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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


キコニアの考察方針

 フラグメントも読了。
 ゲーム盤で開陳された様々な考え方も大雑把に把握できたし、敵プレイヤーがゲーム盤を作った目的に迫りたいところだね。
 あ、先に断っとくけど、敵プレイヤーが用いる手段やら過程についてはやらないよ。
 宗教的なモチーフには詳しくないのだ。
 その辺は他の人に任せる。
 例えるならそれらは楽譜に掛かれた音符で、私にとっては何の曲なのかがわかればいい。
 核心は、なぜその曲を作ったか、だからね。

 以下、ネタバレ注意。



















 OPの歌詞も読み返した結果、前回の考えで行くことに決めた。
 大雑把であてずっぽうだとは思う。
 今回、黒幕のプレイヤーを探すには、駒視点で見ない方が良いと判断したからだ。

 この辺は感性なので言語化は難しいが一応してみる。


 なく頃にシリーズで重要なのがゲーム盤、駒、プレイヤーという概念。
 ひぐらしではプレイヤー視点でゲーム盤を俯瞰することが大事だとされた。
 これは黒幕の必然の意思と、その他の駒の気紛れな意思による偶然を切り分けることが必要だったからだ。

 しかしだからと言って、うみねこでも俯瞰して視るのが良い、というのはある種の罠であったと私は考える。
 うみねこは作中作者が全てを描いた物語である。
 つまり、全てが作中作者の意図によるもの。
 作者が描いた絵を見せられているに過ぎない。

 作者が読者に挑戦する形のゲームなので、読者がそれを見なかったりリアクションをとらなかったりしたら、意図が外れてくやしがったはずだ。
 逆に言えば、描いた絵を見て反応してくれたらそれは作者の思うつぼなのである。

 読者の慣れを突いて仕掛けるのが竜騎士さん流らしいので。

 だとすると、うみねこではミクロのことを考えずにマクロのことを考えてしまうと失敗する可能性が高かったのではないかと思う。

 で、私はそのうみねこでは園芸倉庫に魔法陣を描いた理由から推理を始め、犯人の細々とした思考を積み上げて、その積み上げたものの上から俯瞰することにしたわけだ。
 これは黒幕のプレイヤーがゲーム盤の外から俯瞰しているのと同時に、黒幕自身が犯人としてゲーム盤の上に駒として置かれているためである。
 つまり、駒の視点の思考を積み上げればプレイヤーとしての視点に至るだろうという方法論だ。

 これに対してキコニアは、読者に、あるいは主人公にプレイヤーの席は与えないときた。
 うみねこでは黒幕は明確に対戦者を意識してゲームを始めた。
 しかし、キコニアの黒幕は対戦者がいない状況でゲームを始めている。
 それは駒とは隔絶したところに黒幕がいるということ。
 要するに、駒視点でものを考えていたら黒幕のプレイヤーは見つからないのではないか。
 そう私は判断した。


 それを後押しするものも作中にある。

 一つ目は影に潜む黒幕がいるのではないかという見解。
 作中で何度もガントレットナイトの力をぶつけるべき目的としてあげられ、でもそれが誰でどこにいるのかわからないと都雄たちが嘆いていた。
 そして都雄たちに見えないところで戦争を煽って金稼ぎをしようとしていた連中はいた。
 しかし、さらなる陰では人類を滅亡させようとする3人の王たちがいた。
 読者にはそれを知ることができる。
 が、それでおしまいであるわけはない。

 ゲームをしているのはプレイヤー同士である。
 駒に対する攻撃を躱して安堵しているようではプレイヤーとしては未熟。
 相手の一手を駒に対するものではなく、プレイヤーに対して仕掛けてきたものだと受け取るべきだ。
 都雄の敵は目に見える国家ではなく、影隠れて戦争を画策する黒幕であるように。
 我々プレイヤーの敵は目に見える三人の王ではなく、さらなる陰に隠れている何者かである。
 という感じに。

 つまり二重の仕掛けだ。
 主人公に仕掛けられたことが、さらに上層にいる読者に対してもう一度仕掛けられる。
 これ、うみねこでも何度もやられた手法だね。

 読者が主人公視点だけで読むと、主人公がその仕掛けを乗り越えるとそれで安堵してしまいそれ以上考えない。
 そうするともう一段引っ掛けがあると必ず嵌る。

 敵プレイヤーが相手にしているのが主人公だけなら何の問題もない。
 しかし、主人公という駒の向こうにいるプレイヤーを相手取っているつもりならば話は別だ。
 敵プレイヤーが打った一手が、主人公に対してから、プレイヤーに対してのものに化けるからだ。
 メタ的にその上下一層の差は絶大だよ。

 その一手の絶妙な点は、考えぬプレイヤーを安堵させることで確実に思考停止に追いやることができるところだ。
 劣等生である都雄には三人の王の存在に気付けない。
 でも読者には三人の王のことを知ることが出来る。
 そう見下し安堵する。

 それが罠である。
 そう仕組まれているのは明白なのだから。
 よって考えるプレイヤーはその立場に胡坐をかかずに努力すべきなのである。
 努力しないエリートよりも、努力するエリート。

 駒を見下すのが読者に与えられた特権ではあるが、そこからさらにプレイヤーの席を勝ち取るための努力しなければならない。
 プレイヤーになれるのは読者の中の一握りなのだから。


 で、私なりの努力として、三人の王よりも更なる陰に隠れた黒幕は、ゲーム盤上にはいないのではないかと考えた。

 駒に見えないところに黒幕はいる。
 なら、駒のいないところに黒幕はいるのではないか。
 人類皆駒であるのなら、人類が蔓延る世界にはいないのではないか。
 と、極端に考えると、“世界”の外に黒幕がいる可能性が浮かび上がる。

 そしてひとつの“世界”として仮想現実が作中で示唆されているわけだ。
 それをさらに広げ、全ては仮想現実の世界での出来事とすると、その外について考えを及ばせることが可能になる。

 つまり、“世界”の外で未だ登場していない黒幕についても思考可能なのである。
 うみねこでは本格ミステリーか否かが問われていたから、当初のEP1から黒幕は登場していなければならなかった。
 だがキコニアではその縛りはない。
 だから黒幕が登場していなくても許される。
 無論、それに至る材料が示されていなくては駄目だが。

 でもって、その材料は存分に示されている。
 それが“神”。
 それが二つ目の理由。


 預言者がいるのなら、そいつに予言を預けた“神”がいることになる。
 そしてその“神”は人類は滅びると言っている。
 となると、人類の中に“神”がいるか疑問だよね。
 そしてたぶん、“いない”の方が自然。

 ひとりひとりの人間を駒として見て相手にもしない。
 人類を滅ぼそうと、“人類”とひとまとめに見ている。
 つまり“神”とは、“人類”を相手として見ているプレイヤーではないかと思うわけだ。
 となると、敵プレイヤーはA3Wの世界の外にいると考えるのが自然。

 竜騎士さんはキコニアはオープンワールドと言った。
 確かにひぐらしやうみねことは違い世界全部が舞台だ。
 が、“ゲーム盤”という概念自体が、ゲーム盤の中と外を作っている。
 ゲーム盤は例えるならネット上のオープンワールドのゲームで、ゲーム内ではオープンワールドだが、ネット上ではたくさんあるなかのひとつの世界に過ぎない。
 つまり、“ゲーム盤”という概念自体が、その外の存在を指し示してしまっているわけだ。

 人類対神。
 この構図からすると、三人の王も人類側である。
 人類を生き延びさせようとしているからね。

 都雄が今いるゲームでは三人の王は敵である。
 だがそのゲームが一段階層を上がると、三人の王も人類側であると解る。
 つまり、ゲームチェンジだ。

 ゲームは階層状となっており階層を上る度に、敵が味方になったり、味方が敵になったりする。
 視野が広がるからこそだね。

 さらに言えば、階層を上げれば三人の王も人類側であるように、さらに階層を上げれば、神すらも人類側である、なんてこともあるだろう。
 人類の未来を作るべき若者を選別して産み出すため、なんて感じで。

 よって、駒の狭い視野から考察するのは得策ではないと思うのだ。
 いっそのこと駒についての思考は捨て置くことも手だと。


 ではどうするべきか。

 現状、ゲームの席には敵プレイヤーだけが着いている状態。
 そしてこのゲームは対戦ゲーム。
 つまり、敵プレイヤーはゲームがしたいのだ。

 藤治郎は相手をゲームの席に着かせるためにこちら側が初手を打ったと言った。
 それは逆から見てもそうなのではないか?

 敵プレイヤーは準備万端の上で初手を打った。
 プレイヤーの席に座る者が出ることを期待して。

 この議論のゲームをやるということは、論じるべきものがあるということ。
 ゲーム盤にはそれが表現されている。
 ゲームで様々な考え方が示された。
 それを駒の誰が言ったかは別段どうでもいい。
 問題はその駒を用いて敵プレイヤーが何を言いたいのか。
 敵プレイヤーが言いたいことは全てゲーム盤の上に乗っている。

 だからそう信じて、ゲーム盤という俎板の上に乗せられた様々な材料を使って料理を作ってみる。
 それがプレイヤーとなる第一歩。


 これはあれだね。
 相手のやり方に慣れてきたからこそできる思考と言えるだろうね。
 何度も同じ相手と戦っていれば、相手が何をしたいのかどういう思考をしてくるのか何となくわかってくる。
 でも新しいゲームなのだから、相手も従来より一歩進めた思考となっているはず。
 なので私は相手の手を見て、従来より一歩進めてみた。
 それこそが私の一手である。

 確かに私のその一手は勘で打ったものだ。
 しかしその勘とはこれまでの経験が培ってきたものである。
 その勘を私は蔑ろにはしない。
 そこまで大きく間違ってはいないだろうと思うし。


 とりあえず、私が想像できる最も上層から捻じ伏せて勝つための一手を打たせてもらう。
 世界丸々ひとつが閉じられたゲーム盤であり、プレイヤーは駒が至れないその上層にいる。
 そのプレイヤーに勝つにはそこに至らなければならない。
 だから私は“世界”の外に出てプレイヤーの席を分捕ってやることにした。

 それが“世界の全ては仮想現実であり、その外に本当の現実世界がある”だ。
 その現実では人類は皆脳だけになってネットに繋がっていて、それを管理しているのがAI。
 そして人類の勝利条件は、“仮想現実を抜け出して現実世界に生命として生まれ出でること”である。

 この暴論でぶん殴ってプレイヤーだと認めさせてやんぜ!
 ひゃっはー!



 とはいえどうすれば勝てるのかという条件など、細々したものもちゃんと考えて行かねばならないのだけどな。



 あとこういう人類は滅びるべきなのかだとか、死ぬべき人間生きるべき人間だとか、人間はどう生きるべきなのかだとか。
 そういうのは決めてしまったら地獄になるのだろうね。
 こういうのは議論し続けることに意味があるのだろうし。

 そしてどんなに変な文化だろうと、それができた理由というものがあって、それを変化させるかはその文化の人間がするべきなのだ。
 と、作中にあったとおりだな。

 地獄になったのなら地獄になった理由がある。
 人類が滅びたなら滅びただけの理由がある。
 それは外から見て間違ってるとか正しいとじゃない。
 中にいる人間がそれこそが正しいのだと信じたのだというだけ。
 でも文化が変化するもののように、正しさも変化するもの。
 つまり、議論に終わりはないのだ。

 これこそが生きて未来を作る人間の条件なのではないか。
 議論を諦め、思考を停止した人間はそこで終わり。
 それ以上の変化がない。
 つまり、未来がない。
 だからこそ未来を作るのは若者であると。

 絶対に議論を諦めない人間か……。
 一人の人間だと、いつか一つの意見に固まってしまうよな。
 とすればだ。
 絶対に一人にならない人間。
 パラレルプロセッサー。
 人類最高のパラレルプロセッサーこそが生き残る人類である可能性が高いのか。


 んー、そういえば、都雄のスペックは何十人も入れるルームを維持できるだけのものがあるんだよな。
 うみねこ的だけど、都雄の中に仲間の人格コピーを入れれる可能性ってないかな。
 人格コピーについては作中に示唆されているからなー。


 とりあえず、生き残るべき人間というのは。
 ひぐらしで言うなら、強い意思を持つ者。
 うみねこで言うなら、考えることを諦めない者。
 キコニアで言うなら、生命としての力が強い者。

 生命として強い力を持つ者が世界へと産まれてくる。
 例えるなら、卵子に辿り着くのは強い精子だけであるという生命としての最初の生存競争の話というわけだ。
 となると卵子に相当するのは、千年後へのタイムカプセルか。
 そこが未来へ、現実へ行くことができるゴールに相当するのかもね。
 ま、わからんけど。


 キコニアが出産の話であるなら、これは生まれてくる子供の話であり、子供を産む親の話でもあるのだろう。
 子供は未来を作り、大人は子供に夢を託す。



 こんなところか。
 作中にある考え方を色々と使ってみたけどどうだろう。
 フラグメントからそれなりに使ったけど、小此木クソコラグランプリだけはどう考えれば良いかわからんw


 キコニアのジャンルがSFでどうなるかと思ったが、なんだかんだ確りと思考ゲームになってるよね。
 思考するだけに留めればそれは思考実験。
 実行に移せばそれは社会実験。
 現実に等しい仮想現実は実に社会実験の場として完璧。
 何度繰り返し実験できるし。
 そしてSFはある種の思考実験的側面があるから、思いのほか相性が良いのかもしれない。

 お陰で私は実験を眺める研究者のような気分でキコニアを読んでしまったよ。
 動作確認版で仮想現実というワードが気になって、これは仮想現実なのか、仮想現実だったならそれを用いてどんな実験をしているのか。
 例えるなら、画面の向こうを見るような他人事のような目で、あるいはガラス越しに実験室を眺めるような無機質な目で見てしまったというか。

 普通は主人公やキャラたちに感情移入して、キャラ視点駒視点で楽しむものだろう。
 一応私も人間だからキャラに共感して感情が動いたりするけど、それは私の中の一割くらいで、それ以外の私は無関心に別のことを思考していた。
 私は自分をプレイヤーと自認しているので、見据えるべきは敵プレイヤーでありそいつが作ったゲーム盤で、駒については思考をあまり割り振らなかったって感じかな。

 こんな私になったのは全部竜騎士さんのせいだ。
 ひぐらしの頃はめっちゃ感情移入していたんだけどなぁ~。
 訓練されちゃったんだなぁ。
 今ではゲーム盤を高みから見下ろして、優越感という名の愉悦を味わっているところだよ。

 そんな目で見た結果、キコニアではマクロ視点で把握した方が良いと感じたわけだ。
 ミクロ視点の考察は正に地に足が着いた考えで、うみねこではこれで足場を確保していくのが重要だった。
 でもね、今回は思考を跳躍させるべきだよ。
 あるひとつのことに対して賛成か反対かだけではダメ。
 思考を跳躍させて止揚すべきだ。
 世界を広げる新たな視点が必要なのだ。
 地に足が着かない、ふわふわした高みから見下ろす視点も良いものだよ。
 たぶんさ、外からの他人事のような視点と、中からの当事者の身になって考える視点の2つで同時に見ることが重要なんじゃないかな。

 それを置いといても、異なる点と点を結び付け新しい視点を得るのは重要だと思う。
 まるで関係なさそうな話題の意見同士でも、組み合わせてみれば新しい見解を得られることがある。
 私はうみねこで頻繁にそれをしていたからもう慣れた。
 極めつけだったのは、駒たちの会話に駒の主を組み合わせることで別の意味合いの会話に変化したことだなぁ。
 あれは凄かった。

 内と外が交わることで文化が変化する。
 異なる意見が出会うことで考えが変化したり、異なる視点で同時にものを見たりできるようになるのだ。
 言うなれば、ミニパラレルプロセッサーだな。
 なく頃にのゲームは、そうやって新しい視点を獲得していくゲームと言っても過言ではないと思う。
 人間は環境によって作られるなら、新しい環境に適応して変化できるものは、生きる力が強いと言えるのかもしれない。

 で、私が作中であった色々な要素をごちゃっと混ぜて、仮想現実を起点に煮詰めて、ポンッと出たのがアレだったわけだ。

 だから皆も色々なものを組み合わせて、ぴょんと思考を跳躍してみてほしい。

 ん? あれ、小此木クソコラグランプリってこれに掛かっているのかな?
 点と点を結ぶとは、異なる意見をパッチワークさせること。
 つまり雑コラ。

 私は作中の色々なものに“仮想現実の神”を雑コラし、それで満たしたわけだ。
 そして“仮想現実の神”でゲシュタルト崩壊を起こし、むしろ“仮想現実の神”でなければならない感じになり。
 最終的には本人にメールで送るように、ネット上にその意見を出しちゃったわけだ。

 なるほど、なるほど。
 これは愉快だ。
 つまり、キコニアとは「A3Wクソコラブランプリ」というわけだ。
 作中に出てくる要素であるなら、何と組み合わせても良い。
 雑でもクソでも構わないと。

 ひぐらしやうみねこでは、トンデモ論はまじめに考えろと排除される傾向にあった。
 でもキコニアではトンデモ論が許される。
 なにせ作中に超技術がでてくるわけだから、作中にその要素が少しでもあればどんなトンデモ超技術でも論じれる。
 陰謀なんていくらでも登場したから、トンデモ陰謀論でも構わない。
 スパイの存在が示され荷重人格まで許されたから、トンデモスパイ論で誰もをスパイにできる。
 つまり、まじめにトンデモ論を展開して良いわけだ。
 それどころか積極的にそれを推奨しているわけだ。

 これは良い。
 どんなトンデモ論が飛び交うのか、オラワクワクすっぞ。


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  1. 2019/10/26(土) 18:50:57|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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