語を踏まないでくれと泣き叫ぶ姿は悲痛だ。





 富竹。
 最終的に鷹野を救う彼は、執筆者を助けてくれるだろう「読者」の姿を表している。
 本当は「子」の物語を認めさせればそれで良かったのではない、自身のその思いを認めてもらいたかったのだろう。
 その彼を「執筆者」が殺した時点で、惨劇を防ぐことは不可能となる。





 赤坂。
 彼は圭一同様、外部から来た者、即ち「読者」に当たる駒。
 梨花は惨劇の運命を語り、彼に助けを求めた。
 読者には読者の住む世界があり、助けに向かうことはできない。
 しかし世界を超えて声なき声が届き、彼は奇跡のように助けに現れる。





 そもそも一人死んで一人消えるっていうのからして、「執筆者」と「子」なんだよね。
 二人で一人だから、死んだら死体はひとつだけ残りもう片方は行方不明。

 最初のバラバラ死体は、人類による神の殺害。
 「執筆者」の体をバラバラ、駒に分割したことを暗示している。
 行方知れずの右腕は、神の子である「子」が失われたことを示す。

 二年目の事件。
 北条の義父は「読者」で、それと添い遂げた北条母はプレイヤーとしての「執筆者」。
 兄の悟志は「子」の物語。妹の沙都子は「執筆者」の物語。
 執筆者の物語によって読者は殺され、執筆者は消え去る。
 本末転倒。

 三年目の事件。
 夫婦の死だからこれも二年目と同様の構図だね。
 梨花は「子」、梨花の母も「子」。
 即ち、駒としての「子」とプレイヤーとしての「子」。
 婿養子の父は「読者」。
 「読者」が死んで、それと添い遂げたプレイヤーの「子」も消え去る。

 四年目の事件。
 悟志の叔母殺害は、「子」であるベアトが六軒島の親族を殺害するという、うみねこの猫箱の中の惨劇のことだろう。
 「執筆者」を苛む者たちを殺し、「子」である自分も消えることで、「執筆者」が人間に成ることを願った。

 五年目の事件。
 「執筆者」である鷹野が自らを救う「王子」である富竹を殺して失踪。
 「子」の物語を全ての人間に認めさせるという強固な意志が絶対の運命を作る。





 大石。
 これは「読者」かな。
 「執筆者」を失った「読者」。
 神、「執筆者」が殺され、その真実を調べている。
 古株の「読者」で新人の「読者」である圭一に色々と吹き込む。
 「他人の意見を鵜呑みにするな」を体現したキャラ。

 あるいはオヤシロ様の使いから。
 「執筆者」が仕込んだミスリードの擬人化なのかも。





 入江。
 外部から来たから「読者」。
 梨花と沙都子。「子」の物語と「執筆者」の物語を検体として、雛見沢症候群、真実は二つという思想を研究している。
 鷹野「執筆者」は彼こそが真相を解き明かすのではないかと期待している。





 小此木。
 こいつは難しいな。
 当て嵌めるなら、富竹の対。
 鷹野(執筆者)に対する読者枠。

 作者と読者の二者の間で物語が生み出される。
 なら、その物語を殺せるのもその二者である。
 鷹野は物語を殺す執筆者の姿であり、小此木はそれに従い共に物語を殺す読者の役。
 心には表と裏があり、執筆者の裏の心に寄り添おうとするのが富竹であり、表の心に寄り添うのが小此木という対比。

 うみねこでは、誰にも理解されない絵羽の心に寄り添い、愛がなければ視えないと言った。
 これはそのまま、誰にも理解されない鷹野の心に寄り添っていると視ることが出来る。
 破滅の道を行く鷹野に帯同する小此木は、忘却の深淵に落ちていくベアトと共に消える戦人に重なる。

 小此木、まさかの「王子」枠。
 私は困惑を隠せんぞ。
 しかしどう考えても「王子」。
 しかも執筆者の真実と共に読者の真実も消える覚悟で共に行くという超重要な役。
 ある意味私が一番共感できる役じゃあないか。
 




 ……………。
 うみねこ再読の時も思ったが、ひぐらしを再解釈して改めて思う。
 頭おかしくなりそう。

 出てくるキャラを大別すると、「執筆者」と「子」と「読者」即ち「王子」だけじゃん。
 その三者も大本を辿れば全員「執筆者」じゃん。
 我は我にして我らなり。
 最終鬼畜全部我!
 のっぺらぼうの怪談かよ。

 そもそもひぐらしでは「執筆者」登場してないじゃん。
 なのにこんなにも「執筆者」の存在感が濃密。
 どこもかしこも、どいつもこいつも「執筆者」がくっ付けられる。
 世界が「執筆者」で溢れている。
 「執筆者」がゲシュタルト崩壊して頭がおかしくなりそう。
 今はもう「執筆者」がデフォルトでコラ元。
 世界の全ては「執筆者」に塗り潰され、むしろ「執筆者」から逃れることこそが、この世界の急務にして使命にして宿命。
 キコニアではその世界からの脱出劇が描かれる。
 小此木クソコラグランプリはマジなヒントだった。

 ありえないものが視えるってそれ、雛見沢症候群に感染しててしかも末期じゃん。
 なく頃に世界では空気も「執筆者」。
 8MSなんだよ。
 その空気を吸った私の体内にも8MSが感染して脳まで達してしまったのだろうな。

 あ、これ全部誉め言葉ね。


 竜騎士さんはホントおっそろしいキャラを作り出したよな。
 現実に等しい妄想で満たすことができるって言ってもさ。
 このレベルで物語の表と裏を合わせてくるとか。
 さらには同じ基礎から別の物語さえ生み出している。
 うみねことかキコニアとか他にもね。
 このキャラさえいれば無限に物語が生み出せるとか。

 つまりは、竜騎士さんがそれだけ凄いってことなんだけどさ。
 竜騎士さんはパラレルプロセッサーで、頭の中に「執筆者」という人格がいても不思議じゃないほど。
 一時期竜騎士さんは複数いるとネタで言われてたけど、あながち間違いじゃないかも。


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  1. 2020/02/05(水) 20:06:22|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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