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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】執筆者と物語と読者の関係

 私の説は、執筆者が自身の心の中の世界をゲーム盤に表現しているのがなく頃にシリーズの物語で、そのゲームで読者と対戦している、というもの。
 もちろんキコニアも同様であると見ている。

 そんなわけで、そんな執筆者と読者の関係がどの様にキコニアのゲーム盤に反映されているのかをやりたい。





 人生とは、自分を主人公とした物語である。
 だが執筆者は、自身が主人公である物語を諦めた。
 誰とも出会わず、ゆえに何も起こらない、つまらない物語だと。

 そしてその代わりとして、自身の代わりに主人公となる者を生み出し、その者を主人公とした物語を紡ぐことにした。
 それがヤスだ。

 ヤスは執筆者が自らの脳の中に住まわせている別の自分。
 これは一つの脳を共有している都雄とミャオに重ねられている。

 執筆者は物語としてのヤスを生み出した母でもある。
 そして物語の主人公は物語を生み出した母を知ることはない。
 都雄の母はアバターを用いたミャオであり、そしてその母のアバターは都雄を置いて出ていった。
 そこに重ねられているのだろう。

 で、執筆者は生み出した物語を読者に託した。
 読者は物語を読み解き、自身の解釈で物語をさらに広げて育てる。
 つまり、物語にとって読者は育ての父。
 それは都雄にとっての藤治郎に重ねられる。

 要は、物語は執筆者の下で生まれ読者の下で育てられる、ということ。



 他にもゲームとしての関係がある。

 物語はゲームでは駒。
 主である執筆者の代わりに読者と戦う。
 うみねこで言えばベアト。

 読者はその対戦相手として戦うライバル。
 読者はゲームにおいては後追いなので、対戦者は教師的な立ち位置にもいる。

 幾度も戦いを繰り広げ信頼を築き、今は相棒となっている。
 これが都雄とジェイデンの関係に重ねられて表現されているのだ。

 でも実際は、都雄の陰に隠れる形でミャオ=執筆者も戦っていた。
 執筆者は代理の物語の一歩後ろを着いて歩き、自身の物語を紡いでいたのだ。
 ジェイデン=読者がその存在に気付いて、関係を深めていく。
 これがキコニアの現状。


 都雄=代理の物語にとって、読者は父でありライバル兼相棒で、執筆者は母であり自身の陰に隠れた妹である。
 都雄を中心に関係を整理すれば自然とこの形になる。

 よって、藤治郎=前回のジェイデンは当然のようなものなんだよね。
 よく考えてみれば、だけど。





 相手がゲームを通して何を言っているのか?
 思うにキコニアでは、推理力よりも翻訳力が必要なのだろうね。
 うみねこでもホワイダニットをより深く知るためには翻訳力が問われるしな。
 咲直前の再読は、自分でもよくあれを翻訳できたなと思うくらいだし。


 翻訳についてだけど。

「俺たちで二人で話し合って決める。他の連中の言うことなんて気にしない。……この土地のルールで、俺はミャオちゃんとの仲を深めることにするぜ」

 まあ要はこれなんだよな。

 読者はそれぞれ、自分と相対している者との二人で決めれば良いことで、外野に迎合する必要は一切ない。
 賛同の多寡など何の指針にもなりはしない。
 世間一般に流布されているものなど一般論でしかないのだから。

 あるのはゲーム盤とそこでのルール、そして自分と相手のみ。
 相手はゲームを通して自身の心を、思考を表現する。
 だから読者はゲームを通して相手の心を、思考を推し量る。
 表現物の翻訳。
 物語は二人で生み出すのだ。


 まずは自分を一般読者ではなく、自主独立したプレイヤーであると自覚しなければならない。
 自分というバケモノの巣の主であるとね。

 例えばうみねこEP5で、戦人が読者の感情や思考の移入先として失格である、みたいな文句を言う人がいたけれども。
 それは読者としては、まあ間違ってはないかもしれないが。
 プレイヤーとしてならそれは言ってはならないもの。
 自らの思考を戦人に委ねた時点で、自らの意見は自らが決めるプレイヤーではなくなっているわけだからね。
 あれはプレイヤーとしてさっさと自立しろと促されているわけだよ。

 相手に思考を委ねた時点で、生殺与奪の権利を相手に委ねているも同然。
 思考の着地点は相手が決める。
 それは自ら魔法に掛かりに行ったようなもの。
 それを拒むために、自らの意見は自らで決めるわけだからさ。

 そこが出発点。


 でさ、私の経験なのだけど。

 これこそは、という思い付きを得て、興奮してそこを掘ることに集中するわけだけどさ。
 だいたいその興奮で視野が狭くなっているから注意が必要。
 がーと一度に掘ったら、一度立ち止まってその穴から出て、他の視点で見てみる。

 自分視点に偏ってしまっているから、一方的かつ単純なものになっているかもしれない。
 バランスを取るために相手側の視点に立って考えてみる。
 相手視点から的の修正を図り精度を上げるわけだ。

 そもそも相手も色々考えているわけで、単純な思考をしているわけではない。
 同時に複数の感情を抱いたり、矛盾した考えだってする。
 愛が憎しみに変わるように、逆に憎しみが愛に変わったりもする。
 時間の変化によって、感情や思考、さらには目的すら変わったりもする。
 それらを一つのゲームに纏めているわけだから、単純で終わるわけがないのだ。

 自分一人の視点では単純な思考になるから、相手の視点も合わせて複雑に多角的・多層的に視る。
 で、相手に合わせて行ってそちら側に偏り過ぎたら、今度は自分視点にまた振る。
 別の点と結び付けたりして自分の思い付きで話を広げる。
 そしたらまた相手視点に合わせて行く。
 
 自分視点と相手視点の天秤を揺らすわけだ。
 それが相手と話し合い、仲を深めて行くことだと思うのだよね。
 私の実感としては、だけど。



 ぐだぐだ書いたが、要は目的さえ見つければ手段は後で付いてくる。
 ガンジーの有難いお言葉どおり。
 「ゲームを通して対戦相手と仲を深める」、この目的さえしっかり据えて歩み続ければ、推理や考察という手段はどうとでもなる。
 逆に、変に一つの推理に固執すると大切なものを見失ってしまったりする。
 で、“本気”で仲を深めたいなら、それまで絶対に諦めないのだから、いつか必ず手段は付くと。
 まあそれだけのこと。



 私がプレイヤーに皆に聞きたいことがあるとすれば、それはまさしく、相対している対戦相手の人物像をどう捉えているのか、というものだね。
 我々がゲームをしている以上、その向かいに確かにいるだろう存在。
 それはどこの誰で、どんな性格で、どんな経緯でそこにいるのか?
 何のためにゲームを作り、そして何の目的で我々相手にゲームをするのか?
 ひぐらし、うみねこ、そしてキコニア。
 これほどの文量を割いてまで、何を訴えたいのか?

 うみねこではゲーム盤上の犯人やトリックに終始してほぼ無視されていたからなぁ。
 キコニアではそういうのがない分、対戦相手のことに踏み込んだ考察が見れそうだと期待しているのだが。
 どうだろうね。
 それともやっぱ、うみねこで十分にその辺を固めてないと駄目なのかな。


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  1. 2020/01/11(土) 20:05:04|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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