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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


祝 CS版うみねこ咲 発売決定

 でもまあたぶんきっと、新たな考察は期待できないんだろうなぁ。

 常々思っていたんだけど、新規でうみねこやる人って真面目に考察している人っているの?
 つまり一話毎にちゃんと考えてから次を読む人なんだけど。

 ほとんどの人は話の続きが気になって先に進んじゃうよね。
 私も普段はそのタイプだからわかる。
 でもうみねこは対戦ゲームで、そのゲームはコミュニケーションの様なものなんだよ。
 相手への返事はちゃんとしなければそれは対話にはならない。
 相手の話を聞きたいだけでは、それは演説を聴いているようなもの。
 それってゲームをしていると言えるのだろうか。
 本気で推理しているなら、納得するまで考えてから先を読むと思うのだが。

 PC版をプレイしている層の方が熱心だと思うが、そちらが咲をやっても思考が内容から一切外に出ていないんだよね。
 対話とは話を広げるためのものだと思うのだが、話が閉じていく方向に行ってしまっている。
 もはや対話をしている意識すらないんじゃないか。
 ただ演説に相槌を打っているだけ。

 話の内容もさ、我らの告白が「切り落とした部位に気付かない読者がいる」というもので、ラストノートが「切り落とされて気付かれなかった者がいる」で、話が明らかに繋がっているのに誰もそれに気付かない。

 我らの告白とラストノートの間の行間(?)を読もうよ。
 明らかな皮肉じゃないか。
 それが判らないということは、ラストノートまでに我らの告白への返事を返さなかったということだろう。
 相手の話をただそのまま受け取っただけ。
 言葉の裏を読もうよ。

 うみねこは劇を見せてそこから推理してくれと言っている。
 つまり、見せなかった劇の裏側を考えてほしいということだろう。
 見せなかった部分、隠した部分に真相がある。
 それなのに見せてもらったもので満足する。
 それじゃただの観客じゃないか。

 もう読者には期待しない方が良いのだろうか。







 これだけではあれなので、CS版のOP曲「重ね合わせの猫箱」の歌詞でも考察することにする。
 歌は佐々木李子さんで作詞作曲は志倉千代丸さん。

 まずは最初の部分、“見る者を見返すような 描かれたその視線”。
 見る者は読者。
 それを見返す視線が描かれたものであるならば、描いたのは作者。
 つまり、物語の中の虚構の人物が現実にいる読者を見返しているということ。
 見返すとは、意志を持っているということ。
 要は、作者は虚構のキャラを意思を持った人間として描きたいということ。

 次に“深き愛に溺れるほど 糸は絡み合う”。
 愛は作者が自身の作ったキャラに向けたもの。
 即ち、愛によって作者の真実とキャラの真実、作者とキャラの運命が絡み合っているということ。

 続いて“第四の壁が破れ ロジックは迷宮入り”。
 第四の壁は劇の舞台にあるとされる舞台と客席を隔てる見えない壁のこと。
 つまり第四の壁を破るとは、作られた世界側が現実世界を認識する、あるいは干渉すること。
 それによってロジックが迷宮入りするので、要は現実のトリックが虚構のトリックに差し替えられたことを示す。

 “目に見えぬ支配者は”は姿を隠した黒幕。
 虚構のキャラクターの陰に隠れた作者。
 駒の背後にいる主。
 要は、愛がなければ見えないからそいつを推理しろってこと。

“出来過ぎたゲームの 閉ざした箱もいつかほころび”
 出来過ぎたというのだから当然裏があるということ。
 表の結末で閉ざしてもいつかはほころぶ時が来る。

“終わらないゲームも 散りばめられた別れた道も 舞台設計”
 真実が二つあるから議論のゲームは終わらない。
 別れた道はそれぞれの真実に繋がっている。
 そういう設計の舞台。

“時空を惑わせるミステリー 存在さえも認められない”
 二つの真実、二つの世界が入り混じっている。
 即ち、時空を惑わせるミステリー。
 人間は片側しか視ないから、そのミステリーは存在さえも認められない。

“推理は夢想となり よぎった胡蝶の夢は 何処へ行くの―――”
 自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも自分は蝶が見ている夢なのか。
 両方の真実を推理できなければそれは夢想となる。


 歌詞はかなり攻めてるな。
 CS版は前からそうだったけど。
 「イナンナの見た夢」なんてタイトルからしてモロネタバレ。
 イナンナの冥界下りからすれば、生者と死者の交換、あるいは表と裏の入れ替えを暗示しているんだし。
 「重ね合わせの猫箱」のタイトルはそれをさらに直接的にしている。

 重ね合わせの真実を人間は視ることができない。
 片方を視たらもう片方には目を閉ざす生き物だから。

 まぁそれも全部ゲームの出来が良すぎた結果なんだけどね。



 あ、あと歌詞と言えば「明日の夢」の歌詞だけど、あれは表と裏の二人が人として生きる明日という夢を歌ったものだろうね。
 “マリア”と呼びかけるところからヤスが主へ伝えたい想いになっているように思う。
 主である真里亞に人として生きて欲しいと願っている。
 その曲をラストノートの最後に流したということはつまり……。

 ああ、言葉にならないな……。
 簡単に言えば、“明日を生きる希望の牢獄”からの解放を願っている。
 つまり、本来はその開放を祝福する場面なんだよね。
 “人は芽吹いたら人に成る”
 人となるという願いが咲く。
 そういう場面なんだよ。
 ここに込められた万感の想いは、これまでの全文量に等しいだろう。

 その薔薇はきっと誰にも視えない。
 だが誰が何と言おうと、私は咲いたと言うぞ。
 風に吹き飛ばされていたが、ベアトリーチェの魔法で蘇ったのだ。

 少なくとも私の心にはその種は辿り着き、そして芽吹き咲き誇っている。
 だから人は捨てたもんじゃないし、ベアトリーチェは願いを叶えてくれる本物の魔女なんだよ。


 相反する願いを共に叶えるための猫箱。
 その逆側では貴女の子が人と成り咲いている。
 貴女の願った通りに。
 だから貴女は明るく振舞っているのだろう。
 でもそちら側からではその貴女の心が視えない。
 なかったことにされてしまっている。
 それが私には哀しいのだ。


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  1. 2019/11/23(土) 19:49:56|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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