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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】死と再生の物語

 本日二投目。

 キコニアの考察も大分出来てきて、頭も回らなくなってきたので、なんかねーかなと思って、キコニアはどんな物語の類型に当て嵌まるだろうかと考えてみたら、死と再生の神話に当て嵌まるんじゃないかと思ったんでちょっとやってみようと思う。
 ま、かなりテキトーにだけど。
 そもそも物語の類型を語れるほど詳しくないし。



 キコニアはヨハネの黙示録に見立てられているなら、それは古い天地が滅びて新しい天地がやってくるという、世界の滅びと再生の物語であることだろう。
 思えば「ひぐらし」も「うみねこ」も世界の滅びと再生を扱っていた。
 主人公にとっての“世界”が滅び、再び“世界”が蘇る。
 要するにループだね。
 それは世界の滅びと再生の物語であると同時に、主人公の死と再生の物語である。


 死と再生の神話において中心となるのは、地母神などの女神。
 大地とは世界。
 命を生み出すものであり、命を奪うものでもある。
 豊穣の神であると同時に冥界の神でもある。
 うみねこの分類においては、彼女は一人で世界を生み出すことのできる“造物主”である。

 母神とセットで描かれるのは子供の神。
 女神の子にして従者にして伴侶にして英雄。
 女神より生まれ育まれ、やがて殺されて食われる。
 そして再び生み出される。
 女神の創造の力を示す証であり、女神の力が衰えた時に活力を取り戻させるための生贄でもある。
 世界=女神を救うために英雄である彼は生まれてくる。
 彼は収穫される穂であり、土の中で眠る種であり、再び芽吹いて実る穂である。
 彼は女神の手で平和の中で育てられ、やがて未知なる危険が潜む冥界へと冒険に出かけ、女神の裏の顔である冥界の神によって屠られる。
 そしてまた母である女神の手元に戻る。



 これをなく頃にに当て嵌めると、母神は執筆者、子供である少年神はキャラクター、ヒーロー(主人公)となる。
 つまり、主と駒だね。
 執筆者は物語の中に主人公を生み出し、それを育む。
 ひぐらしにおける日常から非日常への転落は、少年神の地上から冥界への下降を表すのだろう。
 それは主人公を屠り、新たな物語を生み出す活力を得るため。
 蘇らせるためには殺さなくてはならないのだ。
 それは繰り返される永遠の運命。

 女神は命を生み育む豊穣の神であると同時に、命を必ず奪う冥界の神でもある。
 そしてその輪廻に人を束縛する運命の神でもある。
 決して逃がしはしないのだね。



 やがて時代が下ると少年神はその神話より逃れ、王となる。
 母権社会から父権社会への過渡期。
 王と女王の共同統治。
 女王が王を選び、その王が政治を行う。
 つまり、王が世界に秩序を齎す時代。
 冥界へ下った英雄は、女神の別たれた一面である冥界の神、即ち龍を退治して宝を得て地上に戻る。
 そして別たれた女神の一面である豊穣の神、即ち姫あるいは巫女を助け出して娶り王となる。
 王として世界に秩序を取り戻した彼はやがて老い、世界に綻びが生じる。
 その時、王の後継者(王の子)が立ち、王を打倒し生贄としてささげ、前王の妻である女王を娶り次代の王となる。
 あるいは、現王が後継者を打倒し、自分の身代わりとして生贄に捧げ、再び王の座に就く。
 王は世界を背負っている。
 つまり、世界が狂えばそれは王の罪。
 王は死して世界の罪を払い、王が復活することで世界を救う。
 救世主の原型だね。
 そして彼は文化英雄でもある。
 人類に新しい文化を齎し、旧弊を破壊して世界を刷新する。

 さらにはこの王の制度、王を倒せば王に成れるから、他国の王が自国の王を倒しても、自国の民は他国の王を自国の王として歓迎するんだよね。


 子が母から権を奪い至高の座に就くというのは、キコニアの神の計画に重なる。
 現王と次王の争いは、無限に生み出された物語たちによる主人公大戦的な感じだね。
 王同士は殺し合う運命にある。
 自らの文化、即ち自らの物語にて世界を刷新するために。
 これがキコニアにおける文化の押し付け合いだな。

 英雄の役に読者を当て嵌めれば、女神は執筆者、その女神の別たれた側面である龍と姫はそれぞれ並び立つ真実が当て嵌まる。
 即ち、打倒される龍は執筆者の物語、娶られる姫はヒロイン(主人公の物語)となる。
 これがうみねこでやろうとしたこと。
 そして龍と姫は今は別人として成り立っているけど、起源を遡れば同一人物という。
 文化英雄、つまり読者がやっていることは、女神の二つの面を分かち、良き面だけを享受しようとすることなんだよね。

 母から権を奪い取り、栄光の座に就きながら、苦しみの輪廻から逃れられず、のみならずそれを引き継いでしまっている。
 この苦しみの連環が、ひぐらしで描かれていた押し付け合わずにはいられない罪。
 これがなく頃ににおける原罪。
 これは母神が物語の原型ゆえのことだろう。
 だからこそ母神を完全に除き、王の単独統治するというのが、神の計画なのだろうが。




 ちょっと整理しよう。

 地母神はいわゆるグレートマザー。
 一人で命を生み出せる完全なるもの。
 世界そのものであり、全てを受け入れ内包する、未分化の混沌。
 処女にして多産、命を生み育む豊穣の神であると同時に、命を奪い去る冥界の神でもある。
 子を産み育てる母であると同時に、その子を圧し潰す母でもある。
 つまり、善き母であると同時に、悪しき母でもある。
 後世、その二つの面は分けられ別の存在にされるが、本来は合わせて同じ存在。
 彼女の手によって全ては生まれ、死に、再び生まれる。
 輪廻転生、誰も逃さぬ悲しみの輪という運命を生み出した。
 安全で平穏な既知の領域である地上と、危険な未知の領域である冥界などの異界を支配する。
 異界とは即ち、人の手が届かない自然である。

 王はいわゆる文化英雄。
 元は地母神が命を産むための補助として生み出された伴侶であり、彼女の世界を救うための生贄。
 育ち切れずに死ぬ子供であり、死しても再び蘇る運命を与えられている。
 その母の手より自立しようと成長した姿が王。
 母の手で安全な場所で育てられ、成長すれば危険な異界へと冒険に出かけ、母の別側面である龍を退治し、さらに母の別側面である姫を娶り王となる。
 つまり、簒奪者あるいは継承者。
 龍は荒ぶる自然を表し、それを打ち倒す英雄は自然を切り拓き人類に文明を齎す者であり、地を治め世界に秩序を取り戻す王である。
 そして、旧世界の悪弊を一掃し、新世界を切り拓く救世主でもある。
 しかし、世界が乱れたら生贄として殺される運命は変わらず、その運命を逃れるために自分の身代わりを殺さなければならない。
 つまり、運命の逃亡者。
 彼は世界が乱れた時に現れて世界を救う救世主。
 世界とはつまり、彼の母である地母神のことである。
 それが彼の本来の役割。


 見事、私の考察した神と神の子に当て嵌るな。

 地母神は造物主。即ち神。
 ゲーム盤に置かれた全ての駒を生み出し、その運命を支配している。
 未分化の混沌を分化させて生まれたのが駒であり、その駒たちに秩序を敷くのが文化英雄である神の子。
 神の子は、神の創造を補助する役割を持つ。
 ゲームの盤上が乱れた時、神の子は生贄として殺され、ゲーム盤が一新される。
 分かりやすい例は、ひぐらしの梨花の死。

 神は世界であり、神の子は文化である。
 世界とは自然であり、自然と文化は対立している。
 キコニアで描かれているのはこれ。
 しかし、分かたれ対立する自然と文化も、世界を構成する一部なのである。

 神は物語を食らい生き延びるバケモノ。
 世界の延命のために子を食らう。
 そしてゲームは永遠に繰り返される。

 神の子は自身の生存という目的を与えられた駒。
 運命の逃亡者。
 猫を食らい生き延びる道を教えられた猫。
 物語を殺す物語。
 王の中の王。
 勝利の上になお勝利を得ようとする者。
 死して蘇る救世主。

 そんな相克する二者が生存を賭けて争っている。
 そこに招かれたのが第三者である読者。
 これまでの物語を模倣し、新たな王の後継者という立場から物語をなぞる。
 その結末では、またもや運命を繰り返し誰かを生贄にするのか、それともその運命を断ち切ることができるのか。

 みたいな感じかな。


 地母神の神話は物語の原型で、二者だけで物語が成立する。
 もっと言えば、二者だけで世界が完結する。

 母の手で育てられた子は安全な日常から離れて冒険に出かける。
 非日常、危険な異界へと分け入った子は、自然の化身である母なる龍に食われ、再び地上に生み出され、母の下に帰る。
 あるいは、母なる龍を打ち倒し、母を娶って地上に戻り王となる。

 これは子が主体の話。
 母が主体だとこういう話になる。

 子を育てた母は、ある日子を冒険に出かけさせる。
 冒険する子の先回りをし、バケモノに扮して子を脅かす。
 逃げ出した子は家へと帰りつき母に抱かれ、めでたしめでたし。
 あるいは、子がバケモノを倒してその腹の中から母を救い出し、めでたしめでたし。

 まさに自作自演。
 子は母の掌で踊っていただけ。
 それを冒険と称していたのだ。
 子から冒険の話を聞いた母は、子を誉めるのか、それとも窘めるのか。
 これは子に成長を促すための成長譚なのか。
 それとも子の成長を阻み家に縛り付けるための恐怖譚なのか。
 解釈は分かれるところ。
 ま、どちらにせよ子を甘やかすのには変わりない。
 母の下に帰るということは、まだ母を必要としているということなのだから。
 本当に自立すれば、母の下には戻らないのだから。

 その物語を発展させ、色々な役割の駒を作り、無限の物語が生まれたわけだ。
 うみねこの二者から世界が生まれ無限の物語を紡いでいるのに重なるな。
 


 もう少し話を続けるか。

 次代は母権社会から女王と王の共同統治へ、そして完全なる父権社会へと移行する。
 死の運命を免れた子は、成長して大人となり、そして老人となる。
 成長しない子供から王、そして賢者へ。
 絶対神へと成長した少年神は、完全なるものとなり、一人で命を生み出せるようになる。
 ギリシャ神話のゼウスのように。


 ゼウスが現れる前は違った。
 ゼウスの祖父ウーラノスは天空の神で、大地の女神であるガイアの子であり夫で、妻であるガイアによって神々の王に任ぜられた。
 で、ウーラノスとガイアの子であるクロノスは、母であるガイアに命じられて父を倒し次代の王となる。
 王となったクロノスは、同じように自らの子に殺されることを予言される。
 その預言を阻止するためにクロノスは我が子たちを飲み込んでしまう。
 末子であるゼウスのみがそれを逃れ、クロノスに飲まれた兄弟たちを救い、父クロノスを打ち倒して神々の王となった。

 この時、末子だったゼウスが神々の王となったのは、兄弟たちが吐き出され再び生み出された、つまり兄弟の順が逆転したからだという説がある。
 そうであるならば、クロノスが我が子を飲み込み吐き出した行為は、子を食らい再び生み出す地母神である妻ガイアの創造と破壊の権能の模倣をしていたのかもしれない。
 つまり、権の簒奪。
 妻より権を奪い、自らの死の運命を免れようとしたクロノスは、子であるゼウスに打ち倒されるが、その業績は子であるゼウスによって引き継がれ完成するのだ。

 父クロノスを打ち倒したゼウスもまた同じ予言をされる。
 最初の妻であるメーティスとの間に生まれる子供によって倒されるだろうと。
 それを阻むため、ゼウスは妊娠したメーティスを飲み込んでしまった。
 やがて激しい頭痛がするようになったゼウスは、自らの頭を割らせた。
 するとそこからアテーナ―が生まれた。

 これはゼウスが一人で命を生み出せるようになったことを示す。
 さらには、母であり妻であった女神を、娘として従えるようになったことも示す。
 こうして予言を逃れたゼウスは王として君臨し続けるのである。


 死の運命より逃れ成長しきった少年神は、零落した母神を打ち倒して権能を奪い取り、絶対神として君臨する。
 命を生み出すのにもはや母神を必要とせず、数多の愛人との間に子を儲ける。
 愛人とはつまり読者で、子とはその間にできた物語。
 物語である子は、長じて王となり氏族の始祖となり、子孫に物語として受け継がれていくのだ。
 幾度王が代わり物語が刷新しようとも、始祖王は変わらず存在し、祀られる祖神である男神も変わらず存在し続ける。
 だがしかし、その物語にもはや母神は存在しないのだ。

 唯一神の物語はまさにそれ。
 母と子の物語は父と子の物語に取って代わられ、脇役である聖母にその名残を残すだけ。

 これが神の計画が成就した後の世界なのだろう。





 物語の原型(アーキタイプ)は、物語にとっての基礎で土台。
 その上に色々と積み上げていって物語は出来上がるのだ。
 となると、その基礎がしっかりしていなければ、その上に積み上げるものがぐらついてしまう。
 つまり、塔を高く積み上げようとするなら、土台をしっかりしなければならない。

 これは物語の書き手側だけではなく、物語の読み手、考察者側もそう。
 推理や考察を積み上げるなら、基礎となる物語の原型のイメージをしっかり固めることが重要なんじゃないかと、今回この考察をしていて思った。


 なく頃にの死と再生の物語は、物語の舞台が表の地上と裏の地下の二面があり、舞台を引っ繰り返すことで表と裏が入れ替わる構造となっている。
 日常と非日常が入れ替わり、真実と幻想が入れ替わり、表と裏の主人公が入れ替わる。
 それを繰り返すことで舞台は輪廻転生し、同じようで違う舞台、違うようで同じ舞台が繰り広げられる。
 先の物語を継承する形で生み出される物語。
 そうして物語の継承を繰り返す、永遠の物語。

 その根本は、自己犠牲によって相方を生き返らせようとする願いがあるのだろう。
 死を悲しみ、その魂が失われるのを嘆き、ならばその魂を引き継ぎ舞台の上へと蘇らせようと足掻いている。
 すでに死んでいる物語を、さもまだ生きていると修飾し、永遠に延命を繰り返している。

 繰り返される運命は円環を描き、永遠となる。
 しかしその円環は、全てを内に閉じ込める牢獄でもある。
 生と死が混じり合う猫箱という名の永遠の牢獄。

 オルフェウスは妻を取り戻しに冥界に下り、二人で共に地上へ戻ろうとした。
 そして振り返り全てを失った。

 だが“右代宮の鷹は振り返らない”のだ。
 その言葉に全てが詰まっているのだと私は思う。


 土台のイメージが固まってきたな。


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  1. 2020/03/28(土) 21:57:23|
  2. Phase1
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真実はいつも二つ

 本日一投目。

 私は執筆者関連で真実は二つとか、二人で一人とか言っているが、キコニアのところから私の記事を読み始めた人は、真実が二つとかどういうことやねんと疑問に思っている方がいるかもしれないので簡単に説明したいと思う。
 ついでにそこからキコニアに繋げられれば上出来。



 正解の方法以外、全て不可能であれば話は簡単なのだが、可能性が複数並列できるのがうみねこ。
 となると選択する必要があるわけだが、問題は判断基準だ。
 私の判断基準は、ミステリーの答えとして面白いかどうか。

 それはどういうことかというと。
 例えば、マスターキーを持つ者にしか犯行は不可能のように見える事件があったとする。
 ならマスターキー所持者が犯人である、と受け入れるのは素直に過ぎる。
 となれば裏を読める。
 マスターキー所持者が犯人であるとあからさまに主張されているのなら、その主張を行う利があるのはマスターキー所持者以外である。

 この二択を選択するのだが、後者の方が面白いしよりミステリー的だよね、というのが私の個人的な見解。
 マスターキー所持者以外に犯行が不可能に見えるから、マスターキー所持者が犯人であるってさ、AのようだからAであると言ってるだけじゃん。
 そんな論理面白くもない。
 それなら、Aだと見せつけられたからAではない、という方が断然面白い。

 常識的な結論で足りるなら探偵はいらない。
 探偵の出番がいないミステリーはミステリーじゃない。
 探偵しか辿り着けない結論こそが、ミステリーをミステリーたらしめているのだと思うのだ。


 他にも19人目のベアトリーチェからの手紙とか。
 作中で19人目を装った18人の内の誰かという解釈がでてきたわけだけど。
 あの論理は正しいと思う。
 だだし、18人の内の誰かを疑っていない者が大勢を占めていれば。
 18人の内の誰かであると周知されたら、それが新しい常識となる。
 そうなると、犯人の19人目を疑わせたい思惑は意味をなくす。

 もし仮に、犯人の思惑が勝っていたとするならば、それを超えた想定をなしているはずだ。
 皆が18人の内の誰かだと疑うならば、そう思わせることに利があることになる。
 つまり、18人の内の誰かが19人目を装って手紙を出した、そう思わせたい19人目の仕業であると解釈できる。


 金蔵の名前の継承も。
 金蔵から誰かへ、名を継承したという解釈。
 戦人は前回のゲームでのベアトの名の継承というヒントから考えたと言ったが、今代ベアトから次代のエヴァに継承した他に、先代ベアトであるワルギリアから今代ベアトへの継承もあった。
 つまり、現金蔵もまた先代金蔵から名前を引き継いでいた可能性がある。
 名前を複数持つ人物がいるという青き真実に対して、金蔵は「言えぬ」と消えたが、それは自身の名前が二つあったからかもしれない。
 要するに、金蔵は金蔵ではなく別の名前で存在することで、“金蔵は死んでいる”から金蔵は何も出来ないという理屈をすり抜けることが可能なのだ。


 複数の名前と言えば人数についても。
 一人で二つの名を持つ者がいれば、人数が一人分減るという理屈。
 裏を返せば、同名が二人いれば、一人分増えるということになる。


 一つの物事から何かを解釈すると、その反対側に別の解釈が生じてしまう。
 分かりやすいのはヘンペルのカラス、即ち対偶だね。
 『Aでないなら、Bである』が真であれば、『Bでないなら、Aである』もまた真である。
 猫箱を開けなければ、その二つの結論は同時に存在する。

 他の解釈の余地がないなら、それは解釈ではなく証明となる。
 解釈の余地を作るということは、別の解釈を生み出そうという試みに他ならない。
 その余地に読み手が好きな想像をすることを許されているように、作り手もまたそこに好きな真実を捻じ込みたかったのだろう。

 読み手側は一つの物事から二つの解釈を導き出し、そこから一つ正解だと思う方を選ぶ。
 これを続けて全体に筋を通していくと、正解だと思う一つの筋を作る傍ら、反対側にもう一つの筋が自然と出来上がるわけだ。
 その内の片側が「ヤスが犯人」というもの。



 EP7のヤスの舞台劇をそのまま見れば、それはヤスが犯人になるまでを描いたものだ。
 ヤス以外に犯人はいないように見える。
 だがヤスが主体ではなく客体であればどうだろう。
 舞台劇の黒幕は脚本家だと相場が決まっている。

 表がヤス視点の回想であるならば、裏はヤスの生活を覗き見ていた人物視点の回想だ。
 そんなヤツ登場していないと思われるかもしれない。
 しかし、うみねこは階層世界なのだ。
 上層から魔女が覗いていたのかもしれない。

 世界という舞台劇の観劇者。
 箱庭世界を覗き込む造物主。
 ゲーム盤の駒を操るプレイヤー。

 そいつが黒幕だとずっと示唆されていたと思うのだが。


 つまり、犯人は二人いる。
 駒の犯人と、その駒の主である真犯人と。

 主である真犯人は、自分の代わりに駒に殺人を行わせる。
 それがヤスが犯人のゲーム盤。
 そして、駒は主が成せることだけを成せる。
 つまり、ヤスが犯人のゲーム盤とは別に、真犯人が殺人を行うゲーム盤も重なっている必要がある。

 要は主の犯行と駒の犯行、その両方の推理を提示しなくてはならない。
 それが並び立つ真実であり、真実は常に二つ愛がなければ視えない、ということ。
 それが私の結論。





 んー、舞台の上の主役と観客である読者の二者間のことなら私だってあれは犯人の自白と解釈するが、もしその舞台裏に第三者がいたならばそいつの演出でしかないと解釈するしかない。
 そして私はその何者かの気配を濃厚に感じたというわけだ。
 ま、これは個人的な感覚だから同意は求めないが。

 昨今、探偵の推理を組み込んだトリックがあって油断ならないそうだけど。
 だったら読者と対決する推理ゲームで、読者の推理を組み込んだトリックが使われていても何らおかしくはないだろう。
 つまり、読者が釈迦の掌の上でコロコロされている可能性。

 ゲーム盤の上に「読者がするであろう推理」という駒を置くGMがいるとしたら?
 それはつまり読者の駒化であり、我々読者を上層世界から見下ろす何者かいるのかもしれない。
 無論、現実世界の上にそんな世界があるというわけではなく、思考上に仮定した思考ゲームにおいての話。

 人間は自分が考えられる範囲までしか想像できないから、その自分の考えを想定した上でそれを超えてくる者というのは想像しづらい。
 ある種の思考の死角だろう。


 なんだろ、読者側は真実を暴くという攻撃側であるという意識が強いのかな。
 でも相手はかかしじゃないんだから反撃くらいする。
 防御側が態と隙を作りって攻撃を誘い、そこを狙い澄まして反撃する。
 誘引撃滅。
 当然の戦術だよね。

 相手に隙が出来た時、それが狙い目なのか、それとも誘いなのか。
 その二択を迫られるわけで、それがゲームの駆け引きとなる。
 どちらが戦いの主導権を握っているのかは超重要。
 自分が選んでいるなら良いけど、選ばされているのならまずい。

 うみねこはさ、好きなように推理していいよって感じだった。
 つまり、好きに攻撃してこいってこと。
 好きに攻撃できるから、戦いの主導権はこちらにあると思ってしまいがち。
 好きに攻撃できるってことは、攻撃し易い所から攻撃したくなる。
 だからこそ、相手からはどこを攻撃されるか予測できる。

 至極当然だよね。
 でもってそれに対してうみねこは、面の推理を推奨している。
 つまり、相手の反撃の可能性を考えて予備計画を持っておけということ。
 ヱリカがEP6で披露した、並び立つ真実に対する方法だね。

 さらに言えば、魔女との戦い方は守りが肝要という助言も貰っている。
 ならば本命がどちらかなども判断可能だろう。



 んー、深く考えすぎ作者はそこまで考えていない、と言われるんだろうなと思う。
 でも私から見れば、逆にそれは考えなさすぎなんじゃないかなって感じになるんだよね。
 例えるならEP6のチーズのクイズの様。

 私から見ると、ヤスが犯人だとか、紗音嘉音の体が同一だとかは、個体のチーズの様に硬いなーって感じ。
 そもそも真実が一つという固定観念からして視野が狭い。
 真実は二つと考えればもっとチーズはグニャグニャになるのにな。

 そんな感じなので紗音嘉音同一トリックは、その先に進むための前提条件に過ぎなかったんだよね、私にとっては。
 式の途中に組み込んだものを、それが答えなんだと言われたら戸惑うしかない。
 え、それが答えで良いの? って。

 守勢の思考をする私にとって、反撃に備えることは常識で。
 反撃を考慮もせずに攻撃する思考はその埒外。
 理解不能。
 なぜそんなにも楽観的なのか。
 用心が無駄になっても笑い話ですむが、楽観が無駄になると致命的だと思うのだが。
 まぁ、時と場合にもよるのだろうけど。
 攻撃が当たることを期待して攻撃するというのはどうも、ね。
 反撃は折り込み済みで、それすらも捻じ伏せるつもりで攻撃していたのなら、絶対の魔法的にありだし、むしろ応援したいぐらいだけど。

 その辺の意識の断絶は深いよね。
 壁に穴があったら、当然そこから抜けるよね。
 でも私は、これは罠だ別の道を探そうと判断し、それを当然だと思っている。
 別の当然なんだから、そりゃ道は断絶する。

 攻めるのか、守るのか。
 勝とうとするのか、負けないようにするのか。
 その意識の差が戦い方の差になり、そして最終的に至る場所の違いとなって表れるのだろうな。



 でさ、真実は一つ側からは二つ側の方の真実は視れないし、理解もできないだろう。
 しかし、逆に二つ側から一つ側の真実は視れるし、理解も可能。
 二つ側はメインの説が破れてもサブの説にスライドできるからね。
 ダメージコントロール。
 生存のための知恵。
 思考停止が死であるならば、決して思考を止めてはならない。
 生きるとは、即ち負けないこと。
 面の推理とはつまり、多様性による思考の生存術である。

 その分割並列思考による仮想人格たちの内、誰か一人でも生き延びれば良いという思想は、キコニアに通じるもの。
 要するに、キコニアの世界は神のゲーム盤で、その世界に住む人類は神の分割並列思考による仮想人格たちがアバターの姿をとった駒で、思考の生存を懸けて争っているという考察に繋がるわけだ。

 うみねこはEP7のラストのように、逃げ延びて、生き延びて、希望を繋ぐことを至上目的としている。
 生存のための面の推理、並び立つ真実。
 それは守勢であり、それは壁を押し倒すのではなく、壁を支えるということ。
 絶対に死守すべきキングと、そのために犠牲になることを求められる他の駒たち。
 キコニアもまた、守るためのゲームであり、生き延びるためのゲーム。
 そこは変わりないと思うのだよね。


 んー、なんかグダグダしてきたからここで終わろうか。


  1. 2020/03/28(土) 19:51:48|
  2. うみねこ雑多
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【キコニア】キングを守るためにあるゲーム

 神の分割並列思考によって生み出された、仮想世界に住まう仮想人格たち。
 彼らにとって、仮想世界というゲーム盤や駒という仮想人格たちを生み出し、維持し、好きに破壊できる存在はまさに神であったことだろう。
 仮想世界を維持管理する神は、その世界にとっての中枢。
 文字通りの心臓部。
 失われたら世界ごと滅ぶ。
 絶対に守らなければならないキングなのである。

 仮想人格たちは神という主人格を守るために生み出された。
 つまり、延命が目的だった。

 彼らを物語と見做すなら、神は物語を生み出し、そして最後までを見取り、死したらその魂を列聖する。
 そうして退屈より逃れ、延命し、世界を豊かに繁栄させる。
 それが正常な世界の形だったことだろう。


 彼らを駒と見做すなら、駒はキングである神の代わりに戦うという役割を与えられている。
 これがどういうことかというと。
 神の代わりに生きる駒であり、神の代わりに人と接する駒であり、神の代わりに論戦する駒である。
 もっと言うと、神の代わりに恋をし、神の代わりに結ばれる駒である。

 つまり、その全ては自分のことではない、他人事とすることで自分を守るためにあるのだ。
 自分の事だから傷つく。
 だったら自分の事ではなくなれば良い。
 対岸の火事であるなら、モニター越しであるなら平気である。
 要するに、臆病なのだ。

 主の代わりに戦う駒。
 主の代わりに恋をする駒。
 これはうみねこで詳しい。
 論ずるまでもない事だろう。

 彼は神の代行者。
 神のしたいことを代わりに行い、神の夢を代わりに叶える。
 神の代わりに傷つき、神の代わりに死ぬだろう。
 神を守るために。

 それを神は見ている。
 モニター越しで自らは傷つかずとも、その姿を見て共感し心を痛めたことだろう。
 だってその姿は、神にとっての憧れで理想なのだから。
 そして願うのだ、死なないでと。
 自分の代わりに夢を叶えて幸せになってと。

 神の愛が尽きぬ限り蘇る救世主。
 神に生きる希望を与えるために。
 そしていつか夢は叶うのだと証明し、神に生きる力を与えんがために。

 だがしかし、これは同床異夢。
 どちらか片方の夢しか叶わない。
 だって、世間では真実は一つなのだから。
 どちらか片方が真実だと決まれば、もう片方は幻想の中に消える。

 神は自身の真実、自身の物語、自身の人格を守るために自らの片割れを殺さなければならない。
 自己防衛本能というヤツだね。
 神の内面世界はその内、駒たちの住めない世界になってしまう。
 だからこその“移住”あるいは“脱出”。
 執筆者の内面世界から、読者の内面世界へ。

 うみねこでやってたのがこの“移住”。
 読者が家具を一人のニンゲンとして認めることで、そのニンゲンは執筆者のゲーム盤から読者のゲーム盤に羽ばたくことができる。
 これが魔女を娶るということ。


 うみねこ咲においてピースは、ベアトに戦人をやるのが惜しいと感じた。

「人の心を蔑ろにするな。……ウィザードハンティング(魔術師殺しの)、ライト」
“紛れもなく、……魔女殺し。
 全能なる我が主が、それでも未だ忘れ得ぬニンゲン、……右代宮戦人か………。”

 フェザリーヌが忘れられぬニンゲン、右代宮戦人。
 大切なベアトを娶らせるはずだった人間。
 もしかしたら自身の心を認めてくれたかもしれない相手。
 そして、物語の中でベアトを娶ったニンゲン。

 ベアトが不甲斐なかったら、全ての魔女が共有すべき。
 ピースも、その主であるフェザリーヌも。

「世界人類の全てが平和でありますようにっ。んん~~~~~……ッ! ピースぅッ!!!」

 そして、世界人類の平和を願いピースは自身を存在しなかったことにした。


 このピースはまさしく神が望んだことそのもの。
 うみねこ咲とキコニアは話の流れが繋がっている。
 つまり、神が自身の存在をなかったことにして駒たちに平和を与え、新世界を与えるという話、そしてさらにその先が物語られるはず。

 キングを守るゲームで、キングがいつの間にか消えるなんて決着は恰好が付かないもんな。
 ちゃんとキングを守って終わらせなければ。

 存在を成り代わる駒であるピース。
 そのピースが自ら消えてまで守りたかったのは、その成り代わる対象。
 母であるピースが生み出した駒であるベアト。
 もうひとつの心臓。

 神というキングが心臓であるなら、神が自らの代行者として生み出した駒であるクイーンはもう一つの心臓といえる。
 これも同時に守らなければならない。





 簡単にまとめると。

 これはキングを守るゲーム。
 そのキングに心があると仮定する。
 その様なキングだと、やがて前線で戦う駒が一番偉いという価値観を持つに至る可能性がある。
 その場合、キングは駒たちを犠牲にしないために自死を企む。
 よってその自死を思い留まらせなければならない。
 その際は心を蔑ろにしてはならず、キングが大切にする駒も同時に守る必要がある。


 こんな感じか。
 敵のキングを倒すために駒を犠牲とするのではなく、自軍のキングを守るために駒を犠牲とするというのがポイント。
 敵のキングを倒すのが勝利条件なら簡単なのだが、それは作中で散々否定されてるしな。

 ゲーム盤上に倒す敵を探していたら、決して辿り着けないという悪辣さ。
 しかしヒントはちゃんとあるのでフェア。
 目的が先で手段が後ということを考えれば、この目的まで辿り着ければ及第点というところじゃないかと。


  1. 2020/03/21(土) 20:27:15|
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【キコニア】先回りするジェイデン/代わりのいる王

 前にジェイデンは良く訓練された読者のメタファーと書いたが、これはその続き。


 物語の最後でジェイデンが意外な形で現れたが、あれは次回予告のようなものだろう。
 良く訓練された読者的には、あれはどういうことだろうかと考えてみた。

 あれは都雄の望みを先回りをしていることを表していると思う。
 都雄は物語の主人公。
 その主人公が行く先が物語が辿る道。
 それを先回りするということはつまり、物語の先読みに当たると思う。

 うみねこにおいては、運命を掌に収める。
 バケウソにおいては、先行体験。
 そう表現されることをジェイデンはやっている。

 そしてジェイデン=良く訓練された読者なのだから、これは今回のゲームで読者に求めるものの提示と考えるべきだろう。
 要するに、Phase1で公開された情報だけでその先の物語を先回りしろ、ということ。


 誰が、何を望み、この世界でどうやってそれを叶えようとしているのか?

 まず望みがあり、現実はその後を追う。
 それが絶対の先行体験。
 それに対抗するにはこちらも先行体験で臨むしかない。
 要は、相手の計画を読み勝てば良い。

 持っていないものを語る王者の傲慢が必要だってことだね。


 んー、例えるなら、一を聞いて十を知るゲーム。
 一だけ提示されて十まで辿り着けるのか。
 思考の先回りが出来るのかという。

 実際は十までがっちり組まれているから、思考の後追いなのだが、まあ十が開示されるまでに十まで辿り着けば勝ちというか。
 いや、最後は両者の合意となるだろうから、どちらが勝ちというのはなく、どちらも勝ちという形になると思うが。


 そうなるとうみねことは大分違うゲームになるな。
 私個人の感覚だとうみねこは、一段ずつしっかり足場を組むことで一段ずつ登っていく感じ。
 段階的にステージを上げて行って、最終的には造物主の視点まで登らせようとするゲームだった。
 まあ、登れる人用と登れない人用のルートに分かれていたけど。

 なく頃にのゲームは基本、仮説の上に仮説を積み重ねていくスタイル。
 仮説という脆い足場の上にさらに仮説を構築し、塔の如く推理を築かなくてはならない。
 咲で言うところの徹底的に削り出して至った推理。
 推理という塔は、高く積み上げれば積み上げるほど倒れた時のリスクが高まる。

 だからうみねこでは一段ずつ足場を「確定」させながら登るスタイルだった。
 仮定の上に過程を積み上げるからこそ、土台となる仮定をしっかり固める必要があるのだ。

 しかしキコニアでは一だけを提示して十まで至れと求められる。
 重要なのは十つまり完成図で、仮定に仮定を重ねたぐらつく足場など後から整えれば良いと言わんばかり。
 つまり、まずは目的の特定、手段は後から着いてくる、という思想。


 んー、どう説明しようか。
 普通は、何かが起こり、それを認識し、そこから何かを思考し、そして行動に反映する、という段階を踏むわけだが。
 何か起こってから対応したのでは後手に回ってしまう。
 要するに事前の準備で決まる。
 藤治郎曰く、始まった時には終わっているのだ。

 誰かが何かを望み、そこに至るまでを思考した。
 それが神の計画であり預言。
 黙示録の見立てはそこに至るための手順でしかない。

 要するに、行動の前に思考が先にある。
 夢を現実にするためには、まずは夢を思い描く必要がある。
 誰かが望んだから、それが世界に反映されるわけだ。

 その反映するための初手、牽制のジャブがPhase1。
 それだけに全身全霊で対応してしまうのはまずい。
 相対すべきは、行動する前に終えた思考。
 相手の思い描いた夢と戦うのだ。

 将棋に例えると、Phase1は初手。
 その時点で相手はもう終盤までを思い描いている。
 それに対して一手先を読んで対応しても後手に回るだけ。
 初手を見て、相手がどういう完成図を思い描いているかを読まなければ対応できないわけだ。
 戦略なき戦闘に何の意味が?
 勝つことが重要なのではない、勝ち方が重要なのだ。
 戦いをどう決着させるかが重要なのであって、それに比べればそこに至るまでの戦闘は些末なこと。
 戦いは確固たる戦略の下に行われるべきなのだ。

 つまり、真っ先にやるべきはホワイダニット。
 黒幕は何を望んでいるのか。



 同じ記事内で何度も同じこと繰り返し言ってるな私。
 ま、それだけ重要だと言うことで。





 では相手は何を望んでいるのかだけど。
 私の考えは、これも他の記事で何度も言っているけど、“人間を生み出すこと”に変わりはないのだけど。
 もう一度最初からやってみようと思う。



 Phase1は全体的に、子供と大人、若者と老人という対比が多い。
 多いということは、これについて考えてくれということ。

 老人が若者を搾取するという分かり易い構図。
 では老人が悪で、それを倒せば解決なのか。

 ま、否だね。
 そんな分かり易いわけがない。


 考えなしの欲の突っ張ったモブとは異なり、しっかり自分の考えを持つ大人や老人は、自分の欲というものが少ない。
 自分の利益を度外視しているとしか思えない。
 人類の未来を考えているが、その未来を生きる人類に自分を数えていない。
 生き残るべきは未来ある若者だと考えている。

 この時点で自分の利益のための搾取というのは否定される。
 搾取自体は事実だけど、それは自分のためとは思えない。
 さらには、若者に人類の限りあるリソースをふんだんに投資されているのも事実。

 そこには若者への愛が見えないか。
 まぁ、一方的な愛なんだけど。

 なぜ厳しく育てるのか。
 それは自分たちがいなくなった後も立派に生きて行けるように。

 他の作品だけど、『四月は君の嘘』の主人公の母親みたいな感じ。
 あれが分かり易いと思う。


 そう、老人たちは自分の命を勘定に入れていない。
 自分たちが滅びることを前提としている。
 自分たちのことは諦めている。

 未来を作るのは若者で、生き残るべきは若者で。
 老人である自分は死ぬべき。
 自分たちの願いは子供に託す。
 そして若者が乗り越える壁として立ちはだかる。
 打ち倒され、踏み越えられるために。


 老人に対する愛があればこのくらいは視える。


 ホント老人たちの願いはクソ。
 極限状態だからこそ理解される類。
 でもそれに気付かない若者はもっとクソ。

 若者視点のみでいくら考えても答えに辿り着けるわけないよ。
 うみねこでチェス盤思考を習ったじゃないか。
 まずは相手の立場に立って考える。

 親がこんな酷いことをしたんだよ~と言うなら、まずは親の立場になって考えるべきだな。
 ま、子供にはそんな考えはできないのだが。
 人間、自分の立場からしか考えられないから。
 私もそうだし。
 他人事だから俯瞰的に見えるわけで。

 つまり、まずは老人の立場から愛ある視点で視るべし、ということかな。



 論を進めよう。

 若者や老人で一括りにしたけど。
 生き残るべき若者は、一番生きる力のある若者。
 つまり、特別な、一等な若者。
 であるなら、それを望む老人も、特別な、一等な老人であるのではなかろうか。

 最も長生きの老人は、神。
 神がそれを望んでいる。
 そう考えられる。

 要するに、神=世界の全てを消費して一人の人間を生み出そうという計画。
 己の死を前提、滅びを前提としている。


 チェスというゲームは、キングを取られれば負け。
 だから、キング以外の駒をいくら犠牲にしてでもキングさえ守り切れば勝ち。
 心をなくして論理のみで考えれば当然のこと。
 これは作中で提示された。
 世界を生み出し支える神は、言うなればキング。
 それを取られたら世界は終わる。

 にも拘わらず、キングを犠牲にして他の駒を守ろうとする。
 これは狂人の発想。
 誰もそんなの考えない。
 極度の天邪鬼が気紛れで極僅かな確率でするかもしれない程度。
 だからこれを防ぐことなど誰にもできはしない。
 負けるが勝ちという発想だもの。

 だが、ありえないということはありえない。
 何を犠牲にしてもキングを守ると提示されたからこそ、これはありなのだ。
 ただ犠牲が積み重なるのを見るしかないキングが何を思うのか。
 Phase1のサブタイトルは“代わりのいる君たちへ”。
 それを考えれば、これはありなのだ。
 このゲームは心を推理するゲームなのだから。
 情が全ての計算を崩す。
 情が絡めば人間どんな矛盾したことだってやるからね。
 ゲームで心があるかないかの差は大きい。
 心があるから人間はそれをやるのだ。

 キングを守るために他の駒が犠牲となるのは、駒の価値がそうであるがゆえのこと。
 その価値観を壊せばゲームがチェンジする。
 最上の価値の駒を最低の価値に貶める。
 これでキングを犠牲とするゲームの出来上がり。
 そしてキングの次に価値があった駒であるクイーンがキングに成り代わる。
 即ちゲームチェンジャー。

 この価値観については小此木が代弁してくれている。

「あのガキどもは、最前線で命をやり取りをしてんだぞッ!! いいか、一番偉くて誇り高いのは最前線なんだッ!! 埃ひとつ付かねぇお綺麗なモニタールームで威張ってるヤツらに、あのガキどもを見下す資格はねええぇ!!! 何がeスポーツのゲーム部隊だ?! やり取りする命の重さがわからねぇテメェらの方がよっぽどゲーム脳じゃねぇか、この野郎ォオオォ!!!」

 犠牲となる駒たちが一番偉くて誇り高く、その後ろに守られているだけのキングや高みから見下ろしているプレイヤーはそれ以下なのだと。
 キングやプレイヤーがその価値観に染まればゲーム崩壊待ったなし。

 でもさ。犠牲となるキングはさ。
 他の駒たちのために戦ったということじゃないのかな。
 人類のために戦う神って普通はいないよ。
 だから価値がないなんて言わないで欲しい。



 さて、キングがいなくなればもう他の駒は犠牲にならなくて良い、って理屈じゃそうだけどさ。
 これは押し付けられた平和で、押し付けられた幸せ。
 駒の幸せは駒の役割を果たすこと。
 そうなのだとしたら、これはその幸せを否定するものだ。

 守るべき自軍のキングを、敵軍のキングとして討ち取り、勝ったから喜べと言われる。
 そんなの喜べるわけがない。
 自軍のクイーンがキングを継承し、その許で一つに纏まり、もう束縛する神はいないから自由に生きろと言う。
 そんな自由が幸せなのか。

 王の継承については、三人の王がすでに語っている。
 王こそ代わりがいるのだというのが王の考え。

 神のいない世界は、ひぐらしの賽殺し編が詳しいか。
 神である羽入がおらず、世界に満ちていた神の愛がなくなっている。
 平和なんだけど無味乾燥なんだよね。
 そんな神のいない世界よりも、神のいる世界を選ぶ。
 それが子供の選んだ幸せ。
 親と一緒にいたいと望むのが子だろう。

 大人の理屈に対して、我儘を言えるのが子供の特権。
 理屈じゃない、心を蔑ろにするなってだけ。
 幸せの形は二人で話し合って決めるべきなんだよね。

 内のことは内で決める。
 外が決めることではない。
 子供の幸せは子供本人が決める。
 その心を蔑ろにしてはならない。

 そしてそれは大人の心も同じ。
 心は理屈で抑えることなどできない。
 大人も自身の本心を蔑ろにしてはならない。

 その心は小此木が表しているのかな。
 TIPSには、“ひょっとしたら小此木にも空を飛べる日が訪れるかも……”とある。
 大人も空を飛びたいと思っているんだよ。
 藤治郎もそれだよね。
 その夢を諦めた。
 だから子供に夢を託した。
 つまり、本心では諦めたくはないのだ。

 叶えられるなら自分で叶えるのが筋。
 託すのはそれが絶たれた時でいい。
 他の道があるなら諦めてもいい、でも袋小路で諦めたら死を意味する。
 だから決して諦めてはならない。
 しかしその先の道を作るために、願いを託すというのはわかる。
 でもそれは、託された者がひとり取り残される道でもある。
 これまで二人三脚で来たのだから、この先も二人三脚で行くのが理想だろう。

 大人でも老人でも夢を叶えたっていい。
 だからその日が訪れてもいいように、ちゃんと目を開いていないと。
 そしてその日が訪れたら、心の赴くままに飛べばいい。
 子供と一緒にね。





 キコニアでは大人の活躍が見れそうで楽しみ。
 子供の活躍が大好物の大人がいたから、他のなく頃にでは大人の活躍が抑え気味なところがあったからなぁ。
 でもキコニアでは、子供と大人、若者と老人という世界を二分する存在を明確に打ち出しているわけで。
 つまりはそういうことだよね。

 やはり選択は内でなされるのだな。
 うみねこでは読者に選択を委ねた。
 でもキコニアではその選択を外だけに委ねることはしないだろう。
 たぶんきっと。
 私はその選択する姿を見たいなぁ。

 読者に出来るのは、出来るだけ心に寄り添うことと、こういう未来が良いんじゃねという提示と、内から手を伸ばされた時にその手をちゃんと掴み取ることだけ。





 で、うみねことキコニアの違いだけど。
 うみねこは、小さな戦場から始まり、叩き上げで出世して少しずつ規模の大きい戦いを経験して、最終的に戦略規模の広い視野を獲得するゲーム。
 キコニアは、その広い視野を前提として、確固たる戦略の下に戦うゲーム。
 こんな感じだね。
 やはり上級者向け。


  1. 2020/03/14(土) 20:29:40|
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【キコニア】先取された後悔

 青い都雄についての考察が大分固まってきたので、それについてやろうと思う。

 青い都雄の語る預言。
 これは未来から過去へ向けた言葉なのか。
 それとも一巡前の世界の出来事なのか。
 あるいは計画か妄想か。
 それによって青い都雄の立ち位置は変わる。

 私は前回でそれが固まった。
 神の計画は、絶対の執行を約束する先取された未来の先行体験。
 その緻密なシミュレートの結果生じた、疑似的な未来の都雄であると。
 根拠としては。


「嫌だよ、絶対に変えないよ。だって、僕は君なんだから。君たちの中の、新しい1人なんだよ」


 この“君たちの中の、新しい1人”という部分。
 過去の都雄だったら、“新しい”にはならないだろう。
 新しく追加される存在で、なおかつ未来の預言を持ち得る者として、バケウソの先行体験を当て嵌めてみたわけだ。

 計画するとは、シミュレートすると同義。
 A3Wがワールドシミュレーターなら、それを演算し支えているのが神。
 その神が、A3Wで神の計画を実行する前に、その計画をシミュレートした。
 それが絶対の執行を約束する先取された未来の先行体験。
 即ち約束された絶対の運命。

 絶対に現実化するほどに現実性の高いシミュレートなので、むろん人格も完璧にシミュレートしている。
 つまり、神即ち“父”ミャオを殺して、神の主人格となって一人残された都雄の人格も。
 神の全知より導き出された運命は絶対であるが、それは全知であるが故のもの。
 絶対の運命を生み出した結果、そこよりこれまでになかった要素が生まれ、その要素が加わった状態から始まった運命は、元の絶対の運命から微小な揺らぎが生じてしまうという皮肉。
 そうやって袋小路の迷路に道を無限に増設していくのが、無限の魔法の真骨頂なわけだけど。

 例えるなら、一番最初の先行体験は「運命Ver1.0」で、その結果新しい我が生まれ、その新しい我を加えて算出されるのは「運命Ver1.01」。
 そして得られた新しい我を加えて運命を算出するのを無限に繰り返し、いつか「運命Ver2.0」に辿り着くことを目指している。
 それまではずっと卵の中。
 いつか運命を孵すその時まで。


 青い都雄が先取された後悔だとするなら、性格があれだけ捻くれてしまうのも頷ける。
 自分をプログラムだと卑下する気持ちも理解できる。
 何より設定が美味しい過ぎる。
 輝く主人公の闇落ちした姿で、過去の自分を消しに来た改変者で、真実に満たない幻想の存在。

 嗚呼、いい。
 我が愛しのベルンカステル卿にそっくりなのが何よりも良い。
 猫を食らって生き延びた猫の女王。もう一人のバケモノ。
 立ち位置的に同じだからな。

 運命を先取すると、運命を嘲笑う魔女的性格になっていく。
 そして運命に弄ばれる側から、弄ぶ側になる。
 自分がされたから、それを誰かにやり返したい。
 自分しかいない世界でその対象となるのは、まだ運命を知らない頃の自分自身。
 その自分も次は同じように、まだ何も知らない自分を虐げる。
(同時に、同じ思いをさせたくないという思いやら、そこから大切なものが学べるという思い、さらにはそこから新しい運命を生み出して欲しいという願いやらも含まれているだろう。)
 そうやって無限に自分を生み出し、その自分たちを踏み台にしてゲームの階層を昇り、いつか神へと至らんとしたバケモノがいたらしい。
 そしてその傍らには、それを教えられて同じくバケモノとなった巫女がいたとか。



 青い都雄が自身である都雄を消そうとする動機は、愛する者を守るため。
 それは神の動機の鏡写し。
 青い都雄の動機を知ることで、神の動機も知ることができる。
 小数点以下の存在に堕ちたのも神の鏡写し。

 駒でしかない今の都雄だけではパズルのピースが足りない。
 “約束された運命”があるから、それを“打ち破る運命”を作れる。
 未来の姿、未来の後悔があるから、それを変えようという気が起きる。
 絶対の先行体験は、現在と未来を交わらせる。
 そしてさらに新たな未来を紡ぐ。
 先取された後悔は、その新たな未来の扉を開くために必要なピースなのだ。

 都雄と青い都雄の対立は、言わば自己肯定と自己否定の対立。
 どちらも1bitの意見。
 合わせれば2bit。四通りの意見を生み出せる。
 対立意見を止揚し、両方が賛成し得る意見を生み出す。
 青い都雄を味方に付けた時こそ、都雄が真の主人公、プレイヤーと成れるのだ。

 “父”と“子”、ミャオとミャオの対立もまた同様。
 これもまた鏡写し。

 異なる意見の対立を解消し統合する。
 両者が賛同する道こそが、両者が共に歩める道。
 やっぱこれだよな。





 もう少し青い都雄のことをやろうかな。


 人間であるオリジナルの都雄。
 左半身のみが残った死体。
 これについて考えてみる。

 オリジナルの都雄は現実、即ち巨大サーバーの外の世界にいたのか?

 まず考えられるのが、脳工場での兄。
 ミャオが神で脳工場での妹、都雄がミャオの兄という設定を与えられていることから。

 だがこれは違う。
 脳工場の兄は肉体が解体され、脳だけになっている。
 オリジナルの都雄の死因から判断すると異なることが判る。
 ミャオは失った“兄”という立場を、都雄に与えただけなのだろう。


 次に考えられるのは、青い都雄の生前がオリジナルの都雄という可能性。
 私はこれだと思っているのだがね。

 まずオリジナルの都雄の死体が象徴的すぎる。
 綺麗に右半身だけ失うのはおかしい、意図したものに思える。
 作中に、脳から嫌な記憶の部分を地面に擦り付けて削り取りたい、みたいなのがあったと思う。
 この死体はまさにそれ。
 私は右半身が都雄で、左半身がミャオだと見ているのだが、この死体は都雄の部分が綺麗に削り取られている。
 逆から見れば、ミャオの部分が生きている、と解釈できる。

 肉体的にみればそのアバターは生きているはずがない。
 しかし、システム的に生きていると誤情報を与えられば、生きているようにアバターを動かせるのが神の叡智。
 神であるミャオにとってその程度の“魔法”は簡単だろう。


 さて、先行体験において、青い都雄はアバター的に死に、その後青いアバターを与えられて復活、神の子としての役割を果たし、ミャオを討った。
 そうシミュレートされたデータが青い都雄。
 そして、その先行体験を模倣しているのが現状の都雄。
 それは青い都雄からすれば、予め決められたことを実行するだけのプログラムのように見えたことだろう。

 神が用意したプログラムに沿ってしか動かないのであれば、それはそうプログラムされた駒でしかない。
 神の想定を覆して初めて、都雄は人間と成るのだ。

 そんなわけで、あの都雄の死体は、先行体験における生前の青い都雄でいいんじゃないかと考えている。



 全ては模倣から始まる。
 人は先人を真似、先人より学び、成長して新しい自分なりのものを生み出せる。
 何も学ばずに自分なりのことをやっても、それはすでに先人がやっていて、もっと洗練されたものになっているのだ。
 まずは先人に学び、それから自分らしさを出すべきである。
 守破離だね。

 模倣することは恥じゃない。

“何も真似したくないと思う者は、何も生み出すことはない”
――サルバドール・ダリ


 と、言うことなのだから。

 運命もそうだ。
 まずは守、模倣し、やがてそれを破り、そして離れる。
 そうして自分なりの運命を作る。
 そんな感じなのかもしれない。





 先行体験についてもう少しやろう。


 自分が苦労した経験を持つ先達は、後進に同じ苦労をさせたくない派とさせたくない派に分かれる。
 させたくないのは同じ思いをさせたくないからだ。
 そして同じ苦労をさせたい派は、ネガティブでは自分が苦労したのだから同じだけ苦労しろという思い。
 裏返せば、同じ経験をしなければ大切なことを学べないという思いがある。
 人間は自らの体験でしか学ばない愚かな生き物だからね。

 同じ苦労はさせたくない、しかしそれを経験せねば学べないこともある。
 二律背反。
 これを解消する手段は歴史に学ぶこと。

 つまり、人間は自ら体験しなくとも、知識を得て想像の限りを尽くすことで学ぶことができるのだ。


 そこで先行体験だ。
 実際に体験せずとも、現実に等しい想像による疑似体験から学ぶことが出来る。
 高度なイメージトレーニングのようなもの。
 それをするのとしないのでは、実践した時の結果が違う。

 他にも、こうなりたいというイメージをしながらの練習と、何もイメージしない練習では成果が違うという。

 密度の高い想像からは何かを学ぶことができる、糧にできる。
 逆を言えば、中身の空っぽな妄想をしても何の糧にもならないということだが。


 現実じゃないから何の意味もないという人がいるが、想像・妄想の類だろうと、何でもないところに意味を見出すのが知性というもの。
 創作された物語だろうと、そこから何かを得ることはできる。
 何かの意味を見出しているから物語を読んでいるわけだからね。
 無駄だと思う人はそもそも物語を読まない。

 その物語で夢オチだから、仮想現実だから、作中作が創作だから無駄・無意味って良く言われるけど。
 現実じゃないから無意味なら、物語は全て無意味になってしまう。
 たとえ夢と消えるものであろうとも、そこから何か意味を見出せば無駄ではなくなる。

 つまり、自分が無駄にするかしないかだけなのだ。
 学ぶ人は何からだろうと学ぶ。
 そういう人を賢者って言うんだだろうね。


 そういう意味では絶対の先行体験とはその一種の極致だと言える。
 空想、妄想、幻想の類から何かを得ようという試み。
 何も無駄にしたくないという足掻きの果てにそれはあるのだろう。

 ま、常人にはそんな密度のイメージなど出来ないのだけどね。
 そういうものがあると仮定して語ることは出来るわけだ。
 多少でしかないけどね。


「前に言ったろ。君は人格なんかじゃない。プログラムなんだよ。だから、僕という新しい人格がインストールして追加されたって、何もおかしいことなんかない」

 これは青い都雄の台詞。
 先行体験は、簡単に言えば、先行して体験した未来の自分を持ってくるもの。
 疑似的な精神だけのタイムスリップ。
 それを繰り返すと、精神が元のからどんどんかけ離れたものになる。
 実際に現実で実行に移す時、どんなバケモノが卵から孵るのか。


  1. 2020/03/07(土) 20:51:16|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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