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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】仮想体験発表会の考察

 フラグメント『仮想体験発表会』は、世界が仮想である可能性を示唆している。
 そしてその仮想体験を作る際のデータの流用は、既存のゲーム(うみねこ)のデータを流用していることの暗示しているのだろう。
 そんな風に考えたわけだけど、どうまとめようか。

 キコニアは、脳を取り出されて巨大サーバーに繋がれ、仮想世界に閉じ込められていてそこからの脱出を描いている。
 そしてその「脱出劇」に、うみねこのゲームデータが流用、見立てられている。

 実はこの2つって反発するんだよね。
 前者の世界観にまとめようとすると、うみねこのデータはどこから来たのかとか、うみねこに見立てる動機とかが説明できなくなる。
 なので、もう一つ上の層を作り、そこで後者の見立てられた物語が紡がれているとする必要があるわけだ。

 で、その「物語」という部分を「仮想体験」に置き換えることが可能なんだよね。
 つまり、「仮想世界から脱出する」という「仮想体験」をしているという感じに。
 この設定だと最上層を作中で説明しやすい部分はある。
 「物語」の方だと最上層は暈される可能性がある。

 ま、私はどちらでも構わないんだけどね。
 だって表現の仕方が違うだけで、どちらも同じなのだから。
 いざという時に切り替え可能なストックとしてとっておこう。



 さて、ここからが本題。
 「仮想体験」はキコニアのゲーム盤を暗示している。
 なら各人のシチュエーションにも意味が込められているだろうと思うのだ。
 そう、例えば、ゲームに何を求めるのか、とか。

 リリャのシチュは、周りの食べられない者たちの前で食べるというもの。
 「食べる=知る」であるならば、誰も知らないことを知ることの快楽を表してるのではないだろうか。
 知的快楽と優越感と言ったところか。

 ジェイデンのシチュは分かりやすい。
 ゲームの勝負に勝った達成感を味わうというものだろう。

 都雄のシチュは、一緒に戦うことの一体感。

 コーシュカのシチュは何だろな?
 微睡み、夢。
 夢から覚めぬままに味わう。
 これはGMが望むことかな。
 GMは夢が消えることは望んでいない。
 「夢」と「現実」の両立を望んでいるのだから。

 ギュンヒルドのシチュは、私には分かるぞ。
 うみねこのメジャーな推理は「犯人はヤス」の類。
 私の推理はマイナーだ。
 そのマイナーなものがようやく正当な評価を受けたとしたら。
 それを推していた皆と喜びを分かち合いたいものだ。
 ま、私にとってその“皆”とは、GMとその背後の皆くらい。
 奇跡は皆が望んだことだからね、喜びを分かち合えたら嬉しいぞ。


 で、最後のクロエのシチュ。
 世界の最期に味わうのは、絶望感だ。
 絶望をしっかり抱きしめる。
 故に、自身の頭を吹き飛ばすことができるのだ。

 作中での都雄の「世界を滅ぼしたいなら、自分の頭を吹き飛ばせばいいのにな」に対する答えがこれ。
 未練がある限り死ねないんだよ。
 しっかり死ぬためには、一切の希望が絶えたという事実が必要なのだ。

 つまりこのクロエのシチュは、自殺するための絶望をゲームに求めているということを表しているのだろう。



 そんな感じかな。
 プレイヤーが求めるものも重なっているが、これは全てGMがゲームに求めているものなのだろう。
 たった一人の人間の中には複雑な思いが詰まっているということだろうね。
 それを六分割したからこれだけ分かり易くなっているだけで。

 AOUのガントレット自体、神の七つの霊として“母”を分割したピースだと思うから、ピースである各人の役割に沿った感じの願いになっているのではないかとも思う。
(ジェイデンはそこから外れる微妙な立ち位置だけど。
 逆を言えば、ジェイデンのシチュはプレイヤーの願望がより反映しているのだろう。
 勝利のビジョンが貧困なのも、まだ勝利していないから具体性が欠けるというなのかもしれない。)

 記憶を保持するだろう『パンドラの箱』を擁するコーシュカは、永遠の夢の中で微睡み続けることを望んでいるのだろう。

 どんな人格にも成れるだろう『粘土の少女』であるリリャは、あらゆる人格(物語)を食らい、未知を既知とする快楽に耽るのだろう。

 物語の主人公である都雄は、自身の物語というゲーム盤で共に遊ぶプレイヤーを求めている。

 聖霊であるギュンヒルドは、助け手として主の本当の望みである奇跡が叶うことを応援している。

 そして、最上位として下層を圧し潰す力を与えられたクロエは、下層を圧し潰さないために、頭を吹き飛ばすに足る絶望を抱きしめる。


 たぶんこんな感じ。
 中でも重要なのは、クロエの担当する絶望感だと思う。

 なにが面倒って、絶望感で満足しようとしているところ。
 心理学における心の防衛機構に逆転というのがあるみたいなんだけど。
 愛情を憎しみに、サディズム傾向をマゾヒズム傾向に変えるなど、受けたダメージを加工して受け入れやすくするものらしいのだが。
 絶望感を逆転して満足感に変換しているのかも。

 あるいは、同じく心理学の防衛機構の合理化かもしれない。
 これは酸っぱい葡萄理論だね。
 “子”の幸せな姿が見られれば満足して死ねる。
 本当は自分も死にたくないし、幸せになりたい、でもそれができないからあれで満足するという自己欺瞞。

 多分両方ある。
 絶望に満足して死のうという、絶望を思考して嗜好して志向する絶望的状況。
 ホントやっかい。

 さらに辛いのは、これらに自覚的だということ。
 自分で物語として文章化しているということは、自己分析しているということで、自覚しているということ。
 つまり、自分で自分を騙す必要があるということ。
 自分に魔法を掛けることが一番難しいのだ。

 ちなみに、この地獄の逆、天国を志向する意思も同時に存在する。
 こちらも自分に魔法を掛けるのが難しい。

 天国に行きたい、地獄に行きたい。
 でも今は宙ぶらりんな煉獄にいる。
 だから、どちらの結末でもいいから自分の物語を終わらせて欲しいのだ。

 地獄にいるのだと信じさせて欲しい。
 あるいは、天国に行けたのだと信じさせて欲しい。
 ということだろう。

 正しく欲求を満たせないから欺瞞に走るわけで。
 要するに、正しく欲求を満たせられたら良いのだ。
 それがゲームのゴール。


 私が思い描くのは、二人が共にニンゲンとなることができて、一緒に居られる世界。
 だって、彼女は長い年月、大事な愛する者を守るために必死に頑張ってきた。
 それと同時に、大事な自分自身のことも守り通していた。
 たいていの人は自分一人分のところ、二人分の重みを背負って歯を食いしばってきた。
 その努力は報われても良いじゃないか。

 片方だけ幸せになるのは次善の選択だ。
 それが選ばれたら、なんかもっと早くに諦めていればという気がしてしまう。
 なんだろ、掛けた長い年月に意味があって欲しいのかな、私は。
 もっと早くに幸せになれていれば良かった。それは確かにそうだ。
 しかし、掛けた年月は無駄にはならない。
 長い年月を掛けたからこその成果がある。
 より素晴らしい物語となったのだと思うのだ。


 ん、この辺にしておこうか。


 前にも書いたことがあると思うが、ゲーム盤は箱庭療法的な世界でもあると思うんだよね。
 箱庭の中に人形などを置いて小さな世界を完成させる。
 それは心を明らかにするためのもので、そこに表されたのは心の世界。
 だからゲーム盤に置かれた駒には必ず何らかの意味があり、不要なものなど存在しない。
 特にキコニアの駒の置き方は整然としているので、比較的分かりやすい形になっているんじゃないかな。
 今回の仮想体験発表会なんかは、AOUのメンバーが揃って同じお題だから、サンプルとして良質だと思う。

 その箱庭世界をゲーム盤として、プレイヤーを箱庭世界に招いているわけで、それってつまり自分の心の中に踏み込ませているってことで。
 だからプレイヤーたる読者には、ゲーム盤の主のことをちゃんと見据えて欲しいと思っちゃうんだよね。
 一人で食べるか、複数人で食べるかで、味は変わるのだから。


 キコニアをSFと見るなら、ミステリーには見えない。
 だが箱庭と見るなら、そこに心を見出すことができる。
 ホワイダニット。
 心を推理するゲーム。
 よって私にとってキコニアは立派なミステリーである。


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  1. 2020/08/01(土) 20:52:05|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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