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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


バケモノたちが嘯く頃にを執筆者視点で読み解く【前編】

 二投目。

 LINEノベルで竜騎士さんの作品、バケモノたちが嘯く頃にを読んでいるで、なく頃にの執筆者関連から考察してみた。
 一日三話ずつしか読めなかったから、考察はそれに合わせてちょびちょび書いていたので、ちょっとぶつ切り感があるかも。
 今回は15話まで。

 以下、ネタバレ防止。






















 なく頃にシリーズと同様に同じ執筆者にとって描かれたという設定であるとして考察したい。

 同一のものが解釈を変えて別の形で表現されている。
 そのように視ると馴染みあるものが目に付く。


 まずは“バケモノ”という単語。
 これは「うみねこ」でも出てくる言葉だ。
 生きている猫を愛で、死んだら腸を食らいて愉しむモノたちを指す。

 ニンゲンの一生は一編の物語である。
 生かしておけば新たな物語を紡いでくれるだろう。
 しかし、殺して腹の内に隠した真実を食らうのも乙なものである。

 人は誰しもが己の腹の内に隠した真実に従って世界を生きている。
 各人の行動様式。
 駒の動くルールと言っても良いかもしれない。
 生かして様々運命、シチュエーションに放り込んで鑑賞するのも良い。

 真実を決めつける、それが殺すということ。
 食うとは、己の中に取り込むこと。
 つまり、真実を決めつけ既知とし、己の世界に取り込むという行為。

 それが客観的な真実であるかはどうでも良く、それが己にとっての真実であれば良い。
 己の世界はそう定まったのだから。

 要するに、自身の心の中のゲーム盤での遊戯。
 人を食らい糧とするモノをバケモノと定義するのなら、それを意識的にそして継続的にする人種はバケモノと呼べるだろう。


 この“ゲーム盤”、即ち魔女の領地が、バケモノの“巣”である。
 外界を観測し、人を食らい糧とし、心の中に構築した“世界”。
 故に“巣”は不可侵。
 その中で行われた行為がどれだけ残虐だろうと理解不能だろうと、それを誰にも掣肘されない権利を持つ。

 バケモノはその“世界”を使って、自身の心を表現する。
 時にはバケモノ同士で、交流という名のゲームを行うこともある。
 だからバケモノ同士は互いの“世界”を尊重し合わなくてはならない。

 そもそもバケモノは人とは価値観が異なるのだ。
 “大多数である人間の価値観への反旗。”
 それが“バケモノの尊厳”。
 即ち、自分は自分であるとする自主独立の気概。

 人と同じであればそれを表に出すことはできる。
 それを人と共有して同じ世界を作っていける。
 しかし誰とも共有できない世界であれば、その世界を育てていけるのは己一人だけ。

 だからその世界を長年守っているのを知れば、どれだけ大切にされてきたものなのか解るだろう。
 だからその世界に理解を示してくれる人に出会えれば、どれだけ嬉しいことか解るだろう。

 磊一と茉莉花の邂逅で描かれたのは正しくそれ。

 「うみねこ」は理解してくれる相手を探すだったから、相手に出会った話になったということは、一歩進んだなーという感慨が沸くな。





 茉莉花は犠牲者の絵を描くことで、「犠牲者をノートに閉じ込めてさらなる虐殺という、残虐かつ執拗で、さらには丹念で繊細な、……美しい虐殺」にまで昇華している。
 この“ノートに閉じ込める”というのが、己の“世界”に取り込むことであり、駒として“ゲーム盤”に置くことである。

 人の人生が一編の物語であるならば、その最期までを観察しそれを反芻して楽しむ行為は、読者的な楽しみと言えるかもしれない。


 それに対して磊一は、死という結果を確定する前に無限に過程を想像して楽しむ。
 どのような結末が良いか、どれだけの過程が想像できるか。
 こちらは創作的な、作者的な楽しみ方と言える。

 それは物語のラストを書ききるまで楽しめる。
 そして、ラストまでを書かないということは、その物語への興味を喪失したことを示す。
 だからまあ、物語を最後まで書ききるのは作者としての責務であり、物語に対する敬意なのだなと。

 八城さんは一度それを放棄したらしいけどねw
 でも最後まで書ききったよな、と。
 だからこその重い言葉だな、と。
 感じるわけだ。

 「うみねこ」はやり直しの話だしな。
 というか、復活を前提として死ぬ話か。
 この死後の約束された復活というキリスト要素は「キコニア」で描かれるのだろうけど。

 まあ、この辺は「バケウソ」にはあまり関係ないがな。
 ちなみに、「ひぐらし」のキリスト教的要素はバベルの塔をモチーフとした、神に並び立とうという話であり、言葉を乱されたことで引き裂かれた輪を繋ぎ直す話。
 「うみねこ」は、神の子を産んだマリアの話であり、神と共にあるインマヌエルの話ね。


 話を戻して。

 読者と作者は作品のみと向かい合い、物語を読む楽しみと物語を書く楽しみにそれぞれ耽っていたわけだけど。
 互いに向き合い、相手の楽しみを知ることで、異なる角度から楽しんだり、新しい発見をしたり、“世界”を広げることができるようになるわけだ。

 これは“作品”即ち“物語”が、“ゲーム盤”即ち“心”で作られたモノ。
 要するに、自己表現だから。

 ゲーム盤の上に駒を置き、それらをどう生かし、どう殺すのか。
 物語をどう生かし、どう殺すのか。
 遊び方には趣味嗜好がモロに反映するからね。
 とはいえ、表面的なものは修飾に過ぎない。
 その裏に隠されたモノこそがネタなわけで。

 読者はそれらを考察することで、作者の楽しみ方を追体験できる。

 そして読者の考察もひとつの“物語”。
 それを読むことで作者も読者の楽しみ方を追体験できる。

 そうやって“世界”を広げるわけだ。
 それを意図的に行ったのがなく頃にの“ゲーム”。
 心の交流なわけだ。



 取り合えず二人の交流を、読者的な存在と作者的な存在の交流と解釈してみたが、他の解釈もしてみようか。

 茉莉花が執筆者で、磊一が執筆者の分身にして駒である対戦者、ヤスであると視ることもできるだろう。
 磊一の“無限の虐殺妄想の黄金郷”がベアトリーチェ要素が根拠の一つ。

 幼少時執筆者はヤスの後をついて生きてきた。
 ヤスという夢を紡ぎ、それを実現するために自身の現実を追従させた。
 そうしてヤスという人生―ー物語―ーを通して、人としての生き方を学んだ。
 それは先導。
 つまり、教師役であったと解釈できる。

 この二人の出会いが正しく“ゲーム”の始まりなわけで。
 二人で一人の執筆者。
 それを一人と視るならば、一人で物語を紡ぎ、それを自身で読んでいることになる。
 だが二人と視るならば、ヤスが主人公として自身の物語を紡ぎ、それを執筆者が読んでいるという形になる。
 つまり、作者の楽しみ方と読者の楽しみ方で分けられるわけだ。


 さて、この二人の交流なのか、それとも現実での作者と読者の交流なのか。
 ゲームの始まりか、ゲームの結果か。
 まあ、二人のゲームを用いて、執筆者が読者と対戦したわけだがら、その二つのゲームは重なっていて。
 だから解釈も重なり合っていても良いんだけどね。
 自己表現だから、執筆者の内なる二人のことだろうし。
 バケモノとの交流の指南書的なものでもあるだろうから、読者と作者のことでもあるのだろうし。

 この重ね合わせることで異なる解釈を両立させるという表現は便利だよな~。
 私には使いこなせないけど。





 抑圧されることでバケモノは生まれる。

 周りと価値観が違うがために自己を表現できなくなり、抑圧された自己が何らかの形で噴出する。
 その表出した形が抑圧された自己を代わりに表現しているわけだ。
 そして、それをする“巣”は自己実現の場だ。

 創作する人たちは作品を作って自己の世界を表現しているのだと思うが、それが余人には理解不能であるのがバケモノなのだろうな。
 理解して欲しいと願うと、より皆に理解される形にしようとしてしまいがちだけど、大衆におもねず尖った作品を作る。
 大多数が支持する意見に流されず、自分の意見を貫く。
 自分の道を曲げれば、それは自分ではなくなるから。

 どれだけ理解不能なマイノリティな価値観だろうと、バケモノも人の内であるのだから、本来は人に理解可能なはずなんだよね。
 でも人は自分に理解可能な形で理解しようとするから、バケモノをそのままの形で受け入れられず、理解可能な形に歪めて受け入れようとしてしまう。
 未知を理解しようとすると思考するのは負担だから、なるべく負担を少なくするために自分が知っている形に収めようとする。
 未知を知り世界を広げるのではなく、既知の範囲に世界を押し込もうとする。
 それが人だからな~。

 何度理解したつもりになっても、その先にまだ未知があるのがバケモノ。
 理解されたらバケモノじゃなくなるからな。
 それでも人に理解可能であると思考し続けるのが人としての道だろう。



 さて、家入京之介が登場したわけだけど。
 これは「ひぐらし」の入江京介と同一の駒であるのは一目瞭然だろう。

 問題はなぜその駒を用いたのかという動機。
 今回のゲームでその駒に与えられた役割だ。

 なにせ入江とは存在の格が違う。
 未熟とはいえバケモノを圧倒しているのだから。

 そんなわけで、執筆者から見る入江京介という駒とはどんなものなのかを考えたい。


 執筆者はパラレルプロセッサーの様なもので、頭の中に異なる人格を飼っている。
 「ひぐらし」はそれを“脳の寄生虫”という形で表現している。
 入江はそれを研究する医者である。

 「ひぐらし」では入江は一見端役だったけど、その観点からすると実は重要な駒であることがわかる。
 入江という駒は、パラレルプロセッサーの二人の人格を研究・分析するために生み出されたのではなかろうか。
 そうであるならば、二人を俯瞰するさらに上層の存在と言える。

 自己分析するには自分のことを俯瞰してみなければならない。
 つまり、自分の上層にいる自分を作り出す行為と言える。
 そうして下位の自分を駒に貶めて、上位の自分が造物主に上り詰めたのだろうからね。

 入江は最上クラスの階層の駒じゃないかな。
 「ひぐらし」のラストでも、現状解決していない雛見沢症候群を未来で解決することを期待されるという役割を持たされているわけだし。


 そうなると家入は、造物主である執筆者にほぼ等しい立場を担わされていると考えられるわけだ。

 先ほども書いたように、執筆者には駒としての下位の執筆者と造物主である上位の執筆者が存在する。
 つまり、茉莉花が下位の執筆者で、家入が上位の執筆者で、自己分析しているのをあの様に表現していたのだと考えられる。

 バケモノを理解し解体するモノ。
 バケモノを食うバケモノ。
 さながら自らの尾を食う蛇のようなさま。
 自らを分析して食らい、再解釈して吐き出すことで永遠を得ようとしているかのよう。


 これをさらに茉莉花を読者として解釈するのも面白い。

 読者が作者の楽しみ方を共有し、作者が読者の楽しみ方を共有した。
 それに対し家入は、共有する感情を排し、冷徹に読者の思考を分析する。
 つまり、読者を創作の糧にしようとしているのを表しているのではなかろうか。

 周囲の人間を観察して芸の肥やしにすることは、創作をする人は普通にやっていることかもしれない。
 しかし自分の作品を糧として与えて読者を肥え太らせて、それをさらに観察して自らの糧としようとする者はいるのだろうか。

 バケモノを育てて食らうバケモノ。


 さらに疑似餌というのは、読者に解り易い見た目をした囮。
 その背後に本体が隠れているさまは、囮とした駒の背後に隠れた主を表しているのだろう。
 つまり、疑似餌はヤス。

 ヤスに引っ掛かるなら、裏に隠れた存在にたどり着けない。
 そしてそのさまを、観測、観察、診察される。

 考察とは所詮妄想。
 執筆者のそれも、私のそれも、ただただ己の世界を構築しているに過ぎない。
 それは主観であり、客観ではないのだ。
 だから他者の世界を食らい、己の世界の糧とする者はバケモノなのだ。

 大勢に迎合するのはその逆。
 己が身を差し出し、他者に同化しようするもの。


 己を食らい、読者を食らい、さらに成長しようとする。
 執筆者八城は本当バケモノだよ。






“妄想が現実に侵食し、自分だけの世界のルールを周囲に押し付け、”

 これを実に意識的にやったのが「うみねこ」。
 自身の妄想を他者に感染させ、それを真実だと信じ込ませる。
 そういう“魔法”。
 マイノリティだったものがマジョリティとなり、異常こそが正常となる世界。
 そこでは正常な感覚を残した者こそが、異常でマイノリティなバケモノとなる。
 世界がどうだろうと自分は自分。
 それこそがバケモノの素質なのだから。

 なるほど。
 バケモノを探し出すには良い手段だ。


“思考は言葉になり、言葉は行動になり、行動は習慣になって、習慣は最後には無意識に至ります。”

 これが「なく頃に」の運命だよな。
 現実となる前は卵の中にある状態。
 卵が割れれば即現実となる。
 現実とほぼ等しい夢。
 約束された運命。

 「うみねこ」でルーレットの指し示す目が違っていたら、実際に惨劇を起こしていただろうからなぁ。

 後、この妄想の習慣化が、執筆者が後天的なパラレルプロセッサーになった原因だろう。


 フェザリーヌが自身をバケモノと称し、バケモノらしくあろうとする面であるのなら。
 家入は自身のバケモノを根絶して人間に矯正しようとするアンチ的な一面を担っているのかもしれない。
 バケモノであることに対する罪悪感的な。
 ま、外からの同調圧力から生まれたのだろうけど。
 あるいは、その外部の圧力そのものを表した駒なのか。

 ヤスもまた、自身と共にいる道と、自身が消えて主が人間となる道、どちらか迷っていたからな。
 ま、こちらはありのままの自分を人として認められたいという願いだけど。
 磊一が茉莉花に対して、バケモノとして生きる道へ導くのか人間として生きるの道へ戻そうすべきかという迷いは、それが仮託されているのだろうし。

 人かバケモノか。
 その葛藤が物語に描かれている。
 人か祟りか。人か魔女か。
 それらもそこから発生したテーマなのだろう。


 臨床心理学かその類で、箱庭に物を置いたりして心を整理していくみたいな治療法ってなかったっけか。
 “ゲーム盤”ってこの箱庭に相当するのかも。

 そうだとすると良い方向に向かっているような気がするな。
 「キコニア」は自分の足で歩いて行こう的なものになると思うから。


 家入はケダモノ。
 もっともらしく振舞い、それ以外を許さない。
 それは傲慢なる真実。
 か弱い真実たちの敵。
 大多数にとって真実は常に一つなのかもしれないが、“世界”が異なればそこでは真実はいつも二つであるのかもしれないのだ。


 “受け入れてくれた”“奇跡的”“私のことを理解できる人間なんて、誰もいない。”
 磊一はベアトの待つ王子にも重ねられているようだ。

 来るなと言っておいて、本当は来て欲しい。
 「うみねこ」のEP1での“殺されるかもな”と言った直後の留弗夫の如き所業。
 私は良く理解しているぞ。
 「うみねこ」のゲーム展開でもう慣れたわ。
 あれだけ遮られて、それでもなお貫くことができる人は希少だわな。


 この〝王子役”は「ひぐらし」では圭一が当て嵌められているのだろうね。
 外からやって来て手を差し伸べてくれるわけだから。

 で、その「ひぐらし」はその〝王子役”が寄生虫に感染して疑心暗鬼に陥り、妄想を現実だと思い込む話。
 で、その背後で羽入、即ち執筆者がずっと謝り続けている。
 つまり、妄想を感染させる過程で意図しない結果に至り、迷惑をかけてしまうという可能性を形にしたカケラなのだろう。
 そもそも雛見沢症候群はだんだん無害化していく傾向がある。
 要するに、妄想感染で害を与えたくない、妄想は周囲と馴染む形に治めようとしている、ということ。

 羽入は当初、自らがババを引くことで、自分以外の皆を円満にしようとしていた。
 つまり、執筆者自身は幻想に消え、その代わりに妄想であるヤス即ち梨花を現実化して人の輪に加えてもらおうと画策していたわけだ。
 妄想を感染させ、しかしそれで害を与えず、現実に馴染むように。
 その際の歪みは全て自分が引き受けるから、と。

 真実は一つ。
 正常な人間は一つの人格のみ持つ。
 正常な人間たちの輪にヤスを迎え入れてもらうために、自身は病気として切除されようとしたわけだ。
 しかし、圭一たちは羽入に手を差し伸べ輪の中に入れた。
 そして羽入は人として現れた。

 つまり「ひぐらし」のゲーム、箱庭療法をした結果、自身の本当の望みを自覚したというわけだ。

 その結果に至る前は、妄想を感染させヤスを人間だと認めさせる計画を温めていたと思われる。
 それが現実化する前の卵の段階だった。
 なので結果を踏まえ微修正したものを現実で実行したのが「うみねこ」。
 ヤスという妄想を感染させ、人間だと認めさせることで現実化させた。
 そしてその後ろで、自身にも手を差し伸べて輪へ入れてくれる〝王子”を待つ。

 で、その「うみねこ」のゲームを踏まえた上で開催されるのが「キコニア」。
 〝巣”よりでて人として生きようとする話になるはず。

 人は物事を既知の範囲に収めようとする傾向にある。
 理解できる既知の範囲の人間を正常な人間として、理解できない人間を異常であるとして排除する。
 でもどれだけバケモノ扱いしようと人は人。
 他人は自分とは異なるわけで、その異なる部分を受け入れることで、人の範疇は広がるわけだ。
 だからいつかバケモノも人になる。

 人の輪はババ抜きではなくジジ抜き。
 二枚一組、二人で一人。
 仲間外れは嫌だもんな。

 ちょっと前に、「ひぐらし」は真実と幻想を反転させ夢に閉じこもろうとする話と書いたが。
 今回考察した、妄想を感染させ真実とする計画を実行する前にゲーム盤を使って心を整理した結果を物語化した話、の方がより正しそうだな。


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  1. 2019/12/21(土) 21:13:17|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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