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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】神のパズル~スパイ4人、各陣営、セシャト考察~

 ゲーム盤を考察する際、駒目線に合わせるか、GM目線に合わせるか。
 目線の高さが違い過ぎてどちらかに合わせると、もう片方に合わせづらくなる。
 実際私もGM目線というか執筆者目線に合わせているので、駒目線に合わせた考察はほとんどしていない。
 プレイヤーの席を与えないゲームで、駒目線に合わせるとストーリーを追うことしかできないのでは? というのがあるのでこのままGM目線に合わせて考察していくのも良いんじゃないかな。
 ま、そんなわけで大浴場騎士団内にいるスパイについてもその視点で推測しようと思う。

 GMは遥か高みからゲーム盤を見下ろす。
 ならば駒は駒として扱おう。
 駒の人格や性格、思想信条、人間関係、その他諸々はまるっと無視。
 そんなの一切考慮せず考察しよう。

 GM=神にとって大浴場騎士団は、神というパズルのピース。
 パズルのピースの中に四つスパイのピースが混ざっている。
 ピースの形や模様を見ていきたい。

 私の考えでは大浴場騎士団は本来の第九最上騎士団である。
 ダンテの神曲において、天国は十層であり、第十天の至高天が神の座であり、その一個手前の第九天の原動天が天使たちの住まい。
 その天使は九階級に分かれ九つの輪となって回転しているという。
 つまり、第九最上騎士団とは、第九天の天使の最上階位によって構成される騎士団と解釈できる。

 ちなみに、至高天は中心の光を取り囲むように純白の巨大な薔薇に取り囲まれており、その薔薇の花こそが各天の天国の住人の本来の居場所であり、花びら一枚一枚がその座席で、空席もあるがそれはこれから天国に来る人の席だとか。
 薔薇の中心には神の玉座があり光を発していて、その光の中には同じ大きさの三つの輪があり、それが三位一体を表す。
 これはうみねこの黄金郷も同様なのだろうね。
 中心には造物主である一なる三人の魔女の玉座が、その周りには駒たちの魂の席があるのだろう。
 そしてそれらは一つの薔薇となっている。
 そんな感じ。


 話を戻そう。


 大浴場騎士団は本来の第九最上騎士団で、その団長は神の子である都雄。
 よって、メンバーは天使側。

 その内の4人がジェストレス側。
 地に堕ちた神である龍の部下、悪魔側にいるということを表しているのでは?
 つまり見立てだ。
 人格や背景などは考えず、ただパズルのピースとして見る。

 悪魔側は第九最上騎士団より分かれたプロメテウス騎士団だろう。
 プロメテウスは人類に火を与えて文明を齎した。
 それを知恵の実を食うように誘惑した蛇に掛けているのではないだろうか。

 そのプロメテウス騎士団の団長がセシャト。
 そのセシャトは大浴場騎士団のメンバーの能力らしきものを複数使用しているように思える。
 つまり、セシャトは第九最上騎士団より分かれたメンバーの能力を使うことができるのではないか?

 さらに、前回の世界で第九最上騎士団より分かれたメンバーが、今回の世界ではスパイとして表れる形で反映しているのではないか?

 要は、セシャトの能力を構成するメンバーがスパイなのではないかという推測。

 運命は模倣され、物語は引き継がれる。
 Phase1のラストの鈴姫殺害が王殺しを模倣した予告なように、スパイもまた未来の予告であり、先行体験から引き継がれた要素なのではないかと。


 そんなわけでセシャトの能力からスパイ4人を絞ろう。

 まずはコーシュカの〈パンドラの箱〉。
 セシャトとコーシュカは前回の世界の記憶を保持していそう。

 次いでルクシャーナの〈8MSステルス・隠密〉。
 セシャトの〈亡霊〉はこの上位互換ぽい。

 続いてナオミの〈脳内最適化訓練終了〉。
 記憶を忘却させるのはこの能力の延長なんじゃないかな。

 ここまでは所属バラバラで順調なのだが、残るACRが誰か分からないのだよね。
 あとセシャトにどんな能力があったっけ?


 あてずっぽうで良いなら、リーテバイルを推そうか。

 リーテバイルの兄の死は、原因不明の死因からミサイルで追撃というもの。
 第九最上騎士団のものはミサイルだけだと思うのだよね。

 理由としてはいくつかある。
 まず、殺すだけなら最初のだけで十分、ミサイルの追撃は証拠隠滅にしかなっていない。
 そもそもリーテバイルがいなかったらミサイルだけで十分殺傷可能なので、リーテバイルが到着する前にミサイルを撃ち込めば良い。
 リーテバイルの目の前で殺す必要はないのだ。
 あれはリーテバイルが間に合ったから、ミサイルでは殺せないと判断して、別の何らかの方法で殺したように見える。

 そんなことができるのは現場にいた者だけだろう。
 よって容疑者は二人。
 リーテバイルと被害者である兄本人だ。

 兄本人ならあのタイミングを選ぶことは可能。
 リーテバイルの目の前で死ぬことに意味があるのならばあり。
 だがその割にはメッセージ性に乏しい。
 そして、第九最上騎士団から小物と言われているので、少なくとも第九最上騎士団側の人間ではない。
 それらからこの可能性は殆どないと見ている。

 となると容疑者はリーテバイルに絞られるが、リーテバイルがスパイなら見過ごすだけでミサイルで兄が死ぬので、その前に現場に来る必要がない。
 よって、“現場に来た”リーテバイルの容疑は外す。

 だとすると、リーテバイル内の人格の内、“現場に来る”ことを決めた人格以外の人格が怪しい。


 リーテバイルの能力〈ACR全軍支援〉は、セシャトになったら全ケロポヨからの支援とかになるんじゃないかな。
 ま、セシャト=黙示録の獣=人の悪の部分=ケロポヨの集合体というのが当たっていれば、だけど。

 他の能力〈対G8MS適正〉は物理法則を無視する適性。
 これは最も“ルール”から自由であることを示しているのだろう。
 うみねこの一なる三人の魔女を例に出すと、赤き真実は最も不自由、黄金の真実は現実で可能な範囲で自由、魔女幻想は最も自由に思い描ける。
 つまり、うみねこで言えばリーテバイルは魔法説のベアト。
 読者に最も認知されている、魔法をドッカンドッカン使うベアトだね。

 そう考えると〈空挺姫騎士〉も、先頭に立って戦う魔法説のベアトを表しているのだろう。
 〈ACR全軍支援〉もまた他の駒たちに支援されて戦う魔法説のベアトを表している。

 魔法説のベアトは、三位一体である一なる三人の魔女たちの内、聖霊に当たる。
 あらゆる幻想を自由に操り、先頭に立って戦い、死ぬことで物語を完成させる役割を持つ。
 幻想側の駒たちの主であり王。

 リーテバイルは聖霊を代表とする駒として物凄く相応しい。
 王の視点を語るセシャトの思想は、王家の人間として育てられたリーテバイルのものが最も出ているように思える。
 一度そう思うと、もうこれしかない考えられないな。





 とりあえずこれで行くとして、スパイである副人格たちについてちょっと考えようか。

 そもそも主人格以外の副人格たちはどうやって増えるのか?
 思うに繰り返される世界の中で、異なる結果に辿り着いた人格はもはや別人と言えるので、その人格が次の世界で生まれながらの副人格として存在しているのではないかと。
 記憶を初期化しても思考回路は初期化できず、育てば別の人格になるんじゃないかな。
 逆を言えば、同じ運命しか辿らないなら、形成される人格は同じだから一つの人格に収束するのだろうけど。

 ま、これは人格の増え方の一つでしかない。
 ナイマ辺りは別の発生要因があるそうだけど。
 ナイマの無垢な人格とそれを守る人格は、神と神の子の関係に近いように思う。
 キングの駒とそれを守る他の駒のモデルを、スケールを小さくした感じのバージョンだよね。
 〈状況特化人格選択〉は、キングに相当する無垢な人格を守るために、状況に合わせてそれに特化した人格が生み出されたのだろうし。
 神のパズルを構成するピースの一片として、分かりやすいヒントなんだろうけど。


 話を戻して。

 異なる運命を辿ったことで異なる人格が生じるとして。
 都雄が率いる本来の第九最上騎士団から分かれたのは、まさしく異なる人格となることを満たしている。
 前の世界の結果、新たな人格が生まれ、それがスパイとなった。
 そう考えられる。

 もしこの人格たちも前回の記憶がないなら、記憶がなくても刻まれた思考回路からスパイ側になったということになる。

 だがそれで良いのだろうか。
 もう少し捻った方が良い気がする。


 では前回の記憶を引き継いでいるとしよう。
 セシャトはコーシュカの〈パンドラの箱〉が使えるのだから、セシャトを構成する各人格の記憶の引き継ぎは可能だろう。
 その場合は、記憶があることは他の人格には隠していることになる。
 それどころか自身の人格の存在さえ隠している可能性さえあるだろう。
 アバターさえあれば別の場所で活動できるのだし。

 となると。
 コーシュカ、ルクシャーナ、ナオミ、リーテバイルの4人の、それぞれ記憶を引き継いでいる別人格たちが、セシャトというアバター内で一つの統合されているのではないかな。
 要するに、4つの人格が協力して一つのアバターを運営しているのではないかと。
 そうすると4人分の脳を使っていることになり、能力の高さも説明できる。
 そして最初から精神が成熟しているなら、身体的制約がないアバターで幼少期から活動可能。

 それからスパイをしているのは、神の計画を利用しようとしているから、ある程度計画が順調に行くように協力しているのではないかと。


 問題点は、コーシュカの主人格も記憶を引き継いでいるだろうことだ。
 コーシュカはジェストレスと敵対しそうだから、セシャトとは目的が異なりそうなんだよね。
 ま、これは、コーシュカ内の各人格が所持する記憶が共有されていないければ問題ないのだが。
 記憶が別々に管理されているなら、隠れた目的を持つ人格がいても良いだろう。



 よしこんなものかな。
 良い感じに仕上がったぞ。





 リーテバイルって他の陣営のエースと比べてどんなポジションなのかよく分からなかったがこれですっきりした。
 魔法説のベアトか、ぴったりだな。
 イシャクがロノウェに当たり、危機になるまで後ろに控えている参謀ポジというのは、なるほど納得。
 となると、アブドゥはベアトにとっての戦人ポジなのかな?
 その辺はよく分からんけど。


 うみねこはミステリーだから犯人は最後に現れる。
 黄金の真実であるヤスだね。
 赤き真実の方は隠れっぱなし。
 それらの代わりとして魔法説のベアトは主役として出ずっぱりだった。

 神の三位一体、一なる三人の魔女の内、父と子が二人が心臓なら、聖霊である魔法説のベアトは顔に当たる。
 つまり、舞台の主演女優。
 ミステリーにおいて主演は真実ではなく謎。
 魅惑的な謎こそが観客の心を掴む。
 誰にも解かれないことで伝説を築き、最終的には自身の死をもって伝説を完成させる。
 そういう役どころ。

 “謎”が死ぬことで“真実”が誕生する。
 その“真実”の価値はイコール“謎”の価値である。
 故に“謎”の活躍が期待されるのだ。
 例えるなら、“謎”は卵の殻。
 その中で“真実”を温める。

 彼女の双肩にゲーム盤の全ての運命が託されている。
 だからこそ他の駒は彼女に仕え支援する。
 彼女の舞台を映えさせるために。

 
 リーテバイルのTIPSの記述にピッタリ当て嵌まる。
 パズルのピースがパチリと嵌るのは気持ちいいな。



 一なる三人の魔女は、三つの物語を生み出した。
 赤き真実による物語。
 黄金の真実による物語。
 魔女幻想による物語。

 神の三位一体もそれになぞらえている。
 赤き真実が、父、ミャオ。
 黄金の真実が、子、都雄。
 魔女幻想が、聖霊、セシャト。

 その三位一体を模倣したのがガントレットナイトのケッテ。
 で、その聖霊を模したのがACRのエース、リーテバイル。
 となると、他の陣営のエースに父と子の模倣がいそうだね。

 ふむ、“子”本人である都雄が属するAOUを抜かした三陣営のエースを見てみようか。
 ACRのリーテバイルは“聖霊”。

 ABNのナイマは“子”かな。
 無垢な人格を守る他の人格は、即ちヒーローだ。
 状況に合わせて、それに相応しいヒーローが現れてくれる。
 物語が変われば、それに合わせて主人公は生まれ変わる。
 可変の英雄。
 望めば現れる救世主。
 これはまさしく“子”に相応しい。

 だとすると、COUの鈴姫が“父”なのかな。
 他の二人が黄金の薔薇の装飾で、彼女だけ赤い薔薇なのは、彼女が赤き真実を模していることを示しているのだろう。
 彼女が赤き真実の心臓であるなら、百武が赤き宝刀なのは当たり前となる。
 負けることが許されないのも、“父”が本当の心臓であることを模しているのだろう。
 〈天才空挺騎兵適正者〉の“脳構造の全てが、空挺騎兵になる為に生まれてきたほどの奇跡である”という記述は、空挺騎兵延いてはA3Wを生み出した“父”の脳を模しているからなのだろう。
 〈空中近接格闘術〉の一対一の肉薄決戦戦術は、赤き真実の心臓が戦う場面は肉薄された時であるからだろう。
 “子”の“父”殺しを模したPhase1のラストで、“父”に鈴姫が当て嵌められたのも、鈴姫自体が“父”を模した駒であるなら何の不思議もない。
 それは至極当然のシナリオと言える。


 なるほど、本当に出来の良いパズルだな。
 三陣営のエースが一なる三人の魔女たちのスケールダウンモデルとするなら、その三陣営そのものも、三人の魔女たちが生み出した三つの物語に相当すると見るべきだろうね。

 COUは赤き真実の物語。
 現実に則した生身の人間による世界を模しているのだから、当然血の繋がりを重視した社会となる。
 キコニア生まれしかいないし、旧弊が蔓延っているわけだ。

 ABNは黄金の真実の物語。
 うみねこの黄金の真実の物語は、神の定めたノックスの十戒に従って形成された異なる真実の世界。
 よって、その世界を模しているABNは、神の布いた戒律が最も重視された社会となっている。
 現実のパラレルワールドだから、殆どの人間はキコニア生まれ。

 ACRは魔女幻想の物語。
 人間は魔法を使い、幻想の住人もたくさん住んでいる世界を模している。
 だから、伝統と新しさを兼ね備えた社会となっている。
 AOUに次いで工場生まれが多いのは、幻想の住人が生まれてくるのを表しているのだろう。
 また英雄王が電撃的に大陸を統一したのは、メッセージボトルによって魔法説一色に染まったことを表しているのだろう。

 どうせだからAOUもやろうか。
 AOUは一なる神が生み出した一なる物語。
 三人の魔女たちが生み出した三つの物語を一つに纏めたもの。
 キコニア生まれは神一人、他は全て工場生まれ。
 異なる社会、異なる価値観を尊重し、それを壊さないために情報を遮断して守っている。
 それは赤き真実・黄金の真実・魔法幻想の三つを並列し、それを壊さないためのもの。
 どんな価値観も許容し、それぞれの価値観を守るために分断される社会であるがために、真に全てに寛容な神は孤独となるという皮肉。

 一なる三人の魔女たちが生み出した一なる三つの物語。
 纏めれば一つ、分ければ三つ、計四つの見方が出来る物語。
 これはうみねこEP8でもやっていたな。
 右代宮家の系譜を物語の系譜と見立て、金蔵から四兄弟がそれぞれ引き継いだ四つの物語。
 それぞれの物語が巣立って羽ばたいて行く。

 あ、LATOは天界大法院や元老院に相当する陣営。
 世界のバランスを保ち、どの陣営にどれだけ霊素を供給するか決めている。



 うーむ、国をピースに見立てて世界でパズルをするとか壮大過ぎる。

 模倣から創造は始まる。
 つまり、何を模倣しているのかが問われている。
 模倣、見立て、メッセージ、雨乞い。
 全てはパズルのピースなのかもしれないな。
 先にそれがあり、そこから物語を膨らませたのだろう。

 とりあえず再度ツッコミを入れよう。
 やっぱうみねこじゃねーか!
 なんで私はこれに気付かなかったのか。
 うみねこ咲発売直前にうみねこ再読して考察していたところなんだよな。
 4という数字があまり使われてなかったからというのはある。
 3という数字に拘り過ぎたな。
 四陣営の争いなら、右代宮四兄弟で四つの物語だって、さっさと察しなければならなかった。
 遠回りし過ぎだ。
 何ヵ月経ったと思ってるんだ、ホントこういうのの察しが悪いな、私。
 




 さてさて、各陣営の特色がはっきりしたのは大きい。
 これで各陣営所属のガントレット達もその色で見れば良いと分かったのだから。
 というか、これでキコニアの世界の全容を見渡せるようになったと言っても過言じゃないレベルだろう。


 私の考える神のパズルについて今一度改めて説明しよう。
 TIPSにて紹介されている各陣営所属のガントレットナイト計26名をピースに見立て、それをパズルとして組み立てれば神が出来上がるというもの。

 一なる神は、三位一体で構成される。
 父、子、聖霊。
 これはうみねこの一なる三人の魔女たちに相当する。

 三位がそれぞれの物語を紡ぎ、一体として物語を纏め、計4つの物語を生み出した。
 それがキコニアの四陣営。

 赤き真実の物語。
 黄金の真実の物語。
 魔法幻想の物語。
 それら全てを一つに纏めた物語。

 残るLATOは天界大法院や元老院に相当。
 各陣営を監視・管理しバランスを調整している。
 所属のロッテは、ラムダデルタとベルンカステルに相当。

 四陣営に所属するガントレットナイトは、それぞれの物語を生み出した魔女を構成するピース。
 COUのガントレットナイトは、赤き真実の物語を生み出した“父”を。
 ABNのガントレットナイトは、黄金の真実の物語を生み出した“子”を。
 ACRのガントレットナイトは、魔法幻想の物語を生み出した“聖霊”を。


 COUは赤き真実。
 所属の2つのケッテのリーダーは、両方とも肉薄戦を得意としている。
 これは赤き真実の心臓が、最も奥に隠されているから。
 決戦はその心臓に肉薄された時に行われるのだ。

 スパルナについては前に書いた通り。
 神の二つの心臓の内、赤き真実の心臓は最奥に隠される。
 ルクシャーナが時間と共にそれを隠し、アンドリ―が安全な遠距離より一方的に攻撃して追い払い、それでも肉薄された時はスジャータが弾き返す。

 白豹は赤き真実を使った戦い方。
 鈴姫は心臓部、負けることが許されない。
 読者の推理を華麗に避け、強烈な攻撃を加える。

 百部は赤き宝刀、推理を一刀両断にする。
 使い方は二つ。攻撃で一刀両断にするか、寄らば斬ると牽制するか。
 一撃必殺だからこそ、牽制が生きる。
 牽制によって読者に二択を迫る。
 遠ざかるか、近寄るか。
 牽制は近寄って欲しくないということで、だからその場合肉薄するのが正解。

 アイシャは目と耳。
 時間が経てば経つほど思考が読まれる。
 読者は期待したものを見たいのだから、見たいものを用意すればそっちに誘導できる。
 百部の赤き宝刀の牽制で心臓部より遠ざけ、アイシャが思考を読み切り型に嵌めて、鈴姫の強烈な攻撃で勝負を決める。
 それが白豹の必勝パターンなのだろう。


 ABNは黄金の真実。
 黄金の真実を縛る法は一つ。
 赤き真実のロジックとは別のロジックを紡ぐこと。
 それに反すればロジックエラー。

 イェルダット・シャヴィットの彗星式三位一体は、神の三位一体を模した“子”の三位一体、ヤスの三人格を表したものだろう。
 この様に黄金の真実は、赤き真実の鏡写しとなる性質を持っている。
 後、一つの物事に対して赤き真実は一つのみしか提示できないが、黄金の真実は無数にストックしておくことができる。
 このことから“多種多様”という能力の特性を持つ者がABNのガントレットナイトには散見されるように思う。
 ナイマとナオミの〈ディメンションコンテナ拡張〉然り、レアの〈代用武器戦闘〉然り。
 薬物投与は、黄金の真実が人為的にコントロールされていることを表しているのだろう。
 ロジック然り、人格然り。

 ステファニアはうみねこ的人数削減術。
 一体のアバターに複数の人格を収納することで、赤き真実の物語よりも人数を減らすという省エネ術。
 〈脳内最適化訓練終了〉はその際の脳内最適化で、〈僚機連携〉はその本来は(赤き真実では)別人の人格間の連携という感じなのではないかな。

 レアの〈代用武器戦闘術〉は、どんなものでも利用してロジックを作ろうとするもの。
 黄金の真実は赤き真実に合わせて紡ぐ必要があるからね。
 〈僚機観察〉はその際、味方の状況をも利用するためのものだろう。
 都雄にも同名の能力があるが、それは“子”である都雄のコピー(模倣)能力だから。
 オリジナルの都雄の能力と違い上官に報告義務があるのは、本来の真の上官が“子”本体である都雄だからだろう。

 ファトマの〈大人気ブロガー〉は、発信し広めることが黄金の真実とって必要なことだから。
 赤き真実は誰も信じなくても真実として存在するが、黄金の真実は誰かに認めてもらわなくては真実足り得ないのだ。
 〈超感覚心理分析〉は相手が何を信じたいのか、心理を分析するためのものだろう。

 サラーサット・スユフもやろうか。
 ナイマがつい最近までその存在をヴェールに隠されていたのは、姉ベアトの魔法幻想のヴェールから妹ベアトの黄金の真実が姿を現したことに重ねられている。
 空挺騎兵が数の勝負なのか、一人の天才が制するのかというのは、数多の幻想かたった一つの黄金の真実なのかということだろう。
 満を持してのナイマの登場。
 それは黄金の真実が完成したことを示すのだろう。
 国際平和軍旗祭がナイマを擁するサラーサット・スユフが優勝したのは、うみねこのゲームで黄金の真実が勝ったからだろうね。

 ナイマの〈状況特化人格選択〉はどんな役でも熟す黄金の魔女の真骨頂。
 紗音もやれるし嘉音もやれる、理御だってやれる。
 ロジックが差し替えられる度に、アバター、人格、行動、思考が差し替えられるんだよね。
 スタニスワフの〈僚機体内8MS管理〉はそれの人為的な管理。
 この投与されるロジックの管理が黄金の真実の肝。
 ナオミの〈脳内最適化訓練終了〉は差し替えられる人格間の記憶や感情などのリソース管理。
 現状に不要なリソースを割くことは、コストパフォーマンスに響く。


 ACRは魔法幻想。
 最も現実から自由な陣営。
 その能力は観客を魅せるための派手さや幻想的など、演出的なものが多い。

 幻想の自由さを象徴するのがガネットの〈空に生まれた少女〉。
 現実が大地であるなら、大空は空想。
 幻想の住人は現実に縛られない動きが可能。

 マリアナの〈多弾頭ミサイル誘導〉が自在に曲芸的で、奇抜で幻惑的なのは、幻想側の駒であるから。
 幻想の住人は個性的で主張が激しい。
 目立たない幻想はやがて消えるのだから当然だが。
 それ故人格間で主張を譲らない〈CPP性自閉症〉なのではないか。

 ヌールの〈自動兵器召喚〉はうみねこでの家具や武具の召喚に相当するのでは。
 魔法幻想の得意な手だよね。
 〈ピークコントロール〉は物語の山や谷などの話の盛り上がりをコントロールすること。
 〈大器晩成〉は物語を最終的には目的地まで到達させること。
 魔法幻想は黄金の真実を最期に完成させて消えるのが役割。
 その演技は優雅に見えて、頭の中では色々と試行錯誤している。

 魔法幻想は赤き真実や黄金の真実より先頭に立ち、リスクを踏み越える役割がある。
 それがアブドゥの〈若さの特権〉。
 〈若年性無敵体力〉の若い、元気、寝なくてもへっちゃら、何を食べても太らないは、幻想の住人であるから。
 〈オーバーキル〉は派手な演出の魔法に相当。
 魔法は派手な方が見栄えが良い。

 イシャクの〈空挺騎士団百人隊長〉は、彼が魔法説のベアトのロノウェの様な参謀ポジションであることを示す。
 主の代理として眷属を指揮することも可能なサブリーダーの駒。
 〈空中決闘の王者〉の火器不使用の決闘協議は、実践では不要な名誉を重視したもの。
 これも見栄えと演出、そして誇りを重視する魔法幻想故の文化。

 リーテバイルは幻想勢の主のポジション。
 彼女については上記を参照。


 “三位”が紡いだ三つの物語についてはこんな感じ。
 問題は“一体”が紡いだ一つに纏めた物語であるAOU。

 OPムービーを見ると、AOUのウォーキャットとグレイブモウルのエンブレムから、他のケッテのエンブレムが分裂したような演出になっているんだよね。
 “一体”から“三位”が分かれるという演出だろう。
 ついでに二チームからLATOのロッテも生まれている。
 これはウォーキャットとブレイブモウルが、ラムダデルタとベルンカステルに相当するという感じだろうか。

 ウォーキャットのケッテは、読者に相当する駒であるジェイデンを抜かし、都雄をミャオと分け、残った三人が神の三位一体に相当すると考えている。
 “父”がミャオで、“子”が都雄で、“聖霊”がギュンヒルド。

 とりあえずギュンヒルドが“聖霊”だとすると。

 “聖霊”魔法説のベアトは、自身の眷属を増やすことが出来る。
 クローズドサイクルで後から続々登場できるのは幻想勢の特権と言っても良い。
 それは要するに、駒を増やすことが出来るということ。
 つまり、〈PP訓練メソッド〉による指導で、正規の空挺騎兵にまで成長させることが出来るということと同様なのでは。

 〈オールラウンダー〉。
 魔法説のベアトは、赤い真実の心臓や黄金の真実の心臓の代わりに陣頭に立って戦うことが出来る。
 しかしその二人には、死すらも役割に含まれる魔法説のベアトの代わりは出来ない。
 代わりとなってどんな戦いも熟す彼女は、まさにオールラウンダー。

 〈戦域8MS観測〉。
 魔法説のベアトは自らの眷属を用いてあらゆる事態に対処する。
 お茶会のホストである女主人として完璧に。

 と、こんな感じに当て嵌まるのだろうなと。
 だからギュンヒルドが“聖霊”セシャトの本体だと見る。

 都雄のTIPSの能力の記述は、ミャオの能力も加えたものではなく、都雄単独の能力だろう。
 〈多弾頭ミサイル誘導〉や〈僚機観察〉は、ABNの能力の特徴にそっくりだ。
 どんな状況にも対応可能で、赤き真実や魔法幻想と協力して黄金の真実を繰り出すことができる。
 めっちゃ黄金の真実の特徴が出てるんだよね。

 となると、ミャオの能力がパズルのどこかに記述されてないとおかしい。
 それが記述されているのがたぶんグレイブモウル。

 リリャの〈粘土の少女〉は、どんな人格も生み出せる神の脳を表している。
 人格のエミュレーター。
 何者も生み出せる、故に何者でもないのが“父”の人格。
 〈空域武力支配〉は圧倒的な数の駒を展開する能力。
 展開に時間が掛かるという特徴が、COUの戦術の特徴と一致する。
 〈器用貧乏〉は生み出した駒にできることは一通りできることを表している。
 そして故に独自の得意な能力がないことも。

 コーシュカの〈超感覚予測射撃〉は、何よりも駒たちの跳弾飛行を見てきた“父”の経験則による勘じゃないかな。
 〈ディメンジョンコンテナ不適正〉は、攻撃手段が赤き真実による狙撃のみということを表している。
 〈パンドラの箱〉に入っているのは神の生み出した運命についての記憶。
 災いの運命と、その果ての希望が。

 クロエの自己肯定感の過度の低さは、“父”の自己肯定感の低さを表している。
 〈自動兵器火器管制〉の敵の自動兵器までハッキングして使用できるのは、敵と味方のどちらも“父”のゲーム盤に乗った駒であり、どちらの駒も動かせることを意味している。
 〈実験体強制制圧〉は“父”がどの駒よりも上位の存在であることを表す。
 〈単独行動特化〉は、僚機と共に行動する際にリソースがそちらに割かれるということじゃないかな。
 だから単独の時が一番力を発揮する。

 グレイブモウルはスパルナ同様守備的な戦術が得意。
 それは“父”が本来、奥底に引き籠ってのタワーディフェンス的な戦いをしているから。
 だが空戦や混戦が大好きで突スナを目指している。
 いつの日か引き籠り場所から飛び出してくるのだろうか。


 ウォーチャットは主の代わりに戦う黒猫。
 即ちベルンカステル。
 “子”妹ベアト+“聖霊”姉ベアト=ベアトリーチェ。

 グレイブモウルは墓穴という地獄から飛び出したモグラ。
 即ちラムダデルタ。
 圧倒的な数の布陣で必ず仕留める戦いをする。

 その2チームより生まれたのがLOTOのロッテ。
 正直どちらがどっちなのか、見る度に入れ替わって訳が分からなくなる。
 今回はヴァレンティナをラムダ、マリカルメンをベルンとして見てみようか。

 マリカルメンのTIPSの記述には曲芸飛行に天賦の才能があるとある。
 曲芸飛行は幻想勢のACRの得意な魅せるもの。
 秘蔵っ子は、ナイマに被る設定だ。
 〈武装同時召喚適性〉は、黄金の真実のABNの得意とする多種多様。
 〈能ある鷹は爪隠す〉のサプライズは、演出が得意なACRっぽい。

 ヴァレンティナが突出しているのは耐久力。
 “父”は永遠を耐える。
 〈エネルギー機動性理論〉はそのためのもの。
 地球の法則に則った機動とは、即ち最もその法則に縛られているからこその機動なのだろう。
 つまり、赤き真実専用の機動ということ。
 〈高出力リジェクションシールド〉は最高の防御力。
 守備は“父”の得意とする戦術。

 うん、ヴァレンティナがラムダで、マリカルメンがベルンで良い気がするな。





 “子”が都雄で、“父”がミャオでジェストレス、“聖霊”がギュンヒルドでセシャト。
 しかしそれらに対して、読者を示す駒であるジェイデンと藤治郎の立ち位置が的確過ぎるな。
 三位一体のパズルはこれで完成かな。

 問題は結果的にスパイの見当がご破算になったこと。

 COUのピースで組み立てたのが“父”。
 ABNのピースで組み立てたのが“子”。
 ACRのピースで組み立てたのが“聖霊”。

 つまり、セシャトを構成するのはACRのガントレットナイトなんだよね。
 スパイ=セシャトを構成する駒だと、四陣営に跨らない。
 さて、どうしようか。
 どうしようもないな……。
 ま、各陣営考察に繋がったから良いけど。
 スパイについてはまた1からやらんとな。


 スパイが四陣営に跨っているということは、陣営に拘らず世界の事を考えているということ。
 第九最上騎士団の勧誘メールには、世界をもう一度ゼロから作り直す、という様なことが書かれていた。
 やり直すというのは、要するに延命の思想。
 今の世界を続けるのではなく、次の世界に繋げるという形での。

 今の世界を維持するというのは、平和の壁を支えるガントレットナイト達がなあなあで引き分けを演じ続けるというもの。
 これはうみねこで例えると、ゲームを延々と引き分けることで永遠にゲーム盤で遊ぼうとするもの。
 ゲームの意義を放棄し、その場に留まろうとする引き籠りの思想。

 世界のやり直しもまさしくそれの延長上にある。
 次のゲームこそはと言いつつ、駄目だったらさらに次のゲームに移行する。
 そうしてずるずると永遠にゲームを続ける破目になるのだ。

 実際は、その道は永遠に犠牲を積み重ねていくものなんだよね。
 うみねこを例にとれば明白だろう。
 ゲームが引き分ける度に、幾つ駒が犠牲になっているのか。
 ゲームを引き延ばすことは、犠牲を積み重ねることに等しい。
 子供を犠牲にする世界をぶち壊したいのではなかったのか。

 子供を犠牲にして永遠に世界に引き籠ることを良しとせず、世界をぶち壊して外に出る。
 “誰”が外に出るかの異論はあれど、それが世界の結論だろう。

 この辺りの議論は、都雄と青い都雄や、コーシュカ、クロエがちょっとしていたな。
 ま、途中も途中だけど。

 さて、スパイはどの辺の意見なのかな。
 セシャトは若者が意思を持つなら早い内がいいと言ったが、その意思とは世界の外に出ることだと思うのだよね。
 世界をやり直すことは決断の先延ばし。
 クロエの言より、それは神の意思に委ねることだと思う。
 それは意思の放棄に通じる。
 だから、外に出るという決断こそが意思を持つことなのだと思うのだ。

 第九最上騎士団が、塔を完成させるまで何度でも世界をやり直す派。
 プロメテウス騎士団が、今、塔を完成させて世界の外に出る派。
 こんな感じかな。


 大浴場騎士団の、今の世界の維持。
  ↓
 第九最上騎士団の、世界のやり直し。
  ↓
 プロメテウス騎士団の、世界の外への脱出。

 駒はそんな感じで意思を持って行くという感じかな?

 あるいは、第九最上騎士団の目的は、やり直しでななく、作り直し。
 要は、今とは異なり、“子”を中心とした世界に作り直すという、“父”の考えに賛同する連中、という可能性。

 ま、どちらにせよ、大浴場騎士団が掲げる目的から逸脱した考えを持つメンバーを浚えば良いだろう。


 まずAOUからコーシュカ。
 魂が肉体より解放された後のことを知っていて、それを待ち望んでいる。
 最初から大浴場騎士団の大義から一歩引いた位置にいた。
 しかし、孤立しようとする立場だから、組織に属そうとはしなさそう。

 ミャオはジェストレスだが、スパイは部下だと思うから、別にもう一人いそうなんだよなぁ。

 となると、ギュンヒルドかな。
 セシャトになる前は第九最上騎士団に所属していてもおかしくないからな。

 COUはルクシャーナかな。
 世界を滅ぼしたければまずは自分の頭蓋骨を吹き飛ばせばいい。
 そんなことを都雄が言って、ルクシャーナは笑っていた。
 でもこの笑い話、実際は神の脳内世界だから、神は自身の頭蓋の中にある世界を吹き飛ばそうとしているんだよね。
 で、この真の意味を知った上で笑っていたらこのシーンの意味合いが変わる。

 神は自身の脳内世界を自身ごと吹き飛ばそうとしている。
 だから都雄が言った、まずは自分の頭を吹き飛ばせばウィンウィンは正論。
 まさにそれを実行するのが神の手足である第九最上騎士団で、それを知らない都雄に肯定された形。

 ルクシャーナの笑いのツボは周囲とは異なる。
 それはつまり、周囲の知らない知識を持っているということの証。
 知っているから笑える。
 知らないから笑えない。
 よって、ほぼ確実にルクシャーナはスパイ。

 ルクシャーナは赤き真実の心臓を隠す役割を持つ。
 それはその真実を知っているということと同義なのではないか?
 そして、赤き真実の心臓である鈴姫は死んだ。
 それはルクシャーナがその役割を放棄したからではないか?
 死んだ鈴姫は新しい高性能なガントレットを装備していた。
 それは三人の王側のスパイがそのガントレットを渡したからではないか?


 ACRはリーテバイル。
 ACRの住人は否定されれば儚く消える魔法幻想。
 よって否定されたくない本能がある。
 だがその王である“聖霊”だけは異なる。
 魔法説のベアトは、赤き真実や黄金の真実が生み出されるために消えるのが役割。
 つまり、赤き真実の物語、黄金の真実の物語、魔法幻想の物語の三陣営を争わせて、真に生きるべき真実を生み出すことを目的とする。
 だから、幻想として生きようとする人格の他に、幻想として散ろうとする人格が隠れていると思うのだ。
 リーテバイルの兄の死については前の説を踏襲。


 ABNは正直そっち系の言動に心当たりがない。
 そろそろもう一度通しで読み直すべきかねぇ。
 この陣営が黄金の真実だから、“子”を勝たせる神の計画的に、それを模倣してナイマが勝ち残る形になると思うのだが。
 そうすると、それをコントロールするスタニスワフが重要な立ち位置になるんだけど、コイツがスパイだと大浴場騎士団の支団長の半数がスパイになってしまうので微妙。
 となると、他の立ち位置では、私的にはナイマの無垢な人格が怪しいと踏んでいる。
 ABNのメンバーは皆黄金の真実サイド。
 なのに無垢なナイマだけが異端なんだよね。

 ナイマは“子”の模倣。
 黄金の真実の心臓。
 黄金の真実とは、赤き真実に寄り添うもの。
 赤き真実に寄り添い、励まし、夢を見させるためにある。
 つまり、無垢なナイマの人格を守る男らしいナイマの人格の方が“子”の模倣。
 無垢なナイマは立ち位置的に赤き真実側。
 黄金の真実サイドに混ざった異端。

 “父”ミャオはプレイヤーとして、駒である“子”都雄を活躍させようとしている。
 無垢なナイマにとっての男らしいナイマは、ミャオにとっての都雄と同じ。
 それを模倣したものだから。
 無垢なナイマこそが、男らしいナイマを黄金の真実足らしめている。
 要するに、男らしいナイマを“子”の模倣としてプロデュースしているのでないだろうか。
 ミャオが都雄を最終的な勝者にしようとしているように、それを模倣する無垢なナイマは男らしいナイマを最終的な勝者にしようと暗躍しているのでは?
 それはつまりスパイに相応しいということ。


 そんなわけで現状スパイはギュンヒルド、ルクシャーナ、ナイマ、リーテバイルの四人で考えとく。





 ちなみに、セシャトを構成するピースにルクシャーナやナオミを使えなくなったので、セシャトの能力について考え直さねばならなくなったが、これについては説明可能。

 セシャトは“聖霊”。
 魔法幻想の王。
 魔法幻想とは、元々存在しないものを存在しているように見せるもの。
 つまりセシャトは、存在しているものを存在していないように見せかけていたのではない、そもそも存在していないものを存在していたように見せていただけで、それを一時取り止めただけ。
 うみねこの姉ベアトは魔女伝説と悪霊伝説を素に生み出された幻想で、亡霊のような存在。
 それがつまり、セシャトの〈亡霊〉。

 ABNの空港に居たLATOたちが全て忘却したのもそう。
 あの出来事は、魔法幻想のレイヤーでのこと。
 要するに幻想描写。
 その幻想を取っ払えば、何も起きていなかったことになる。

 そもそも赤き真実と黄金の真実と魔法幻想が互いを認識している世界の方がおかしい。
 その三つがゲーム盤に共存している。
 だから、魔法幻想の出来事のために、辻褄合わせのためにLATOはABNの空港に来た。
 辻褄合わせのための行動なのだから、合わせるべき辻褄を忘却すれば、何でここに来たんだっけ? となる。
 三つが共存することを前提とした世界だから、一つだけの世界になると所々矛盾が出てしまうんだよね。

 セシャトが使っていたケロポヨが魔法を使っていたけど、まさしく魔法だったってこと。
 あ、キコニアでは幻想は仮想現実のシステムを誤認させることだから。



 今回はこれで終わり。
 なんかグッチャグチャで読みにくいものになっちゃったなぁ。
 スパイなんて最初のと最後のが全くの別物になっちゃったし。


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  1. 2020/04/26(日) 20:49:44|
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【キコニア】鈴姫の死亡シーン/うみねこEP1のラスト

 本日二投目。

 最近、死と再生の物語とか何とか言ってきたけど。
 都雄が意に反して鈴姫を殺害させられたの、これ、ある意味王殺しの模倣なんじゃないかな。

 何度も言っているが神の計画は、プレイヤーである神が、駒である神の子都雄を動かして神自身である龍ミャオを討ち取らせ、神の座を譲り渡すというもの。
 つまり王殺しだ。
 この未来の出来事の模倣が、鈴姫殺しなんじゃないかな。
 特に、意に反して殺させられるという点がそっくり。

 つまり、一種の先行体験、予行演習だ。
 都雄がこの経験を積んだことで、未来での龍殺しに何らかの影響が出るかもしれない。
 先取される後悔、青い都雄の影響力も増す。
 後悔したくなければ、未来を変えろ。
 藤治郎の思惑はこれかな。
 あのシーン、都雄が駒としたら、ガントレットを外部から操作した藤治郎はプレイヤーの模倣となる。
 本物のプレイヤーの支配を脱しろというメッセージだな。
 要は、本番で都雄に龍を殺させないのが藤治郎の目的。

 そしてこのメッセージは、読者プレイヤーにも送られている。
 だからこその先行での模倣。
 ジェイデンのシーンでの先回りしろというメッセージも合わせれば、未来での本番、回避すべき運命がどういうものなのかというヒントになる。


 都雄はどんな役割を持たされているのか。
 神は何を企図しているのか。
 藤治郎の思惑は何か。

 それらが圧縮された情報となっている。
 よくできてるよな~。
 いつも感心するわ。

 やっぱ最初の一話には重要な要素がしれっと入っているんだな。



 あ、一話目と言えばうみねこEP1だけ再読してないが、たぶん重要なのはやっぱ親子関係だと思う。
 夏妃と朱志香の姿が、主と駒の親子関係に重なっているだろうから。

 あの時の夏妃は、子のためなら鬼となる覚悟を決めていた。
 熊沢曰く、子連れの熊。
 それに対して戦人は、いや、戦人の思いを朱志香が代弁したんだったかな?
 皆の母でもあって欲しいと言った。

 今なら本当良く解るな。
 これは、子であるベアト=ヤスのためなら、母である造物主=執筆者は鬼となることができるということ。
 つまり、ヤスが犯人という真実を認めさせるために、ゲーム盤にある他の駒=六軒島の皆を犠牲にするという覚悟。

 鬼は母なる神の裏の顔。
 それに対して子は言うわけだ、皆の母でもあって欲しいと。
 これはキコニアの残すべき極少数のために大多数を犠牲にするやり方に対する言葉も同様なのだろう。
 子は自身が存在するから皆が殺されるわけだからね。
 それが、ガントレットの仲間が殺し合うのは都雄が存在しているからだ、に繋がるわけだ。

 そして最後、夏妃は子供たちを置いて決闘に出かけ死亡する。
 その遺体に縋った朱志香は、なぜ自分を置いて自殺してしまったのかと嘆く。

 決闘は子と母の間で行われる、どちらの真実が勝つかというもの。
 それを母が一人で勝手に行い、自死を選んだ。
 そして、なぜ自分を置いて死を選んだのかと子が嘆く。


 これ、うみねこで全編通してやったこととその動機そのものじゃん。
 なんで一話目に全部書いてあんの? って目を疑うレベル。
 ……いや、インタビュー見ればそんな感じの仕込んでるだろうなと思っていたが、思った以上だもんな完敗だわ。

 とりあえず、咲でピースが自ら消える所まで読んだらEP1の夏妃死亡まで読み返せ、と言いたい。
 母が子のために自ら消えようという気持ちが理解できるだろう。
 いや、私は読み返してないんだけどね。



 さて、もう解るだろう。
 このうみねこEP1のラストとキコニアPhase1のラストが重なる。
 違いと言えば、うみねこは子を残して去る母視点の物語だが、キコニアは母を殺めねばならない子視点の物語というところだろうか。
 どちらにせよ同じ構図。

 決闘の結果、片方が失われ、子が嘆く。
 模倣された運命。
 これは予告だ。
 即ち、絶対の執行を約束する、先取された未来の先行体験。
 運命を約束する絶対の宣言。


 はっはー!
 また最初の街に開けられない宝箱を用意したのだろうが、こちとら伊達にうみねこを乗り越えたわけじゃねーぞ。
 最後の鍵を手に入れるまで待つなんてことはしねー。
 そんな錠前なんて捻じ伏せてやんぜ!

 つまりこれは、“私の”絶対の執行を約束する先取された未来の先行体験。
 未来において神は絶対にこうするだろうという。
 だから実際にそれを見ずとも宣言できる。

 ま、これについてはずっと言ってきたけどね。
 とは言え、ラストの鈴姫のシーンが“これ”ならもう確定で良いだろう。

 勝ったッ! Phase1完!


  1. 2020/04/25(土) 20:50:36|
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【ひぐらし】雛見沢停留所の考察

 本日一投目。

 神姦し編を読んだ勢いで雛見沢停留所も再読した。
 序盤はスキップを多用したので抜けはあると思うが、終盤はちゃんと読んだので大丈夫だと思う。



 雛見沢停留所はひぐらしの原典。
 つまり原型(アーキタイプ)。
 さらに言えば、私はひぐらしだけでなくうみねこやキコニアにとっても原型だと考えているが。

 物語の原型は超重要。
 物語を膨らませ複雑になる前だから、重要な要素がぎっちり詰まっているのだから。


 では要素を挙げて行こうか。

 まずは、“親虫の近くでしか生きていけない”という要素。
 これはうみねこ的に言えば、“外の人間社会には反魔法の毒素が充満しているので、幻想の存在である駒たちは主の近くでしか生きていけない”ということ。
 主と駒の関係を端的に表している。

 “親虫が雛見沢でしか生きられない”という要素。
 人間である主の精神あるいは魂が、人間社会では生きられず、ゲーム盤の世界でしか生きられないことを示している。

 “親虫の移植”という要素。
 これはゲーム盤におけるキングの継承。
 主の代行者であり身代わりの生贄となる特別な駒の存在を示唆している。

 “魅音が都会へ行きたいと願っている”要素。
 これは幻想の駒たちが抱く、外の人間に存在を認めてもらいたいという願望。

 “二人の逃避行”要素。
 これは二人一緒にゲーム盤を抜け出して、外の世界で生きて行こうとする足掻きであり決意。

 “疑心暗鬼”という要素。
 これは外の世界の人間が敵に見えてしまうということ。
 自分たちを認めて受け入れてくれると信じられないという心の病。
 一種の人間不信。

 “過去のトラウマを抉り出す”要素。
 これは疑心暗鬼の原因が過去のトラウマにあることを示唆している。

 “会いたい”という要素。
 存在しない者に会いたいと願う。
 過去のトラウマと何故か結び付けられている。
 それに鏡写しという要素を加える。
 つまりこれは元となる主の過去のトラウマと“会いたい”という願いが結びついていることを示す。
 要するに、失った相手に会いたいという願い。
 “二人の逃避行”を合わせれば、冥府からの蘇りも示唆している。
 罪と罰の要素も加えると、それに対する後悔と償いも見えてくる。

 “魅音の、都会に魂を置いてきた、もう心は雛見沢にない”という要素。
 これも鏡写しなら、主が古郷ではなく都会に魂を置いている状況なのだろう。
 つまり、それを自ら咎めている。
 自らの心は、魂は故郷にあるべきだと。
 そうやって自らの心を縛り付けている。
 ここから、現在の主は故郷を離れた場所で暮らしていることが分かる。

 “時間のループ”という要素。
 失われた命を蘇らせる。
 再び物語をやり直す。
 つまり、主には回帰願望があるということ。
 失われた故郷に帰りたい、あの日に帰りたいと願っている。

 “ダムに沈む村”という要素。
 回帰願望の反対。
 内に籠らず、外に出なければという思い。
 しかし残しては行けないものがある。
 過去へと向かう思いと、未来へ向かう思いの衝突。ジレンマ。

 “仕組まれていた運命”という要素。
 出会いから結末まで全てが決まっていて、それをなぞっているだけ。
 しかしそこで得た絆は本物。
 それが大切だから、運命をなぞりつつもそれに抗う。
 つまり、物語をやり直している。
 今度こそ失わないために。


 だいたいこんな感じ?
 主軸が主体と対象の二人だから実に分かりやすくまとまっている。
 ここから要素を分けて派生キャラを作り、物語を膨らませていくわけだ。
 まさしく原初の物語。
 二人だけだとめっちゃスッキリするよね。
 ま、単純だと複雑な気持ちを表現することが難しくなっちゃうけど。
 逆を言えば、色々と表現したいことがあるから色々なキャラが生まれたのだろう。
 それはまさしく心の豊かさの表れ。
 キコニアなんてワールドワイドだしな。

 末広がりに増える駒たち。
 遡れば二人に辿り着く。
 主体と対象、主とその駒に。
 それが物語の原型。





 会いたいと願うことでオヤシロ様に会ってしまい死ぬ。
 なぜ会うと死ぬのか。
 神姦し編と絡めて解釈してみる。
 要するに、駒の死=思考停止だ。

 オヤシロ様=神=ゲーム盤の主。
 ゲーム盤が心の中にあるなら、そのゲーム盤の主こそが絶対の真実。
 要は、物語のキャラクターが、物語の執筆者に会い、自分が虚構の存在であると気付いてしまったということ。
 それによってうみねこEP4の戦人状態になってしまったということじゃないのかな。
 ま、めっちゃ推測だけど。


  1. 2020/04/25(土) 19:34:23|
  2. 雛見沢停留所
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【ひぐらし】神姦し編を考察

 ちょい前にひぐらしをちょっと再考察した流れで、神姦し編を読み返して考察してみた。

 難易度は人外。
 つまり、常人には解けない、解けたら晴れてバケモノということか。


 前の再考察の際の、寄生虫=社会常識を叩き台としようか。

 田村媛命は日本人の脳に感染している、日本人にとっての常識。
 キコニア風に言えば文化。
 これに感染していることで、感染者同士の意思疎通がスムーズとなり、同じ社会を構成している仲間として見られる。

 人は何かを信じなくては生きていけない。
 日本人は“日本社会”を信じることで“日本社会”という世界で生きていける。
 “日本社会”なんて幻想そもそも存在しない、“現代科学”なんて幻想信じられない、とかなったら現代社会で行き辛くなる。

 例えば、日は毎日東から昇るが、それが信じられなくなったら明日から生きていけない、心が壊れてしまう。
 そんな感じ。
 明日を信じられるから今日を生きられるわけで。

 つまり、田村媛命は日本人の脳に寄生する常識で、日本人が皆信じる常識である。
 文化とかルールとかに読み換えても良い。


 となると羽入はそれとは異なる常識を司る存在となる。
 つまり、雛見沢は日本にとって異文化なわけだ。
 そこで私は羽入=真実は二つと考えていたが、もう一人神が登場するのでそれはちょっと短絡的だったかなと思い修正を図ることにする。

 雛見沢から興宮に感染が広がった。
 つまり、常識や文化が伝播したということ。
 外に向けての発信。

 ふむ、うみねこを想起させるな。
 なら雛見沢村を猫箱に閉ざされた六軒島に見立てるか。
 六軒島の中で育まれた独自の物語。
 その物語が六軒島よりメッセージボトルが流れ着き認知された。

 つまり認知=感染。

 例えば、○○の物語を知っている者と知らない者の間では、○○の話をしても通じない。
 そんな感じ。
 でもこれなら複数の物語に感染しているのが普通。
 三柱の神の内、一柱しか脳に居られないという状況とは異なる。



 もう一捻りしてみよう。
 三つの物語が対立し、どれか一つしか読めない状況。
 ……見覚えがありすぎる。
 これってベアトの三つの物語じゃん。

 うみねこで読者たちが最初に認知した物語は、魔法説による物語。
 ベアトが目に見える形で披露してくれたからね。
 これは認知であり、それを真実だと信じるのとイコールではない。
 皆信じてないから根は深く張ってない。
 真実が認知されればすぐ抜かれてしまう。

 つまり、田村媛命=魔法説の物語。
 うみねこ読者全てに認知されている物語にして、やがて抜き取られてしまう真実。


 では羽入は?
 雛見沢という猫箱の中でしか生きられない真実。
 それが猫箱の外に飛び立って感染した状況。

 つまり、これが真実であるとしてうみねこ読者に伝播した物語。
 ヤスの物語こそが羽入に当て嵌まる。

 根の深さ=真実に至るまでの思考。
 考えれば考えるほど根は深くなり、そこから芽が出て花を咲かせる。
 一度根を張った真実はそう簡単に抜くことはできない。
 だってそれだけ思考したんだもんね。


 最後の采は、ベアトが解いて欲しいと願った3つ目の物語の事だろう。
 采と羽入は互角。
 その3つ目の物語が感染しないよう、ヤスの物語で封殺した。

 これは竜騎士さんがインタビューで言っていた、100人中1人だけ正解するように狙いたいというものそのものだね。
 これ、逆を返せば、99人に異なる真実を植え付けると言っているわけだし。

 3つ目の物語が芽を出す前に、2つ目の物語を蔓延させて封殺する。
 結果、3つ目の物語の芽は一つしか生えなかった。
 それが狙いだったのだろう。





 采が感染爆発したIFの世界はまた別の解釈をしよう。
 いや、ほぼ同じ解釈なのだけど。
 IFだからあれは先行体験、つまり脳内でのできこと。


 青い大地に住まう人類の殆どが死亡。
 羽入に感染している少数のみ生き残る。
 これってキコニアに似ているよね。
 少数でも文化を継承する者が生き残れば良い的な。

 とすると、地球とは神のゲーム盤。
 つまり、神の脳内。
 種が辿り着く大地とは人の脳であると言ったんだから、地球の大地そのものが神の脳であっても良いはず。
 こういうのを人外の解釈と言うんだろうね。

 となると、神の脳内に寄生している人類は、ゲーム盤に置かれた駒である。
 つまり、神の脳内に住む幻想の存在。

 3つ目の物語は赤き真実に相当する。
 よって赤き真実に感染した駒は死ぬ。
 眠るように死ぬのだから、采は駒の肉体を損壊させるものではない。
 肉体以外の死。
 それならうみねこ的に思考停止による魂の死がある。
 生き残れるのは羽入に感染した者のみ。

 羽入は2つ目の物語、それは黄金の真実に相当する。
 赤き真実で否定されても、黄金の真実によって蘇る。
 それは赤き真実でも思考停止せず、思考を続けられるということ。

 結論。
 赤き真実が蔓延すれば、黄金の真実以外の幻想は全て死ぬ。





 采の口癖はチョー。
 チョーと言えばラムダデルタ卿。
 采はラムダデルタの系譜に連なる駒でありプレイヤーなのだろうね。
 つまり、神側の系譜。3つ目の物語派。

 羽入も神を模した駒、神側の系譜だけど、神の子側の系譜である梨花を擁護する駒なんだよね。
 神の子の物語は2つ目の物語。

 神は2つ目の物語と3つ目の物語の両立を狙っている。
 その神の2つ目の物語側を担っている面が羽入で、3つ目の物語の物語を担っている面が采。
 ついでに言うと、神の一つ目の物語を担う面が田村媛命。

 つまり、元来神は三相一体の女神で、その三つの面を分割して生まれた神々が田村媛命と羽入と采というわけ。
 彼女らは下層の駒たちを支配するプレイヤー。
 駒たちの脳内に寄生する思想/物語を率いる長。
 さらに上層の三相女神からすると、下層で自分の仕事を任せる駒に過ぎないわけだけどね。
 つまり、中間管理職なわけだよ。

 彼女らが神の脳内の勢力バランスを担っている。
 さらには、神の脳内より飛来して読者の脳内に辿り着き、読者の脳内の勢力バランスも担っている。



 てなわけで、かなり上層から見下ろしてみたけど、どうだろうか?
 これで私もバケモノの仲間入りかな。





 細かい点についてもちょっとだけやろうか。


 采が二階から圭一たちを助けたシーン。
 地上は下層のゲーム盤、二階は上層のプレイヤー層。
 GMが駒をゲーム盤から退避させたことを示しているんじゃないかな。
 駒の魂を回収し、次のゲーム盤に送るために。
 つまり輪廻転生。またはループ。
 運命の逃亡者である駒たちをGMである主が助けている図なんじゃないかと。

 その采が圭一たちと共に行く図。
 駒たちに護送されてGMのアバターである駒を進めていく。
 そんな感じのスゴロク。
 そんな感じで2つ目の物語と3つ目の物語を同時に進めている。

 沙都子が采に扮して囮となるシーン。
 2つ目の物語が囮となることで、人目に付かずに3つ目の物語がゴールイン。

 ピンチに現れ、最終的に采を脱出させる富竹は読者枠。
 それも梨花が奇跡的に見つけた、奇跡を体現している読者枠。

 采の逆を言いかける癖は、常に表裏反対の物語を語っていることが癖になっているから。
 物凄く捻くれた天邪鬼。

 食い尽くすことだけが唯一の楽しみ。
 采のこれは、猫の二番目の楽しみ方。
 生きた猫を愛でて楽しんだら、次は殺して腸を食らうのみ。
 物語を殺して楽しむ。
 赤き真実は、物語という幻想を殺す。
 そして次の物語へ。

 羽入がさくたろうの着ぐるみを着る。
 これは2つ目の物語がさくたろうと同様であるという暗示だろう。
 つまり、イマジナリーフレンドの物語ということ。
 ギャグにさえ意味を込めてくるから油断ならない。


 だいたいこんな感じでしょ。





 もうちょいやるよ。

 地球=神の脳内としたが、羽入と采は宇宙より飛来した。
 そこに設定の齟齬が出来るので、もう少し説を発展させようか。

 神である執筆者の世界のイメージはカケラの海。
 そこにおいてカケラは星。
 つまり地球は無数のカケラの内の一つとなる。
 要するに、神の脳内にある無数にあるゲーム盤の一つに過ぎない。
 よって、宇宙から飛来したというのは、他のカケラからカケラの海を渡って来たということ。

 これは即ち、終わったゲーム盤からの移住。
 肉体は古いゲーム盤と共に失われ、新たなゲーム盤の駒の脳に寄生する。
 魂の新しい依り代。
 異なるゲーム盤の記憶を持つ人格を擁する、パラレルプロセッサー。

 ひぐらしでは移住者である彼らの人格は眠っている。
 起きだせば依り代である駒の人格は壊れていく。
 異なる世界の記憶や異なる人格など許容できないから。


 簡単にひぐらしのゲーム盤間で説明しよう。
 鬼隠し編から祭囃し編まで同一規格のゲーム盤だが、厳密に言えば全部ゲーム盤は異なっている。
 鬼隠し編のゲーム盤が終われば、魂は回収され次のゲーム盤に移住する。
 だが次のゲーム盤の駒にはすでにちゃんと人格が宿っている。
 だからその原住民の人格を守るために、移住してきた魂の人格や記憶は眠りにつくわけだ。

 そして時折奇跡的な確率で前のゲーム盤の記憶を起こしてしまうことがある。
 それが罪滅し編の圭一。

 さらに言えば、原住民の人格を殺しているのが梨花。
 現住の梨花と移住してきた梨花は脳内で並列して、平和の壁に遮られているわけだが、それを移住してきた梨花側が壁を押し倒して、現住の梨花の人格を圧し潰した形。


 それがさらにひぐらしやうみねこといった別のゲーム間でも行われている。
 時系列的には、主によるベアトの殺害でゲーム盤が崩壊し、その移住先としてひぐらしのゲーム盤を作成し、それが終わって再びうみねこのゲーム盤を復元して帰って来た形。


 これがキコニアまで進むと人格間の共存に成功したパラレルプロセッサーが少数ながらも存在している。
 魂が進化していっているのかもね。
 異なる人格を許容できるということは、異なる世界を認識できるということ。
 それは両方を俯瞰できる上位の階層に魂が移行したということ。
 そのさらに先が肉体からの解脱。
 肉体に依らず魂を維持することができるようになれば、神と一緒でも魂は潰れないようになるのだろう。

 神が自身の魂を眠りに就かせているのは、他の人格たちを守るため。
 全てが偽り仮初のゲーム盤において、神は唯一の真なのだから。
 真の輝きは全ての幻想を打ち倒してしまう。
 黄金の真実を抜かしてね。

 神と共存できる魂にまで育てる。
 それもまたゲームの目的なのだろうから。


 ま、それは置いといても、一つのアバターの中で複数の魂が共存できるということは省エネに繋がる。
 魂の数に比して体の数を減らす、うみねこ的人数削減術。
 リソースを食う、現実に等しいアバターなんて削減するに限る。
 複数の人格を纏めて一つの体に放り込めば良いのだ。
 即ち、魂の移住だよ。

 それは数多の人類を住まわすことができる神のルームの模倣。
 複数の魂が共存できる極小の世界、極小の宇宙。
 つまり、神に次ぐ神の子のルームは、人類の新たな移住先最有力候補。
 最終的には神の子のルームに皆住むようにというのが神の計画だろうし。
 というか“父”の計画か。


 自身の内に異なる魂を宿すパラレルプロセッサー。
 それは神のみ可能だった。
 うみねこのゲーム盤においては、神を模した駒である神の子ヤスのみがそれを模して複数の人格を宿すことができていた。

 それがキコニアでは何人いるのパラレルプロセッサー。
 神の子都雄の遺伝子解析に予算をたくさんつぎ込んでいるんだっけ。
 幾度の世界で繰り返した研究の成果がこの人数かな?

 やはり神の魂と共存できるという点で神の子の魂は特別製。
 赤き真実は幻想を掻き消す。
 唯一、黄金の真実を例外として。
 その黄金の真実にまで昇華したのが神の子の魂。
 それを研究して他の魂にもそれを実装、感染させたいのだろうか?
 全ての魂が平等で、何一つ欠けることのない楽園、黄金郷か……。


  1. 2020/04/19(日) 20:17:20|
  2. 神姦し編
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【キコニア】神の力は左腕に宿る/付け替えられる右腕

 さて、全人類に神の魂が宿っているのであれば、パラレルプロセッサーはさぞ神の寵愛深き者たちなのだろう。


 人は神の依り代。
 より神に似る者ほど、神の力をより宿すことができる。
 全ての人は神の魂を宿しており、神の魂は意識できぬ無意識に宿っている。
 人は皆、自身の魂と神の魂の二つの魂を持つ。
 つまり、人類は潜在的なパラレルプロセッサーなのだ。

 そして、全人類という数多のアバターに宿っている神は、世界最高のパラレルプロセッサー。
 その神の魂、神の力がより表れた人間がパラレルプロセッサー。
 神の寵愛深き者たち。

 神は自身の物語を引き継がせたい。
 ならば、自身に似た子は可愛いことだろう。
 そしてその子たちは、神の何らかの要素を色濃く受け継いでいる。
 そしてその要素はガントレットナイトの力として現れている。

 ガントレットはまるでパラレルプロセッサーに誂えたかのような兵器だ。
 ま、実際そうなのだろうが。

 神は最高のパラレルプロセッサーだ。
 そしてA3Wのパラレルプロセッサーたちはその神の模倣である。
 つまり、神は最初のパラレルプロセッサーであり、その分野を切り拓き確立させた第一人者だ。
 そして、仮想現実A3Wを切り拓いた第一人者であり、もっともその法則に詳しい。
 さらに、A3Wの裏の法則、仮想現実改変もまた神の叡智だ。

 ならばガントレットは、その神が力を振るうために作られた叡智であることだろう。
 人類が持つガントレット技術は神の模倣。

 つまりガントレットナイトは、神の模倣なのではないだろうか。
 ならば、ガントレットナイトが振るう力は、神が与えたものだ。


 神の寵愛、それは物語の主人公たちに向けられる。
 若く可能性に溢れた者たち。
 故に、活躍の場が用意され、試練を与えられる。

 だからキコニアでは若者の手にそんな力が与えられたのだ。
 世界を決する力を若者が手にする?
 与えたい何者かがいなければ、そんな状況になんてなるはずがない。
 作為を疑わずにはいられないな。

 舞台が用意され、その上に役者が上げられたのなら、脚本家の存在と観劇者の存在を疑った方が良い。


 ガントレットは神の力の模倣。
 神の寵愛の証。
 借り物の翼。
 つまり、神は左腕に宿るのだ。
 神がそこにある限り、神の加護があり続けるだろう。





 神が左腕に宿るなら、神の子は右腕となる。

 右腕の話と言えば、都雄が自身の右腕を切り落としロケットパンチに付け替えてやると騒ぐ話。
 あれは何度か繰り返された。
 繰り返されたということは、重要な話であるということ。

 「右腕」は神の子である都雄自身を示している。
 その「右腕」を切り落とし付け替えるのは、都雄の死と復活を暗示しているのだろう。
 それは都雄の右半身が綺麗に削り取られた死体と、ヨハネの黙示録の聖母の産みの苦しみやキリストの再臨で予告されている。
 生身の腕をロケットパンチにという話は、生身のアバターから機械のアバターに乗り換えること。
 つまり、あの青い都雄の姿になることを示しているのだろう。

 都雄に限らずなく頃にの神の子は、死の運命が約束されている。
 それは神がその死の運命に半ば諦め、神の子の死の運命を許容し、再び生み直せば良いと考えているからだ。
 だが神の子は決して諦めない。
 ひぐらしで梨花が示したように。

 同様に、都雄が腕を替える動機は、負けたから次に勝つためにだ。
 約束された死の運命に敗北しても、決して諦めず勝つことを考える。
 何度破れても不死鳥の如く蘇り、何度でも成長する。
 そして最後には必ず勝つ。

 そんな圭一の物語を見て、梨花がそれを学んだように。
 そんな梨花の物語を見て、羽入がそれを学んだように。
 そんな戦人の姿を見て、ベアトがそれを期待したように。

 神はそんな物語を愛しているのだ。
 そんな主人公に期待しているのだ。
 そこから学び、その力を得たいと願っているのだ。


 主人公は作者という神に愛され、神にバックアップされて舞台の上で輝くことが出来る。
 前線で戦うのは駒たちで、その後方で前線を支えるのが主である神。
 神より力を与えられることで、駒たちは戦うことができる。

 神が表に立てばその構図は逆転する。
 前線で戦うのは神で、その後方で前線を支えるのは駒たち。
 駒たちから力を得ることで、神は戦うことができるのだ。

 自分の人生という舞台の真の主人公は自分自身。
 だが自分一人で輝くことはできない。
 その陰で主人公を輝かせようと働く裏方がいることを忘れてはならない。
 たった一人では戦い続けることなどできはしないのだから。


 支え合わなくては人は生きていけない。
 支えてくれた人の顔や名前を思い出そう。
 忘れたことが罪なのではない、思い出せないことが罪なのだ。

“合わせ鏡に映る姿に顔が無いと、顔が無いと、泣いたら”

 これはひぐらしのコンシューマ版のOP曲「嘆きノ森」の歌詞の一部だけど、ひぐらしの時からこのテーマが織り込まれているのがわかる。
 うみねこでその合わせ鏡を突き付けられたのは、造物主にして執筆者である神だったけど、キコニアでは神の子の方に合わせ鏡が突き付けられるのだろうね。
 誰か忘れてねーかって。
 ま、それは神自身が自身の存在を消そうとしているからなんだけど、だからこそ神の存在を思い出す必要がある。


 神を敬う心を忘れてはならない。
 目に見えないからといないことにはならない。
 神は万物に宿る。
 つまり、神はどこにでもいて、そこにだっているのだ。
 神への敬いを忘れた時、神は祟るのだ。

 ひぐらしでの話だが、うみねこでも追加TIPS「魔法についての重要事項」で同様な話がされている。
 神によって生まれた世界の住人は、神の存在を忘れてはならない。
 人々が平和に暮らせるのは、神がそうしてくれているから。
 神がそれを止めたら世界は地獄となる。
 ま、当然の話だよね。

 ひぐらしは最終的に人間の仕業ということで決着したわけだけど。
 あえて別の解釈をすれば、オヤシロ様という神、即ち執筆者の機嫌を損ねたために祟りにあったと見做せる。
 執筆者の気分がネガティブになったから、物語もネガティブなものになる。
 ネガティブな気分では、ポジティブな物語など作れない。
 祟殺し編で、大石を敵に回すとどこで不利益を被るかわからない、みたいなのあったねよ。
 ま、つまりそういうこと。
 執筆者の機嫌を損ねたら、どこで不利益を被るかわからない。
 だって、キャラをどういう目に遭わせるかは、執筆者の匙加減一つなのだから。
 そう言えば、うみねこでは魔女を敬わない人間が大勢いたよね。
 それを傍で聞いていた神様魔女様はどれほど気分を損ねたのだろうな。


 「魔法についての重要事項」でも雨乞いの話がされている。
 今となってはホント分かりやすい。
“干ばつに苦しむ人々が、天に雨を懇願し、それが届いて雨が降る。”
 これは物語の中のキャラである魔女が、物語を執筆している神に願って、幻想描写を書いてもらうという魔法。
 叙述トリックというのは、執筆者が書かなくては成立しない。
 執筆者が何かの拍子に“魔法”を描写してくれなくなれば、“魔法”は成り立たないのだ。

 だとすると、ベアトが魔法を証明したかったのは、神を証明するためだったと言い換えることも可能だよね。
 本当ベアトは主想いの健気な駒だな。


 これをさらに反対側に引っ繰り返す。
 駒たちのいるゲーム盤世界から、主のいる現実世界へ。
 その世界では、人として生きているのは主である神だ。
 そして、目に見えない存在とは駒たちのことだ。

 ああ、どれだけそれらの存在を敬い、日々大切にしていたことだろう。
 雛見沢のルールにそれは明確に表れている。

 外の人間は反毒素に満ちていて、その存在を否定してくる。
 だから決して外に出てはいけないよ。

 元はそういうのだよね。
 外に出て誰かにその存在を認めてもらいたい、でもその存在を否定さて踏み躙られたら悲しい。
 否定されたら生きていけないのが幻想の住人だから。
 そうやって彼らをずっと守っていた。

 駒とは主にとって大切に大切に扱ってきた人形ようなもの。
 それは真里亞にとってのさくたろうの存在のようなもので。
 その人形は喋れない主の代わりに主の言葉を語る。
 外の人間と直接語ることは怖くてできないから、人形の口を借りて喋るのだ。
 つまり、その人形は神の魂を降ろし代弁する巫女。

 主が言えないことを代わりに言ってくれる。
 紗音の代わりに怒ってくれる嘉音のように。
 心を察し、慰めてくれて、励ましてくれて、代わりに怒ってくれる掛け替えのない親友。

 駒たちが代わりに怒ってくれる。
 だから心が平穏に保てる。
 だが、その怒りが閾値を超えれば、駒たちは怒りに染まり騒乱となる。
 それは主の怒りに同調してしまうから。
 その騒乱を収められるのは主のみ。
 これがオヤシロ様が調停の神である所以。

 主、機嫌を損ねる → 駒が代わりに怒る → ゲーム盤上で惨劇が起こる → その悲劇を見て主冷静になる → 主、駒たちを調停する。

 きっとこんな感じ。
 主である神の心に平穏を取り戻させるためのルーチン。
 そうして現実で主が行動に起こさせないようにしている。
 つまり、主がケダモノに堕ちないのは、駒たちの献身のお陰。

 キコニアでの、年寄りたちが若い子が大好きで、特に若い子の犠牲が大々々好きで、それを見て正気に戻るという話は、ここから来てるんだろうね。

 主は自身の感情を切り離して駒に担わせている。
 そうすることで表面上は冷静になれる。
 主のみを見れば超然としたものに見えるだろう。
 しかし、ゲーム盤を見ればめっちゃ感情的だとわかる。
 例えるなら、人形を持った子が無口で無表情でも、その手にある人形が主の代わりに感情を露わにするように。
 何も言わないから、何も表情に表さないから、何も考えていないんじゃない。
 他人とは表現の仕方が違うだけ。
 むしろ意思疎通が困難だった分、言いたいことはいっぱい溜まってるし、表現したいことだってたくさんあることだろう。

 要するに、舞台の上の駒たちは、主の心を観客に伝えるために頑張ってるってわけ。
 凄く健気だよな。


 普通だったら作者と創作物は切り離されたものとなる。
 普通なら作品の中に作者は登場しない。
 だがなく頃にでは“神”として世界観に含まれている。
 それは“神”が自身のために“物語”を作ったためだ。

 例えば、真里亞がさくたろうなどのぬいぐるみたちに囲まれて、ベッドの上でパジャマパーティーを楽しんでいるようなもの。
 ぬいぐるみたちの輪の中に、主である真里亞も加わることで、その世界観は完成する。
 つまり、執筆者とその物語は不可分なのだ。

 普通の物語なら、“読者”と“物語”の二者間で成り立つ。
 だがなく頃には本来、“執筆者”と〝物語”の二者間で成り立っていたもので、〝読者”は後からそこに招かれたに過ぎない。
 “読者”、“物語”、“執筆者”の三点を結んだ関係。
 つまり、それがゲームなわけだ。



 神は人類を搾取し、人類は神を搾取する。
 それは一方的な関係だから搾取となってるだけで。
 人類は神より力を授かり、神は人類より力を貰う。
 そうやって双方が与え合えば、力は循環する。
 それがこの世界の正しい姿だと私は信じる。

 人はさ、物語から何かを学んだり、力を得たりできるんだよ。
 物語というのは、そういう素晴らしいものなのだ。


 そしてその輪に読者が加わる。

 執筆者は物語に学び、その学びを物語に反映させる。
 読者はその物語から何かを考え何かを学ぶ。
 その学びをネットで発表すれば、そこから執筆者は何かを得て次の物語に反映させる。

 そんな感じで読者もその循環に加わるのだと思う。
 輪に入るとはそういうこと。
 閉じた世界に吹き込む新しい風となるのだ。


 閉じた世界に新しい風を呼び込むのが「ひぐらし」。
 閉じた世界から外の世界へ飛び立つのが「うみねこ」。
 「キコニア」ではどんな感じになるのだろうね?


  1. 2020/04/18(土) 20:01:10|
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【キコニア】駒たちの雨乞いと神々による天災

 物語の話は十分したと思うので、今回はゲームの話をしよう。

 ゲームを行うにはまずゲームの席へ着席しなくてはならない。
 これは作中で雨乞いと天災の話でされていた。
 そこから話を始めたいと思う。


 天災を模倣することで、本物の天災を呼ぶ。
 これは呪術的考えだ。
 玩具の天災を依り代に、本物の天災を降ろそうという。

 そしてそれは雨乞いでもある。
 天にいる何者かにメッセージを送り、本物の天災を要請している。

 つまり、ゲーム盤にいる駒が、ゲーム盤の外にいるプレイヤーに対するメッセージだ。
 そのメッセージを受け取ったプレイヤーが、ゲームの席に座ることになる。
 そして、それに対する応手を指す。

 これは駒とプレイヤーの二者間で行われているのだろうか。
 そんなはずはない、正しくはこうだ。

 GMの意思 → 駒の行動 → PLの応手。

 GMが駒を使ってPLにメッセージを送ったのだ。
 実に迂遠だね。
 これは上位存在が、ゲーム盤上しか見えてないからだろう。
 要するにGMとPLは、互いの姿が見えない暗闇の中でゲームを行っているのだ。


 さて、私はゲーム盤であるA3Wを仮想世界だと考えている。
 仮想とはつまり、幻想だ。
 幻想を全て取っ払えば、真実だけが残る。
 仮想が排除された真っ白な部屋に残るのは真実の人間。
 つまり、GMとPLの二人。

 その二人が互いの姿が見えない暗闇でゲームをしている。
 GMがこのゲームを開催したというならば。
 これはPLが姿を隠したGMの真実の姿を探るゲームだと言える。
 これがゲームの核心。

 仮想世界とは現実世界を模倣したものだ。
 模倣することで仮想世界と現実世界は繋がりを持つことになる。
 つまり、仮想世界を探ることで、現実のGMの真実を見つけることができる。
 逆を言えば、それができるようにGMは現実と仮想世界を繋がりを作っている。
 うみねこでのPL側から見たノックスと、GM側から見たノックスみないなもの。
 要は、GMは解けるようにゲームを、仮想世界を作っているということ。


 模倣された世界で、駒たちが天災を模倣する。
 ならば本物の天災とは、PLとGMの間で勃発する戦いのことではないだろうか。

 駒同士の戦いは、所詮駒ができる範囲のもの。
 上層でのPL・GM間の戦いで起こるのはその比ではない。
 まずGMは、真実を解釈することで仮想世界を創造する。
 その仮想世界の出来事からメッセージを受け取ったPLが、仮想世界を再解釈して真実を推測する。
 それはつまり、世界の分解と再構築だ。

 上位存在による世界の創造、破壊、そして再創造。
 これに駒たちは巻き込まれることになる。
 これこそがまさしく本物の天災だろう。
 この世界の創造と破壊は、うみねこEP8でベルンとラムダの戦いで表現されている。

 その上位存在たちによる戦いが、下層である仮想世界に反映する。
 そういう構造。





 ここまでは物語の中でのこと。
 さらに物語の外でこそ本当のゲームが行われている。

 仮想という幻想を取り除いた真っ白な部屋にいる二人は、下層のゲームプレイヤー。
 物語の中にいるゲームプレイヤーたちだ。

 物語の外では、物語をゲーム盤に見立てた、読者と執筆者によるゲームが行われている。
 物語の中のゲームプレイヤーは、要するに物語の外にいる本物のゲームプレイヤーたちを模した駒なのだ。

 つまり、
 駒たちの戦い → 作中プレイヤーたちの戦い → 作外プレイヤーたちの戦い。
 という三段階、三階層になっている。

 で、作中に込められたメッセージ、つまり雨乞いに応えてゲームの席に座った読者がPLとなり、GMである執筆者と共に、物語の分解と再構築、世界の創造と破壊を楽しむというわけ。


 だとすると、キコニアのHPのストーリーのところで書かれていた、ゲームを楽しんでいるだろう“私たち”は、このゲームの席に座った読者も含まれている可能性がある。
 だって、世界の分解と再構築で遊ぶんだよ。
 絶対楽しい。
 駒たちをゲーム盤から一掃して、再び並べ直して、また一掃して、とそんな感じで遊ぶわけだから。
 積み木を積み上げて、崩して、積み上げては崩す。
 どう考えても楽しい。

 逆を言えば、メッセージを受け取れず席に就けなかった読者はプレイヤーにはなれないということ。

 さらに言えば、神が見であるプレイヤーたちが世界を破壊、再創造を行うわけだが、それはその世界に住まう駒たちからの要請であることに留意しなくてはならない。
 駒に意思を認めるなら、駒の意思を尊重しなければならない。
 何故彼らは世界の破壊と再創造を願うのか?
 これがゲームの重要なポイントだろうね。


 まぁ、私の結論は決まっている。
 これまで通り、何も変わらない。

 仮想世界を破壊すれば、残るは真実の人間二人。
 そして再創造。
 もう一人の人間を生み出す。
 幻想の系譜を受け継いだ人間を。
 これで三人。
 それが残せる人類の数。

 どこかのインタビューで竜騎士さんが言っていたが、自分と相手と物語、その三点が揃うことでゲームになるとか。それを三人の関係だとすると、物語が三人目となる。
 つまり、関係を形成しそれを保てるなら、三人目はいるのだ。
 これはTRPGでGMとPL達が皆で物語を作り、主人公などのキャラを育てていくようなもの。
 竜騎士さんも読者がキャラを育ててくれるところもある的なことを言っていた気がする。



 そんなわけで、プレイヤーの席に着いた読者は、対戦相手と共に駒を使った神々の遊びを愉しみ。
 その席に着けなかった読者は、駒の視点に自己投影し、その駒ごとゲーム盤が一掃される天災を味わう。
 そんな感じに振り分けられるんじゃないかな。





 思えばミステリーという物語は、死と再生の物語に当て嵌まる。
 探偵の推理は、旧世界を支配していた常識を破壊し、新しい論理によって秩序が打ち建てられた新世界を齎す。
 旧世界の王は犯人であり、探偵はその犯人を倒して新世界の王となる。
 まさしく王道の王殺しの物語。

 だが「なく頃に」には、全てを解決してくれる探偵は現れない。
 ヒーローが現れない物語。
 それは新世界がやってこないということ。
 だから誰かがヒーローの役を、探偵の役を果たさなければならない。

 結論を言おう。
 それは読者に求められている。

 読者が探偵となって事件を解決するゲーム。
 それが「なく頃に」。
 読者がゲーム盤に降臨し、世界を支配する謎を打ち倒し、推理によって新しい秩序を打ち立てる。
 物語を分解し、再構築する。
 読者視点で物語を編纂し直す。
 そうして、読者による物語を生み出す。
 そういうゲームだ。

 しかし、それは駒たちからの要請であることに留意しなければならない。
 民の要請で新しい王は立ち。
 人類の要請で神は現れる。
 世界の神たらんとするなら、駒たちの要請にしっかり応えなければならないのだ。
 できなければ失政で、次の王に討たれる運命が約束される。


 この駒からの要請は、ひぐらしから連綿と続いている。

“これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。”

 ひぐらしの鬼隠し編では圭一が、うみねこのEP1では執筆者右代宮真里亞が、そしてキコニアでは藤治郎が雨乞いの喩えで。
 その要請を受け取った者だけがプレイヤーだ。


 PLはGMと協力して新しい世界を作る。
 形式としては、PLがGMからバトンを渡されてという感じ。
 ちゃんとバトンを受け取るためには、意思疎通を図り信頼関係を深めなくてはならない。
 そのためのコミュニケーション手段がゲームであり、駒たちを介してやりとりするわけだ。

 GMの意思 → 駒の行動 → PLの応手。

 こういう順番に伝わるわけだから、GMの意図を探るにはそれを遡る必要がある。

 駒の行動 → GMの意思。

 こんな感じでね。


 駒の行動から駒の意思を探るのは正しい。
 それがゲーム盤を探るということに繋がるわけだから。
 だが同時に、PLはその駒の行動よりGMの意思を探る必要もあるということ。

 つまり、駒の行動という一つの結果には、駒の意思とGMの意思という過程が二つ重なり合っている。

 駒の体に駒の魂の他にGMの魂も宿っているということ。
 神の魂は遍在し、森羅万象の全てに宿る。
 それはつまり全ての人類にも宿っているということ。
 曰く、八百万の神々、8MS。
 その“設定”は要するにこれの暗示だったのだろう。


 GMの魂が駒に宿っているからと言って、それは駒の意思を無視した行動をとらせることができるということじゃない。
 それはうみねこでも言及されていたし。
 駒の人格は尊重されている。

 駒にとって自身に宿ったGMの魂は、自身の無意識みたいなもの。
 駒自身の人格は、駒にとっての意識。
 GMの魂は奥深くに宿り、その意思は駒の人格フィルタを通して、外に表れる。
 駒が知りえないことを知りえることにはできないし、駒ができないことをさせることはできない。
 情報の伝達は、GM → 駒の人格フィルタ → PL。
 つまり、情報は駒の人格によって濾過される。
 その濾過された情報から、濾過される前の情報を推測するのがPLの仕事。

 喩えるなら。
 GMは脚本家で、駒は役者。
 役者は脚本に従って演じるのだけど、どう演じるかは役者が決めれる。
 そんな感じ。

 どちらにせよ、駒の意思に反することはできない。
 逆にGMは、駒の意思に沿うことで情報を落としている。

 GMは駒の意思に寄り添っているわけだ。
 逆から見れば、駒はGMの意思に寄り添っている、となる。
 互いに寄り添い合っているGMと駒の姿は尊いじゃないか。


 でもって、神は神羅万象に宿るので。
 GM → A3W → PL、という感じで伝達しているのもあるだろう。
 世界情勢やら、地球環境やら、それらに対する人類の仕打ちやら、思想やらなんかだね。
 地球から霊素を採掘してるのとか、人類が神を搾取しているのだろうしね。


 さらにもう一つ上層では。
 執筆者 → キコニア → 読者。
 我々読者は、キコニアというフィルタごしに執筆者と相対している。
 だから我々読者は執筆者の正体とその心を、キコニアという物語を通して探る必要がある。
 そんな形のゲームだと私に認識している。

 ちなみに私は、竜騎士さん=執筆者とまでは考えていない。
 間に竜騎士さんの代わりに作中で物語を紡いでいるキャラを置けば、そのキャラを推理するという形になるし。
 人によっては、一種のフィルタ、あるいは緩衝材、またはデコイなどと認識するかもしれんね。
 私はちゃんと人格を持った人間として見てるけど。
 そんな感じ。

 で、執筆者にあたる立場のキャラとして、うみねこで八城が登場しているわけで。
 なく頃にの現実ラインはそのあたりだろうなと考えているわけだ。





 ま、色々とごちゃごちゃ書いたが、単純化してしまおう。

 主であるGMが頭脳なら、駒たちは手足だ。
 その手足の身振り手振りによるジェスチャーから、GMのメッセージを受け取ればいい。
 そんだけ。

 雨乞いは空の向こうにいるはずの存在と交信しようとする試みなのだから。


  1. 2020/04/12(日) 20:59:23|
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【キコニア】王の交代劇の歴史と継承される文化

 王殺しによる王の交代劇。
 それが行われるのは、王の治世の末期。
 王の力が衰えた時。

 太古の時代、王は世界の支配者で、王の力が偉大であれば世界は平穏で繁栄する。
 王の力が衰えれば、世界では争いが絶えず、災害が起こり、困窮する。
 そうなると民は活力のある新しい王を望むようになる。
 その声に応え、世界の悪弊を刷新するために新しい王は現れるのだ。

 王とは太陽。
 力の衰えた冬の太陽は死に、活力ある太陽として蘇らせる。
 それが王殺しの儀式であり、復活祭。


 太陽英雄で有名なのはヘラクレス。
 名の意味は「ヘラの栄光」。
 ギリシャ神話では、彼はヘラと敵対しているが、本来はヘラに従属する英雄であったという。
 彼が乗り越えた十二の試練は、太陽が巡る12の月に因んでいるという説があるとか。
 女神より与えられた試練を乗り越え“力”を示した彼は、太陽を模した火にくべられて生贄とされた。
 活力ある英雄を捧げ、女神に力を取り戻させる。
 彼はその名の通り、「ヘラの栄光」を取り戻す英雄なのだ。


 オイディプスとかも面白いよね。
 自分の子に殺されると予言された王は、自らの子を国から追い出した。
 他国で育った彼はやがて知らずに故国に辿り着き、自分の父親と知らずに王を殺してしまい、さらに自分の母親と知らずに王の妻である女王を娶り故国の王となった。

 これは他国の王だったオイディプスが、自国の王を殺してその妻である女王を娶ることで、祭儀を達成し自国の民たちが自国の王として歓迎したのを表すとかなんとか。
 つまり、
 王と女王の子として生まれる→王を殺して女王を娶り王となる。
 これが、
 王を殺して女王を娶り王となる→遡って王と女王の子だったことになる。
 因果が逆転している。
 ま、呪術だしね。
 その社会のルールを利用すれば容易にその国を侵略できるということだ。
 キコニアのゲーム盤も、ゲーム盤のルールを上手く利用すれば、他国であるゲーム盤の駒たちに歓迎されて勝てるのかもね。


 オレステースの裁判も面白い。
 母クリュタイムネーストラーとその情夫アイギストスによって、父アガメムノーンを殺されたオレステースは、母と義父となった情夫を殺害する。
 母殺しの罪で復讐の女神に追われた彼は、神々の裁判を受ける。
 子が自らを生み出した母を殺すのは絶対に赦されない罪である。
 それに対して弁護側は、父の蒔いた種が母に宿ったに過ぎず、父の子であって母の子ではないからセーフ、だってさ。
 結果、一票差で彼は勝訴した。

 王を殺してその妻を娶り新たな王となる。
 これはギリシャ神話で良く見られる。
 石を投げれば当たるくらいに。
 そしてさらに、前王の子が義父である現王を殺して王に返り咲く話も、セットのように良くある話だ。
 でも母まで殺すのは珍しい。

 ま、子にとって母はいつか自分を殺す存在だから、殺される前に殺して運命より逃れようとするのも当然なのかもね。
 女神を中心とした社会で、その中心である母を殺すのは最も重い罪。
 さらに言えば、運命の円環から逃れようとする者を追いかけて連れ戻すのも、その社会の習性のようなもの。

 母の子だから有罪という理屈に対して、父の子だから無罪であるという屁理屈で逃れようとした。
 結果、それで勝ったということは、「母の子」という秩序から「父の子」という秩序に社会が再編されたことを示しているのだろう。

 キコニアの自説に当て嵌めれば、神を頂点とする秩序から、神の子を頂点とする秩序へと再編されることだね。


 話を戻そう。


 王の交代劇。
 王が病み衰え、その治世が末期となった時、新たな王となるために王の子は世に現れる。
 世に蔓延る悪弊を一掃し、新しい御世を齎すために。

 つまり、神の子は斜陽の時代に現れるのだ。
 神が病み衰え、その果てに世界と共に消える前に、神より世界を物語を引き継ぐために。
 要するに、神の死は世界の死を意味するため、神が死ぬ前にその座を引き継ぎ世界を維持するものが必要なのだ。

 その神の子の治世が千年王国。

 神は神の子に継承するために、王殺しの儀式あるいは劇を執り行う。
 それは儀式だから手順や形式が必要となる。
 その形式、脚本が「イオアンニス黙示録」即ち「ヨハネの黙示録」。

 神の子が神の代行者として世の悪を一掃し、悪しき龍を打ち倒して、花嫁である都を貰い千年王国を打ち建てる。

 典型的な王殺しの物語だね。


 だが王殺しの物語には別パターンがある。
 老王が自らの後継者を殺し、次の世の新たな王になるという。

 このパターンの話でも面白いものがある。
 捕らえた罪人を一日だけ王の権利を与えて、王は地下に隠れ、一日経ったら罪人を王として生贄に捧げる。
 これで王は死を免れるという。
 一日国王になった罪人は、国を自由にでき、王の妻すらも自由にできたとか。

 他にも町にやってきた旅人を捕まえ、世の全ての罪を背負わせ崖から突き落として生贄としたとか。
 旅人を捕らえて生贄にするは枚挙のいとまがない。

 さらには人の代わりに獣を生贄にするのもあるね。
 つまり少年神とは生贄であり、王であり、英雄であり、旅人であり、罪人であり、獣なのだ。
 神とは色々な姿をとって地上に現れる。
 神は遍在するので、同時に別の場所で別の異なる姿をとることさえできる。
 さらには時間でもそう。
 今いまし、かつていまし、やがて来るもの。
 過去、現在、未来に亘っている。

 つまり、キコニアでも神の魂が偏在しているのであるならば。
 世界=ゲーム盤は神で、その世界の中の自然の全てに神の魂は宿り(8MS)、ゲーム盤の上に並んでいる数多の駒にも神の魂は宿り、あまつさえ過去や未来の魂すらも同一のゲーム盤上にあることができる。
 と、そんな感じでも不思議じゃないと。
 魂だしな、肉体に囚われちゃならんよな。うん。


 神は八つ裂きにされて食われる運命にある。
 食べることで、相手の魂を自分の内に取り込むという発想だね。
 で、神に見立てた生贄を八つ裂きにして食らい、神の不死の力を得ようとしたのだとか。

 ディオニューソス神によって狂気を与えられて狂った女たちが自分の子である王を八つ裂きにする話がある。
 ギリシャ神話の死因八つ裂き率の高さは異常。
 馬車から落とされて轢殺される率も異常。
 大釜に落とされて死ぬ話の変形、海の落とされる、風呂で煮られるとか、の率も高い。
 全部ひっくりめて、死因生贄なんだけどね。

 ディオニューソスを崇めていたオルフェウス教では、獣を食うことを禁じる戒律があったとか。
 これはかつての獣を生贄として食っていた、つまり神を食っていたことへの反動という説がある。

 オルフェウス教の神話は変わっている。
 ゼウスの後継者として生まれたディオニューソスがティターンたちによって殺され、八つ裂きにされて食われた。
 ゼウスは雷でティターンたちを焼き、その残骸からディオニューソスの心臓を取り出し、自らに取り込み、再びディオニューソスを生み出した。
 その時、ディオニューソスとティターンの残骸が混じり合い、そこから人間が生まれたとされる。
 人間の魂はディオニューソス由来の善なるもので、肉体はティターン由来の悪なるもので、魂は永遠なのだが死してもすぐにまた肉体に囚われる、つまり輪廻転生を繰り返すという教えなのだとか。
 獣もかつては貴方の死んだ親かもしれないから食わないように、みたいな。
 で、最終目的は、永遠に苦しみ続けなければならない悲しみの輪よりの解脱なのだと。

 これ、魂は善で肉体は悪という思想がキコニアに似ている。
 輪廻転生は、ループ。
 永遠に苦しむ悲しみの輪は、絶対の運命。
 この辺はオルフェウス教も死と再生の神話だからなんだけど。
 最大の特徴は輪廻からの解脱。
 絶対の運命より逃れようというところが、なんとも「なく頃に」に似ている。

 やはり最終目的は脱出にあるのだと私に確信させてくれた。


 また話が脱線した。
 仕切り直そう。





 王の治世の末期、後継者である王の子が現れる。
 王に取れる選択肢は、王子に倒されるか、王子を倒すか。
 自分の物語を子に引き継いでもらうか、子の物語を引き継いで新しい物語を生み出すのか。

 王の治世は太陽に喩えられる。
 世界=物語だと解釈すると、物語の始まりは日の出。
 勢い良く飛び出し昇っていく。
 自由に伸び伸びと描けるのだろう。
 そしてピーク、物語の山場を迎え、結末、物語の死へと向かって落ちていく。
 黄昏はまさしく物語の末期。
 物語の落としどころを探っている段階か。
 もはや自由などなく、オチを選択しなくてはならない。

 後継者である子をどう扱うかという選択に迫られるわけだ。


 物語にとって、最初から最後まで書き切ることが何よりの幸せだろう。
 これはフェザリーヌの亡き友人の意見と重なる。
 というか、この亡き友人が、フェザリーヌという神にとっての王なのだろう。

 それに対してフェザリーヌは、最後まで書き切らず余韻を残すという意見。
 エピローグのその後を想像させる、つまり物語の続きを暗示している。

 要するに、物語自身は完結してもらいたい、執筆者は物語を続けたいということ。
 物語が完結しても、その魂を次の物語の中に蘇らせてでも、ずっと物語と一緒にいたいのだ。


 執筆者という神について知るためにも、ひぐらしを見てみよう。
 ひぐらしの世界をループさせているのは羽入だ。
 つまり、彼女が神である執筆者自身を模した駒。
 その羽入が依り憑いている巫女の駒が梨花。

 羽入がループさせている目的は、運命の袋小路を脱却すことではなく、繰り返されるループの中で梨花と一緒にいることである。
 梨花が死ねば、ゲーム盤上にあるものは一掃され、駒の初期配置を変え再びゲームが始まる。
 これは梨花が神の生贄と捧げられる王であることを示している。

 梨花の魂を捧げられた羽入は、その魂を蘇らせるために、新たな肉体、アバターを用意した。
 それが“次の梨花の肉体”。
 そうやって物語の続きを描いている。

 執筆者的には、巫女の死から得た怒り、それが次の物語を書く原動力になっている。
 次こそは巫女を幸せにするぞ、と。
 執筆者を模した羽入もそうだったのだろう。
 梨花が生きて未来を迎えるために、怒りを原動力にループを始めたはず。
 だがやがて諦め、永遠の袋小路の中で安住しようとした。
 つまりこれは、消極的な物語の執筆の放棄である。

 袋小路を脱出し、新たな物語を紡ごうとしているのは、巫女である梨花だ。
 これはうみねこで、ベルンカステルが主の代わりにそこから脱出する奇跡を紡いだと語られている通り。

 要は神である執筆者は、運命の袋小路より抜け出すという新たな物語を紡ぐ仕事を放棄し、冥界に隠れてしまった。
 巫女は王となり、その仕事を引き継いだというわけだ。

 だから羽入は誰にも見えず、梨花だけが未来を信じて頑張っていた。


 さて、運命を脱するとはどういうことか語らねばならないな。

 運命から脱出するというのは、世界から脱出するということだ。
 自分だけの物語は、自分だけしか知らない。
 それは自分という瓶の中に閉じ込められているということ。
 つまり、誰かに物語を読んでもらい、その存在を認めてもらうことで、その読み手の世界に移住することができるのだ。

 問題は移住希望者が二人いて、真実の門をくぐれるのは一人だけということ。
 二人一緒に脱出したいのにそれが不可能だから、そしてどちらかを選ぶことができないから、執筆者は永遠の袋小路に安住しようとしたのだ。


 最終的に、羽入も含めた皆が信じることで、祭囃し編への扉が開いた。
 では羽入が信じていなくて、その他の皆が信じているということはどういうことなのか。
 それは神である執筆者が放棄した物語を、巫女が引き継いで続きを紡いでいるということ。
 さらに言えば、巫女が動かし率いている駒たちが頑張って物語を紡いているということ。
 その駒たちを見て、神は信じ合うことの大切さを知ったのだ。

 物語から何か大切なことを学ぶことは良くあること。
 執筆者もまた駒たちの紡いだ物語からそれを教わったのだ。
 っていうか、執筆者は大切なことは全て駒たちの物語から教わっているはず。
 そういうライフワークだから。

 執筆者、巫女、駒たち。
 つまり、神、神の子、聖霊の三位一体こそ、この物語の基礎にして奥義。
 祭囃し編がご都合主義的な活劇になったのは、世界が全会一致でポジティブに染まったからだろう。
 所謂ハイってやつ。
 このかつての敵も味方も全会一致で運命に抗うというのは、ひぐらしでもうみねこでも最終話でやっているので、重要な意味があるのは確かだろうね。

 でも、未来を信じて進んだ羽入だけど、自身の命を捧げることで物語を収めようとしていた。
 つまり、真実の門をくぐって生き延びるのは巫女である梨花の方であると。
 そういう物語が紡げれば満足して死ねるのだと。

 だが、梨花は羽入が犠牲とならずに済む奇跡を示した。
 二人揃って生き伸びる道があるのだと。

 要するにひぐらしは、神である執筆者が信じる力を振り絞って未来へ向かう決意をし、巫女が奇跡へ繋がる微かな可能性の道を見つけ出した、ということに至るまでを物語化したもの。
 つまり、予行演習のようなもの。
 実戦はうみねこ。
 運命の決闘を行う物語。





 ってなわけでうみねこの話といこう。
 どちらが真実の扉をくぐるのかを決める運命の決闘。
 それを実際に行ったのがうみねこ。

 とは言え、EP6の偽書が公開されたのは1998年? のこと。
 本来の予定なら、1986年以前だった。
 つまり、12年越しの決闘だった。
 この12年の空白を埋める物語がひぐらし。


 時系列に沿って説明しよう。

 幼い頃執筆者は、自分自身の物語と自身の代わりの主人公の物語の二つの物語の表裏合わせて一つにまとめた物語を作った。
 やがてその物語を誰かに読んで欲しくなった。
 で、選ばれたのは戦人。
 運命の決闘は、どちらが真実の扉をくぐり読者の世界へ移住するかを賭けたもの。
 しかし戦人は六軒島に来なくなった。

 1986年。
 時間切れで巫女は死亡。
 執筆者は自身が生き残るために巫女を殺して島を出た。
 その際、大爆発で猫箱に閉ざして。

 すでに巫女は死んでいる。
 それを猫箱に閉ざすことで、まだ生きていると修飾した。
 執筆者はベアトリーチェの名を、猫箱の中の六軒島に残った巫女に継承させ、来たる日まで待たせた。

 そして島を出た執筆者は巫女の物語を引き継ぎ、その続きを紡ごうとした。
 巫女を失った怒りと悲しみを力に変えて、創作に励んだ。
 これを表しているのがひぐらしの鷹野三四の物語。

 彼女は地獄に落ちたところを祖父一二三によって救われ、彼の死後、彼の物語を受け継ぎ、一二三の後に三四を数え、そして五に至ろうとした。
 つまり、死んだ巫女の物語を引き継ぎ、そこに執筆者自身の物語を付け足し、二人で一つの物語を完成させようとした。
 二人一緒に真実の扉をくぐる道を探した。

 が、それに躓いた。
 三までを数え、未完のまま終えた物語を、自分が勝手に付け足して台無しにしてしまったと後悔した。
 この物語に自分はいらない。
 いなかった方が巫女(祖父)は幸せだったのだと。
 そうして自身の存在を物語から抹消し、死んだ巫女だけでも蘇らせる物語を作ろうとし、だけど自身の未練が巫女を殺してしまうという、羽入の物語になった。
 その物語に未来はない。
 だけど、巫女が死に再び蘇るという、永遠に輪廻する物語なら、巫女とずっと一緒にいれる。
 やがて執筆者はそこに安住するようになった。

 未来を作るという神である執筆者の仕事を引き継いだのは巫女。
 執筆者が紡いだ物語の中に蘇った彼女は、自身が生き延びる道を探し、さらには神(羽入)と一緒に生き延びる奇跡を探しだした。
 この巫女が成長した姿がベルンカステル。
 彼女が執筆者八城に対し、物語を書くことを約束しておきながら、それを放り出して、相手が自ら紡ぐ物語を記すだけ、というのをまたそれをするのかと批判したのはそのため。

 そんなこんなで執筆者は信じる力を取り戻し、奇跡へ至る道筋を得て、運命の決闘を再開することにした。
 猫箱の中に残したままだった巫女との約束を果たすために。
 それがうみねこの物語。
 12年後の偽書。

 ちなみに、猫箱に残してきた巫女ベアトと執筆者と共に成長した巫女ベルンは同一人物だけど別人という扱い。
 6歳の縁寿と18歳の縁寿のようなもの。
 今の自分は過去の自分とは別人で、その後まっとうに成長を果たせば、まっとうに成長しなかった自分ともやはり別人。
 ベアトは猫箱に閉じ込められたまま時間が止まっているのだ。

 執筆者は巫女が紡いだひぐらしの物語を引き継ぎ、猫箱の中の物語を蘇らせた。
 死んで猫箱に魂を閉じ込められた巫女ベアトの未練、戦人に解いてもらいたかったという思いを晴らし。
 さらには読者たちの前で運命の決闘を果たし。
 読者に巫女ベアト、即ちヤスを人間だと認めさせ、読者の世界の中へと巫女ベアトの魂を蘇らせた。

 そして「咲」にて、神にして主である執筆者はピースを派遣し、自身の存在を消し去った。
 これはひぐらしで神羽入が自身を犠牲にして、巫女梨花の物語を完成させようとしたことをなぞっている。
 だからここでは、梨花が羽入を犠牲にしない未来という奇跡を作り出したように、ピースが消えるのを止めるという選択をなさなくてはならないのだ。
 それこそが奇跡なのだから。

 ひぐらしは予行演習。
 うみねこは実戦。
 よって、それが求められているのは読者。
 消えようとするピースを掴んで離さないようにしなくてはならないのだ。

 その結果を踏まえて、物語を引き継いだのがキコニアの物語。





 そんなわけでキコニア。

 執筆者八城は、巫女ベルンと共にリレー形式で物語を紡いでいる。
 それは王が交代するが如く。

 重要なのはキコニアにおける“文化”と“歴史”。
 スケールの小さい個別の国々ではなく、A3Wとかそんな感じの全体を表すスケールのもの。
 視野を広く、さらに上層から俯瞰すべきだ。
 つまり、“キコニアという物語”が受け継いでいる文化と歴史だ。
 キコニアが“今”だとするとその前史である“前”があるということ。
 それは勿論、「ひぐらし」や「うみねこ」だ。

 「ひぐらし」があり、「うみねこ」があり、そして今「キコニア」がある。
 それは無視のできない“歴史”だ。
 そこには連綿と受け継がれる“文化”がある。

 キコニアにおける勝利条件の一つは、文化を受け継ぐ次の王を残すことである。
 だとすると、受け継ぐべき“文化”とは何かという疑問にぶち当たるわけだ。
 それに対する私の答えがこれ。


 失敗を繰り返さないためには、“歴史”に学ばなければならない。

“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”
――オットー・フォン・ビスマルク

“愚者は経験に学び、もっと愚者はネットに学ぶ”
――ネット上の戯言


 キコニアにおいて歴史は抹消させ断絶されている。
 それは何故か?
 それは物語が断絶しているから。
 まずは消された歴史を掘り起こし、それと繋げなくてはならない。

 A3Wの前であるB3Wの文化を復興させようとする活動がされていることは作中で描かれている。
 第三次世界大戦前の世界、即ち、第二次世界大戦後の世界。
 つまり「ひぐらし」と「うみねこ」だ。

 その傍証として挙げたいのは「WHEN THEY CRY」のナンバリング。
 キコニアは「5」。
 5は象徴的な数字だ。
 一二三を継ぎ、三四を数え、五に至る。
 「ひぐらし」「ひぐらし解」「うみねこ」で一二三。
 「うみねこ」「うみねこ散」で三四。
 そして「キコニア」で五。
 ベルンカステルが紡ぎ、フェザリーヌが引き継ぎ、完成させる物語。

 キコニアが全四話の予定なのは、「6」がないからだろう。
 竜騎士さんは数字を象徴として使うの大好きみたいだし、たぶんこれで合っていると思う。



 そんなわけで歴史に学ぼう。

 ひぐらし・うみねこで、神である執筆者の決断は、自らが消えることで神の子である巫女を生き延びさせることだ。
 歴史は繰り返す。
 故に、キコニアでも同様の決断をしている蓋然性が高い。
 何故なら、歴史に学び、失敗を回避するのがプレイヤーの目的だから。
 よって、ゲームの前提条件として歴史が繰り返していなければならないのだ。


 次は神の子である巫女の目的。
 これは二人揃って生き延びる奇跡を探ることだろう。
 それはひぐらしで示され、うみねこで実際に求められたことだからだ。

 巫女の駒はさらに二つに分かれる。
 成長を止められていたベアト枠と、成長を続けたベルン枠だ。
 それが普通の都雄と青い都雄に当て嵌まる。
 一方は待ち受ける運命を知らず、もう一方は待ち受ける運命を知っている。


 この二人は前回までの物語と変わらない。
 ひぐらしではこの二人のみでゲームを行い、どんなゲームかを紹介した。
 うみねこでは外部の読者を招き、三人でゲームを行った。
 うみねこで運命の決闘は行われ、その結果が出た。
 キコニアはその決闘の結果が反映されていると考えられる。
 それが前回までとは違う点だ。

 読者枠の駒はひぐらしやうみねこにもいた。
 だがそれは、テストプレイ用の仮想読者でしかない。
 キコニアの読者枠の駒は、現実読者を反映している。
 運命の決闘の結果、現実読者の心の世界へ二人一緒に移住を果たすことで、物語は「5」に至る。
 物語の目的を果たし終えることができる。
 そうして、最後の「5」の物語として生み出されたのがキコニアなのだと、私は考える。

 よって私は、読者枠の駒であるジェイデンがキーパーソンとなると見ている。


 永遠に輪廻する物語は、ジェイデンによって終わる。
 それは物語の死を意味する。
 だが悲しむことはない。
 死は復活を意味するからだ。
 一人分の魂を満たした人間が、私たちの前に現れるのだから。


  1. 2020/04/11(土) 21:18:43|
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【キコニア】キコニア生まれとチェス盤思考

 キコニア生まれの子供は、父と母の間に、つまり自然に生まれた子供。
 キコニア生まれじゃない子供は、工場生まれの、不自然に生まれた子供。

 これが仮想現実での設定であるのなら、現実においてはそれはどう解釈すべきか?
 私ならいつも通り、執筆者と主人公と読者で説明する。

 現実においてキコニア生まれに当て嵌まるのは、父と母の間に自然に生まれた子供。
 つまり、肉体を持った人間の事。

 であるならば、キコニア生まれじゃない子供とは、肉体を持たない人格だけの人間だと解釈できる。
 彼らは肉体は持たないため、肉体的な父母はいない。
 親と言えるのは主人格。

 つまり、キコニア生まれじゃない社会とは、パラレルプロセッサーの社会。
 キコニア生まれによる社会とは、単一人格のみの社会、要するに普通の人間の社会のこと。 

 そんな感じに解釈可能。


 なのだけど、ちょっとちぐはぐな点がある。
 私的には、ジェイデンは現実では肉体を持つキコニア生まれなのに、仮想現実であるA3Wではキコニア生まれじゃない。
 都雄はその逆、現実では肉体を持たないキコニアじゃない生まれなのに、A3Wではキコニア生まれになっている。

 これを説明するにはチェス盤思考を使えばいいだろう。
 相手の立場になって考える。
 つまり、仮想現実で相手の立場を体験しているわけだ。

 うん、しっくりくる。
 そもそも私は、仮想現実A3Wは人間を生み出すための舞台装置と考えていて、都雄に両親を宛がい人間社会を体験させることで、人間を学ばせて立派な人間に仕立て上げようとしていると思っていたわけだし。

 それをジェイデンも逆の立場で学んでいるわけだ。

 人工的に作られた仮想人格、即ちゲーム盤の駒は、工場で生産される。
 一つのゲームで使う駒一式揃ってロールアウト。
 これが同期の兄弟。
 世代間では交流しない。
 これはひぐらしに使われる駒と、うみねこに使われる駒とが基本的に交流することがないようなもの。

 相手の立場を経験することで、より相手を理解できるようになる。



 模倣は学びの第一歩。
 チェス盤思考で相手の立場に立ってみる。
 そんな仮想体験。
 それってつまり、いつもやっているゲームそのものなんだよね。

 チェス盤思考なんてなく頃にの推理の基本中の基本じゃん。
 ってことは、ゲーム盤にて立場を反転させてみるとか、ゲームメイクの基本中の基本なんじゃないかと思ったり。

 他人に自己を投影、立場を入れ替え。
 肉体のない者を妖精と捉えれば、これも一種のチェンジリングか。
 妖精の取り替えっ子。
 郭公の卵にも繋がる話だな。

 ついでに言うと、妖精に攫われた子は長じて英雄になったりする。
 先の女神と王(英雄)の物語の一種だね。


 物語を類型に当て嵌めてみたり、原型(アーキタイプ)まで遡ってみたり。
 そういうのも物語を考察する上で有効なんだろうね。
 詳しくはわからんけど。


 そういや、女神と王の物語と言えば、金枝篇。
 金枝篇と言えば共感呪術。
 あるいは共感魔術。
 うみねこ的にも良さそうな話題。
 これでいっちょ話してみるか。
 ま、テキトーだけど、ニワカ以下だから。





 共感呪術は、類感呪術と感染呪術に分かれる。
 類感呪術は、「類似したもの同士は互いに影響しあう」という考えの「類似の法則」によって成り立つらしい。
 感染呪術は、「ひとつだったもの、一度接触していたものには、遠くにあっても相互に作用する」という考えの「感染の法則」によって成り立つらしい。


 元はひとつのものから生まれたと言えば駒たちがそれに当たる。
 主の心のゲーム盤。
 原初は未分化の混沌の体をした心が一つ。
 それを細分化し、ゲーム盤の上に並べ整理した。
 つまり、心を分かち、駒にして生み出した。
 よって「感染の法則」が成り立つ。
 切り離されても『チューリップの球根から芽が出て、チューリップの蕾が出来ましたー』というように。

 駒は主の代わりに願いを叶える。
 駒が傷ついても主は傷つかない。
 そんな心のダメージコントロールのために駒は生み出されたわけだが、「感染の法則」によって駒が傷つけば主も傷ついてしまう。
 駒は自分の分身であるので、自分のことのように思えてしまう。
 つまり、心があるから「共感」してしまうわけだ。

 さらに駒を動かすには、駒の立場になって考える必要がある。
 つまり、駒に自己を投影する。
 そして自分と似たところを見つけ、「共感」する。
 「類似の法則」だね。
 自分と似ている、だから自分と同じ人間である。
 それは他人を“人間”として理解するということ。
 「共感」したことで繋がりができ、対象が傷付けられれば我が事のように思い、自分も傷付いてしまう。

 ホント心ってやっかいだよね。
 傷付きたくないから切り離したのに、繋がりが残るんだもの。


 今のは駒から主への影響だけど、むろん逆に主から駒への影響もある。
 主がネガティブになれば、駒への見方もネガティブなものになる。
 駒の悪い点を見つけよう見つけようとしてしまう。
 結果、駒は悪い方法へ向かう。

 さらに駒には自分を投影している。
 だから駒に自分に似たところを探してしまう。
 その駒の悪い点とは即ち、自分自身の悪い点に似ているのだ。
 つまり、駒を嫌うことは、自分を嫌うことに繋がるのだ。
 そうして、自己嫌悪に陥りさらにネガティブになり、さらに駒を悪く見てしまい……。
 と、負のスパイラルに突入してしまう。

 逆にポジティブになれば、正のスパイラルで急上昇するんだけどね。
 駒の良い点を見つけ、それは自分自身の良い点に似ていて、自分を好きになれる。
 つまり、自分の良い点を駒が教えてくれるのだ。
 そんな健気な駒たちを愛さないわけがない。


 駒に自己投影するをもう少し詳しくしよう。
 駒になった自分を、さらにゲーム盤の上から自分が見下ろしている。
 つまり駒とは自分の鏡写し。
 駒を見下ろすことで自分を分析している。
 また駒は自分とは異なる存在でもあるので、その駒から新しい視点を得て、新しい自分を発見することにも繋がる。
 新しい視点を得るということは、新しい駒を作るということ。
 心の世界を豊かにし、自分の心を豊かにすることに繋がる。
 まあ正のスパイラルに突入していれば、これが正常に機能するんだけどね。
 気分には波があるわけで。



 さらに駒には「類似の法則」も成り立つ。
 神の依り代は、神を模倣することで、その体に神を降ろす。
 つまり依り代である巫女の駒を使えば、神はゲーム盤に降り立つことができる。

 神は普段、ゲーム盤を見下ろしている立場にある。
 つまり、ゲーム盤から切り離された立場にいるわけだ。
 そこで巫女の駒をアバターとして使うことで、ゲーム盤に降り立ち、ゲーム盤に関与する。
 つまり、都雄の体をアバターとして、仮想現実A3Wにログインしているわけだ。
 ひぐらしでのアバターは梨花。
 うみねこでのアバターはベアト。

 そもそもアバターという言葉自体、神の地上での姿、アヴァターラ(化身)から来ているのだしね。
 仮想現実ほどこの説明がしやすい設定はないな。
 ちょー分かりやすいもん。

 うみねこでさ、依り代と言われて、現実の肉体にベアトの魂を降ろすのだと思ってたけど、逆だね。
 ベアトの依り代ではなく、ベアトが依り代。
 駒であるベアトの体をアバターとして使用して、主はゲーム盤に降り立っていたのだ。


 同じ主から生まれた駒は、皆主に似ている。
 ひとつだった物を割っても、割れた部分は元の全体の姿に似たものになる。
 子が親に似るように。
 分かれた部分同士も、元々同じものだったから似たものになる。
 兄弟が似ているように。
(兄弟同士の駒たちが互いに影響し合うのは、ひぐらしの雛見沢症候群で暴力的な気分が伝播するなどで描かれている)

 つまり、主と駒は家系図的な感じで整理できる。
 世代を経るのは、物語の刷新、ゲーム盤の刷新となる。
 鬼隠し編から綿流し編へ。
 またはひぐらしからうみねこへと。

 世代を経るごとに元から遠ざかっていく。
 ならば最も主に似た者とは、最初の世代、それも長子となるだろう。
 最初の子というのは特別だ。
 真里亞も色々友達を生み出したが、最初の友達であるさくたろうが特別だったように。

 つまり長子こそが神である主に最も似た者。
 巫女の駒、神である主をその身に降ろす依り代である。
 つまり、神の子だ。

 さて、社会において長子は親の全てを継承する権利を持つ場合が多い。
 このゲーム盤においてもそうだと思われる。
 長子は神である主の物語を継ぐ。
 物語とは文化だ。
 そして魂である。

 魂を引き継ぐとはどういうことか。
 呪術的に王殺しは、王殺しで王となった前王を真似て王殺しをすることで王を継承する儀式、なのかな。
 つまり、運命をなぞることで運命を引き継ぐわけだ。
 物語ならそれは筋書きや構成に当たるのか。
(悪しき王=龍=バケモノ。バケモノを殺した者が新たなバケモノになるという話はこの物語の系譜。)
(ちなみに、悪しき王=龍は、悪しき女神=龍の話を引き継いだもの。)


 王の魂は、前王が死ぬことで冥府に下り、前王を殺して王となった新王の中に蘇る。
 分かりにくいなら、王を二つに分割すると良い。
 夏の王が地上に君臨している間、冬の王は冥府で休む。
 そして夏の王が冥府に下れば、冬の王は地上に上昇し、王として君臨する。
 つまり、犠牲の命と引き換えに魂を蘇らせる儀式なわけだ。

 襲名もその類だね。
 名=魂。
 名と共に魂を受け継がせ、その名は永遠に生き続ける。
 名を襲う。
 名と魂は、死して蘇る。後継者の中に。
 名前とは神聖なものなのだ。

 太古の王は祭司でもあった。
 つまり、神を模倣して神の魂を降ろす依り代。
 王であると同時に神であった。
 例えば、ミノス王は死んだ後に冥府の王として祭られたが、例にもれず蘇るわけだよ。
 歴代の王の肉体に宿って。
 王の肉体とは、神が地上で取る姿であり、つまり化身、アバターなわけだ。
 時代が下れば、神ではなく王自身が神として祀られる。
 ミノス王のように。
 つまり、歴代の王の肉体は、冥府にいる始祖王が地上に現れた姿と解釈されたわけだ。

 これをなく頃にに当て嵌めれば、歴代の王とは、ひぐらしの梨花、うみねこのヤス、キコニアの都雄だ。
 姿も性格も異なる彼らだが、本質である魂は同じ。
 物語は始まりは勢いがあり、やがてピーク達し、後は終わりへと向かう。
 そしてエンドが打たれ物語は死ぬ。
 だがその後、新たな物語として復活する。
 物語の内容を一新して。
 しかし、受け継がれるものがある。
 それは筋書きであり構成でありパターンなどである。
 それは物語の魂。
 表れた姿形が異なるだけで、本質的に同じものなのだ。


 物語とは即ち呪術であると解釈できる。
 物語には類型があり(類似の法則)、遡れば原型にあたる(感染の法則)。
 龍を退治して姫を娶るとか、自己犠牲で世界を救うとか、数千年前からの王道の物語じゃん。

“何も真似したくないと思う者は、何も生み出すことはない”
――サルバドール・ダリ


 模倣から創造は生まれる。
 読み手が物語を読むことで「感染」し、その影響を受けて新しい物語を生み出す。
 それは前の物語の魂を受け継ぐということ。
 そうやって現代まで物語の魂は受け継がれてきた。
 つまり、物語とは魂であり文化である。
 そして呪術なのだ。

 魂の継承。
 うみねこで語られていたのがこれ。
 自分の魂を誰かに引き継がせる。
 親から子へ。
 主から駒へ。
 そして執筆者から読者へ。

 主は自らの物語を駒であるベアトへ引き継がせた。
 ベアトリーチェの名と共に。
 そしてピースのようにゲーム盤から消え去った。
 その継承式に立ち会ったのが読者。
 読者の承認によって継承は承諾される。
 たとえ死しても、魂は駒であるベアトの物語に引き継がれ、その物語も読者へと引き継がれる。
 うみねこのゲーム盤は、そのために作られた魔術装置と言ったところだろう。

 読者は物語を読むことで「感染」し、チェス盤思考で自己投影の鏡写しより、自分に似たところを見つけて「共感」し、相手を自分と同じ人間であると認めることになる。
 駒であるベアトはニンゲン以下の家具だ。
 キコニア生まれでない者だ。
 それをチェス盤思考という呪術によって、家具から人間に変身した。
 これは読者の認知へ働きかける魔法。

 呪術とは、関係のない点と点を結び合わせて、存在しなかった新しい解釈を生み出すものだ。
 つまり、読者に関係のない点と点を結びつけるように仕向け、幻想を生み出すものなのだ。


 さらに言えば、関係はあるがその関係が隠された点と点を結べば真実に至る。
 チェス盤思考により、主の物語を読むに至り、人間だと認めることになる。
 これも同様。
 主は駒であるベアトに魂を引き継がせて、ゲーム盤より消えた。
 つまり、冥界に下ったのだ。
 それはたぶんゲーム盤のさらに下。
 煉獄であるゲーム盤の裏側。
 それはつまり、地獄。

 地獄の門にはこう書かれている。
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」
 希望が捨てたから主はそれを潜ったのだ。

 さて、地獄へと消えた主の魂を見つけ蘇らせることはできるのか?
 物語は変遷を繰り返し、真実と幻想が入り混じってしまい、どんな原型かすらも知りえない。
 だとしても、にもかかわらず。
 原型の物語に辿り着き、地獄へ消えた魂を見つけ出したのなら。
 それは物語から消された地母神を復活させ、彼女の物語を真に引き継いだと言えるのではないか?

 姫を助けるまでが冒険です。
 なんてね。

 でも姫“だけ”を救い出すのは簡単なんだよ。
 王を殺せばその魂は冥界に下降し、それによって姫の魂は地上へと上昇するから。
 王の本来の役割は、生贄となって女神を救うこと。
 ゲーム盤という魔術装置を引っ繰り返せば効果が逆転する。
 真実が裏返り、これまで真実とされていたものが冥界へと落ち、冥界にあったものが真実として浮上する。

 でもそれだと運命を踏襲することになる。
 物語の型に嵌り抜け出せてない。
 その運命の袋小路から脱するのが目的なのだから。

 王の交代は、物語の舞台装置がそういう仕組みになっているから。
 王と女神を隔てる壁は、倒れれば一方を潰して地の下に葬り、もう一方を世界の王に祀り上げる。
 地の下から復活するには、壁も反対側に押し倒して相手を潰して地の下へ追いやる必要があるのだ。
 これは、常に真実が一つだから。
 真実が座ることのできる席が一つしかないから。
 つまり、常に真実が二つであれば共存可能なのだ。
 双方から壁を支え合う。
 共同統治バンザイ。

 「共感」を使って真実を認めさせようとする魔術装置。
 それには表の真実と裏の真実の二つが仕込まれていた。
 つまり、「常に真実は二つある」という主張を、ゲームを通して読者に「模倣」させることで、その主張に「共感」してもらい、価値観を「感染」させて広げようという「魔術装置」だったのだと思う。


 イナンナの冥界下り。
 潜った門の数は七。
 大罪の数も七。
 地獄の数も七。
 七つの試練を潜り抜けた先にあるのは八つ目。
 全八編の物語。
 八は末広がりで~とはひぐらしであったな。
 子孫繁栄。永遠に発展する物語。
 これも象徴か。





 ホワイダニット。
 心を推理する。
 それはミステリー。

 心に共感する。
 自分の心と似ているから、相手にも心があるのだ。
 それは呪術的な考え。
 つまりオカルト。ファンタジー。

 対立しているミステリーとファンタジーが混在している。
 これはまるで、自然と文明が対立し、でありながらどちらも世界の一部としてあるように。
 人の心はミステリーとファンタジーが混ざって一つになっているのだろうね。
 実に面白い。

 今回の心を呪術的に紐解いたことで、今まで私がやってきたのがこれだったのだと納得。
 だいぶイメージしやすくなったわ。

 思うに、ひぐらしで人か祟りか、うみねこで人か魔女かとかやったのは、ミステリー的な思考とファンタジー的な思考を同時にやって欲しいということだったのだろう。
 でもうまくいかなかった。
 ミステリー的な思考が主流だったからね。

 そういえば、うみねこで登場したオーディンは死と再生の神じゃん。
 ハロウィンも死と再生の物語。
 EP3ではベアトリーチェの名の継承があり、冥界に下って魂を蘇らせる描写もやった。
 名と魂の継承による、死と再生の物語であることは示されてるじゃんか。
 案外オカルトから考察した方がすんなりと真相に辿り着いたのかもね。
 っていうか、先代ベアトリーチェってつまり主のことじゃん。
 そういやEP3で先代がゲーム盤から取り除かれた直前って、19人目が否定されてたじゃん。
 先代ってつまり19人目のことだから、あれでゲーム盤から取り除かれたって意味だったのかな。

 まいいや、話を戻そう。
 ひぐらしやうみねこではオカルトからの考察はほぼなかったと思う。たぶん。
 でもキコニアでは、類型から点と点を繋げるという呪術的な思考が盛んになってる。
 なんか流れが来たなという感じかも。
 わからんけどね。

 しかしSFでオカルトか。
 どれだけ科学が進歩しても、人の心というオカルトからは逃れられないのかもな。


 でも思えば推理も呪術だよね。
 作中で披露される推理、あれはヒントであり踏み台なのだけど。
 その推理に影響されて型に嵌ってしまったりするんだよね。
 そうなると似たり寄ったりの推理しかできなくなる。
 型から抜け出せなくなる。
 本来なら、型から脱してその型を踏み台にして一つ上の推理に到達しなければならないのに。

 自分で推理する前に、人の推理を当てにするのもまずい。
 いや、真似びは学びで、模倣はその力を得る近道なのだけどね。
 それって呪術だから。
 型に嵌るんだよ。

 特に全体的に推理しているものはやばい。
 あれは一編の物語のようなものだから。
 その物語に影響を受け、その物語を受け継いでしまう。
 そうなれば、どれだけ付け足しても、アレンジしても、型からは抜け出せない。
 子は親に似るんだよ。

 そして皆挙って同じ推理を参考にすれば、同じ型の推理が量産されるわけだ。
 呪われとる。
 感染力の高いインフルエンサーかな。
 呪術師の適性が高いのかもね。


 で、この型から抜け出せないという悩みは、駒の主である神もなのだろうね。
 曰く、運命の袋小路、だもん。
 子だけでも重力から抜け出して、空の彼方まで飛んで欲しいとか願っているんだもん。
 どうにかしたいよなぁ。
 やはり型を踏み台に一段昇るしかないんだろうなぁ。

 キコニアはつまり、物語を王に見立てた王殺しの話。
 ゲーム盤上のキングを殺したものが次代の王となり、物語を引き継ぐ。
 真実の王が消えても、物語は平然と続いていくのだ。
 なら真実なんて必要ないんじゃないか、っていうのはうみねこでもうやった。
 だからキコニアではその先が描かれると信じている。


  1. 2020/04/04(土) 20:31:09|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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