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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【ひぐらし】賽殺し編考察【キコニア】

 賽殺し編を軽く再読したが、少々記憶が間違ってたわ。
 神のいない無味乾燥な世界とか私言ってたけど、そんなことはなかったぜ。
 それなりに幸せに満ちている世界だった。
 神のいない世界というのは合っていたけど。

 そんなわけで、改めて神のいない世界について考察したいと思う。
 執筆者にとって賽殺し編はどんな意味を込めたのか。





 フレデリカ・ベルンカステルの人格が古手梨花の人格を乗っ取った。

 これは作中で示されたもの。
 確かにこれまでループの度に、体(アバター)の本来の持ち主である人間である古手梨花の人格を圧し潰し、体を乗っ取ってきた。

 ループする度に元の人格から乖離していく。
 百年を生きる魔女の人格は、何も知ることがなかった無垢な人間の人格とは別人と言える。
 人にとって世界は一つ。
 なら異なる世界を知ることのできる魔女は、それよりも上位の階層に住む存在だと言えるだろう。
 その上位存在にとって体は唯一の拠り所ではない。
 肉体が死んで使い物にならなくなったら、別の世界の自分の体を使えば良いだけ。
 それは限定的とはいえ、アバターを服のように変えることができる、上位階層よりゲーム盤にログインする、魂を拠り所とする存在となったことを意味する。

 うみねこやキコニアにも通じる話だよね。

 人生を物語に喩えるなら、その物語の主人公は自分自身だ。
 フレデリカ・ベルンカステルという魔女の物語は、梨花という別の物語の主人公を乗っ取って、自身の物語を延々と続けていく。
 梨花を猫と喩えるなら、猫を食らって生き延びる猫がベルンカステル。
 うみねこEP7でベルンがフェザリーヌに教わったと言っていた、猫を食らって生きる道とはこれのこと。


 でだ、フレデリカにそれを教えた羽入とは一体何なのか。

 フレデリカが猫を食らう猫でいられるのは、羽入の力のお陰。
 羽入がいなければ、フレデリカはいなかった。
 つまり羽入が主で、フレデリカは従。
 フレデリカが駒なら、羽入がプレイヤーとなる。

 羽入はフレデリカの人生という物語の観測者。
 羽入という観測者が、猫箱の梨花を観測することで、梨花の生死は決まる。
 逆を言えば、羽入が観測しなければ、世界を跨いで存在し続けるフレデリカは存在しないのだ。

 人にとって、世界とは一つだけであり、人の人生という物語は、生れてから死ぬまでである。
 だが羽入はその梨花の死による物語の結末を受け入れられず、満足する結末に至るまで物語を紡ぎ続けることを選んだ。
 それを羽入は、自身が梨花の人生を汚したと表現した。

 ま、要するに、梨花の人生を物語に喩えるなら、羽入は物語の作者という名の神なわけだ。


 祭囃し編によれば、罪を背負い自ら人としての死を選ぶことで神へと至る道が開かれると言う。
 賽殺し編の世界である、罪が一切ない世界とは、即ち神である羽入が人としての完全な死を選んだ世界なのだろう。
 故にその世界に羽入はいない。

 罪はそれを背負った羽入と共に消えた。
 それは逆を言えば、世界に蔓延した罪は羽入から生じたということ。
 人として生きようとする願いから罪が生じるのだ。

 罪のない人間などいない。
 生きるということは即ち罪なのだ。
 だから生きても良いのだと誰かに赦されたい。

 罪のない世界とは即ち、人のいなくなった世界だ。
 その世界にいた唯一本物の人間である羽入がいなくなった。
 だからその世界にもはや罪などない。

 世界とは物語であり、その物語の作者が即ち神だ。
 作者は人間であり、物語の中のニンゲンは全て虚構で幻想。
 つまり、その世界の中で本物の人間は、作者である神だけなのだ。

 羽入が人として完全に死んだ世界では、羽入の姿はない。
 羽入が人の姿を取っていたのは、羽入が人としてありたいとどこかで願っていたから。
 人には見えない亡霊でしかなくとも存在していたのは、人として生きたいという未練から。

 魔女は人と関わりたいから人の姿をしている。
 人の姿を失ったということは、人間に興味をなくしたということ。
 人として生きたいという未練が完全になくなったということを表している。

 人生という舞台の主役は自分自身。
 それが人として生きるということ。
 なら人として生きないという選択は、人生という舞台から降りるということ。
 その舞台の主役の代理を誰かにやらせ、裏から舞台を踊らせるのが神としての生き方。
 人として生きることを諦めるということは、現実に背を向けて永遠に夢を見続けるということ。

 作者とキャラクターの関係が母と子の様なものだとすると、主人公代理である梨花は、人としての羽入を殺したことになる。
 フレデリカの人格が梨花の人格を圧し潰した様に、梨花の物語が羽入の人としての物語を圧し潰してしまうのだ。
 つまり、母殺しだ。


 賽殺し編のテーマは“母殺し”。
 羽入が娘に自身を殺させたという話も、梨花が生き延びるために母のいない世界を選択していたことがすでに母を殺していたのだという話も、全てそこに繋がっている。

 羽入を殺した娘は、いつか羽入が人として共に生きられる世界を望んだ。
 それがつまり祭囃し編の世界。
 梨花が賽殺し編で最終的に選んだのもその世界。

 もし梨花が賽殺し編の世界を選んでいたら、人としての羽入は死に、完全に神になったことだろう。
 それは神としての幸せに満ちているのかもしれない。
 しかしそこには人としての幸せはない。

 そうなっていたらうみねこの物語はなかっただろうね。
 あれは神の世界に触れながら、それでも帰還したフェザリーヌが紡いだ物語だから。
 人としての幸せと、神としての幸せ、それを天秤に載せた決闘を描いた物語。
 うみねこは人として生きたいという願いを手放さなかったから紡げたのだろう。






 おまけとして賽殺し編から幾つか抜粋してそれぞれにコメントしてみた。


“かつて私は、元の世界に戻るためにはどんな努力でもすると誓ったのではないか。”
“自分がその誓いを破れば、私に運命を賭けている羽入は、永遠にひとりぼっちとなって取り残され、…私だけがひとり、勝手に幸せになる。”


 一人で生きるのか、二人で共に生きるのか。
 自分一人だけの運命ではない。
 二人分の運命を背負った選択なのだ。
 一人で生きるということは、もう一人を運命の袋小路に取り残すということ。
 故に、相方のいない世界を生きることを選ぶ時、相方を殺したという罪を背負わなければならない。

 これもまた鏡写しができるだろう。
 母殺しの鏡写しは子殺し。
 子のいない世界を生きるという選択。
 子のいない世界を生き、元の世界との違和感と戦い、子を殺したという罪に苛まれる。
 それを経験したんじゃないかな。
 きっとそれが罪の根源。

 子殺しの真実、子を蘇らせる儀式、懐かしき故郷へ戻る話は、その後うみねこで語られることになる。


「僕が、…………いえ、…私が神になろうと決めた時。……私の娘、……梨花のご先祖はそれをとても悲しみました。私がそう決めたのが、…人の世に絶望したからだと知っていたからです。」

 人として生きる。
 それは「執筆者」にとって、子殺しの道を歩むということ。
 罪に塗れるということ。
 人として生きたいと願い、人として生きることに絶望した。

 罪が祓えない。
 だってその罪を赦せる人はもういないから。

 罪を赦せない。
 大切な人を殺してまで生きる自分自身を赦せないから。

 罪を隠して真実に背を向ける。
 人としての生を止め、神と成る。
 決して覚めぬ夢を紡ぐため。

 それでも亡霊としてあったのは、人になりたいという未練があるから。
 誰かに罪を赦して欲しかった。
 亡くしてしまった子に。
 あるいは別の誰かに。
 だから羽入はずっと謝り続ていたのだろう。
 

「この千年は、人の世を見限った私に対する罪だったのかもしれません。人は、人の世に生きる。そして生まれた世界に懸命でなくてはならない。…それを軽んじ、世界を容易に手放そうとする者は、千年にも及ぶ流罪に等しい罰を受けなければならないのかもしれません。」

 人生という舞台を降りて、ただ舞台を眺めるだけの傍観者となった。
 舞台の上で懸命に生きる者たちを眺めていた。
 それを羨ましく思った。
 また舞台に戻ろうとしても、簡単に人生を諦めた者に舞台に上がる資格はない。
 その舞台は懸命に生きる者だけが上がれる場所だから。


「………でも、それはとてもとても心地よいことなのです。……梨花はそれを僕の死と考えるようですが。…僕も、その世界における自分は死んでいると、最初はそう考えました。…ですが、その世界における羽入は、消えてしまってはいますが、喜びに満ちているのです。……あなたのお母さんと人生を供にして、楽しい時間を過ごした。お母さんはまだ生きていますが、その世界の僕はやさしさに包まれながら、二度と目覚めぬまどろみの中で楽しい夢を見続けているのです。……その温かさと心地よさは、きっとこの世に生まれ出る前の母の胎内にも似ている。………それを知っていしまったから、僕は梨花がむしろ、その世界を受け入れてくれないかとすら思っているのですよ…。」

 羽入にとってその世界は“夢”。
 二度と覚めることのない“夢”。
 人であることを完全に止めた。
 だから人として羽入は、生まれてくる前の状態に戻った。
 つまり、人として生きる苦しみから自身を切り離した状態。
 そこに人としての幸せはない。
 あるのは神としての幸せだけ。


「…………その世界は、誰かの夢が作り出した『理想の世界』なのです。あなたに関わる全ての人間に罪がない。それはとてもとても純粋で透き通った美しい世界なのです。その世界では、私はすでに消え去っており、梨花の人生を穢していない。…だから僕にも罪がない。そして梨花。あなたも自らの人生を穢していないから、罪がない。」

 “誰か”っていうのはつまり“羽入”のこと。
 自身が消えることで罪を禊いだ理想の世界。


「…………梨花のお母さんならこう言うでしょう。娘が幸せになれるなら、自分の命など惜しくないと。……梨花にはまだわかりません。子を持ち母となった身にしかわからぬ気持ちです。かつて一度は母になったからわかる。…もし梨花が元の世界の方が幸せだったと言えるなら、梨花のお母さんは喜んでその命を差し出すでしょう。」

 梨花の“母”とはつまり、羽入自身のこと。
 正確に言えば、羽入の大元である「執筆者」のこと。
 子の幸せのためには、自身の命すら差し出せる。
 その世界がつまりは、賽殺し編の世界というわけ。


「……死んだ方は気楽よね。勝手に献身美徳に酔って成仏できる。でもね、殺した方はその十字架を背負ってずっと生きていくのよ。………あんた、さっき言わなかった? あんたを討った娘が、あんたのために助け合いの心の宿る雛見沢を作ると誓ったって。そして千年掛けてあんたの娘たちは、あんたの罪に付き合ったのよ。…あんたは死ぬべきじゃなかったんじゃない? 何の罪を背負わされたのか知らないけど、生きて戦うべきだった。子孫が罪を背負わずに済む様に戦うべきだった。なのにあんたが屈したから、千年もの間、あんたの子孫たちがあんたの十字架を背負い続けた。……そうじゃないの?!」

 一理ある。
 羽入が、即ち「執筆者」が人として生きることができていれば、何も問題は起こらなかった。
 ひぐらしの世界だって生まれることはなかった。

 だが逆を言えば、そうじゃなかったからこそ今のひぐらしの世界がある。
 失いたくなかった。蘇らせたかった。元に戻りたかった。
 「執筆者」にとって生きるとは、一人で生きることではなく、皆と一緒に生きることだったのだ。

 皆と一緒に生きるという奇跡に繋がるための選択がこれだったのだろう。

 しかし、奇跡に繋がったから良かったものの、羽入が完全に死んでいたら梨花の意見が正論になる。
 だから「執筆者」も最後には戦わなければならないと思うんだよ。
 その戦いがうみねこであり、キコニアなのだろう。

 そしてこの台詞は、キコニアの青都雄の言いたいことと同一のものだと思うんだよね。
 母を殺して平然としていられるはずがない。
 母を殺した罪を背負い、母のいない世界を生きる。
 そんな未来など己ごと消し去りたくなるのも無理はない。

 それでも親子の絆を断ち切れば、完全にキコニアが飛ばない世界に成れば、罪はなかったことになるのだと言うのだろう。
 だが、思い出さないことが罪なのだと、貴女が言ったのだ。
 それは子を殺して子のいない世界に生きている自分自身に対する言葉なのだろうけど。
 その言葉は鏡写しのように還るんだよ。
 ホント自分には厳しく、子には甘いよな。
 それは自身が味わった苦しみを子に味わわせたくないという親の愛なのだろうけど。
 子がそれに反発するのも当然なのだよ。

 子は母殺しを厭い、母は子殺しを厭う。
 ならどんなに可能性が低くても、二人が共に生きられる奇跡を願うしかない。
 それが子がPLに頼んだ注文なのだろう。
 ひぐらし・うみねこであれだけの文量をかけて書かれれば、否が応でも分かるわ。


「なら、梨花。……私は生きて戦うべきだったという梨花。あなたはその世界にいる今、どうするというのですか。………その世界にいるという現実を受け入れ、元の世界と異なるいくつかの違和感と戦いながら、その世界で生きることを望みますか。百年の果てに掴んだ、手垢と汗に塗れた、それでもなお美しいあの世界を見捨てて!」

 羽入にとっては、千年の果てに掴んだ世界だよな。
 あと、「執筆者」も子のいない世界に違和感を感じながら生きていたのだろうね。


「そして、あなたは百年の末に掴んだあの世界を、元の世界と今なお呼ぶ。……なら、この世界の居心地がどんなによくても、それを全て投げ捨てて、この世界に留まりたい気持ちと戦い打ち払って、元の世界へ帰るできなのではないですか。あなたに関わる人々が罪から解放されたこの世界を打ち壊してでも!」

 人として生きるということは、罪を背負って生きるということ。
 自身に言い聞かせている言葉でもあるんだろうね。


「……でも、あんたはそれでいいの? …私がいないと寂しくなるって、かつてあれだけ駄々をこねていたのに。」
「……もう大丈夫ですよ。新しい友人ができましたのですから。」
「へぇ? 誰よ、紹介してよ。」
「……………教えませんのです。あぅあぅ。」
「……そういうことか。……ということは、…私はつまり、『古手梨花』、…なのね?」


 今の世界を生きることを選んだ『古手梨花』だから次の世界には行けない。
 次の行けるのは世界を跨いで生きることを選んだ『フレデリカ』の方。
 次の世界とは、うみねこの事。
 人として生きるために戦うことを選んだ羽入、もとい「執筆者」が戻らなければならない世界。
 そこでかつて出来なかった決闘を行うことになるのだ。


“…………今、わかったわ。こちらの世界へ戻るなら母を殺せという意味。
 殺さないとカケラがどうのこうのというのが問題なんじゃない。
 …母がいない世界を選ぶという行為がすでに、母殺しなんだ。
 私はこれまで、何の罪も感じずにこの世界を選び続け、「母を殺し続けてきた」。
 …あんたは、「それ」を私に気付かせたかったんじゃないの…?
 あんたが私に感じている罪。
 …多分、そのひとつがこれ。
 ……私が、両親を敬わなくなってしまったこと。
 あの世界で、……私はそれにようやく気付くことができたわ。
 梨花。気付いてくれて、ありがとう。
 僕が、あなたに感じてきた一番の罪が、ようやく祓われた気がしますのですよ……。
 大丈夫、梨花。
 あなたはその手を母の血に染めてなんかいない。
 あれは全部、……梨花に意地悪したかった僕の見せた、「夢」なのですから。
 …だから、あなたがその眠りから目覚めたら全て忘れているように。”


 両親を敬うという話はキコニアに繋がるものだろう。
 母のいない世界とは、キコニアが飛ばない国のこと。
 キコニアの飛ばない国で、都雄がキコニア生まれて来たということは、子である都雄がそれを求めたということであり、母もまたその繋がりを求めたという証だろう。
 やはり一緒が良いのだな。

 母のいない世界なんて、ホント意地悪な夢だよな。
 それを選択したら、躊躇なく自分を犠牲にするつもりだったくせに。
 うみねこで実際にそれを選ばせようとしたよな。
 ラストノートなんかは分かりやすい母殺しの話だし。
 子が母の血に染める選択をするはずがないし、プレイヤーである私だってそうだ。
 だからこそキコニアでは、母と子が殺し合う結末を覆すのだと信じている。
 今度こそ物語にハッピーエンドを。


 母と子の物語は、ひぐらしからうみねこへ、そしてキコニアに繋がる。
 なく頃には、この“軸”は一切ブレていないんだよね。
 必ず存在する要素だもん。


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  1. 2020/06/27(土) 21:12:10|
  2. 賽殺し編
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【キコニア】加工された物語、伝統の味付け

※PCをPLに修正。



“正体不明の誰かが調理した食事など、不気味で誰も食べないはずなのに。それが情報だと、誰が加工したかも考えずに鵜呑みにして信じる。……そういう馬鹿が世界中にいてくれるから、我々はひと稼ぎが出来るわけですが。”

 与えられた情報は、誰かが加工したものである。
 ならば与えられた物語は、誰かが加工したものであることだろう。
 例えば、ラストの様々なシーンの切り取りやフラグメントなんかはそういうのが際立っている。
 誰があれを切り抜いてきたの? と。

 そうなると「誰」が加工したのか、物語に加工される前の「素」の状態はどういうものだったのかが気になるところ。


 さらにこれに関連するだろうフラグメントが存在する。
 「臭い料理対決!」だ。
 “料理”を“物語”に変換すればだいたい通じるんじゃないかな。

『物語。それは世界各地で独自に育まれてきた個性豊かな文化。
 読書が人類最高の快楽の1つであることを否定できる者はおるまい。
 時代を問わず、場所を問わず、人類は物語に美味を追求してきた。
 その結果、世界各地で素晴らしい物語が育まれることとなる。
 しかし、進化とは時に、必ずしも正方向へは進まない。
 普通なら、より味が良いように良いように進化していく。
 ほとんどの場合、そうなのだが、……時に、少し偏った進化を見せる時がある。
 どんな物語でも、ずっと食べていると飽きる。変化や驚きが欲しくなってくる。
 その変化や驚きが一定の域を超えると、……地元民にとっては美味な伝統の味でも、それ以外の人間の口には到底合わない代物が誕生する場合がある……。
 そのような進化のズレたモノは、多くの場合、外国人旅行者の悪評によって見直されて正気に戻るものなのだが……。
 ……時に。
 むしろ外国人撃退に特化したかのような、恐ろしいモノを生み出してしまう時がある。』

 って感じ。
 つまり、サルミアッキ=キコニアのなく頃に。
 そう読み換えると、断然キコニアを理解できると思う。

 サルミアッキとは北欧の言葉で、塩化アンモニウムを意味する。
 つまり“アンモニア臭”がする。
 アンモニア臭と言えば、A3Wで主にする臭いがそれ。
 要は、サルミアッキ=キコニアだと言いたいのだろう。
 北欧人(比喩)以外には食えない味だと。

 そして北欧人(比喩)は何でもかんでもサルミアッキで味付ける。
 ひぐらしでも、うみねこでも、それ以外の作品ですら。
 それが北欧人(比喩)の伝統の物語の味付けなのだ。


 長年その土地で育まれたってところで、一般社会とは隔絶した環境で長年過ごしたことを窺わせる。
 肉体を捨ててでも魂を重視する傾向にある価値観は、一般社会の常識とは大きく乖離している。

 現代の日本では、魂より命の方が重視されている。
 延命できるならできる限り延命をする。
 安楽死は禁止されているし、意識が戻らなくても延命装置に繋ぎ続ける。
 どういう形でも生きていてくれる方が良いという傾向がある。
 極端に言えば、「命は地球より重い」という価値観。

 それに対して、魂の方を重視するというのは、場合によっては魂を守るために命すら捨てるということ。
 極端に言えば、「生きるために死ぬ」という思想。


 物語の正方向への進化は、一概には言えないけど、より万人受けるように分かりやすい、直接的なメッセージなどが込められた物語だろう。
 その反対は、分かりにくい迂遠的なメッセージが込められた物語となる。
 そっち方面に進化してしまったのは、世間と隔絶されていたから。
 つまり、交流がなかったから。
 要は拗らせてるんだな。

 うみねこも推理して欲しい、理解して欲しいというのと同時に、理解できるはずがない的な防衛的攻撃性が垣間見えるからな。
 所謂ハリネズミのジレンマってヤツ。
 その攻撃性も引っ繰り返せば、これを考えてーっていう道案内なんだよね。
 こっち来ないでーって言いながら、こっち来てーっていう。
 アンビバレンツな心理なのだろう。
 「逃げるから追ってきて」は、うみねこの当初からある伝統文化と言っていい。。

 うみねこでは3つの物語を紡いだのだから、物語の味わいは三段階に分かれているのだと思う。
 見れば分かる物語と、考えれば分かる物語と、より深く考えなければ分からない物語とに。
 相手に何かを信じさせたい時、こちらが主張したことをそのまま信じてもらうのは難しい。
 こちらの主張に反発する勢力が必ず出るから。
 だから答えを明かすのではなく、相手が自分から気付かせるのが良い。
 その気付きは相手のもので、ゆえに反発は起こらない。
 マジックでもあるよね、相手にこちらが選んで欲しいカードを選ばせるってヤツ。

 つまり、人って自分がそれに気付いた時、そこで思考停止してしまうのだ。
 一歩進んだ、しかしその一歩で歩みを止めてしまう。
 あるいは、勢いで二歩目、三歩目くらいは進むこともあるだろう。
 しかし、一を聞いて十を知るほどは進まない。
 途中で満足してしまう。
 思考を止めなければ、まだまだ味わうことができるかもしれないのにもかかわらず。

 なく頃には、一つの真実を異なる角度から色々と味わうことができるというコンセプト。
 色々な味を味わうには、読者側のテクニックが必要になる。
 場合によっては、製作者側も想定していない味わい方すら開発することも可能だろう。

 これはどれが偉いという話ではなく、そこの文化に馴染めるのかどうかという話。
 物語は読んでもらうということは、広く世間に公開されるわけだから、より多くの人の口に合うように進化するのが正方向。
 しかしその逆に進化してしまったのは、ただ一人の王子を待っているからだろう。
 なく頃にの物語は読者に対して広く開放されていて、どうぞ好きに解釈してくださいとなっている。
 しかし最後の一線だけは踏み込ませないイメージ。
 そこは王子だけが踏み入れることが許されているのだろうね。

 きっとキコニアもその伝統を受け継いでいるじゃないかな。


“ところがところが! 恐ろしいことに(笑えることに)、北欧人はサルミアッキが自分たち以外の口には合わないことを、知っていて外国人に勧めてくることがあるのだ!
 そかもその上、にやにやしながら、食べるところを動画で撮ってもいいかと聞いてくることさえ……!!”


 これは、お前もじゃねーか! っていうツッコミ待ちに違いあるまい。
 物語を的確に咀嚼できないだろう者たちに食わせて、その反応を見て楽しむという悪趣味な一面があるということだろう。

 確かうみねこのインタビューでくさやの話があったな。
 知的な背伸びの話で、挑発されたらつい食ってしまう的な。

 自分の土地の文化、物語の味をちゃんと理解して味わってくれる人を探しながらも、そういう人は滅多にいないから、口に合わない者の反応を見て楽しもう方向に行っているのかな。
 一番嫌なのが、食ってくれない、反応してくれないことだと思うので。
 反応を返してくれるだけで嬉しいのだろうね。

 ま、一種の自己紹介の様なもの。
 こういう文化の者ですってね。


 で、その後の料理対決は、「神のシナリオ」と「神の代理人のシナリオ」のことなのだろう。
 PLからの、じゃあ次はお前が食ってみろよ的な。
 注文したのを忘れてしまい、料理ができるまで時間が掛かっているというのは、都雄が天災のお子様ランチを注文したことに掛かっているのだろう。



 そんなわけでこのフラグメントは見方によっては、物語本編に対する自己言及的なものになる。
 うみねこのTIPS、小冊子も大半はそんな感じだった。
 普通に見るとただのサイドストーリー、でもメタ的に見ると作品の解説書的な。

 物語の中で物語について、暗喩的に自己言及をする。
 そうすることで自らの尾を飲み込むウロボロスの如く、元の位置からより高次の存在になる。
 自己に言及するということは、自己を俯瞰する自己を作るということだから。
 要するにメタ構造のゲーム盤を構築できる。
 なく頃にのゲーム盤はそれがデフォだろう。





 さて、物語を加工しているなら、メタの領域にいる誰かがそれをしていることになる。
 ミステリー的には、
 フーダニット。誰が加工しているのか?
 ハウダニット。どうやって加工したのか?
 ホワイダニット。どんな意図で加工したのか?
 これらを解けばいいってことになる。

 さらに言えば、加工される前の「素」の状態はどんなものなのか?
 そういうのも問われているんだろう。


 私的にはやっぱり「素」はうみねこのゲーム内容だと思うんだよね。
 うみねこのゲーム結果を素材として作成・加工されたゲームがキコニア。

 ベアトが紡いだ3つの物語、幻想1、真実2。
 そしてそれらを包括した真相1を加えて計4つの物語。
 それがキコニアの四陣営で、それらが相争い読者の心の世界への移住を賭けて争っている。

 その争いはヨハネの黙示録に見立てられており、そこで良く用いられる七人一組に都雄たち仲間が組み分けられる。
 COUの6人+ミャオ(ジェストレス)が赤い龍。
 ABNの6人+都雄が七人の御使い(子羊)。
 ACRの6人+ギュンヒルドが黙示録の獣。
 AOUの6人(ジェイデンとミャオを入れ替え)+フィーアが神の七つの霊。

 そして神がフィーアで、神の代理人が藤治郎でその分身がジェイデン。
 LATOの2人はジェイデンと組んで三人一組となり争いを管理する。

 そんなイメージが個人的にはぴったり合うと思っている。


 ん~このイメージって、私の記事を読んでいる人と共有できているのかな?
 自分で言うのもなんだけど、私のうみねこの見解は世間一般とは乖離しているので。
 今頃までうみねこ・キコニアを考察している人で、「ヤスの肉体が犯人」にあらずんばうみねこにあらずって極端な人はいないと思うが、どうなんだろう。


 1つ目の物語は、魔女であるベアトが犯人の物語。
 2つ目の物語は、ニンゲンであるヤスが犯人の物語。
 ここまでは普通に共通認識で良いと思う。
 残りの3つ目に、赤字を抜けることができて、かつ犯人がヤス以外の人間の物語と仮定する。

 真実は並び立つことがあると知っている人なら、信じるかどうかは別として、この仮定をイメージすることはできるはず。

 で、3つの物語と、それを纏めた4つ目の物語だけど。
 これは真里亞とさくたろうを例に出すとイメージしやすいかな。

 個別の物語は、真里亞がいない世界を(人間として)生きるさくたろうの物語と、さくたろうがいない世界を生きる真里亞の物語。
 纏めた物語は、真里亞とさくたろうが一緒に生きている世界の物語。

 真里亞がいない世界を生きるさくたろうは、ひぐらし礼の「賽殺し編」の羽入のいない世界で生きることに決めた梨花を想像すると分かりやすいと思う。
 羽入と一緒にいた世界を夢として忘れて、今いる世界の生を全うしようとしている。

 それがイメージできれば、二人一緒にいたいというのが本当の願いだと分かるはず。
 しかし読者に認められるための決闘が行われ、3つの物語はバラバラになるため、纏めた4つ目の物語は奇跡が起こらなければ勝つことはできない。
 そしてファンタジーである幻想の物語も勝ち残ることはほぼ不可能。
 となると残る真実の物語2つでタイマンとなる。

 また同じもので例えるけど、主人格である真里亞がさくたろうを殺せるわけがない。
 よって、さくたろうが勝ち残るという結末に辿り着く。
 これが私から見たうみねこの結末のイメージ。

 それに対して否を唱えたのが、読者の一部であるPL。
 さくたろうが一人残されるのはハッピーエンドではない、真里亞と一緒にいられてこそハッピーエンドであると、物語を編集しているのがキコニアのゲーム。
 さくたろう視点で言えば、一人で生きること否を唱え、PLに真里亞と一緒にいられる物語を要望し、PLはそれに応えたって感じになる。

 そして、PLはそのうみねこの結果を素材として物語に加工した。
 二人一緒にいられるハッピーエンドにするために。
 そんな感じのイメージ。


 私が気に入っているのは、物語を加工しているのがPLであること。
 トリック的には、習慣的にGMに焦点を合わせようとしたら、盲点だったPLがゲームを進行しる点とか。
 ある意味GMの一方的だったうみねこのゲームのリベンジを、今度は逆にPLがする的なところも続編のゲーム的で良い。

 自分は死んだ方が良いというGMに対し、PLは生きても良いんだと言う。
 これはまさしくひぐらし・うみねこのラストで繰り返されたもの。
 鷹野に対して富竹が。
 ベアトに対して戦人が、罪を赦す。
 生きて罪を償おう、一緒にいるから、自分を取り戻していこう、と。
 このラストはひぐらし・うみねこで共通したもの。
 だからきっとキコニアでも踏襲されるはず。
 それが綺麗な流れだから。

 全ての罪を背負って死ぬというのは羽入も同様で、こちらは欠けを埋めることを選んだ梨花によって救われる。
 これは先ほどのさくたろうの例え、さくたろうが真里亞と一緒にいることを望むイメージ。
 物語からの要望。即ち、注文。
 そして神の代理人はそれを形にする。

“…傍観者を気取った少女が、舞台に上がる決意をし、…もう充分と思い、降りようとした。
 ……舞台の上の輝かしい瞬間を思い出に、…舞台を降りようとした時、…その袖が引っ張られ、止められた。
 舞台の上に、いてもいいんだよ。
 気付けば、自分はまだ舞台の上にいて、……しかもこれからも舞台を降りなくていいのだ。
 カーテンコールにも自分の居場所があり、…私はもう傍観者などでは断じてないというのだ…。
 それは、…ありえない奇跡。
 …台本にない役なのに、…私はいなくていいはずなのに、…存在が認められる奇跡。”


 これは祭囃子編の全てが解決された時の地の文だけど、この“舞台”という表現はうみねこでも用いられている。
 EP7ではもろだし、ヱリカにもよく使われている。
 それまでいなかったヱリカが舞台に上がり、殺し直すことで全ての罪を背負い、舞台から退場する。
 これは羽入と同じプロトコル。
 EP7のクレル、EP8のベルン、ラストノートのピースも同様。
 それまで舞台に上がらなかった者が舞台に上がり、何らかの罪を背負い消えることで、舞台上に和を取り戻す。

 リフレイン。
 何度も繰り返されるということは、それが言いたいことであり、考えて欲しいことだということ。
 メッセージでありプロトコル。
 舞台に上がり、その後舞台から降りようとするから、それを引き留めて、という。

 ピースがヱリカに似ているというが、それは当然なのだ。
 同じ役割を持たされた駒なのだから。

 ヱリカは舞台から降りた後、忘却の深淵に捨てられた。
 そしてEP8でベルンに勝ったらヱリカを救うと約束した。
 舞台から降りた者を、再び舞台に上げるために勝負する。
 それがPCに課された目的。

 ヱリカが駒としての本来の役割を果たしたEP6で、羽入に相当するフェザリーヌが登場するのも、フェザリーヌ即ち八城が舞台の上に上がらない者という暗示だろう。


 造物主、即ち神については、ひぐらしを参考にしようか。
 祭囃し編のラストの鷹野と羽入のやりとりから抜粋。

「そなたの右手に持つ鉄の火で。己が生に別れを告げるがいい。……神の座に肉の器は不要。人にその姿を認められようなどと思ってはならぬ。」

「何故に嫌か。常に、人の世で和を求めるためには、1つのケガレに1つの生贄がいる。…それが人の世の理、罪の禊の方法ではなかったのか。
 ……そなたの望む未来に1人の少女を生贄に求めたのはそれを理解していたからではなかったのか。」

「…私は、…人間でよかった…。ただただ、人間として生きていいよって、誰かに赦してもらいたかった…! 生きてもいいよって許してもらいたかっただけなのッ!!」


 神の座に就くには、肉体を捨てる必要がある。
 自身の姿、即ち自身の真実を認められようとしてはならない。
 要するに、舞台の上から姿を消し、傍観者としてあらねばならない。
 それが神であり造物主。
 それが羽入でありフェザリーヌなのだろう。

 神に至ろうとしていたが、本当の願いは人間としていいよと誰かに赦してもらうことだった。
 そのために、1人の少女を生贄に求めた。
 逆に神に至るためには、自分が生贄となり舞台から消える必要がある。

 要するに、ニンゲンとして生きることが赦されない家具が、ニンゲンとして生きることを赦されるために、罪を1人の少女に着せて生贄に捧げることにしたが。
 それを厭い、代わりに自分が罪を着て舞台から消えることで、少女の生きる世界の和を取り持ったと。
 その後、舞台の陰から少女の生を見守り、それに満足したら完全に消える。

 そうして世界という舞台から消えて、満足して永遠の眠りに就くのが「賽殺し編」の世界。
 だが少女、梨花はその世界を選ばず、羽入と共にいられる世界を選んだ。
 これまで自覚なく母を殺し続けていたという自覚を得て。

 愛する魔女のために、神を捨てて人に還る。
 散った花が咲く。
 それがラストノートに込められた願いだろう。

 そしてキコニアで“雨乞い”がされた。
 物語からの要請を受けて、PLが物語を加工する。

 ジジ抜きの欠けたピースが埋まり物語に和を取り戻し、共に罪を背負い、共に罪を赦し合い、過去と決別し、人としてこれからを生きる。


 やはり綺麗な流れ。
 人は高きに歩き、水は低きに流れる。
 ひぐらし、うみねこ、キコニアのこの流れは、水が高きより低きに流れるように、これは自然の道理なのではないかと思う。





 そういえば、賽殺し編のラストを見ていて気付いたが、小此木について記憶違いしてたわ。
 あいつ、自分が負けたら、鷹野に自死を強要していた。
 再考察での小此木について修正すべきだな。

 小此木が読者に重ね合わされているというのは変わらない。
 小此木が示す読者像は、負けることでそれをちゃんと認めるというもの。

 つまり、自分が負けたことで、自分が守っていた“真実”を見捨て、自死を強要した。
 それは要するに、“真実”が本当の真実であると信じていたのではない。
 世間に認められるかどうかが重要だったということ。
 だって、本当の真実だと信じているのであれば、たとえ負けたとしても“真実”を守り続けるはずだから。

 私的には、負けたら共に忘却の深淵に消えて行く、うみねこEP8の戦人の方が断然良いね。
 本当の真実だと信じなのなら、その真実を握りしめて離さないようにしなきゃだめだよ。

 やはり鷹野にとってのヒーローは富竹だな。
 キコニアでもよろしく頼むぞ。

 実際、キコニアでも舞台から消えようとする予兆はあるからな。
 都雄の前にプレイヤーが現れるというミャオの台詞。
 あれ、自分たちの前ではなく、都雄の前だから、自分のことは含めてないんだよね。
 都雄のことはプレイヤーに任せて自分は消えるという、別れの前振り、伏線だと思う。
 今回のゲームでも舞台から消えようとしているから、ちゃんと引き留めないと。


  1. 2020/06/20(土) 20:40:06|
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【キコニア】造物主と、流浪の民と、星の尊厳

 ひぐらしの神姦し編において、「人の脳」は「星の大地」に喩えられ、その脳に感染するウイルスを「流浪の民」と呼んだ。

 人は現実世界の中で生きながらも、誰しもがその脳内に自分だけの世界を持っている。
 そしてその脳内世界では、その人が認識した存在のみが存在を許されている。
 それは現実の人間を写し取っったり歪められたりした存在だったり、虚構の物語のキャラクターだったり、曖昧な存在を擬人化した存在だったりする。

 この辺はオタクなら想像しやすいんじゃない?
 得意分野だろうし。
 数多の物語を見てきたなら、それらの物語のキャラを脳内に住まわせている。
 我々オタクは頭に一体何人住まわせてるんだ?
 中には忘却されたキャラとかもいるだろうけど。

 脳内世界では、異なる物語は並列して存在できる。
 異なる物語の世界は、脳内世界では異なる国に相当するのかな。
 そして近しいジャンルの国で集まっている感じ。

 そして中には同一の存在が同時に複数あることもある。
 例えば「織田信長」。
 史実に近いイメージから、創作者によって様々に解釈されたものたち、果ては女体化したものまで。
 これまで一体何人の織田信長が生まれたことか。
 そしてこれからも何人もの織田信長が生まれることだろう。
 そんな数多の「織田信長」を住まわせることが可能なのが、我々人間の脳なのである。


 人間の脳はそんな脳内キャラが住むことが可能な「大地」なので、数多の脳内キャラたちにいつも狙われているわけだよ。
 脳内キャラは宿主に命じて「布教」させることで、別の「大地」に辿り着き根付こうとする。
 そうやって自らの生存圏を広げる。
 さらにひとつの「大地」は有限なので、より深く根付こうとしたり、脳内世界の覇権を狙ったりする。
 現実には存在しない幻想のキャラにとって、脳内という「大地」こそが唯一存在可能な場所なのだから。

 現実の人間も死んだら、その「大地」こそが最後の居場所。
 人々が記憶する限り、人々の脳内世界で生き続けることができる。
 物語は語り継がれることで生き続けるのだ。


 脳内世界では脳内キャラたちが、己の存在を確立させるために争っている。
 思い出してもらうほど意識してもらうほど、脳内の土地を占めることができる。
 逆に思い出してもらえなければやがては消えることになる。
 言うなれば、脳内格差社会だね。

 豊かな脳内キャラほど良い空気を吸っている。
 記憶の隅に追いやられた脳内キャラはくっさい場所に住まわされる。
 宿主に好かれるよう、思い題してもらえるように努力しなければ這い上がることもできない。
 場合によっては、そのキャラがしたくないことをしてでも、そう宿主に媚を売ったりしてでも、ね。

 その脳内格差なんて知らない方が脳内キャラのためなのだろう。
 例えば二次創作のクロスオーバーだと、異なる物語出身のキャラたちが垣根を越えて協力して一つの物語を作り上げるわけだけど。
 その建前は美しいが、実際は不平等なものになりがち。
 一堂に会することで格付けされたり、特定のキャラを贔屓されたり、その活躍を目立たせるための踏み台に使われたり、原作では絶対にしないことをさせられたり。
 尊厳を踏みにじられ、搾取される。

 それぞれの国の文化や歴史を尊重できるのか。
 うみねこ的な愛というアトモスフィアがあるのか、ということ。

 愛とは空気のようなもの。
 目には見えないけど、そこにあって、なくなってしまえば人は生存できない。





 さて、脳内覇権争い、脳内格差社会など、脳内世界の問題のイメージが出来たところで、造物主の脳内世界へ行こう。

 感染によって脳内キャラが「大地」に根付くわけだから、それらは“コピー”だ。
 感染元となるオリジナルが住まう「大地」。
 それが「造物主」。
 その脳内キャラたちの生みの親。

 そして造物主が生み出したのが「流浪の民」。
 古郷の「大地」に住めなくなったので、別の「大地」に根付こうと流離っていた脳内キャラたち。

 普通なら、「造物主」の「大地」が最も馴染む土地であるはず。
 その故郷の「大地」に住めなくなったから流浪するはめになっているのだ。

 つまり、これがキコニアで描かれていることではないだろうか。
 星の尊厳を取り戻すと、人類の住めない死の星となる。
 逆を返せば、人類の繁栄のために星の尊厳を踏みにじってきたということ。
 「星の尊厳」と「人類の繁栄」は相反した関係にあるということだろう。


 造物主とその脳内人類の関係だけど。

 まず人間は自分を中心として世界を把握する。
 自分を中心に、親や兄弟、友達などの相関図を形作る。
 自分との関係により世界を把握する。
 自分の人生の主人公は自分自身であるというわけだ。

 自分=物語で、物語が豊かになる=自分が豊かになる。
 相関図が広がる=色々な意見や価値観に触れて成長する、だからね。
 なのにそれが相反している。
 自分を主人公とした物語が繁栄するのに、その主人公自身がその物語によって尊厳が貶められているのだ。

 これは自分の代わりに駒に主人公をさせているいうこと。
 うみねこEP6にあった、「自分の代わりをさせる駒」のことだね。
 それはつまり、その全ては「代わりの駒」が手に入れて、自分は何も得られないということを意味する。
 つまり、「代わりの駒」が脳内世界で領土を広げ、主である「造物主」は隅に追いやられるわけだ。


 うみねこではこの「主の代わりをする駒」について、あまり考察されなかったよね……。
 主の代わりに恋をする駒。
 駒が恋を成就させても、主の恋が成就するわけではない。
 主が得るものは何もない。
 主の代わりに愛し愛される。
 それはつまり、主は愛することも愛されることもできないということ。
 ここを理解してない人は多いんじゃないのかな。

 恋を叶えることのできない自分の代わりに、恋を叶えて欲しい。
 自分の代わりに幸せになって欲しい。
 これは「愛」だ。
 それも親が子に向ける無償の愛。
 母の愛。

 キコニアでもあったよね。
 親が叶えられなかった夢を子に託す。
 あれは父親が子に向けるものだけど。
 あれはたぶん、自分では“母”を救うことができないから、“子”にその願いを託す的な感じじゃないかと思うけど。
 今言うことじゃないな、後にしよう。

 そう、愛。愛だ。
 愛ゆえに「造物主」は自身を犠牲に、脳内人類たちの繁栄を許している。
 その繁栄が自身を隅に追いやり零落させるものだとしても。
 研究される機材となってでも、消費される資源となってでも。

 そう、脳内人類は「星」より「愛」を搾取し、「神」の「愛」を消費して繁栄している。
 「愛」とは空気だ。
 目に見えずとも、あって当たり前のもの。
 それが脳内人類たちを生かしている。
 だが、無償の愛といえど、それは無尽蔵にあるのか?
 そんなわけはない。
 愛があって当たり前だと感謝をすることを忘れた、愛を貪るだけの寄生虫に、いつか愛想が尽きる時が来る。
 「神」の「愛」が尽きたその時、「星」が地獄へと変貌することだろう。


 未来にてその地獄を生み出す自分(神)の手から脳内人類を逃そうというのが「神のシナリオ」。
 もうじき脳内人類の住めない「星」となるから、別の居住可能な「星」へと移住すべし。
 「神」の代わりに「王」が「民」を導く。
 故郷を失った「流浪の民」を約束の地へと。

 それがつまり読者の脳内という「星」。
 “新天新地”。
 うみねこのゲームはまさにこれが目的だった。
 「造物主」の脳内にあるゲーム盤からの大脱出(エクソダス)。


 ロジックエラーの密室。
 脳と言う「密室」に閉じ込められ、助けを待っている。
 誰かがロジックを解いて助けてくれるのを。
 その「鍵」を握るのがゲームのプレイヤー。
 つまり、読者だ。

 ロジックエラーの密室は、誰か一人を閉じ込めることで脱出できる。
 救うのは「脳内人類」か、それとも「造物主」か。
 その選択を読者に突き付けている。


 要するに、公共の利益と自己の利益だ。
 「神」が「利他」である間は脳内人類は繁栄し、「利己」が勝れば脳内人類は滅亡する。
 救われるべきは「自分」か「皆」か。
 公共の利益を語る中にほんの少し自己の利益を混ぜる。
 “僅か少しの不純動機”とは「オカルティクスの魔女」の歌詞だったか。

 別段私は不純だとは思わないけど。
 公共の利益のための物語の中に混ざってるのって、「私を見つけて」とか「私を探して」とか「私を追ってきて、捕まえて」とかそういう些細なのでしょ?

 ま、自己の利益という自体が不純に思えるのだろうが。
 だからこそ、うみねこの「早く私を殺してください」に繋がるのだろう。
 救われるのは「皆」だから「私」を殺して。
 で、「さもなきゃ お前が死ね」へ繋がる。


 「造物主」の自己の利益は、「自身を人間として認められたい」というもの。
 その目的のための手段として生み出されたのが、公共の利益のための物語。
 「皆」が真実だと認められるための物語。

 確かにそれは「駒の皆」の存在を認めさせるためのゲームだ。
 だが同時に、「駒の皆」をピースとして「造物主」というパズルを組み立て、「造物主」というプレイヤーを認めさせるためのゲームでもある。


 物語は主人公が異なる他者と出会うことで成り立つ。
 異なる意見と出会うことで、それぞれの意見が際立つ。
 主人公を中心とした相関関係こそが物語であると言えるだろう。

 自分の人生という名の物語の主人公は自分自身。
 最初は自分だけの意見だけしかなかった。
 物語を紡ぐために、自分と対立する駒を置く。
 さらに対比するために違う駒も追加する。
 似ている点と異なる点。
 様々な意見の駒を置き議論する。
 ゲーム盤に駒を置くとは、その存在を認めるに等しい。

 ただ一つの意見しかなかった世界に、多様な意見が満たされる。
 異なる意見を糧として食らい、己が身とする。
 ゲームが終わればピースは片づけられる。
 自身というパズルを組み立てるピースとして。

 一にして全、全にして一。
 全ては一より生じ、一へと帰る。そして再び生み出される。
 「神」は「人類」を繁栄させ、「人類」は「神」を富ませる。
 本来は、公共の利益=自己の利益、だったんだよね。
 自分一人で完結している間は。

 他者に認められようとしたからそれが崩れた。
 他者が認める真実は一つ。
 よって密室を脱出できるのも一人だけ。
 だから、公共の利益≠自己の利益、となってしまった。
 そして「造物主」は自身のために「駒」を消費し、「脳内人類」は自分たちの繁栄のために「星」を搾取するようになる。

 果てには、「造物主」の目的と手段が入れ替わり、愛する「脳内人類」のために自身を殺そうとなったわけだ。
 全ては愛のため。

 さらには「造物主」の愛を貪っていた「脳内人類」の中から、「星」の尊厳を取り戻そうとする者が出てきた。
 例え人類が住めない「星」となろうとも、それこそが自然の姿なのだという思想。


 例え争うことになろうとも、お互いを思い合うのは尊いものだ。
 この悲劇は密室から抜け出せるのが一人であるがゆえのもの。
 だがそれは「造物主」の思い込みによる心理的な密室に過ぎない。
 読者が同時に二つの真実を認めることが出来れば良いだけなのだ。

 そしてそれは可能だ。
 様々な物語を見てきたオタクになら、脳内で異なる物語を同居させることができる、当然のように。
 それはそれぞれの作品への愛ゆえに。

 愛は全てを解決する!

 あぁ、だがしかし、「造物主」にはその愛が信じられないのだ。
 愛された経験がないから、愛が信じられない。
 だからこその、信頼を積み上げるコミュニケーションのためのゲーム。
 読者が作者への信頼を積み上げるだけではなく、作者が読者への信頼を積み上げるためのものでもある。


 だけれども「咲」を見ればわかるとおり、うみねこのゲームは“母”が消えて終わる。
 それを目的とした物語だから、それは当たり前の結末なのかもしれない。
 いくら読者が真実へ至ろうとも、「造物主」は自身よりも「皆」をすでに選んでいるのだから。
 自分だけが救われることを望んでいるわけではないのだから。

 なので次のキコニアのゲームは、神の代理人、GM代理であるPLジェイデンが物語を紡いでいるのだろう。
 「造物主」であるGMが、物語に自身の願いを託したように。
 PLも物語に自身の願いを託しているのだろう。
 その物語が「神の代理人のシナリオ」であり、その物語の主人公がつまりは都雄なわけだ。

 子はかすがい。
 父と母の仲を取り持ってくれる。
 物語を通して仲良くなったのだから、物語を通して仲を深めるのが自然な形なのだろう。

 たぶんうみねこは、それぞれの真実(物語)がどこかの岸(読者の心)に辿り着けば良い、というメッセージボトルのような一方通行な感じ。
 だから真実を心の中に受け入れても読者は何もできない。

 それに対してキコニアは文通。
 物語が手紙なら、それを介してコミュニケーションを取れば良い。
 相手の文化に合わせて、同じ言語を使って。
 物語を尊重するということは、物語の中の「皆」を尊重するということ。
 だから「造物主」を安心させることができるのではないかな。


「ふふふ。面と向かって悪口が言えない国では、悪口に聞こえないように悪口を言う文化とというものが芽生えるものだよ」

 これはスタニスワフの言だけど、物語を介しての文通とはまさにこれ。
 物語の中に自分の心を秘め、願いを託して物語を綴る。
 そにには言葉通りの意味の他、言外の意味が含まれている。
 分かる者には分かるが、分からない者には分からない。
 言葉にならない言葉。聞こえない囁き声。
 そこにあるのは怯える心。そして恥じる心。


「心が、伝えられねぇんだよ。シンプルな言葉で、素直に喋れねぇ天邪鬼なんだよ!! それなのに人の心を求めて、人に近付かずにはいられないッ、なのにそれを素直な言葉で示せない、バカで間抜けで、どうしようもないく可哀想な連中なんだよッ!!!」

「大馬鹿の寂しがり屋が、それでも精いっぱい、拙くても必死に必死に書き上げたカケラを……、考えるだけ無駄だとか……絶対に言うんじゃねぇッ!!!」


 これはうみねこ咲の戦人の台詞だけど、ま、つまりそういうこと。
 決して素直に喋れない文化なんだよね、魔女はさ。

 んーそうだね、分かり易く例えるなら、「これはあくまで友達の話なんだけど~」と自分の悩み事を相談する様な?
 うん、そうそう、自分の事を架空の友達の事に置き換えて話す感じ。
 心を守るための予防線であり、気軽に話すためのものだね。

 「架空の友達」は自分とは違う別人だから、設定は自分とは色々と違った感じで、でも自分の悩みを相談するために自分と重なるようなものにする。
 これをさ、「いや、これお前の事だろ」と指摘するのは無粋というもの。
 相談される方も、あくまでそういう“設定”として話を合わせて相談に乗るわけだ。

 そして相談の度にこの「架空の友達」を使うと、どんどん“設定”が深まっていく。
 子供の頃から使っていれば、自分の成長に合わせて「架空の友達」も成長していく。
 ここまで来ると「共に人生を歩む相棒」的な感じの愛着が湧いてくるだろうね。

 この「架空の友達」は、相談する者とされる者の間でその話をし続ける限り“生き続ける”。
 そしてどちらかが否定した時に“死ぬ”。
 ま、その否定をさらに否定すれば“蘇る”んだけどね。

 で、相談された方は悩みを解決するために、「架空の友達」を使った話として解決策を話すわけだ。
 ジェイデンがやってるのは“これ”。
 相手の心を慮り、相手の“物語”を壊さないように、相手の心に言葉を届けるために。
 “物語”を介して文通をしている。

 ヨハネの黙示録の見立ての、教会の悔い改めよの所の、裸を隠すために与える「白い衣」って、つまりはジェイデンが紡ぐ「物語」なのだろうなぁ。
 真実は物語の中に秘めるもの。
 最高の気遣いだよな、これ。





 ホント完璧だよ、ジェイデンの行いは。
 私の思い描く、理想の読者像そのもの。
 うみねこを推理していた時、よく私よりも上手く推理するだろう理想の読者を思い描いていたものだけど。
 ジェイデンはそれを更新してしまった。

 ジェイデンのゲームプレイはまさしく“理想の軌道”。
 理想には決して追いつけない、アキレスと亀のように。
 アキレスが中間点に辿り付く時には、亀はさらに先に進み、永遠にそれを繰り返すから決して追いつくことはできない。
 過去の理想には勝てても、今の理想は常に更新し続けるものだから。

 GMにどんな謎を出されようと負けるものかと思えるし、一瞬だろうと錯覚だろうとも、追いついた追い越したと思うことはできる。
 だけど“理想のPL”は、憧れであるためにどこまで高みに上り詰めようとも、常に上にいるのだろうという気がする。

 対PL用の駒として“理想のPL”は特効過ぎるんじゃないかな。
 ジェイデンのデモプレイのスコアを誰も越すことは出来ないんじゃないの?
 過去の理想には勝てるから、ジェイデンの行いが記述され終えれば勝てるんだろうけど。
 記述されない限りにおいて、ジェイデンは理想であり続ける。
 上を目指す限り、常に上にいる。

 私のイメージではそんな感じになってしまってるぞ。





 ちょっと思ったのだが、神の代理人が紡いだ「物語」を着るということは、真実をそのまま晒さないということになるよね。
 いや、物語を剥ぎ取り真実を暴く必要は全くないし、答えは物語として分かるものには分かるように描かれるだろうし、それで十分なのだが。
 執筆者側が物語と切り離されるというか、プレイヤーたちが駒から切り離されるというか、そんな感じで物語が終わりそうな予感がするんだよね。
 なんというか、うみねこEP8をなぞるような感じというか。

 EP8は、物語がゲーム盤から抜け出して読者の心へと飛び立ち、取り残された執筆者が忘却の深淵に沈んで行くというものだった。

 黄金の魔女の助け(黄金の魔法)のお陰で物語(右代宮家)が繁栄し、三位一体から生み出される四つの物語(四兄弟)が島から巣立つ。
 物語の末(縁寿)がゲーム盤から飛び立ち、読者の心へと羽ばたいて行く。
 残された真実は、読者から島から抜け出そうと誘われるが、三つの真実のそれぞれの恋を成立させるために忘却の深淵に消えることを選ぶ。
 で、それと共に沈むことを選ぶPLがいれば望外の幸せ的な感じだった。

 キコニアのゲームは、その共に沈んだPLのリベンジ的なゲームでもあるのかもな。


 でだ、この執筆者の許から物語が飛び立つというのは、執筆者と物語を切り離す的な感じなのでは? と。
 藤治郎=ジェイデンで、フィーア=ミャオ。
 PLとGMはそれぞれの分身を、物語の中で都雄と共にあるために送り出した。
 物語のハッピーエンドは、都雄とミャオとジェイデンが一緒にいることだと思う。

 ガントレットナイトは霊素をドライツィヒ変換して空を飛ぶ。
 要するに、物語は作者の愛を力に変換して読者の許へと飛び立って行く。
 ハッピーエンドを迎えれば、物語は読者の心へと羽ばたいて行く。
 でもそこへ行けるのは物語=魂で、当然、肉体は取り残されることになる。

 肉体、即ちゲームのプレイヤー。
 魂、つまりゲームの駒。
 体を忘れて空へ。


“若者は、いつだって大人の食い物にされてる。駒にされてる。
 ところが、若者ってヤツを卒業して気付いてみると。ゲーム盤の外に飛び出せる力があったのは、若い時だけだったと気付く。……オッサンになったら最後。もう、決められた通り以上には動けない、本当の駒になっちまうんだぜ。”


 この藤治郎の言は、物語がゲーム盤の外に飛び出す時、それと共に飛び立てるのは若者だけで、老人つまりプレイヤーとなった駒はもうゲーム盤の外には出られない、ということなのではないかな。

 プレイヤーは駒には成りえず、自身の分身を駒として置いても、それは同一でありながら明らかに別人である。
 自分の成りたい姿、理想、憧れ、夢、即ち物語。
 だが自分は自分でしかなく、決して自分以外に成ることはできない。
 肉体とは決して否定できない自分自身なのだ。

 肉体という牢獄から抜け出して、魂となって他人の心に辿り着きたかったのだろう。
 魂は否定されるべきものじゃない。
 しかし、肉体もまた否定すべきものじゃない。

 だから藤治郎は世界の終わりの時、フィーアの隣にいることを選んだんじゃないかな。
 世界の終わりにどう過ごすのか。
 そのためだけに努力する覚悟ガンギマリなヤツだからなぁ。

 うみねこEP8をなぞり、物語が飛び立つのを見届けて、ゲーム世界が崩壊し忘却の深淵に共に沈んで行く。
 ただし、飛び立つ物語は異なる。
 うみねこは黄金の真実のみが片翼で飛び立ったが、キコニアは家族が皆一緒で両翼で飛び立つ。
 そういう物語を目指しているのだろうな。

 物語は去り、夢は消え、GMは肉体に一人残されるが、もうひとりではない。
 同じ視点を共有しているから、二人揃えばいつでも世界を広げることができる。
 うみねこEP3のラストのように、世界が滅びて暗闇に閉ざされてもそれは可能なのだ。
 だからきっとハッピーエンド。


 これをキコニアの仮想現実に翻訳すると、仮想現実の外は現実世界で、都雄たち3人はそこで生きることになる。
 たぶん人格の転写で新しい肉体を得るのだろう。
 だが魂は外の世界に出られても、肉体はそのまま残される。
 つまり、脳だけとなりサーバーに繋がれた元の肉体が。

 藤治郎はその地獄に残るのだろうね。
 たぶん人格を別の体にコピーしてそいつが都雄たちと共に生き、オリジナルは脳をサーバーに繋げ、共に地獄に生きるのだろうね。

 いや、そこまでせず、サーバーにログインすることが日課になるだけかもしれないけどね。


 ん~やっぱ、うみねこEP8のエンドは良いね~。
 なぜ真実が闇に消えなければならないのか。
 それが理解でき、それに寄り添いたいと思った時、真実と共に闇に消えるというあのシーンに共感できる。

 これはヤス犯人説でもそれぞれの恋愛成就のために真実は闇に沈まなきゃならないんだけど、こっちはプレイヤー=戦人と見做しているのが異なる点かな。
 私的にはプレイヤー=読者だから、観客席から見ているようなプレイヤー=戦人はノーサンキューなんだけどね。
 私はゲームの当事者に成りたい口だからさ。

 なのでキコニアのゲームではびっくりした。
 GMに焦点を合わせよう合わせようとしていたから、実はPLに焦点を合わせたゲームだとは、まさに盲点だった。
 自分が立っている点なんて灯台下暗しもいいところ。
 対戦相手の目を借りなければ見えないもんな。

 PLがGMの立ち位置からGMのことを推理するように、GMはPLの立ち位置にからPLのことを推理している。
 ま、こっちがあっちを見ているように、あっちもこっちを見ているということ。
 考えてみれば当然のことだけど失念してたわ。

 つまり、PLはGMの立場から、GMがPLの立場に立ってどうPLがGMの立場になってGMの事を推理したのかを推理しているのを推理しなければならないわけだ。
 言っていて意味が分からんぞ。
 合わせ鏡自重。

 ま、単純化すれば、GMはPLについてどう見ているのか、どう考えているのか、何を求めているのか。
 それが今回のゲームの肝なのだろう。
 うみねこのゲームを通して、GMが考えるPL像というものも出来上がったことだろうしね。



 GMから見たPL像を考察する際の参考として、私から見る私というPLについてをちょっとやってみるか。
 自分語りになるけどご勘弁を。

 私の推理動機は端的に言えば、「私にしか助けられない人を助けたい」だね。
 正直小っ恥ずかしいけど。

 私が推理するGMは「執筆者 右代宮真里亞」。
 物語の世界の公共の利益の中に自己の利益を混ぜ、いつか自分を探し出し、見つけてくれて、守ってくれる者を待っている。
 だけど最終的に、公共の利益を優先し、自己の利益を諦めようとしている。

 物語はそれが存在するだけで執筆者の真実を圧殺し、執筆者も物語の世界を守るために自身の真実を殺そうとしている。
 執筆者が守りたい夢が、その「物語」だから。
 自身の夢を守るために、自身の真実を殺そうとしているのだ。

 物語の全てが執筆者の真実を殺そうとしている。
 執筆者自身も含めて。

 世界の全てがそれを望んでいるから。
 執筆者自身もそれを望んでいるから。
 だから諦めるのか?

 断じて否。

 執筆者自身も望んで自らの真実を殺そうとしているのに、それでもなお自らの真実を物語の中に秘めているのは、それを解いてもらいたいという未練があるから。
 誰かに知って欲しい、認められたいというのは、誰しもが持つ自然な感情。
 人として生きたいというのは普通の願い。
 人ならば当たり前に享受している最低限の権利を求めているだけ。

 私は当たり前のことが当たり前に与えられていないことに憤りを感じる。
 泣いている子がいたら助けたくなるのは、人として自然な感情だろう。
 それを見つけたのが自分だけだったらなおさら。

 他の誰かがその子を助けてくれるなら、私は何もしないかもしれない。
 でも誰もいなかったら?
 そこに私一人しか居合わせなかったら、その役割は私が担うしかないだろう。
 その子の味方をする誰かがいたっていたって良い。
 誰もその子の味方をしないのなら、私がする。
 ただそれだけなんだよね。


 私の推理が正しいとは限らない。
 だから泣いている子なんていないのかもしれない。
 私の思いは空回りで、ただの無駄でしかないかもしれない。
 泣いている子がいないのであればその方が良い。
 心配が杞憂に終わったということなのだから。

 だがもし泣いている子がいるのだとしたら、無駄になるかもしれないからやらないというのは、見捨てるということだ。
 私は見捨てられない。
 だから努力が無駄になる方がまし。
 収支をプラスにしたいんじゃない、マイナスを無くしたいのだ。
 やるだけ無駄とか、考えるだけ無駄とかさ、無駄を楽しむのが娯楽なのだから無駄でいいんだよ。
 むしろ無駄を有意義にするのが娯楽。

 フィクションに何思い入れてんだよって感じだけど、現実か虚構かなど関係ない。
 むしろ幻想だからこそというのはある。
 現実は自分がいなくても関係なく進むけど、物語は紡ぐ者が、読む者がいなくなれば消えてしまう。
 誰にも読まれない物語ほど悲しいものはない。

 これは気付いた者の義務……、いや使命……、いやいや、これは権利だね。
 せっかくそこに選択肢があるのだからそれを選ぶのだ。
 誰一人同じ方を選択する人がいなくとも、その方が面白いと思うから。
 やりがいという点では断然こっちでしょ。
 そう、これはただの趣味なんだよ。


 かなり赤裸々に書いてしまったな、見栄やこうでありたいというのも幾分か混じっているけれども。
 我がことながら青臭い思いだ。
 そしてこれは思いだけなんだよね……。
 思いだけでは何も成せない。
 キコニアで思い知った。
 うみねこは手の中に握った真実を守るだけで良かったんだけどね。

 事を成すためには、綿密に事を図る老練さが必要となる。
 ジェイデン、いや藤治郎か。
 藤治郎が成そうとしていることを知って、これは完敗だと感じた。
 想定を超えて来られるのは心地良い。清々しいほど。


 藤治郎というキャラが抱く思いは、私と同じとは限らない。
 でも近しい同類ではあるとは思う。
 GMの絶対の味方であると信じられる。
 それが老獪さを身に着けて満を持してゲーム盤を開いた。

 神のプログラムのバクを利用しての意見の操作。
 あれ、藤治郎は以前は操作を受ける側だったのが、今は操作する側に転じたってことだと思う。

 多数の意見に流されるか、それに反発して少数の意見へと弾き出されるのか。
 どちらも他人の意見に影響されて変化するという意味で同じ。
 意見の多寡とは関係なく、自立した意見を持つこと。
 他に動かされるのではなく、自らが動かす。
 流される側から、流れを作る側へ。
 自らの目的を持ち、それを実現させようと行動を起こす。
 それがプレイヤーの条件なのだろう。
 他人の意見によって動かされる者は、プレイヤーではなく駒なのだから。

 主体的にゲームに関与する。
 それがキコニアとうみねこのゲーム性の違いなのかな。
 うみねこのゲームは、PLが防御側。
 GMの攻撃から手の中の真実を守るものだった。
 キコニアのゲームはその逆で、PLが攻撃側。
 自分の主張をGMに届けよう、認めさせようという能動的なプレイスタイルになっている、と思う。


“人間を本気で見下し、関心を失ったなら、……彼女たちは人の姿はおろか、形あることさえ止める。それは即ち藻屑。カケラの海に沈んで舞い散り、日も差さぬ忘却の深淵に降り積もる雪の一粒と成り果てるのだ。”

 これは咲の一節。

 GMであるフィーアは、物語が飛び立って行くのを見届けて、忘却の深淵にて塵となって消えようとしている。
 マリオ同様に、塵に戻る尊厳を酷使しようしているのだ。

 塵に戻るということは、マリオ同様にすでに死んでいて、絶対に叶えたい目的を達するためだけに、無理やり姿を保っているということだろう。
 精神、人格、あるいは魂か。
 それがすでに死んでいる、そういう認識。
 少なくとも、人間に対する関心を失いかけている。
 人間に絶望し、人間として生きることに関心がなくなろうとしている。
 人であろうとすることを止めようとしている。
 人に成ろうとする望みを諦めようとしている。

 それを目的が繋ぎ止めている。
 人の心へと物語を羽ばたかせる。
 “子”を人間だと認めてもらうために。
 “子”を読者の心の中に蘇らせるために。

 うみねこはまさしく“子”を蘇らせることを目的としたゲームだった。
 それはつまり、“子”のオリジナルは死んでいるということで、GMは“子”が忘却の深淵で塵となる前に、“子”のカケラを拾い集めて復元しようとしていた。
 それは「うみねのこなく頃に」の歌詞から窺える。

 これがキコニアの都雄のオリジナルが亡くなっていることに重ねられているのだろう。
 コピーのことの方はひぐらしの方が詳しい。
 CS版の曲の歌詞の多くは、そのコピーについてものを歌っているいるから。
 要は物語の系譜。
 オリジナルの物語が失われても、それを継いだ種子から子供の物語が芽吹き咲く。
 再び死の運命に囚われても、子の子が、子孫が連綿と受け継ぐ。
 そうやって絶対の死の運命を乗り越えたのが、要するにひぐらしなわけ。

 “子”のオリジナルは死に、それと引き換えに造物主は生き残った。
 でも“子”のいない世界に生きる意味などない。
 だから造物主の魂もその時に死んだ。
 しかし“子”を読者の心の世界に復活させるために、“子”のコピーを生み出し、自らの魂を無理やり生き延びさせていた。

 それを成す為だけにGM、造物主は無理やり生き続け、成したならば塵と成り消える。
 それがうみねこの咲のラスト。
 だから今度のキコニアはPCのターン。
 ヨハネの黙示録に見立て、復活させる。
 マーラーの「交響曲第2番」第5楽章の歌詞のように。

“よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
 私の塵よ、短い憩いの後で。
 おまえを呼ばれた方が
 不死の命を与えてくださるだろう。
 おまえは種蒔かれ、ふたたび花咲く。
 刈り入れの主は歩き、
 我ら死せる者らの
 わら束を拾い集める。

 おお、信じるのだ、わが心よ、信じるのだ、
 何ものもおまえから失われはしない!
 おまえが憧れたものはおまえのものだ、
 おまえが愛したもの、争ったものはおまえのものだ!

 おお、信じよ、おまえは空しく生まれたのではない!
 空しく生き、苦しんだのではない!

 生まれ出たものは、必ず滅びる。
 滅びたものは、必ずよみがえる!
 震えおののくのをやめよ!
 生きることに備えるがよい!

 おお、あらゆるものに浸み渡る苦痛よ、
 私はおまえから身を離した!
 おお、あらゆるものを征服する死よ、
 いまやおまえは征服された!
 私が勝ち取った翼で
 愛への熱い欲求のうちに私は飛び去っていこう、
 かつていかなる目も達したことのない光へと向かって!

 私が勝ち取った翼で
 私は飛び去っていこう!
 私は生きるために死のう!
 よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
 わが心よ、ただちに!
 おまえが鼓動してきたものが
 神のもとへとおまえを運んでいくだろう!”


 塵となっても蘇り、種蒔かれ再び花を咲かせる。
 そして翼を勝ち取り飛び立つ。
 神の許へと。
 これは、生きるために死ぬ、即ち復活を企図している。

 要するに、“子”が死んで造物主が生き延びたのも、“子”を復活させる意図していたから。
 そして“子”を復活させるために造物主、あるいはその分身の“母”が塵となって死のうとするのも、その後の復活を企図しているから。
 つまり、その事業をPLが引き継いでくれることを信じていたからなのだろう。

 キコニアで古い天地が去り新しい天地が来るのは、GMの世界からPLの世界へ物語が羽ばたいて行くことを意味するのだけど。
 それはうみでこで行われたゲームを表している。
 だからキコニアではPLからの返信という形となる。

 うみねこは、GMからPLへのメッセージ。
 物語がPLの世界へと羽ばたき、そこで魂が復活する。

 キコニアは、PLからGMへの返信のメッセージ。
 物語がGMの世界へと羽ばたき、そこで魂が復活する。
 そしてGMとPLが二人で世界を生み出し、合作した物語が外の世界へと羽ばたいて行く。

 つまり、これ全部GM、造物主が企図したこと。
 生きるために死んだのだ。
 要するに、盛大な身投げなんだよね、全部受け止めてくれると信じての。
 信頼がくっそ重い。
 それに見事応えているのが藤治郎なんだよね。
 イメージとしては、うみねこEP5の三階書斎からの脱出ダイブ&キャッチ。


 さて、すでに死んでいるのに無理やり生かされている、この状態は端的に言えば幽霊。
 この幽霊を救うとはどういうことなのか。
 解釈が難しいんだよね……。
 間に合ったのか、間に合わなかったのか、何を救えたのか。

 うみねこにおいて、“子”はすでに死んでいて、造物主は一言謝りたいがゆえに蘇らせようとしていた。
 で、蘇らせたわけだけど、それって魔法で、現実では死んでいることには変わりない。
 つまり「死」は覆せない。
 ただ「死」を「夢」や「物語」という形で乗り越えたというだけで。

 んで、“子”を蘇らせたことで、亡霊として存在していた幼い頃の造物主である“母”は、永遠の眠りに就いた。
 “安らかに眠れベアトリーチェ”というのは、“子”も指しているけど、主には“母”の方を指していると思うんだよね。
 今の造物主と過去の幼い造物主は別人で、過去の造物主は今はいない。
 過去の造物主は亡霊としてしか存在しない。

 つまり、PL(藤治郎)が過去の造物主(ミャオ)を救おうとしても、「現実」では救えない。
 救えるのは「夢」の中でだけ。
 ミャオを助けることができるのはジェイデンだけで、藤治郎ではない。

 「死」をなかったことにできるのは、現在の人間ではなく過去に人間であり、現実の人間ではなく夢の中の人間なのだ。
 そういう意味において、現実の人間に失われた命を救うことはできない。
 できるのは、魂を救うことだけ。
 夢の中で、あるいは物語の中で。

 藤治郎の隣にいるのはフィーアで、藤治郎が助けられるのもフィーアだけなのだ。
 藤治郎がいくらミャオを助けたくとも、助けられるのはジェイデンで。
 これが若者と老人の違い。
 ミャオが成長して、いつかフィーアとなり、藤治郎の隣で世界の終焉を共に見ることになるが。
 ジェイデンに救われるミャオは、物語の中で別の未来、別の世界へと進むのだ。

 私もこれはちょっと複雑。
 つまり、自分の分身の駒を作り、その駒に自分の代わりを務めさせるわけで。
 これ、自分では直接救えてないじゃん的な。

 要は、駒を助けられるのは同じ駒である者だけで、プレイヤーを助けられるのは同じプレイヤーである者だけってことなんだけど。
 その駒とプレイヤーの関係が入り組んでいるから複雑な感情を抱いてしまうんだろうな。

 ジェイデンと都雄とミャオが一つの物語として羽ばたいて行くのは、物語を救うことであると同時に送り出すことで、ある種の決別でもあるのだと思う。
 つまり、フィーアとちゃんと向き合うという意味で。
 決別というと語弊があるけれども、駒たちを通してその主であるプレイヤーを見ているから、物語越しに執筆者を見ているから、一旦そのフィルターを取っ払って、一人の人間として対峙するのも必要じゃないか的な?
 魂の方は白い衣を修飾されるけど、残される肉体の方はそんなのなさそうだし。
 物語の方から見ると、肉体は物語の中からフェードアウトするように見えるんだろうなぁ。
 そんな感じだと思うんだけど、どうなんだろうなぁ。


  1. 2020/06/06(土) 21:11:25|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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