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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】ゲームをショートカット

 Phase1の最初で都雄とジェイデンが一戦交えていたけど、あのシーンに何かの意味を含めているはず。
 ひぐらしもうみねこも冒頭は超重要なことが書かれているからな。
 罪を赦し合う世界に至るひぐらしでは、延々と繰り返される謝罪。
 うみねこでは、ボトルメッセージは遺言ではなく、生きている間にベアトリーチェの微笑みを見たい、見るまで死ねないという意思を示している。
 両作品とも冒頭では物語の執筆動機を描いているんだよね。
 キコニアでもそうだとは言わないけど、まあ重要なことをその辺で示唆しているはずだとは思う。

 最初のガントレットナイトの説明を飛ばすと、冒頭は都雄とジェイデンの一戦になる。
 ガントレットナイト同士の戦いは、うみねこの論戦バトルの見立てだ。
 とすると、この一戦はキコニアのゲームを占うものになりそうだ。
 つまりは先行体験。
 こういうゲーム進行になるだろうという計画、またはこういうゲーム進行に成って欲しいという願望。
 あるいはこういうゲーム進行をしたほうがいいよという推奨なのかも。

 ジェイデンの姿が現実の読者、つまり我々プレイヤーなのだとしたら、ミサイル他を迎撃しながらビルを迂回する通常ルートではなく、ゲーム盤の構造を解析してショートカットを仕掛けてくることを“期待”されているのだろうね。
 Phase1の難易度は、かなりの上級。
 つまり、かなりの上級者なら当然のようにショートカットしてくるだろうと。
 序盤や中盤など一切を省き、いきなり終盤戦を仕掛けてくるのだと。

“目的を見つけよ。手段は後からついてくる”
 結果を決めたら、過程は後から書き足せばいい。
 それが造物主の戦い方だったよな。
 となれば、神同士の戦いはそれになるのか。
 なるほど。



 とりあえず、私の真相考察が合っていると仮定して解釈する。

 まずキコニアのゲーム盤は、うみねこのゲームを俯瞰したものを下地としている。
 よって、うみねこのゲームの真相を熟知している者なら、キコニアのゲーム盤をショートカットできるはずである。
 この既存のデータをゲーム盤の下地として流用というのは、フラグメントの仮想体験発表会で繰り返しヒントが出されている。

 三人の王は神の三位一体を表す。
 うみねこの三位一体は、一なる三人の魔女だ。
 そしてその一なる三人の魔女であるベアトリーチェが3つの物語を紡いでいる。
 恋の決闘はその三人の魔女がそれぞれ紡ぐ物語の内、どれを真実に昇華するかの戦いである。
 本命の奇跡は、3つの物語が一つに纏まった一なる物語であるのだけどね。
 この計4つの物語がキコニアの四陣営に相当し、残りのLATOは元老院や天界大法院に相当し、各勢力間のバランスを保っている。

 そこまで把握できれば、三人の王による人類存続を賭けた人類間による滅亡戦争や、人類の上に存在するGMが主導する天からのゲームメイクが理解できる。
 そして、あくまで人類のことは人類で決めるという三人の王と、天が決めるというGM(代理)の争いも。

 だがそれらの争いがどういう過程を経ようと、結果はもう決まっている。
 うみねこのゲームはもう終わっているのだ。
 うみねこの結末は、黄金の真実の勝利で終わる。
 それがうみねこのGMの意思。ゲームメイク。
 それが執筆者が紡いだ物語。

 だからうみねこを下地としたキコニアの真のゲームは、うみねこのゲームをなぞった結末から、あるいはその直前から始まる。
 つまり、ショートカットが可能なのだよね。
 要はGMにダイレクトアタックをぶちかまそうということ。

 これがジェイデンがショートカットが表していることじゃないかな。
 超天才だからできるショートカットということだね。


 その続きは、ショトカのダイレクトアタックを緊急回避の上で、死角に置いた爆弾。
 GMを注視した結果できた死角、上即ち天からの攻撃という点から、ゲーム内PLがGM代理をしているという仕掛けを暗示しているのだろう。
 現実のプレイヤーに対して、GM代理としてゲーム内PLが現れるのは意表を突くものになっている。
 実際、私も引っ掛かったしな。

 で、落下、上即ち天に対して下という点から、地の底や深淵に向かうことの暗示。
 左手のガントレットが停止しているのは、“母”即ちミャオが眠っていること。
 残る右手で殴り合うのは、“子”即ち都雄単独で戦うことの示唆。
 決着後の、実戦だったらガントレットが再起動して自分が勝っていたというのは、“母”が目覚め二人揃った状態なら勝てたということだろう。


 プレイヤーであるこちらも実戦で二人が揃うことを願っている。
 だからきっとあれは、絶対の未来を約束した先行体験。
 始まった時には、すでに終わっている。
 Phase1のラストのラッシュも合わせて考えれば、再戦(デート)の約束なのは明らか。
 これこそキコニアの執筆動機と言って良いんじゃないの?
 GMの目覚める宣言だよね。


 しかし、まだ序盤なのにもう終盤戦とかどんだけー。
 いや、終盤戦を思い描きながら序盤を指すはある意味当然なことなのかもしれないけど……。
 対戦する両者が同じ終盤の盤面を思い描いているのなら、序盤中盤はもはやただのセレモニーと化す。
 約束された終盤戦というわけだ。

 うーん、やはりセレモニー。
 先行体験同士で戦えば、勝負は最後の最後で決する。
 それまでは両者同意の元による演舞の如き様になる。
 そして最後の最後までそれを貫けば、もはや勝敗に意味はない。
 結末は両者の合意のものであり、信頼し合った末の未来なのだから。


 ショートカットが仕様なら、それが正規ルート。
 ゲームメイクが神懸ってる。

 しかし、うみねことある意味真逆のゲーム構成だな。
 うみねこは一面ずつしっかりクリアして順番に一段ずつ登っていかなければならなかった。
 前のステージをクリアせずに考えないまま次のステージに進むと、途端にトゥルーエンドに到達できないという鬼畜仕様だった。

 それに対してキコニアは、一つずつ覚えてくのはもううみねこでやっただろ、チュートリアルとか途中の戦闘とかかったるいのはすっ飛ばしてラスボスだぁああ! 的な。

 ……これ、どう例えたらいいのだろう。
 あ、そうだ。
 竜騎士さんのインタビューで、「学校理論」というのが出たんだけど。
 ひぐらしを6年育てて卒業させた、次はうみねこを一年生から育てる、みたいな。
 でその中で、うみねこは一年生だけど読者は六年生なんだというのがあった。

 その例えを借りると、キコニアは一年生だけどプレイヤーは六年生、ひぐらしも含めれば十二年生になる。
 一年生から学び直すなんてやってられない。
 学力に合わせた課題が出されるのが普通だろう。
 あるいはさっさと飛び級してもらうか。

 プレイヤー歴一年なら、一から操作方法を覚え、弱い敵から順番に倒していくことになる。
 でも前作のレベル99のデータを引き継いだプレイヤーは、それに相応しいレベル帯の敵と戦いたいわけだ。

 んー、ストーリーを順番に見なければならないRPGでは例えが悪いか。
 じゃあアクションゲームにしよう。
 前作を熟知したプレイヤーが前作を継承した次作を始めた時、初心者同士の対戦から始めるか? ということ。
 上級者同士の対戦をやりたいに決まっている。
 初心者同士の対戦から始めてランクを上げることを強要するクソ仕様はNG。

 つまり、上級者にはそれに相応しい敵と戦うところまでショートカットしてもらう仕様は神なんだよな~。
 考えれば考えるほどアイテムが手に入って、そのアイテムで打ち破れる難関が用意されているとか、やりがいがある。
 やり込みゲーはやり込んでなんぼ。
 ここまでうみねこ考察してきて良かったと思える。
 強くてニューゲームとか、紛うことなき神ゲーなんだよな~。





 話は変わるが、ジェイデンが飛び級で同期を置いてきぼりにしたというエピソード、親近感沸くんだよね。
 私も周囲と一緒に推理していくタイプではなく、一人で思考を進めるタイプで、さらには考えるのが面白くてどんどん先に進んで行った感じだから。
 これは多数派・少数派に関係するのかな。

 多数派ということは、細かな差異はあれども意見が一致している。
 つまり、ある程度知識が共有されている状態なわけだ。
 得た知識を共有しながら推理を進めるためには、全体の知識を底上げしながらすることになる。
 まあ要するに、時間を掛けて一段ずつ皆で進まなければならないわけだ。

 それが少数派、特に一人なら話が別だ。
 知識が共有されるのを待つ必要がない。
 一人で勝手に進めて行くことができる。
 まあ気軽なわけだよ。

 時折私も、もっと議論に参加して自分の知識を落としていった方が良かったかなぁと思うこともある。
 けど同時に、議論に時を費やしていたら今のところまで辿り着くことはできなかっただろうなとも思うのだ。

 議論するということは、相手に合わせるということでもある。
 足の速い者が遅い者に歩調を合わせなければならない。
 それはつまり、先に進むのが遅れるということになる。

 知識の共有は、後から来た者からすれば早道である。
 議論を活発にするためにも、全体の底上げは必要だ。
 教えるという行為は、ただ知るよりも力量が必要になるから、自分のためにもなる。
 だがしかしそれは、足踏みして地面を固めるようなもので、先に進むためのものではない。

 未知を得るためには先に進まなければならない。
 その楽しさを求めれば、周りを気にせずどんどん先へ先へと進むことになる。
 となれば必然独りぼっちになるわけだ。

 こうなると知識の共有は断絶することになる。
 別の方向に進化して、その進化をさらに押し進めたのだから当然なんだけど。


 この意識の断絶をどう表現しようかな。
 積み木に喩えるか。

 魔女幻想を一つのパーツとすると、その隣にヤスが犯人である世界のパーツを置いたのが大多数の人の積み木。
 とすると、さらにその隣に19人目が犯人である世界というパーツを置き、それらを一つに纏め合わせた執筆者が紡ぐ世界をそれら3つの上に置き、その上にさらにキコニアでPLが加わった世界を置いた感じ。
 単純計算で、パーツ数で2.5倍、高さにして二段上。
 それが私が勝手に見定めた差になる。

 自分が必死に推理してその末に至った真実を、たんたる積み木の1パーツとして積み木遊びに使用するという感覚、視点。
 容易に理解できないと思う。
 理解出来たらそいつはバケモノじゃい。


 ま、なんだ。
 誰も知らないことを知ることは楽しく、それを味わうために突っ走ってきてしまった。
 思考停止が死であるならば、走り続けるのがプレイヤーの性だと思う。
 止まれば死ぬんだから。
 私はその性に正直だっただけなのだ。
 なら仕方ないよね。

 まあちょっと反省しているので、思考は積極的に開示している。
 後は好きに考察の糧にでもして欲しい。


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  1. 2020/07/26(日) 20:21:26|
  2. Phase1
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【うみねこ】EP6 排水溝からの脱出

 今更気付いたんだけど、EP6のロジックエラーの密室での肉片に千切って排水溝からの脱出って、自身をパズルのピースとしてバラバラにして密室脱出ってことを暗喩してるじゃん。

 あれ当時、戦人を精神的に追い詰めるのみで大した意味のない描写だから、何でこの描写をわざわざ描いたのだろうと疑問に思ったものだったが……。
 大した意味があったわ。

 ロジックエラーの密室は、一人を脱出させるために一人が残るというもの。
 恋の決闘で一人しか人間になれないことを表している。
 “母”が残り、“子”を脱出させる。
 密室に残った“母”は、己が身をバラバラのピースに千切り自殺して脱出。
 いつか誰かがパズルのピースを組み立てて、自身を蘇らせてくれる奇跡を願って。

 これじゃん。
 奇跡に繋がるめっちゃ重要な描写じゃん。
 は~、ホントうみねこは細かいところまでに意味を含ませてて凄いよなぁ。
 そして浮き彫りになる昔の私のアホさ加減……。

 大ベルンカステル卿、ヒントを下さりありがとうございました。
 愚かな私は貴女が恵んでくださったご配慮に長い間気付けませんでした。
 お許しを。

 正しく奇跡の魔女の名に相応しい、奇跡のトリック。
 二人が共に密室を脱出する手段はこれしかない。
 起死回生の一手。
 一見自殺だが、それは命をチップとした賭け。
 正に狂気の沙汰。
 自身を分解して再構築って、テレポートじゃん。
 壁にぶつかり続けたらいつか壁をすり抜けることができる的な超低確率の奇跡だろ。

 自身の物語をバラバラにして、そのバラバラのカケラを拾い集めてもらって物語を再編してもらおうというのは、キコニアに繋がる話。


 しかしあれだな。
 「起死回生」「死中に活を求める」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とかの言葉が似合うな。
 この絶対諦めないという姿勢、本当尊敬する。



 あ、そうだ。
 ロジックエラーの密室脱出で、嘉音を生贄として密室に残してそのまま忘却してきた人たちは、自分が嘉音を殺したということを肝に銘じるように。
 嘉音がいない世界になったからと、その罪がなくなったわけじゃないのだから。
 嘉音がいない世界を選んだからこそ、その罪を覚えていないと。


  1. 2020/07/25(土) 19:26:24|
  2. エピソード6
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【キコニア】着飾った言葉、着飾らない言葉

 うみねこ完結後、新たな考察陣に「うみねこは読解」と言われたりしていたが、私的には「読解」というより「解読」ではないかと思っている。
 読解とは書かれている文章を理解することだけど、それはつまり書かれている部分からしか読み解けないということ。
 書かれていない部分からは読み取れない。
 隠されていることは見付けられない。
 変換されているものは元には戻せない。

 うみねこは行間を読むゲームだけど、その度合いをどれくらい見積もっているのかという話。
 私は解読、つまり、今ある物語を一度元の物語に戻す必要があるのだと思っている。
 解かなければ物語を読むことすらできないのだと。


 ひぐらしは羽入が真の主人公で、その羽入が舞台を降りている間は梨花が代理で主人公をしており、その梨花まで主人公の座から降りている間は圭一が主人公の席に座っていた。
 圭一の強い意志が奇跡を起こし、それを見た梨花は戦う意志、生きる意思を取り戻し主人公に返り咲き、そしてそんな梨花たちを見て羽入も生きて戦う意思を取り戻した。
 三人の主人公、三つの物語。

 ひぐらしの一部の読者が「羽入はいらない」とか言っているがとんでもない。
 羽入がいなかったら、梨花の物語はないし、圭一の物語もなかった。
 羽入がいて、さらには舞台から降りたから、梨花の出番がやってきたのだから。

 羽入がいなければ、梨花は生まれない。
 さらには、例えば、梨花が主人公のままだったら、圭一が主人公の物語はなかった。
 梨花がループしながら出口を探す物語になっていただろう。
 そしてそもそもの話をすれば、羽入が自分の人生を生きていれば、梨花が主人公の物語も紡がれなかった。

 なのでつまり、「羽入はいらない」と言っている人は、羽入の物語が読めなかったということになる。

 元の物語は羽入が主人公の話で、それを梨花の主人公の話が覆い隠していて、さらにその上に圭一が主人公の話が被さっていた。
 ひぐらしの問題編だけだと主人公は完全に圭一にしか見えない。
 暇潰し編で梨花がループを経験していることは示唆されているので、梨花が主人公の話を想像できるようにはできているのだけど、実際当時にそれを想像できていた人ってどれほどいるのだろうか。

 ひぐらしは要するに、元の物語へ帰ろうとする話で、それはうみねこも同じ。
 ラストの福音の家のは、欠けたピースが戻り世界が完成する、世界が元に戻るというもの。
 ひぐらしが三人の主人公による3つの物語で、うみねこも3つの物語。
 だからきっとうみねこも三人の主人公による物語。
 欠けた最後の一人が帰還して、元の完成された世界に戻るのだろう。

 私は読解では三番目の物語は読めないと思うんだよ。
 書かれたままの文と、書かれたことから読み取れるもの、二重の物語までは読解で読める。
 でも三重の物語は視えないだろうと。
 三重の物語は解読しなければ読めない暗号のようなもの。
 今ある物語を元の物語に変換しなければならないのだと。

 羽入の話をするためには、圭一の話からしなければならないという迂遠さ。
 素直からほど遠いよな。



 前置き終わり。
 さて、キコニアの話をしようか。

 ジェイデンとミャオのデートでの、仲間たちの脳内助言についてだ。
 あれこそ一つの台詞の裏に複数のニンゲンの台詞が混じったものの具体例である。
 読者視点では舞台裏まで見せてもらっているから理解できるものになっているが、脳内会議の様子が省かれていたらまったく理解できない台詞の応酬に見えたことだろう。

 サイズが合わない靴を履いてきた。
 そのたった一つの事に、何重もの意図が隠されていて、脳内で何人もの人間がそれぞれの視点から意味を持たせていたと理解できただろうか。

 一つの言葉に、複数の意味を飾る。
 一つの物語に、複数の物語を飾る。
 ゲームの製作者がしていることはそういうこと。
 物語を着飾らせるのはたいへんで時間が掛かる。
 だからデートに遅れても笑って受け入れたい。

 デートは二人でするもの。
 即ち対戦ゲーム。
 一つの口から一度に複数の人格が喋り、それを聖徳太子並みに聞き取って、それぞれの人格に対して答える。
 それはまるでジェイデンとミャオの意味わからん会話のよう。

 その類がゲームでの応酬というのだから意味わからんよね。
 私も分けわからなくなることがある。
 全部把握するのは難しいし、こんがらがる。
 聖徳太子用のゲームとか人類には難易度高い。

 やはり色々と飾られた迂遠な言葉よりも、自分を飾らない言葉が一番。
 でもそれが素直にできないのがここの文化。
 その文化に飛び込むなら、そこの文化と付き合っていかなければならないんだよね。

 ま、要するに、ジェイデンとミャオのデートと脳内会議は、ゲームの風景を切り取ったもの。
 パラレルプロセッサーとのゲームはこうだぞ、っていう。

 本当パラレルプロセッサーとゲームをするのはたいへんだよ。
 一人なのに同時に複数の主張をし、異なるロジックを同時に作り上げ、真実を並び立たせて来る。
 一つ迎撃できても、必ずもう一つにやられてしまう。
 推理の矢が一本しかない人は必ず負ける。
 それがパラレルプロセッサーとの戦いというもの。

 パラレルプロセッサーと戦うということは、内包される複数の人格と対峙するということ。
 その全てを同時に打ち破らなければならない。
 読解の選択問題のように正解を一つ選ぶのではなく、正解だと思われる選択肢を複数作らなければならないみたいな。
 さらには、それらを飾らない素直な言葉に変換せよ、みたいな。
 真実は複数。しかれども全てを合わせた真相は一つ。みたいな。



 ひぐらし・うみねこでは三人主人公の3つの物語だから、キコニアも同様なんだろうと思う。
 生き残る人類の人数のことだけど。
 生き残るのは二人。それよりも少し多く。
 だからきっと三人。

 都雄の物語、ミャオの物語、ジェイデンの物語。
 それらが一つの物語に纏まる。
 そんな感じになるんじゃないかな。

 飾らない素直な一言は、「一緒にいたい」「共に生きたい」「ここにいることを許して欲しい」と言ったところ。
 それが着飾ればキコニアの物語になる。
 たった一言がここの文化に掛かれば物語に変換されるんだよな~。


  1. 2020/07/18(土) 20:48:50|
  2. Phase1
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【WHEN THEY CRY】シリーズまとめ考察

 現在キコニアを考察しているが、うみねこやひぐらしにまで話が拡大してしまっているので、シリーズを通しての見解を示したい。



 まずひぐらし・うみねこ・キコニアの各ゲーム盤の製作者は同一人物。
 作中作者とでも言うべき存在の手によるもの。
 この「作中作者」の存在はゲームの最奥に隠されていて、この人物の心を推理するのが各ゲームの共通の目的。

 各ゲーム盤は「作中作者」の心の中に構築されたもので、つまり「作中作者」こそが各ゲーム盤で繰り広げられた舞台の観劇者にして物語の観測者。
 ゲーム盤世界の神とも言うべき存在。


 ひぐらしはこの「作中作者」が生きる力を取り戻すまでを描いている。

 作中作者=神=羽入。
 羽入は「作中作者」の分身の駒。

 祭囃し編や賽殺し編で神の設定が明かされた。
 神に成るためには、人であることを止め、人としての自分を殺し、人の世を去らなければならない。
 それは人生の舞台を自ら降り、己のいない舞台を延々と見続ける傍観者となるということ。

 ひぐらしの惨劇は、一人が死んで一人が消えるというもの。
 それらはセットであり不可分。
 必ず死ぬのが梨花であるなら、同時にもう一人が必ず消えていることになる。
 それがつまり羽入だ。
 ひぐらしは、死ぬはずだった梨花が生き延び、消えていた羽入が姿を取り戻すまでを描いた物語なのだ。

 梨花が懸命に生きる圭一の物語から生きて戦うことの意味を学んだように、羽入もまた懸命に生きる梨花の物語から生きて戦うことの大切さを学んだ。

 圭一の駒としての役割は、主人公の座を退いた梨花の代わりに主人公の役割を代わりに果たすこと。
 よって、梨花が生きる力を取り戻し運命と戦う決意をした時点で、その役割は終わり、主人公ではなくなったのだ。
 そして梨花の駒としての役割も、羽入という真の主人公の代理であり、それを覚醒させるための起爆剤。
 駒たちが懸命に生きる物語を見て、自分も懸命に生きようと決意する。

 強い意志で圭一が奇跡を起こし、次にそれを見て奮起した梨花が奇跡を起こした。
 だから次は羽入の番。


 「作中作者」が生きるために戦うという強い意志を得て、ひぐらしの舞台に幕が下りた。
 次の舞台、うみねこの幕が上がる。

 ひぐらしが未来に踏み出すための物語なら、うみねこは過去に決着をつけるための物語だろう。
 「作中作者」がなぜ人を止めて神となったのかが描かれている。

 いるといないの中間である小数点以下の存在。
 それはまさしく、舞台から姿を消し、けれどもまだそこにいる、未練を残した亡霊の如き「作中作者」を表している。
 19人目、そしてメッセージボトルの執筆者「右代宮真里亞」。
 そういう意味ではEP1の時点で、「作中作者」は確り登場しているんだよな。

 猫箱の中には「作中作者がニンゲンと存在している世界」と「作中作者がニンゲンとして存在していない世界」が入っている。
 「作中作者がニンゲンと存在している世界」での事件の犯人が「作中作者」であるなら、「作中作者がニンゲンとして存在していない世界」では代わりの犯人がいなくてはならない。
 主の代わりに殺人を行う駒、それが「ヤス」だ。

 片側の世界の犯人が「作中作者」で、もう片側の世界の犯人が「ヤス」で、それらが表裏を合わせて一つの真相を形作っている。
 それが言うなれば「一なる世界」とでも言うべきもの。
 この「一なる世界」を保つためには、両側の世界を隔てる平和の壁を支えなければならない。
 もう片方を圧し潰さないために。

 よって、明確に自分が犯人であると主張できない。
 「作中作者」即ち19人目は、自身を小数点以下の存在としてしか示せないし。
 「ヤス」は紗音と嘉音の人格が同一の肉体を共有しているとは示せない。
 できて「同一である可能性は否定できない」まで。
 必ず反対側に、「同一であると誤認させたい者がいる可能性」を置かねばならないからだ。
 ゆえに、両者ともニンゲンではなく家具。
 小数点以下の存在。

 家具から脱却しニンゲンになるために決闘が必要だった。
 「一なる世界」を壊し、一人分の魂を持つニンゲンとしてある世界に再構成するために。
 が、これは戦人が来ず開催せずに時間切れ、戦わずして決着してしまった。

 戦わなかったことの後悔と喪失。
 それが罪となり、それを払うための生贄として舞台を去り、神と成って紡いだのがひぐらし。
 そこから再び立ち上がって紡いだのがうみねこ。
 過去の清算。
 後悔を晴らし、望んだ未来を掴むために、今こそ決闘を。

 そんなわけでEP6で12年越しの決闘が行われた。
 喪失の後悔からか、天秤は「ヤス」を蘇らせる側に傾いた。
 だから次のEP7では「ヤス」側が存在感を色濃く出すものになった。
 だがその反対側の可能性も僅かながら残す形にはなっている。
 EP7のラストで示されたように、絶望の運命から二人揃って逃げ延びるというのがゲームの本質。
 両方のロジックを成立させられる道を作るというゲームなのだ。
 一つの真実しか認めない世界で、二人一緒に逃げ延びていつか奇跡を掴もうとしている。
 片翼の鳥は、二人一緒なら飛べるという意味。
 比翼の鳥は引き離しては生きていけないのだ。

 そして、黄金郷に至るまでの道を完成させた。
 そう、作ったのは道。
 読者が真相に至るまでの、二人が読者の心の世界に至るまでの、道。

 読者に運命を委ねた。
 でもこれは諦観でも消極的でもない。
 絶対の意志で、奇跡を掴むためのもの。
 待つだけの後悔はしきっているのだから。


 キコニアはうみねこで真相に至った読者、PLのターン。
 用意された道を辿り、絶望の運命を覆して奇跡を起こすための物語。

 要するに、「作中作者」が真相に至ったPLをゲームに取り込み、PLを含んだ三人で共にいられる世界を紡いでいるのだと思う。
 「なく頃に」三部作の完結として。


 うみねこの決闘で、駒を戦わせたのは読者というプレイヤー。
 駒の罪は、主の罪。
 片方の世界を選ぶということは、もう片方の世界を選ばないということ。
 それはつまり、「誰かがいない世界」を選ぶということ。

 例えば、「ヤスのいる世界」を選ぶということは、「嘉音のいない世界」を選ぶということ。
 独立した肉体と精神を持つ嘉音などいないという選択。
 「嘉音のいない世界」を選ぶということは、「嘉音を殺していた」ということ。
 「母のいない世界」を選ぶことは「母を殺していた」ということと同じ。
 つまり、嘉音を殺したのは、それを選んだ読者なのだ。

 読者にも罪がある。
 「誰かのいない世界」を選び、その「誰か」を殺したという罪が。

 キコニアの「神の代理人」はその罪滅ぼしとて、罪を赦し合える世界を紡ごうとしているのかもね。


 皆が罪を赦し合える世界はひぐらしで提唱されていた。
 つまり、原点回帰。
 ひぐらしが明白な答えだったり説教臭いのも、なく頃にシリーズのゲームの目的を明確にするためだったのだろう。
 目標さえ明確にできれば、過程は後から付いてくる。
 要するに、フェアなゲームということ。

 ひぐらしの一番最初の冒頭も、繰り返される謝罪で始まった。
 全てはそこから始まり、皆が赦し合える世界で終わる。
 極自然な決着。
 ひぐらしで目標を掲げ、うみねこで根本の原因にまで遡り、キコニアでゲームを構成する三者で罪を赦し合う。
 実に綺麗な流れじゃないかな。


  1. 2020/07/11(土) 20:58:51|
  2. WHEN THEY CRY
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【キコニア】始まった時にはもう、終わっている

 今回はめっちゃ短い。


 ひぐらし礼、うみねこ咲を見て思ったけど、キコニアって始まった時にはもう終わっているよね。

 私の考えるキコニアって、うみねこを下地としてPLがGM宛に紡いだメッセージで、母と子が一緒にいられることこそがハッピーエンドだとGMの心に届けるまでを描くゲームなんだけど。

 ひぐらしで“子”は“母”と共にいられる世界を選んだ。
 そして“母”は“子”と共に人として生きるために戦うことを選んだ。
 うみねこでPLと戦い、そのPLがキコニアのシナリオを書いたということは、そのPLも“母”と“子”が共にいられる世界を望んでいるということ。

 この時点でゲームに関わる三者の意見が一致しているので、“母”と“子”が共にいられる世界が紡がれる結末に辿り着くことは決まったと言っていいだろう。

 キコニアはその結末に辿り着くまでの過程を描いた物語だから、始まった時にはもう終わっているんだよね。
 もはやセレモニー。


 PLがシナリオを紡いでいると言ったが、そもそもその上層には本物のGMがいて物語を紡いでいると思っている。
 PLはGMが取り込んで既知としている、つまりすでにPLのメッセージを受け取っている状態。
 よって、キコニアの物語はそれを示すためのセレモニーなのだと思う。

 内外にそれを示すための「式典」。
 それを祝うための「祭り」。

“予告される惨劇は、計画か妄想か、未来か現実か。”

 私の答えは、セレモニー。


  1. 2020/07/04(土) 20:04:21|
  2. Phase1
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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