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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


キコニア本編読了

 キコニア読了。
 所々での雑感を記す。
 思いっきりうみねこを引き摺っているがご勘弁を。

 以下、ネタバレ注意。




















 0か1か。
 うみねこでもあった問題をぶっこんできたな。
 物事は真実であるか虚偽であるか。1か0かのどちらかでしかありえない。
 にもかかわらず、その間には小数点以下の存在がある。
 あるいは、0か1かそのどちらでもある。
 並び立つ真実。
 実になく頃にのテイストじゃん。

 でもまあ、ご存知の通りうみねこではそれに真っ向から取り組んだにもかかわらず、全員右に倣えをしちゃったからなぁ。
 どんな真実も並び立つとか理解したようなことを言っていて、実際は一色のみ。
 大枠は紗音嘉音同一で統一。
 その枠の中で細部を争っているだけ。
 自分で考えて自分で決めている人は、他人もそうしているのだと、多様な意見を容認するのだろうけど。
 自分で考えず他人の意見をそのまま受け入れた人は、他の人もその意見を受け容れるべきだと思っているんじゃなかろうか。
 皆が信じているのだからお前も信じろ、と。
 そういう同調圧力を、傲慢なる真実と言うのだろうか。



 パラレルプロセッサーと多重人格って、もろにうみねこじゃん。
 キコニアが物語なら、作者は八城だろ。

 あれだな、うみねこもひぐらしのリベンジという面もあったように、キコニアもうみねこのリベンジという部分もあるのだろう。
 うみねこではこのパラレルプロセッサー的なものまで推理が至らなかったから、明確に分かり易い形でぶっこんできたのかねぇ?
 まぁ、その設定はなかったことにするには惜しいものがあるからなぁ。

 1つの口を介してお互いで口喧嘩するって、正に主真里亞と駒ベアトのことだよなぁ。
 なぜこっちで答えを出すし。

 日陰の扱いで他者に認識され難い、1人格として認識してもらえることが嬉しいに違いないとか、うみねこを思うと心が痛いんだけど。

 ああ、ミャオちゃんおめでとう、おめでとう。
 祝福せずにはいられない。
 なんでうみねこじゃなくてこっちでやんのー。
 あっちじゃやれないから、こっちでやってるんだろうけど。



 うみねこのことばかり考えてしまうな。
 キコニアのことを考えよう。

 不穏な都雄のことを少し考察してみるか。
 あれはパラレルプロセッサーで説明できるのかな。
 同一人物でも異なる境遇を送れば異なる人物になるように。
 異なる経験や異なる知識を与えれば、異なる思考をし異なる人格になるだろう。

 ならば与えられたそれは何か?
 未来の知識か、約束された運命か。
 予言と預言。
 神から預かった言葉。

 神とは何か?
 うみねこでは、全ては物語であり、よって神とは物語の執筆者のことだった。
 だがそれは、全ては物語として記されていることが提示され、神が物語の中に登場し、さらには神の心を推理させて人の心として探って欲しかったからである。

 でもキコニアはたぶんそうじゃない。
 もし全ては仮想現実だったなら、その仮想の世界を演算しているのが神だ。
 仮想世界ならば全ては数値化されていることになる。
 ならばラプラスの悪魔によって全知となる。
 数値が変わらない限りは運命は約束されている。

 さらには、神がパラレルプロセッサーならば。
 仮想世界の並列運用も可能。

 ラプラスの悪魔による全知と並行世界。
 その辺があの都雄に関係するとかどうだろう。
 ま、妄想に過ぎんか。



“勝利の味を覚えよ。それは如何なる努力にも耐えさせてくれる”
                ――マイケル・J・ジョナサン

 やっぱうみねこじゃねーか。
 勝ったと認識するから、また勝とうと努力する。
 答えを与えられたら、また餌を貰えると口を開けて待つ。
 受動的か能動的か。
 思考にもそんな癖があるのかもなぁ。

 勝者と敗者、わかる者とわからない者を明確にすることの意義。
 自己肯定力を養えってか。
 まぁ、それがなければ自分の推理すら肯定できないものな。
 普通は皆と違う意見だったなら、自分の方が劣っている間違っていると考える。
 しかし自己肯定力が高ければ、皆の意見とは違っていても、いやその落差こそが自己肯定に繋がる。
 だがそれも8回のゲームで勝ち続けてきたと認識しているがゆえ。

 うみねこでは暗に言って明白には表さなかったことをキコニアでは明確にするんだねぇ。

 何で私はキコニアでうみねこやってるんだろう。

 なんにせよ青色とか緑色とか、これ、竜騎士さんが自分の作品でやってることの皮肉、自虐かな。



 滅んだ後の死の世界、か。
 本当は第三次世界大戦で人類が滅亡している、そんな可能性はあるのかな。
 そして今の世界は仮想の世界で、新人類を産み出すためのテストケース的な。
 要は、世界が間違っている可能性。
 一応考慮しておこうかな。


 しかし、なんか老人と子供のことが何度も繰り返し描かれてるな。
 この辺がポイントなんかね。

 んー、世界が滅び仮想世界を演算しているなら、その仮想世界は現実世界の卵のようなもの。
 それを育てる。
 教育、環境、選別、淘汰。
 妄想を膨らませ過ぎかな。


 運命は与えられるものじゃない。切り拓くもの。
 推理も同じだよな。
 与えられたものに納得いかないなら自分で切り拓くしかない。


 かつて存在した都雄の模倣か。
 やっぱりここは仮想世界で、現実世界はもっと未来なのだろうか。


 肉体より魂を解放する世界。
 うみねこがひぐらしへのアンチテーゼだったように、これはうみねこへのアンチテーゼなのか。
 真実が一つであるように肉体も一つ、しかし魂は二つ。
 だからこそ肉体での触れ合いよりも魂の結び付きを重視した。
 だがそれを極端に推し進め、人類全てが肉体を捨て去る世界がいいなんてことはない。

 脳だけになって仮想世界に住まわされるディストピア。
 そこからの解放か、その未来に至らないようにするのがゲームの目的なのか?

 思考実験、思考ゲームとして、思考や思想の連続性を感じる。
 やっぱ竜騎士さんの作品だな、と。
 でもだからこそ、うみねこの八城の思考から生み出されたのではとも感じてしまう。

 全ての作品は竜騎士さんが生み出したものなのは間違いない。
 しかし、その脳内で八城が全ての作品を作っているみたいな裏設定があっても不思議ではない。
 うみねこ的階層世界ではそういうのありだろうから。
 咲のお疲れ様会では、「07th Expansion」のことが出てくるが、うみねこは全部八城の脳内で完結させなければならないのなら、作品内の設定では「07th Expansion」は八城が主宰しているサークルである、みたいな感じにしなければならないんだよなぁ。
 まぁ、キコニア単体ではそんなことはどうでもいいのだけど。


 ……プレイヤーが現れて、進むべきマス目に指してくれる、だって?
 読者にプレイヤーになれということかな。


 対戦相手が着席してくれたかどうかさえわからない。
 つまり相手の打つ手は観測できても、相手自身は観測できないということか。
 あと、その暗闇にいる相手への手探り感は実にうみねこ的。
 初手を打つのは相手が返してくれることを期待するというところか特に。


 19940305。
 年月日にしか見えん……。


 終わっちゃった。
 2話目はこの続きからでループはしないのかな。


 フラグメントまだ未読。






 今のところの私の考えだけど。
 先入観が過ぎるかもしれないが、やっぱ仮想現実でのことなんじゃないかな。

 時間軸が繋がっているのなら、未来から過去に干渉する方法がなくてはならないが、それについては作中では可能性すら示唆されていない。
 となると未来世界と過去世界は時間軸上ではなく、縦というよりは横、隣り合う並行世界的なものに感じる。
 仮想現実はA3Wの世界にあるもうひとつの世界だと言える。
 それが現実と遜色ないレベルになれば、そしてそこで生まれ育ったのなら、その人にとってそこはまごうことなき現実であるわけだし。

 で、現実では人類は脳だけとなり仮想現実の中で生きていると。
 その前提で考えると、問題はなぜ過去の現実を模倣した仮想世界を作ったのかだ。

 過去を模倣しているのだから、未来も決まっているようなもの。
 未来が過去の結論なのだとすると、それを追認するため?
 結論に自信がないならすんなとしか。

 なら、別の結論を出すためか?
 過去の改変が目的ならタイムマシンを持ってこい。
 仮想現実を持ち出したならその目的ではなさそう。

 んー、ノアの箱舟かな。
 滅びが既定であるならば、その先こそ目的があるのでは?
 滅びも目的のための過程である。
 滅びた世界には滅びるだけの理由がある。
 その理由が間違っていないのであれば、滅びることこそが正しいわけで。
 しかし、その中に滅びる必要のない人間がいるのであれば残すべきだろう。

 つまり選別だ。

 生き残るべきは生き残り、滅びるべきは滅びる。
 仮想世界に生きるべき人間と現実世界に生きるべき人間の選別。
 それが仮想世界で行われている。

 現実世界で滅ぶべき人間は滅びた。
 故にそれを模倣した世界を用いて試練とした。

 現実世界で生き残るべき人間。
 現実世界に産み出すに足る人間。
 キコニアが運んでくる人間。

 文化とは連続性であるのなら、生き残るべき、生み出すべき人間は文化を継承していなければならない。
 文化が変化するにせよ、それを選択するのはその文化の中の人間であるべきなのだから。
 
 ……なんてどうよ?
 思いっきりタイトルから考えたんだけどさ。


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  1. 2019/10/19(土) 21:22:26|
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フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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