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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


物語の子供

 執筆者にとって、自身が紡いだ物語は子供のようなものだろう。
 その物語を読み手が読み解釈することで新しい物語が紡がれる。
 だとすると読み手の物語は、書き手の物語の子供と言えるのかもしれない。
 読み手ひとりひとりの解釈が異なるはずなので、読み手の数だけ物語の子供がいることになる。
 『真里亞』がヤスに語った、子供や孫に囲まれた老後という夢は叶ったのだろう。

 物語にとって、読まれ語られることは本望なのだろう。
 本来は『真里亞』にとってだけの物語で、他の誰にも知られずに忘却の深遠に消えるはずだった。
 それが今や、だからね。

 物語は読まれなければ意味がない。
 だからこそメッセージボトルは流された。
 読んでもらい、新しく紡いでもらい、語り継いでもらうために。
 それは追悼であり、復活であり、新生だ。
 物語の生とはそういうものなのかもしれない。

 故にこそ、3つ目の物語が語られない限り終わらないのだろう。


 この“物語”を子供として扱い、その“物語の子供”を孫として見る。
 それが『真里亞』が見出した絆なのだろう。
 そして物語の読み手とも、その絆を介して繋がっているのかもしれない。

 これしか絆の作り方、繋がり方を知らないから、そしてそういう価値観だからこそ、このやり方を選んだのだろう。
 そうすると、何も考えないというのは、拒絶されたように感じるのかもしれない。
 考えぬ豚と表現していたけど、それにはコミュニケーションを拒絶された怒りや悲しみ、諦観などが含まれているのかも。

 『真里亞』は完全に人間不信の気がある。
 人間と触れ合った経験がなく、自分を受け入れてもらった経験もない。
 人を信じる根拠など一つも得ていない。

 この状態でよく一歩を踏み出せる勇気を持てたなと。
 それも自分の胸の内を全て曝け出すようなことを。
 人間不信の人間は、誰かの助けがなければ一歩を踏み出すことができないだろうに。
 そう、ありえないほどの勇気なんだよ。

 その勇気を持てたのは「ヤスの物語」のお陰。
 その物語に慰められ、励まされ、一歩を踏み出す勇気をもらった。
 『真里亞』にとって「ヤスの物語」はどれほどかけがえのない存在だったのか。
 その存在が失われるのをどれほど恐怖したのか。
 想像もつかない。

 それを思えば、答えを明かせという要求は、どれほど軽率で心無いことか。
 「泣いた赤鬼」に当て嵌めると、赤鬼に対して仲良くなった証として青鬼を殺せと要求したようなもの。

 人に、心なんてないんだよ。
 愛なんて存在するのか。
 人間不信になるのも無理はない。

 だからこそゲームは開催されたのだろう。
 心と愛の存在を証明するために。
 だがこれは、読み手が自分の心と愛を証明するものではない。
 互いの心と愛を証明するためのものだ。

 心は心でなくては受け止められない。
 それを受け止めて生まれるのが、物語の子供なわけで。
 私はどれくらい受け止められたのだろうか。


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  1. 2019/08/24(土) 19:27:36|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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