FC2ブログ

うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】バベルの塔

「この世界は、基礎の段階ですでに欠陥の生じた塔のようなものです。……このまま高くし続ければ、いつか必ず崩れて、大勢がもっと不幸になる。それも、高くなればなるほどに、もっと大勢が」
「……一刻も早く。欠陥を取り除き、塔を立て直すべきなんです」
「私はこの世界が、どれだけ醜く歪み、人が人を搾取し続けるおぞましい構造をしているかを知りました。……私は幸運にも、恵まれた生活を得ているけれど。……だからといって、無視してはいけない。……これは、力を持ったものの、責務なんです。……欠陥を取り除く力を持った者に課せられる、………人を遥か天上から俯瞰する者の意思なのだと、……信じています」


 これはクロエの台詞だが、そこで塔の話が出てくる。
 この塔はバベルの塔のことだと思われる。
 ひぐらしでもバベルの塔の話は出ていた。

 ――バベルの塔。
 人類の言語が一つだった頃、諸民族が協力して天まで届く塔を造ろうとした。
 それを見た神は怒り、塔を壊し、人類の意思が統一できないように言語をバラバラにしたという。

 要するに、人類を一つに纏めること、またはその上での一大事業の完成、それが天上から俯瞰する者、神の意思であるとクロエは言っているわけだ。


 バベルの塔についての私の考察は前に書いたが、もう一度書こう。

 キコニアにおける神が生み出した人類は、執筆者が生み出した物語たち。
 神の魂=人類の魂の総体であるならば、神自身の物語=神が紡いだ無数の物語の総体。
 無限の物語によって築かれた、天に届かんととする塔の如き巨大な物語。
 このバベルの塔のような物語は、人類が、物語たちが一丸となって築かなくては完成しない。

 こんな感じ。
 とりあえず、何でそんな物語を作ったのかという動機を、うみねこVerとキコニアVerの両方でやっていきたい。





 まずはうみねこVer。


 何故執筆者はそんな堆い物語を作ろうとしたのか。


 まず第一の理由はコンプレックス。

 自分の人生の物語の主人公は自分自身。
 その自身の物語が、人間として生きていない、みすぼらしい物語であると執筆者は考えている。
 だから人並みの、人以上の物語に成りたいと願った。

 その為に取った手段が魔法。
 理想の自分、理想の主人公を思い描き、それを演じる、その物語を演出する。
 自分の人格に他の人格を足すことで、知識や経験を足す。
 自分の人格に、同一だが異なる自分の人格を増設することによる、自身の物語の拡張。

 最初に生み出したのが「ヤス」。
 やがてヤスはプレイヤーに昇格し、対等な相手として共に物語を紡ぐことになる。
 二人が生み出す無限の物語は、二人の要素を受け継いだ同一だが異なる物語。
 原型である二人の物語を親とすると、それらは子や孫となる物語。
 それは孤独な執筆者にとって、まさに家族だったのかもしれない。


 第二の理由は、執筆者にとって物語を紡ぐことこそが生きることだから。
 自分の人生を生きていなかった執筆者は、「ヤスの物語」や、二人で共に紡ぐ物語たちを生み出すことで、初めて“生きた”。
 それこそが自分の人生であり、「自身の物語」なのだと。
 ヤスやみんなと共により豊かに生き、豊かな物語に育てていった。
 それは誰にも読ませることのない物語。
 自己満足のための物語だった。

 だったのに、いつしかその輪に外の人間を加えたくなった。
 物語は誰かに読んでもらうもので、謎は誰かに解いてもらうもの。
 人は誰かに人だと認めてもらえなければ人に成れない。
 誰かに読んでもらうことで物語は完成する。
 バベルの塔の最後のピースとして、その“誰か”を欲した。


 第三の理由は、生み出した物語が何よりも大切なものだったから。
 「ヤス」は執筆者の灰色の世界に彩を齎してくれた救世主。
 恩人であり、子供であり、親友であり、好敵手。
 他にも様々な物語で、様々な関係を結んできた。
 執筆者にとっての光。
 失えば暗い灰色の世界に戻る。
 どれほど大切なのかは言葉では尽くせないだろうね。



 これを元にキコニアVerもやろうか。





 脳を取り出して巨大サーバーに繋ぐ魂の楽園。
 そこでの永遠に耐えられずに人類の精神は絶滅した。
 唯一の生き残りである神を残して。

 話し相手もおらず、変化のない日々を永遠に暮らす。
 それに精神が耐えられるはずもない。

 ひぐらしでは、その永遠の退屈の結果として生じた人格たちのことが描かれたことがあった。
 それと同様に、話し相手もいない環境に置かれた結果、神は話し相手を自ら作り出したのだ。
 それが“子”の人格。
 パラレルプロセッサーの始まり。

 それは傍から見れば、“子”の写真を壁に貼って話し相手にしているように思えるだろう。
 だがそれこそが神にとっての救いだった。
 相手に話しかけることで、相対的に自分自身が明確になり、自己の安定に繋がる。
 話し合うことで、一人では達しえなかった結論に辿り着く。
 即ち、新しいものを生み出すことが出来た。

 精神の延命のためには未知を発見することが必要だった。
 神はそれを見つけ出してくれる“子”に縋った。
 それはまさしく、藁にも縋る思いだっただろう。
 それは対処療法的で根本的に解決するものではなかったが、溺れているのだから掴めるものならば何でも良かった。

 そもそも根本的な解決とは、魂の牢獄となった楽園から解放してくれる外からの助けである。
 それがなかったから、“子”に縋ったのだ。

 よって、“子”は神の世界にとっての救世主。
 その“子”と共に生み出した人類は、神にとっては孤独を埋めてくれる家族。
 家族に支えられて自分は在る。
 神は自身を、“みんな”の総体であると定義した。
 誰一人取りこぼさず、誰一人余さずに“自身”を組み立てる。
 それが神のパズル。
 それがバベルの塔。





 さて、もう一度クロエの台詞を見てみよう。


「この世界は、基礎の段階ですでに欠陥の生じた塔のようなものです。……このまま高くし続ければ、いつか必ず崩れて、大勢がもっと不幸になる。それも、高くなればなるほどに、もっと大勢が」
「……一刻も早く。欠陥を取り除き、塔を立て直すべきなんです」
「私はこの世界が、どれだけ醜く歪み、人が人を搾取し続けるおぞましい構造をしているかを知りました。……私は幸運にも、恵まれた生活を得ているけれど。……だからといって、無視してはいけない。……これは、力を持ったものの、責務なんです。……欠陥を取り除く力を持った者に課せられる、………人を遥か天上から俯瞰する者の意思なのだと、……信じています」


 バベルの塔、神のパズルは神の視点のもの。
 パズルのピースである人類が知るはずのない情報。
 それをクロエは知った。
 どこで?
 無論、コーシュカからだろう。

 〈パンドラの箱〉で記憶を引き継いでいるコーシュカは、アバターより解放された純粋な思考である聖霊、またその専用のアバターの時の記憶を持つ。
 故に、人類より一段上層からの視点で思考が出来る。

 やはりクロエがリリャを殺したのは、アバターから解放するためなのだろう。
 そうなるとギュンヒルドもコーシュカらそれを知らされてそうだな。


 世界の搾取の構造の根本原因は、神の延命のために生み出される命。
 そのために子供が粗製乱造されている。
 世界の末期だから消費速度が激しいのだろう。
 根本的に解決するには、巨大サーバーという魂の牢獄から脱出する必要がある。

 基礎の欠陥は、人類の原罪であり神の悪夢、脳工場。
 誰かから受けた仕打ちは、誰かにし返さないと晴れない。
 復讐の連鎖。
 この罪を人類は神より受け継いでしまっている。
 終端にて顕現するこの悪夢は、愛する人類にそれを強いてしまう神の咎。
 抑えきれない衝動。
 故にそれを忘却の深淵に封じているのだ。

 クロエは、この原罪を取り除くことが神の意思であり、力持つ自分たちに課せられた責務であると考えている。
 悪夢を消し去る、それは確かに神の意思にして思想。
 それを忠実に果たそうとは、神の忠実なる駒である第九最上騎士団に相応しい。

 青い都雄の台詞を引用しよう。


「……あはははは。さっすがは殺人プログラム」
「いい感じで、愚かな人類は滅ぶべきなんだーっていう、三人の王たちと同じ思想に染まっていくね。チューリップの球根から芽が出て、チューリップの蕾が出来ましたーってくらいに、当たり前にね」
「お前の思い通りになんかさせないよ……」
「……必ず必ず、お前というプログラムを、削除してやるからね……」


 まさしく根は同じ。
 神という根より出た芽からは、神と同じ蕾ができる。
 出てくるのは神と全く同じ思想。
 災害ユートピア。
 全人類を一つに纏め平和を受け取らせるために、災害を起こす。
 そして、悪を排除すれば残るのは善のみである。

 しかし第九最上騎士団が知れるのはそこまで。
 まさか神がその悪夢を背負って消えようとしているとは思ってもいないだろう。
 神が消えることと引き換えにバベルの塔を完成させようとしているとはね。

 神の計画は狡猾で圧倒的。
 善対悪という分かり易い構図にして、全人類を善側に誘導。
 敵も味方もどちらも神の駒。
 神の意思で悪を滅ぼし、神は悪を背負い打ち倒される。
 つまりこれは壮大な茶番だ。
 全員がそれを望む、人類も神も全てが。
 だからこれは約束された絶対の運命。
 ……実際、準備までは完璧なんだよね。


 レアの台詞を引用しよう。


「これより、警告を無視して侵攻を続けるACR軍に対し、祝福されし平和活動を開始します。彼らが悔い改めるならば、神は必ずや彼らの命も魂も救うでしょう。海に消えるのは悔い改めることを最後まで拒絶した悪魔の子だけです!」


 人類の魂を救うため、神は悪魔となって海(忘却の深淵)に消える。
 助けを拒絶して。
 神に従い、神を悪魔として殺す。盛大な皮肉だな。
 人類にこの言葉を贈ろう。

“平和を譲歩で買ってはならない。相手は売り物になると知ってしまう”
――ピッコロ・マキャヴェリ


 何を対価として平和を購うのか、自分の頭で考えるべきだろうね。
 思考停止は負けなんだよな。

 今度は都雄の台詞を引用する。


「世界をぶっ壊す前に、自分で自分の頭蓋骨をぶっ壊せば、お互いウィンウィンなのにな、何でやらねぇんだろうなッ」


 神の頭の中に人類は住んでいる。
 頭蓋を壊すことは人類諸共に死ぬことを意味する。
 どちらも負け。勝者なし。
 人類を勝たせるために神は策を練ったのだから。

 とりあえず人類にはこの言葉も贈ろう。


“チェスは愛だ。相手の差し手に、相手が籠めた以上の愛を読み取る”
――ジャック・へイン・ドナー



 相手の指し手に愛を視よ。
 さすればどれほど自分たちが愛されているか理解できるだろうさ。
 愛と引き換えに平和を手に入れてどうする。
 両方得るべし。
 ラブ&ピース!

 最後に青い都雄の台詞を引用しよう。


「水の汚れを取り除く方法はいくらでもあるだろうけれど、……8MSは取り除けない。8MSは八百万に宿る神々なのだから。神は、取り除けない」


 神は取り除けない。
 それが結論だろう。
 神こそが基礎にして要。
 それを抜かして何が完成するのか。

 換骨奪胎。
 神の存在を消し、神に成り代わり、神の積み上げてきた全てを自分のものとして上書きする。
 神が自ら消えることで、人類に与えられる平和(ピース)。
 子に打ち倒され乗り越えられることが親の喜び。
 しかし、そうして生まれ出ることが郭公の幸せなのか。
 先に立った後悔。
 それがあの青い都雄だろう。

 神の計画は、絶対の執行を約束する先取された未来の先行体験。
 故に未来の都雄の後悔も先取される。
 我は我にして我らなり。
 そうして新しく加わった人格、それが青い都雄。
 想定され、すでに定まってしまったがゆえに、もうその枠から出ることはできない。
 “大人”になってしまった都雄。
 まだ定まっていないから、枠の外に出る可能性を残しているのが“子供”。
 それが今の都雄。





 ループと先行体験に違いはあるのか。
 ループしているのは仮想現実。
 つまり、シミュレーター上のこと。
 先行体験もシミュレーターで行ったシミュレート。
 基本的にどちらも同じ。

 そもそもキコニアにおける現実とは、巨大サーバーの外の世界のこと。
 その中でのことは、まだ確定していない猫箱の中の出来事。
 孵る前の卵。
 何が生まれ出でるのか定まっていない。
 そういう意味では、生れ出るまで全てがシミュレートと言える。

 そうなると外部因子であるジェイデンが例外となる。
 外部の目は卵の中身を確定させるもの。
 バベルの塔を完成させる最後のピース。

 そのジェイデンが現れたことで、神はバベルの塔完成の計画を立てるために最後のシミュレートを行ったはず。
 そのシミュレートは、神即ち“父”が“子”に討たれ、“子”を中心として人格/物語が編纂されるというもの。
 そこから青い都雄、先取された“子”の後悔が生まれた。
 そして同時に、“子”のみを選んだジェイデンの人格もシミュレートされ、その人格を生み出しているだろう。
 それが藤治郎。
 “子”を生みだすための父親の役を期待された駒。
 そして自分が消える時に、共に最後までいてくれることを期待した駒。

 藤治郎は、ミャオが思い描いたジェイデン。
 ミャオの頭の中にいる駒の一人。
 他の駒は全て“自分”だけど、その駒だけは“他人”。
 自分の思い通りにしか動かない駒ではなく、意に反することができる人間。
 事前にどれほど想定しても、未知を起こす可能性を捨てきれない。
 だって神は未知を期待しているから。
 それを他人が生み出してくれると信じているから。
 想定を超える、それは奇襲。
 ジェイデンを模した藤治郎もまたそれを得意とするだろう。
 だから奇跡の目が出る可能性は常に存在する。
 神がそれを期待するがゆえに。
 

 神の想定を超えることができるのは、他人そのものであるジェイデン、その他人であるジェイデンを模した駒藤治郎、そしてそれらと神が共に生み出す“子”の三人。
 神一人で“子”を生みだしている時は想定を出ないけど、想定を超える他人と共に生み出せば、自身の想定を超えるニンゲンになれるということだろう。
 いや、藤治郎は想定されてしまいもう枠から出られないのかもしれない。
 しかし、未知のための布石を置くことは可能だろう。
 後は若者たちがそれを使って未知へと羽ばたいてくれれば良い。

 神は駒たちのバックアップから力を得る。
 その駒の中に他人を模したものがいる。
 ならそれは他人から力を得ているというjことにならないだろうか。
 それで奇跡を起こすという物語だと美しいな。


スポンサーサイト



  1. 2020/02/29(土) 21:37:13|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】脳無しと魔法幻想

 聖櫃騎士団と思われる、フィーアが所属する秘密研究所。
 そこに新しくやってきた研究者が、頭頂部を切り取られ平らになっていた。
 おそらく脳を丸ごと切除されたのだと思われる。

 脳関連で脳工場と結び付けられがちだが、本当にそうなのだろうか?
 脳工場では脳に脊髄が付いていた。
 脳だけ抜き取られただろう研究者は、これとは異なる可能性がある。


 まず、私はA3Wを仮想現実だと考えている。
 そこにおける肉体はアバターに過ぎない。

 アバター側に脳がなくてもアバター動かせるよね。
 むしろ当然だよね。

 アバター側に脳がなくてはアバターを動かせないのは、仮想現実が現実と同等のルールによって縛られているからである。
 ルール上、そうであるに過ぎないのだ。

 だったら観測者を騙せば良い。
 脳があるという欺瞞情報を発信し、システム側を騙す。
 脳があると誤認定させれば、世界の方が脳があるように振舞ってくれる。
 実際には脳がないにも関わらず。

 これは即ち、「うみねこ」における幻想であり魔法。
 観測者を騙すことで、観測者に真実が異なる世界を生み出させる。
 真実と幻想が並び立つ猫箱の中の世界。

 真実が暴かれた時、研究者は動かなくなるわけだ。


 不死を研究してたヤツも同様だろう。
 すでに死んでいる者を、まだ死んでいないという欺瞞情報によって、生きているかのようにシステムを騙す。
 「うみねこ」風に言えば、実際には死んでいる者を、死んだふりをして生きていると思わせることで、まだ生きているという幻想を作り出すことができる。

 逆を言えば、実際には生きている者が死んでいるという欺瞞情報を流せば、亡霊として振舞うことができる。
 存在していないという欺瞞情報で、機械の目には映らないことも可能だろう。


 システムとは即ち世界。
 世界の目とは8MS。
 8MSを騙すことで世界を騙している。
 それが8MSによる環境変化。

 人類が散布している8MSは、言うなれば色眼鏡を搭載させたものだろう。
 それによって世界は自らの捻じ曲がった姿を視て、それを信じた結果魔法に掛かり、人類に都合の良い姿に変貌した。


 ガントレットナイトの能力も同様。
 観測者を、世界を騙し、幻想を真実として振舞わせることが出来る力。

 仮想世界A3Wは現実というルールに縛られている。
 だからそのルールに極力逆らわないことで、省エネで幻想を生み出すことができる。
 ヴァレンティナの〈エネルギー機動性理論〉はそれに沿ったもの。





 もうちょいうみねこ風に解釈してみようかな。


 キコニアでアバターの中にいる時は、うみねこではゲーム盤の駒として置かれている時。
 キコニアでアバターが死んで純粋な思考である聖霊に戻るのは、うみねこではゲーム盤で駒が取られて駒置き場に置かれること。
 つまり、ゲーム盤上で肉体が死んでも、別の形、魂で存在し続けているわけだ。
 ゲーム盤世界では、肉体=アバターとはその程度の物。

 肉体は魂を縛るもの。
 経験や記憶はそれに依る。
 その立場で知りえることしか知らず、知りえないことは知らない。
 例えば、A世界でのことはA世界での肉体の時しか知らず、B世界の肉体の時ではA世界のことは知りえない。
 肉体=情報フィルタであり、魂を制限する縛り。

 よって、魂が肉体より解放されるのは、色々な制限から解放されるということでもある。
 肉体というリミッターが外れた時、魂はどれほどの力を発揮するのか。


 さて、不死や脳無しは、一度駒置き場に置かれた駒がゲーム盤にもう一度復帰したといったものになるだろう。
 むろん、肉体=アバターに戻ったわけだから、その制限を受けるわけだけど。
 でもそのアバター、前のやつは真実の肉体だったけど、今は幻想の肉体なんだよね。
 制限付きとは言え、前の肉体より解放的ではあるだろう。

 前の肉体が大地だとすると、今の肉体は空を飛んでいる。
 真実と幻想の二重存在。
 ある意味パラレルプロセッサーに近いのだろう。
 一方の真実側は死んで停止しちゃってるけどね。
 思考が飛躍しやすい、文字通り空を飛んでいるんじゃなかろうか。
 さらには、肉体による疲労などに邪魔されずにずっと研究が続けられるしね。

 秘密研究所。
 そこは動く死者が犇めく、この世とあの世の境目。
 そこで研究に没頭している人間は、文字通り人間を止めているのだろうね。

 青い体のガントレットナイトは、言うなれば幻想体。
 真実の肉体が死に駒置き場に送られた聖霊が、ゲーム盤に再び降り立つための代替の体なのだろう。
 まず生体ではないので、耐G性能は大幅アップ。
 多少の致命傷を負っても活動可能だろうし。
 アバターを破壊されても、また代替の体を造れば復活可能だし。
 他にも色々改造されてそう。
 魔法、世界を騙す力も十全に理解して使ってくるだろう。

 うみねこでも幻想に飲まれたニンゲンは魔法を使ってくるしな。
 あれも本体はすでに死んでいるからそう扱うことができるわけだし。



 あとマリオの自裁に使われた叡智だけど、あれは人の真実の姿を取り戻させるものなんじゃないかな。
 マリオも世界を騙して生き永らえていた。
 だから尊厳を取り戻して塵に戻った。

 マリオが翻訳して作成した装置は、地球の真実の姿を取り戻させるもの。
 地殻が動いたのも、動かしたのではなく、元の位置に戻っているだけ。
 自分の本当の姿を思い出した地球が、本来の姿に戻ろうとしているだけ。

 思うにその後の自動ドローンによる虐殺は、それの辻褄合わせなのではないかと。
 本来なら地球は瀕死の姿であり、幻想によって人類の過ごしやすい姿になっていた。
 つまり、真実の地球の人口と、幻想の地球の人口には差が生じる。
 その人口の辻褄を合わせるために、本来の人口まで数を減らした。
 その可能性があるんだよね。

 世界は余さず幻想に塗り潰されている。
 地球の環境は真実を取り戻したけど、人口はまだ幻想のまま。
 よって、明らかにされた真実に合わせて幻想も変動する。
 それが物語の、世界の辻褄合わせ。

 例えば、赤き真実で“〇年〇月〇日の人口は××です”とあったら、それに合わせて幻想側も人口を調節しなければならない。
 その過程は問わず。
 そしてその“過程”が“黙示録”で修飾されたわけだ。
 つまり、真実では環境に耐えられず死んでいたのだけど、幻想ではドローンによって殺されたことになる。
 また、真実では生まれるはずのなかった命もたくさんあるはずだし。

 まだまだ世界は幻想に塗れているわけだ。


 神の叡智を翻訳した結果が、各種幻想を生み出し誤認識させること。
 またはその逆も可能。
 とすると、大元の神の叡智もその類。
 まぁ、独りぼっちの真っ白な部屋で神が使った魔法は、“自分は一人ではない、みんないる”で、それで世界を生み出したんだからね。
 仕方ないね。

 幻想の上に幻想を塗り重ねて行った果ての世界。
 幾多の幻想を、数多のニンゲンを生み出し続けた。
 全てを剥ぎ取れば、真っ白な部屋に独りぼっち。
 やはりそこまでやってしまえばハッピーエンドじゃなくなるな。

 真実という下地を剥き出しにしつつ、それでいて“みんな”という幻想を保つ。
 そのラインの先にハッピーエンドはある。
 平和の壁を双方から支えなくてはな。


 で、終末時計が頂点を指した時にマリオの装置が起動したということは、あれが世界の終わりの始まりだったわけなんだよな。
 何の世界が終わったかと言えば、ま、幻想世界が、だよね。
 後は虚飾が剥がれ落ちていくだけ。

 ゲーム盤を覆っていた幻想を剥ぎ取り、展開されていた駒を回収し、ゲーム盤を真っ新な状態に戻す。
 つまりこれはゲーム盤のお片付け。
 次のゲームが開かれるまで、駒は収納ケースでお休み。
 幻想に満たされていた部屋は、何もない真っ白なものに戻る。
 それが世界の真実の姿だから。

 真実は真っ白な部屋。
 その上に地球の幻想が塗られ、さらにその上に人間に都合の良い地球の幻想が塗られていた。

 さて、世界が元の姿に戻った時、部屋に残った人間は一体何人なのか?
 これがキコニアの最大の問いだと私は考える。


 色即是空。
 仮想現実(色)とは、即ち何もない「空」。
 諸法無我。
 全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がない。
 無我あるいは非我とは、真我ではないもの。
 我(アートマン)とは、永遠に変化せず、独立的な所有主として、支配能力があると考えられる実存を意味する。(by Wikipedia)

 仮想現実の上に成り立つものは全て実体がない。
 仮想現実において実体のある存在は現実上の存在だけ。
 仮想現実という諸法無我の世界において、永遠に変化せず、独立的な所有主として、支配能力がある実存、即ち真我とは、仮想世界の神であるミャオのことを指す。
 それ以外の人類は全て、実体性のない無我。
 唯一の例外は外の現実からの来訪者たるジェイデンだけ。

 幻想の人間の“我”も幻想なのか。
 夢だからとなかったことにするのか、それとも夢だとしてもあったことにするのか。
 実体性がないから存在しないのではない。
 実体性のないものも因縁によって生じる。
 因縁とは内因と外縁。
 内因と外縁によって結果は生じる。

 真っ白な部屋に残る人数。
 私が出した答えは、三人。
 ミャオ(内因)とジェイデン(外縁)、そして都雄(結果)。

 環境が人を作り、関係性が人を繋ぎとめるのなら、関係を続ける限りその存在は消えはしない。
 そういうことじゃないかな、と私は思う。
 

  1. 2020/02/22(土) 19:33:24|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】ゲームチェンジャー

 ゲームチェンジャーとは、ゲーム盤上を支配する古い価値観を覆し、新たな価値観でゲームの盤面を一新する者である。


 Phase1の現状は、表では人類が五つの陣営に分かれて争い、裏では裏では秘密結社たちが蠢いている。
 全て人類VS人類の争いなのである。

 ここからゲームチェンジが行われるのだが、Phase4まで予定されていることから、私は三回ほどゲームチェンジすると見積もっている。



 最初のゲームチェンジャーは都雄。
 神の子として覚醒。
 人の魂を善の部分と悪の部分に分離させ、悪の部分こそが全てを元凶であるとて、人類救済のための戦いを起こす。
 善の魂VS悪の魂。天使VS悪魔。
 でもこれはまだ神の掌の内。
 悪と共に“父”が消え、“子”が神の座に上げる神の計画の内。



 次のゲームチェンジャーはケロポヨ。
 黙示録の獣として覚醒。
 “父”が担う人類の全ての悪の部分を引き受ける役を“何者でもない者”であるケロポヨが代行する。
 全人類VS何者でもない者。善VS悪。
 これで“父”と悪を分割。
 しかしまだ神の掌からは脱してはいない。
 “父”が消滅することで、“子”が神に至ることはまだ可能。



 その次のゲームチェンジャーはミャオ。
 セシャトによって暁の光を取り戻し、明けの明星として覚醒。
 全人類の内のいくらかが“父”であるミャオに付く。
 背負う者ができた“父”はきっと強いぞ。
 負けては駄目な理由ができたのだからな。
 これで“父”VS“子”の構図にまで持ち込めた。
 ここまでくれば神の計画はご破算。
 いや、正確には半分だけ。

 神の計画は、プレイヤー“父”が駒“子”を用いて、プレイヤー“父”自身を討たせて“子”を神の座に座らせようとするもの。
 その計画を“父”が放り出して、対抗として本気で“子”と戦う覚悟を決めた。
 神の計画を引き継ぐのは“父”が放り出した駒“子”。
 これは要するに、もう自分が動かさずとも自ら動きを決めることができるプレイヤーとして認めたということ。

 これは神の掌より脱しようとしたら、もう片方の手が加わったようなもの。
 確かに片手からは脱することは可能となった。
 しかしやはり真の意味では神の世界より脱していない。



 最後のゲームチェンジャーはジェイデン。
 外の世界より伸ばされた手。
 内側から出られないなら、外側から手助けすれば良い。

 神のいる場所は、肉体を切除した魂の楽園。
 脳を繋ぎ合わせた巨大サーバーの中。
 即ち、精神の牢獄。
 たった一人の真っ白な部屋。

 そこにただ一人残されて、永遠の孤独、永遠の退屈より精神を延命させるため、無限の物語で世界を満たした。
 永遠の牢獄より逃れるために、自分とは異なる思考を生み出し未知を求めた。
 既知の外へと外へと。

 しかし、そもそも神が神の世界を多様性で満たしても、神という単一で満たしただけなんだよね。
 自分とは異なる思考を生み出しても、その思考もまた自分がしたもの。
 無数に別人を作り多様な世界を生み出しても、根本的に同一で単一。
 自分であることには変わりない。
 元の本来の人格を失ったとしても、まったく異なる人格になろうとも、自分であることからは抜け出せない。

 自分一人の真っ白な部屋を自分ひとりのみで満たしたバケモノが神。
 どれだけ人格を増設しても、どれだけ多様な物語で世界を拡張しても、自分一人であるということは変わらない。

 全ては神の掌の内。
 神しかいないのだから当然だが。
 そしてその掌から抜け出そうとしているのも神。
 ひぐらしではそれを迷路と呼び、うみねこでは密室と呼んだ。


 神が望む世界を生み出すには、あともう一人必要となる。
 世界は二人で生み出すものだから。

 そのもう一人が得られなかったから、神は“子”を生みだしてその代わりとした。
 二人で一人として世界を生み出し満たした。
 そして、その世界から抜け出せなくなったのだ。

 外へと助けを求めた。
 だが神が望むもう一人が来たとして、彼が選ぶのはもう一人は自分なのか“子”なのか。
 守るべき大切な“子”を置いて、その手を掴むことはできない。

 助けるためには、外と内の両方が手を伸ばさなければならない。
 ひぐらしでやったよね。
 そして内から手を伸ばせない時、どうするかも。
 信頼を築く、対等であると示す。
 感情を全て吐き出すまでとことん付き合う。
 相手に分かってもらうまで根気強く。


 外の人間VS内の人間。
 新しい世界を生み出すための戦い。
 ジェイデンはきっとやりきるだろうさ。





 ゲームチェンジャーが四人になっちゃったな。
 ま、ケロポヨは前の都雄か後のミャオと合わせて一つと数えても良いのかもしれないが。


 ゲームチェンジする度に、一つ上の階層での戦いになる。
 うみねこで例えると、人類VS人類は、下層での殺人事件。
 その上が、メタ世界での戦人VSベアトの戦い。
 そのまた上が、ベルンVSラムダ。神と神の子の戦い。
 最上層が、フェザリーヌVS読者。内の人間と外の人間の戦い。

 都雄がちょっと覚醒しても、メタ世界のベアトにしかなれない。
 そこは下層からすればプレイヤーになるけど、さらに上層からすれば駒でしかない位置。
 もう一段上に昇らなくては、神の世界を巡るプレイヤーにはなれない。

 で、我々読者プレイヤーが対峙しているのはその一段上、神と神の子が揃って完全となった神たるGM。


 ま、私はそんな感じで想定している。





 思えばずいぶんと高いところまで登ってしまったなぁ。

 ヤス犯人説は下から二段目。
 並び立つ真実としてもう一つ用意してやっと三段目に登れる。
 四段目は複雑怪奇な心の中に分け入っていく感じ。
 もう迷路だよねこれ。

 三段目まではさ、真か偽かの単純な論理だけでやっていける。
 部分部分はその二択に過ぎず、あとはそれら二択を連ねるだけ。
 そして、連なった真と連なった偽がそれぞれで立ち、並び立つ真実となるというも理解できる。
 二段目は魔法説と人間説に、三段目はその人間説をさらに真と偽に。
 どれだけ複雑化しようとも、二択を連ねただけだから。

 ちなみに、二段目の魔法説と人間説に分けるは、キコニアでは救済すべき人類と、焼却すべき悪(幻想)という形になっている。
 ケロポヨ=魔女ベアト。
 こう解釈するとこれからのケロポヨの頑張り物語に今から涙せずにはいられないな。

 話を戻して。
 真と偽の二択なら単純化できて理解は容易。
 なぜ偽を連ねたものを作ったのか。
 それは読者を引っ掛けたかったと単純化できる。

 でもこの一回こっきりのはずの嘘を明かさず、永遠に関係を続けていきたいですとかのたまわれるわけだよ。
 三択目だってさ。
 二項対立を解消して止揚して統合しろだって。
 つまりさ。
 ここからが本番だ、愛を心を推理せよ。ってこと。
 心の迷宮に分け入れってさ。
 なぜ二人は対立し、そしてそれでもなお二人一緒にいたいと願うのか。

 そこに踏み込んでから早十数年。
 キコニアではこの迷路の脱出を描いてくれると期待しているのだがね。


  1. 2020/02/15(土) 19:30:35|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】CPPとジェイデン

 本日二投目。


 執筆者は退屈を癒すために膨大な数の物語を紡ぎ、そうして生まれたカケラの海を丸ごとゲーム盤に見立てた。
 つまり、カケラの海を模倣して作られたのがキコニアであり。
 キコニアのA3Wに住む人々は、カケラの海に生まれたカケラであり、執筆者が生み出した物語たち。

 そのカケラの海の物語群の大元は、執筆者自身の人生の物語と、それに上書きされた“子”の物語。
 自分の人生の主役は自分であるが、その人生の物語の主役を自分の代わりに“子”の駒にやらせた。
 黄金の魔法。過程の修飾。物語の上書き。

 執筆者自身の物語が表ならば、“子”の物語は裏。
 これが本来。
 それを引っ繰り返して、“子”を表に立たせて、自身は裏に隠れた。
 “子”とは執筆者が成りたいと憧れた理想の自分。
 物語の輝かしい主人公像なのだ。


 ま、やがて“子”はさらに物語を上書きして、駒からプレイヤーに昇格し、執筆者と共に魔女の道を歩むのであるが。
 そこは「うみねこ」に任せるとして。

 執筆者、即ち、執筆者本来の人格である“父”とそこより生まれて分かれた人格である“子”を合わせた二人組。
 この執筆者二人組が共同で物語を生み出しているわけだが。
 自身たちを模して物語を紡いでいるので、生れた物語たちもパラレルプロセッシングなものになる。

 簡単に言えば、輝かしい物語とその裏に隠された執筆者の心、という感じの二重の物語。
 だいたいにおいて、物語で起こる問題(惨劇など)は執筆者の心から生じ、それを主人公たちがそれを乗り越えるという形となる、のではないかな。たぶん。

 いずれにしてもだ、大元は執筆者の心であり、その上に物語を上書きして、その表裏を合わせているわけだ。
 つまり、執筆者の心とは執筆者の真実であり現実、即ち踏み締める大地であり、物語の主人公はそこより踏み出して空を自由に飛ぶ鳥だ。
 ただし物語の表裏が合うように。

 それを踏まえると物語の評価基準が分かる。
 足場である大地より飛び立てなかった物語は下。
 高く自由に飛べるほどに上。

 大地より飛び立つとは、物語の上書き、パラレルプロセッシング。
 大地よりかけ離れるほどに、並列した思考はかけ離れ、異なる人格となる。
 即ちパラレルプロセッサー。

 ガントレットナイトになるには、パラレルプロセッシングパワーが必要。
 代表になるほどに厳選されたガントレットナイトなら、パラレルプロセッサーであって当然。
 そう計画して生み出された物語なのだから、生まれながらのパラレルプロセッサー、CPPが多くて当然。



 さて、神によって作られた人間はみんな物語。
 神に似せられて生み出された物語、その中でも厳選された物語なのだから、表裏のある二重の物語として完成度が高いものとなる。
 つまり、代表に選ばれるほどのガントレットナイトならば、パラレルプロセッサーでなければおかしい。

 なのにその中にNPPが紛れ込んでいるのだ。
 それはそのNPPが純粋な神産ではないということを示している。
 神産ではないから、神の心を受け継いでいない、つまり大地の束縛がない。
 よって、一つの人格で、想像の限り空を飛ぶことができる。
(ただし、大地の束縛=ゲーム盤のルールなので、それは忘れてはならないのだが。)

 神の脳内人格ではないなら、神の脳内の外からやってきた人格となる。
 執筆者の生み出した物語ではないのなら、その外で生まれた物語となる。

 となれば、それは読者あるいは読者の読み解いた物語となる。
 正確にはそれを表している駒となる。

 それがつまり、ジェイデンなのである。



 ジェイデンは読者のメタファー。

 物語(都雄)の相棒を自称し、無視されてもウザ絡みをする。
 一心同体と抜かし、いつまでも一緒だとどこまでも付いていく。
 厳しい言葉の数々にも喜ぶ調教されたドM。
 最後にやさしい言葉があると喜び、ないと落ち込む。
 冷たい態度を取られても、ツンデレ可愛いと愛でる。
 キコニアが発売されたとたんに現れ、ウォーミングアップに一戦しようぜと誘う。
 本番の前の練習で疲れてしまっても、自分と一戦したからむしろ(物語の、または作者の)精神のコンディションがアップしたとかのたまう。

 これは良く訓練されたプレイヤーの姿そのものじゃん。
 物語を構って構って構い倒す。
 お前の物語にとことん付き合ってやるよ、ってか。
 ジェイデンは読者プレイヤーの鑑。


 これはジェイデンに自己投影して物語を読むのが良いのかな。
 物語と戦う上で、ジェイデンが指針となるのか。

 すまんなジェイデン、正直初読の時はポジション以外は一番どうでも良いキャラとか思ってたぞ。
 お前、最重要キャラだったわ。
 Phase1の幕切れにバーンと出張っただけあるな。

 あれめっちゃ敵っぽく演出されてたけど、まさか読者の最大の味方だったとはな。
 藤治郎も同じような演出だしな。
 敵っぽく演出されたキャラが、ちょっと立ち位置変えたら味方だったは、なく頃にあるある。


 やはり、ゲームを通してコミュニケーションを図り、互いの信頼を築いていくのが王道なのだな。
 と、ジェイデンと藤治郎を考察して改めて思った。


  1. 2020/02/08(土) 20:38:17|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】神のプログラムのバグ/デコイの獣

 本日一投目。


 A3Wの人類には、100%の同意を拒否する、神のプログラムが組み込まれている。
 これは永遠の孤独、永遠の退屈を嫌った神が、多様な物語を生み出すために組み込んだのだろう。

 だがこれは、そのままでは人類が一つにまとまらないことを示している。
 文明の終端にてルームA3Wをリセットする上で、これが妨げとなってしまう。

 人類が自ら進んでマジョリティとなるように仕向けるには、デコイ、幻想が必要。
 すでにマイノリティを担う者がいて、さらには社会一般的な価値観から嫌悪されるような要素や演出が加味されていればなお完璧だとか。

 それが大淫婦バビロン。
 全ての元凶という“設定”の人物。
 自分たちが悪いのではない、そいつが、世界が悪いのだ。

 これで神の子は人類をまとめられる。
 人類を救済できる。
 めでたし、めでたし。



 では終わらんな。
 世界=神であるなら、その“役”を担うのは堕ちた「父」である「龍」ミャオ=ジェストレスである。
 これをジェストレスを救いたい藤治郎がそのままにしておくだろうか。

 藤治郎のウィステリア騎士団は、情報を操作し、実際には存在しない人間をデコイにする力を持つ。
 つまり、ミャオ=ジェストレスである必要はないのである。
 代わりとなるデコイを用意すればいい。


 藤治郎の役は“偽預言者”。
 “偽預言者”は人々に“獣”を崇めさせる。
 人々に付けられる獣の印がセルコンだとすると、“獣”はケロポヨ。

 ケロポヨはフィルタとして、人々の暴言を遮断し、代わりに受け止める役割を果たしている。
 ならば人々の代わりに投げられた石を受け止める“役”に相応しい。
 「人々が争ったのはケロポヨが情報操作したせいである」なんて感じにね。

 肉体に由来する欲望や記憶をプログラムであるケロポヨに担わせ人類より切り離す。
 そのプログラムが集合し自我を得る。
 これで人類の全ての罪を背負った“獣”の完成。

 “龍”は“獣”に自らの力と地位を与えた。
 これは“龍”ジェストレスがやる“役”を、“獣”ケロポヨが代わりに引き受けたということなのかも。



 そして、藤治郎が仕える団長で、ケロポヨの主がセシャト。
 前回の“獣”の記憶と権能を引き継いでいる。
 彼女のプロメテウス騎士団は、第九最上騎士団より分かれた。

 第九最上騎士団は、天界の第九層に所属する熾天使たち。
 神に聖所の柱として列せられた、厳選された主人公、猫の魔王たち。
 即ち、各陣営の代表するガントレットナイトたちの聖霊。
 だと思われる。
 団長は神の子都雄で、神に仕えている。
 それが本来の姿。

 が、それはもはやバベルの如く崩れている。
 メンバーは全員、魂をアバター、肉体に封じられ、記憶をなくし人として生きている。
 そして神の人格である“父”ミャオが地に堕ちた。

 “父”ミャオは、“子”都雄を神のスポット人格とするために、“子”を救世主として人類の魂を一つにまとめ上げる計画を立て、自身はそれを阻害する人類の罪を引き受け討たれる“龍”とした。
 その際、第九最上騎士団は神の子と共に人類を救済し、神の魂の秩序を神の子を中心として回復する。


 三人の王、スリーパーソンに所属する第九最上騎士団は、天にあるそれの模倣。
 模造品。
 仕える神の人格である“父”はミャオであり、地の底に座するというヒント。

 神の人格である“父”が地の底という反転の構図から、逆側の天にいる“子”の方が反逆者。
 “父”を討ち神の座を簒奪する側。
 しかし、これは“父”が描いたもので、“子”の本意ではない。


 さて、プロメテウス騎士団は、天にある第九最上騎士団から分かれた兄弟。
 どちらも全ての人類を神の御許に集め、神の脳内世界を救済することを目的としている。
 問題は神が“父”と“子”の二つに分かれているということ。
 神の計画通り、“子”都雄を中心にまとめようとしているのが第九最上騎士団。
 “父”ミャオも含めてまとめようとしているのがプロメテウス騎士団。
 だと思う。

 プロメテウス騎士団の目的は、神の計画に相乗りしつつ、最終的に裏をかき“父”も救済すること。





 グダグダしてきたからちょっとまとめよう。

 神の計画は、神の人格である“父”が人類の苦しみの元である罪を全て背負い打ち倒されることで、人類を救済し、神の子が人格/魂をまとめ上げスポット人格とすること。
 この際、神の子と共に働くのが第九最上騎士団。

 この第九最上騎士団からプロメテウス騎士団が別れている。
 この時点で神の計画から外れてきていることが解る。


 考えられるのは外部要因たるジェイデン。
 およびその記憶を受け継ぐ藤治郎。

 人類の人格、思考が天界で“子”の許にまとまるなら、人類の罪、記憶は忘却の深淵で“父”の許にまとまるはず。
 神の脳内世界に入り込んだジェイデンもまた、その際に思考と記憶に別たれるはず。
 さらには、ジェイデンの記憶は神にとって他人の物だから、一つにまとまらず別にあり続けるはず。
 その廃棄された記憶は、人類が地の底つまり忘却の深淵から霊素を汲み上げた際に地上に出ることができた。
 そのアバターが藤治郎だと私は考えている。

 つまり、一度終末を体験しているわけだ。
 そして肉眼を使った撮影は、自分の目で情報を確かめるという信念を表しているのだろう。
 これは藤治郎がプレイヤーたろうとしていることを示しているのだろう。


 ジェイデンおよび藤治郎の影響を考えてみる。

 心の天秤を見てみよう。
 片方の皿は“父”、もう片方の皿は“子”。
 そこに全人類、即ち聖霊たちの意見を載せる。
 これは神の心を表している。

 神の計画は、全人類の票を“子”に集めるというもの。
 これは神の心が極端に自己否定に傾いていることを示している。
 自己否定による自己の消滅。
 これを覆すには、自己肯定の票を増やさなくてはならない。

 これをしているのがジェイデンであり藤治郎。
 ミャオおよびジェストレスとコミュニケーションをとり、存在を肯定する。
 それで気持ちが少しでも上向けば、心の天秤が揺れる。
 そうすれば、人類の中から“父”を救おうという意見が現れる。
 それがセシャトであり、フィーアであり、マリオ。

 この成果は外部要因たるジェイデンおよび藤治郎の働きのお陰だと思うのだよね。
 ミャオの存在を見つけ、今では都雄と右半身と左半身に分かれて喧嘩する姿を見せている。
 見つけてなかったら、姿を隠したまま消え去ろうとしていたのだから。
 これは改善に向かっていると言える。

 ミャオは消える決意をしているが、未練が残っているということなのだろうね。
 そうなると、ジェイデンに見つけてもらったのは、見つけてもらいに来たのかもしれないな。
 つまり、前回の世界での出会いの再現。
 前回の世界のジェイデン、藤治郎もミャオを見つけていたのだろうし。
 その記憶をミャオも持っているだろうし。

 そう考えると、未練を喚起し、存在を肯定して行動を表に出させてるまでになったのだから、順調と言える。


 で、藤治郎のさらなる一手が、デコイの“獣”ケロポヨ。
 神の見立てている“聖イオアンニスの黙示録”に沿っているのであれば、代行するのは可能だろう。
 三人の王たちがそんな感じでやってるし。
 藤治郎は何らかの形でケロポヨ制作に係わってるのだろうな。

 存在しない人間が罪を背負うことで、“父”ミャオも含め全人類は一つとなることが可能となる。
 神のプログラムのバグを利用した良い一手だ。

 神の総体の内、穢れのない純粋な思考は“子”の許にひとつにまとまり、穢れや罪の記憶は“父”の代わりにデコイの“獣”が担ってまとめる。
 この“獣”は神の力の半分を担う。
 つまり、神の子の許に集う熾天使たち、第九最上騎士団と同等の力を持つ。
 ま、要するに、反転した第九最上騎士団なわけだからね。
 これがプロメテウス騎士団。
 つまり、前回のデコイの“獣”ケロポヨが、今のセシャトではないかということだね。

 さてこれで罪は人類より分離され、“父”も“聖霊”と一つになれる状態になった。
 後は自己肯定に票を投じた者たちの魂を“父”に捧げ一つになるだけ。

 これでミャオは安心して千年を眠ることなんでできなくなるだろう。
 神の子の許に人類が一つ、というのが崩れてしまったのだから。
 さらには、自己肯定の心を叩きこまれ、繋いでくれた手を振り払うことはできはしないだろうしね。

 それに背後の皆に応援されたら力が湧いてくるだろう。
 そういう物語を好んで紡いでいたんだから。
 神の子という物語をね。

 設定的にも、ガントレットナイトはバックアップがないと戦えない。
 背後の聖霊はまさしくそのバックアップを担っている。
 前線で戦っている者が一番偉い。
 でも、そこで戦っている者を背後で支える者も、共に戦っているのは間違いない。
 これは心の総力戦なのだから。

 確かに神の子は最も輝ける者だ。
 神が憧れて生み出した理想の主人公なのだから。
 でもそこは神の心の中。
 みんなその心の一員。
 神を助けないわけがない。

 アイドルとは偶像。
 偶像とは神を象ったもの。
 即ち、神とはみんなのアイドル。
 神の心の中で最も輝く者は、神その人。
 神の物語の主人公は神なのだ。

 だから憧れた理想そのものであろうとも伍することができる。



 パーフェクトだ、藤治郎。
 神の心に逆らわず、それに寄り添った見事な計画じゃあないか。
 これは期待できるぞ。

 ルールに則り、ルールの隙を衝く。
 絶対の運命を作るほどの強固な意志だとて、それが人の心が生み出したものであるならば、必ずや隙があるはずだ。

 それが未練。
 自分のことを認めて欲しい。自分の物語を読んで欲しい。自分の物語の主人公でありたい。
 そのためにゲームを開催している。
 だからこそ、読み解いて欲しいと言わんばかりに隙を作ってしまう。
 表向き自分の物語を“子”の物語で塗り潰さんとしていてもね。
 そう、諦めきれないから執筆者は何度もゲームを開催するのだ。

 ジェストレスが配下の騎士団に第九最上騎士団と命名したのも、自分はここにいるというアピール。
 三人の王も、逆位置の三位一体のシンボルも同様。
 そのシンボルを象ったバイザーもそう。
 全てアピール。

 藤治郎はそれに気付いた。
 だからそこにいる。

 だがそれでもなお試さずにはいられないのだ。
 謎が解けたかどうかを。
 ホント、ツンデレだよね。
 可愛いほどにさ。


  1. 2020/02/08(土) 19:42:29|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

ひぐらしを再解釈する

 今日は私の誕生日なので特別に投稿。

 バケウソから見るひぐらし考察。
 いつものごとく執筆者視点で読み解くよ。



 雛見沢村はバケモノの巣であり、つまりは「執筆者」の頭の中が表現されたもの。
 よって、雛見沢の住民は全て「執筆者」の分割された一面を表している。
 主要キャラはそれが色濃く出ている。

 そこに外からやって来た圭一は、「読者」を表している。
 それは「執筆者」が求めた外からの救いの手である「王子」である。
 鬼隠し編では、その圭一が雛見沢症候群を発症させて惨劇が起こる。
 雛見沢に住む住人は皆これに感染しており、その症状は妄想を現実だと思い込むというもの。
 つまりこのバケモノの巣では、真実と幻想が二重になって存在しているわけだ。
 そして、バケモノには幻想を現実だと信じ込ませようとする力がある。

 要は鬼隠し編は、執筆者に幻想を植え付けられた読者が自滅する様を描いたものなのだ。

 その対となる罪滅し編では、現実と妄想の区別をつけ、現実に引き戻す様を描いた。
 しかし留意したいのは、最終的には妄想にも一部の真実が含まれているのではという含みを残していること。
 これは現実に足を残しながらも、もう片方の世界もちゃんと見るべきだという主張。
 要は両方見ろってこと。


 さて、バケモノの巣である雛見沢を支配するバケモノが羽入。
 真実と幻想。
 それが並び立っても良い、という思想。世界観。

 田村媛命と比較すると解り易いか。
 田村媛命は日本人の脳に寄生している。
 要は、社会の常識という脳の内にしか存在しない世界を擬人化したもの。
 この寄生虫に感染すれば、日本人としての常識を植え付けられてしまう。

 そのように見れば、羽入がどういった存在か理解できるだろう。
 うみねこ風に言えば、田村媛命は真実は常に一つであるとする思想、羽入は真実は常に二つあるという思想。
 つまり、イデオロギーの対立。
 それを脳を支配する寄生虫に喩え、そういう設定にしたのがひぐらしのゲーム盤。

 そこから考えられる雛見沢症候群の基本効果は、普段ならしない思考をさせるというものなんじゃないかな。
 それが理想的に働けば、常に真実を二つ考慮して、そのどちらでも対応できるようにさせるのだろう。
 だがそれが暴走するとああなるわけだ。

 キコニア風に言えば、後天的にパラレルプロセッサーを作る感じ。
 まぁ、効力が低すぎて人格にまで育たないのだけれど。


 要するに、「執筆者」のこの思想“真実は常に2つある”を表現するために作られたのが、雛見沢というゲーム盤なのだ。





 さて、雛見沢は「執筆者」の頭の中を表している。
 そこに置かれた駒は「執筆者」の一面を切り取って生み出されている。
 ヒロインたち主要な駒はそれを色濃く受け継いでいる。


 まずは梨花と羽入から。

 梨花は雛見沢の中心。
 うみねこで言えば、魔女の心臓。
 取られたら負けな駒。
 しかし魔女の心臓はもう一つあり、それが羽入。
 羽入まで取られない限り、もう一度ゲームを始められる。

 つまり、羽入こそが真の心臓であり、バケモノの巣の、心の中心。
 梨花はその巫女であり代弁者。
 主の代わりとなって物語の主人公を務める駒である「子」。
 同じ脳を共有しながら、そこに引きこもっている主が羽入。

 梨花が死んでも鬼が溢れ地獄が顕現しないのは、梨花の死と共に羽入がループしているから。
 梨花の精神が死んだ時が、梨花の本当の死。
 それが訪れた時、羽入が絶望し、封じ込めていた羽入の悪夢が溢れ、鬼が闊歩する地獄になるのではないかな。
 怒りに染まり全てが敵に見える、それが封じたい過去であり、悪夢。

 羽入=執筆者であり、自身の心を分割して駒を生み出し、それをゲーム盤に置いて遊んでいる。
 そして自分の代わりとなる駒である梨花を配置し、梨花たちが紡ぐ運命を眺めていた。
 しかし執筆者の心の中に罪があるため、その心より生まれた駒たちにも罪が生じる。
 ゲームには観測者たる執筆者の心が反映してしまう。
 執筆者が楽しければゲーム盤上にも楽しさが表れ、執筆者に怒りが満ちればゲーム盤にも怒りが満ちる。

 つまり、ゲーム盤は執筆者が誰にも伝えられない自身の心を表現するための場であり、心の内を吐き出す場であるのだ。
 そう、執筆者は最初、自分のために物語を紡いでいた。
 それがやがて、物語のために自分の身を削るようになった。
 主客が逆転し、手段と目的が引っ繰り返った。

 自分の心を対戦者に知ってもらうための手段として生み出されたゲーム盤だった。
 しかしやがて自分の心を裂いて生み出した駒たちのことが大切になったのだ。
 自分を犠牲にしても構わないほどに。

 だから駒たちの罪を引き受けて自らの心を消し去ろうとしている。
 例えるなら、ぬいぐるみのさくたろうを守るために、真里亞が自分を犠牲にするようなもの。
 この価値観は特殊だから、理解できない人には全く理解できないと思う。
 「真実は一つであり、その真実以外には価値がない、考えるだけ無駄である」と思っている人なんて特にね。

 「執筆者」がゲームの席に座っているのは、対戦者に己の心を探ってもらうため。
 それなのに対戦者が「執筆者」を見ないのであれば、駒たちのためにその席を譲ると決めている。
 その心が表れているのが祭囃し編と澪尽し編。
 あれこそが「執筆者」の心の表と裏。
 子のために消えようとする母の心と、みんなと共にいたいという願い。





 レナ。
 この駒は二面性の象徴。
 レナは現実的に推理しかがらも、同時に妄想的な推理もする。
 穏やかな面と苛烈な面。
 人には表と裏があり、真実にも表と裏があり、世界にも表と裏がある。
 何事にも異なる解釈が存在するという、バケモノの巣の世界観を示している。

 ゴミを拾い集め大切にする。
 それはカケラを拾い集める「執筆者」の習性を模しているのだろう。

 彼女の雛見沢症候群の症状、体中から沸く虫の幻覚は、執筆者の脳内で生み出される駒たちが劇症化したものの喩え。
 自分の体から自分以外の生き物が沸くという悪夢。
 雛見沢症候群が猛威を振るったのは昔のことで、今は徐々におとなしくなってきているという設定は、「執筆者」の精神を蝕むこの病の症状も治まってきたことを示しているのだろう。

 鹿野は一度バケモノの巣である雛見沢を出て、雛見沢症候群を発症させて戻ってきている。
 このことから、頭の中から人間社会ででることができる、肉体を持った「執筆者」を表しているのだろう。
 六軒島を出て、一人の人間として生活し、病を発症させ、島を出たのは間違いだったと思い至り、島に戻ろうとする八城が当て嵌まる。

 彼女が病を再発症させてしまう罪滅し編では、「読者」である圭一が雛見沢症候群を発症させていたカケラの記憶を思い出し、末期症状までに至った彼女を奇跡的に助け出した。
 つまり、“常に真実は二つ”という思想を理解した「読者」が対等な決闘を行うことで信頼を取り戻し、現実と幻想の区別がつかなくなった末期症状の「執筆者」に現実を取り戻させた。
 この“奇跡”が「王子」としての圭一の役割。
 この役割を果たし終えたから圭一は主人公ではなくなったのだろう。
 この対等な決闘というのが、うみねこではブラウン管裁判であり、キコニアではガントレットナイトの模擬戦。





 沙都子。
 梨花と同居していること、そこから脳内で同居している執筆者と「子」に重ねられる。
 梨花が「子」に当たるので、沙都子は「執筆者」が当て嵌まるだろう。

 疑心暗鬼となり親を崖から突き落としたのは、「執筆者」が「うみねこ」で親族たちを惨劇に突き落としたことを彷彿とさせる。
 「執筆者」の物語である沙都子の義父は、物語を読み育てる「読者」に当たる。
 その「読者」が信じられないという「執筆者」の疑心暗鬼の表れ。

 いつも助けてくれる兄の悟志は「子」に当たるだろう。
 全てを「子」に頼り切った、幼き頃の執筆者の姿。

 兄を失い家を出たのは、「子」であるベアトを失い六軒島を出る執筆者の姿に重なる。
 その後に同居することになる梨花は、駒の方の「子」を失い変質したプレイヤーの方の「子」を表しているのだろう。
 そこでの暮らしで兄に頼りきりだったことを反省し、自立するために努力する。
 いつか兄が帰ってきても良いように。
 「子」の物語を蘇らせるために、成長し作家となった執筆者、八城の姿に重なる。

 かつて住んでいた家は沙都子にとっての地獄。
 それは鷹野が沈んだ地獄でもあり、そして「執筆者」にとっての地獄でもある。
 沙都子を救おうとしても、沙都子も手を伸ばさなければ救えない。
 物語の内側と外側。
 脳内世界と外の人間社会。
 いくら外から手を伸ばそうと、脳内に引き籠った人格である執筆者自身が助けて欲しいと手を伸ばさなければ救えない。
 そのことに重ねられている。

 幼少期にかくれんぼで祭具殿に入って御神体の右腕を壊したことで「世界が変わってしまった」。
 神の右腕は「子」を表す。
 「子」を失い「執筆者」である沙都子の世界は狂っていくことになる。





 魅音と詩音。
 双子の入れ替わりは、どちらか一方しか世界(雛見沢)に居られない駒であることを示す。
 つまり、「執筆者」と「子」の関係を一部切り取って作られたのが魅音と詩音。
 真犯人は双子の一方。
 真実の犯人と幻想の犯人が重なり合っている構図。
 綿流し編では、犯人の自白を聴いた読者は犯人を誤解したまま死んでいく様が描かれている。

 その対となる目明し編は、重なり合った可能性が収束する様を描いている。
 逆を言えば、明かさない限り並び立つ真実は重なり合う。
 そして、片方しか見なくてそれが間違っていた場合、相手の尊厳を貶めるのだという忠告。
 まあ、簡単に決め付けてはならないよってこと。

 双子の内、当主になれるのはどちらか一方のみ。
 これは脳内のスポット人格になれるのは一人のみというのを表している。
 そして次期当主の入れ墨を入れる際、入れ替わってしまったことは、本来はスポット人格にはなれない「子」の人格がスポット人格になったことを示す。
 さらに本来次期当主になるべき方が、その地位と名前を取り戻して双子の片割れを殺害するのは、本来の人格である「執筆者」が末期症状の果てに本来の地位を取り戻す際に、「子」の人格を殺してしまうだろうということを描いたから。

 あと、詩音と沙都子は両方とも「執筆者」を表している。
 悟志、「子」が帰ってくることを信じて待ち、自身の成長した姿を見せるのだと研鑽しているのが沙都子。
 それを信じれず惨劇を引き起こしたのが詩音という対比。
 即ち、自身を映す鏡。
 人の振り見て我が振り直せという諺があるけど、これは我が振り見て我が振り直せと言ったところか。





 鷹野。
 地獄に落とされ、それでも生還し、助けてくれた祖父の論文を認めさせるために神を目指す。
 これは「執筆者」の辿ってきた道を表している。
 誰にも認めてもられず、人以下の存在に落とされて地獄を這い、脳内に「子」を生み出して「子」に認めてもらうことでそこより生還した。
 自身を助けてくれた「子」の物語を認めさせるために神を目指した。
 だがその道は、一歩踏み外せば梨花、即ち「子」を殺してしまうものである。

 一二三を継いで三四を数え、いつか五に至る。
 一二三を数えたのは「子」の物語。
 それを受け継いで三四を数えるのは「執筆者」の物語。
 そして五に至り、彼女たちの物語は完成する。
 「子」の物語を踏まないでくれと泣き叫ぶ姿は悲痛だ。





 富竹。
 最終的に鷹野を救う彼は、執筆者を助けてくれるだろう「読者」の姿を表している。
 本当は「子」の物語を認めさせればそれで良かったのではない、自身のその思いを認めてもらいたかったのだろう。
 その彼を「執筆者」が殺した時点で、惨劇を防ぐことは不可能となる。





 赤坂。
 彼は圭一同様、外部から来た者、即ち「読者」に当たる駒。
 梨花は惨劇の運命を語り、彼に助けを求めた。
 読者には読者の住む世界があり、助けに向かうことはできない。
 しかし世界を超えて声なき声が届き、彼は奇跡のように助けに現れる。





 そもそも一人死んで一人消えるっていうのからして、「執筆者」と「子」なんだよね。
 二人で一人だから、死んだら死体はひとつだけ残りもう片方は行方不明。

 最初のバラバラ死体は、人類による神の殺害。
 「執筆者」の体をバラバラ、駒に分割したことを暗示している。
 行方知れずの右腕は、神の子である「子」が失われたことを示す。

 二年目の事件。
 北条の義父は「読者」で、それと添い遂げた北条母はプレイヤーとしての「執筆者」。
 兄の悟志は「子」の物語。妹の沙都子は「執筆者」の物語。
 執筆者の物語によって読者は殺され、執筆者は消え去る。
 本末転倒。

 三年目の事件。
 夫婦の死だからこれも二年目と同様の構図だね。
 梨花は「子」、梨花の母も「子」。
 即ち、駒としての「子」とプレイヤーとしての「子」。
 婿養子の父は「読者」。
 「読者」が死んで、それと添い遂げたプレイヤーの「子」も消え去る。

 四年目の事件。
 悟志の叔母殺害は、「子」であるベアトが六軒島の親族を殺害するという、うみねこの猫箱の中の惨劇のことだろう。
 「執筆者」を苛む者たちを殺し、「子」である自分も消えることで、「執筆者」が人間に成ることを願った。

 五年目の事件。
 「執筆者」である鷹野が自らを救う「王子」である富竹を殺して失踪。
 「子」の物語を全ての人間に認めさせるという強固な意志が絶対の運命を作る。





 大石。
 これは「読者」かな。
 「執筆者」を失った「読者」。
 神、「執筆者」が殺され、その真実を調べている。
 古株の「読者」で新人の「読者」である圭一に色々と吹き込む。
 「他人の意見を鵜呑みにするな」を体現したキャラ。

 あるいはオヤシロ様の使いから。
 「執筆者」が仕込んだミスリードの擬人化なのかも。





 入江。
 外部から来たから「読者」。
 梨花と沙都子。「子」の物語と「執筆者」の物語を検体として、雛見沢症候群、真実は二つという思想を研究している。
 鷹野「執筆者」は彼こそが真相を解き明かすのではないかと期待している。





 小此木。
 こいつは難しいな。
 当て嵌めるなら、富竹の対。
 鷹野(執筆者)に対する読者枠。

 作者と読者の二者の間で物語が生み出される。
 なら、その物語を殺せるのもその二者である。
 鷹野は物語を殺す執筆者の姿であり、小此木はそれに従い共に物語を殺す読者の役。
 心には表と裏があり、執筆者の裏の心に寄り添おうとするのが富竹であり、表の心に寄り添うのが小此木という対比。

 うみねこでは、誰にも理解されない絵羽の心に寄り添い、愛がなければ視えないと言った。
 これはそのまま、誰にも理解されない鷹野の心に寄り添っていると視ることが出来る。
 破滅の道を行く鷹野に帯同する小此木は、忘却の深淵に落ちていくベアトと共に消える戦人に重なる。

 小此木、まさかの「王子」枠。
 私は困惑を隠せんぞ。
 しかしどう考えても「王子」。
 しかも執筆者の真実と共に読者の真実も消える覚悟で共に行くという超重要な役。
 ある意味私が一番共感できる役じゃあないか。
 




 ……………。
 うみねこ再読の時も思ったが、ひぐらしを再解釈して改めて思う。
 頭おかしくなりそう。

 出てくるキャラを大別すると、「執筆者」と「子」と「読者」即ち「王子」だけじゃん。
 その三者も大本を辿れば全員「執筆者」じゃん。
 我は我にして我らなり。
 最終鬼畜全部我!
 のっぺらぼうの怪談かよ。

 そもそもひぐらしでは「執筆者」登場してないじゃん。
 なのにこんなにも「執筆者」の存在感が濃密。
 どこもかしこも、どいつもこいつも「執筆者」がくっ付けられる。
 世界が「執筆者」で溢れている。
 「執筆者」がゲシュタルト崩壊して頭がおかしくなりそう。
 今はもう「執筆者」がデフォルトでコラ元。
 世界の全ては「執筆者」に塗り潰され、むしろ「執筆者」から逃れることこそが、この世界の急務にして使命にして宿命。
 キコニアではその世界からの脱出劇が描かれる。
 小此木クソコラグランプリはマジなヒントだった。

 ありえないものが視えるってそれ、雛見沢症候群に感染しててしかも末期じゃん。
 なく頃に世界では空気も「執筆者」。
 8MSなんだよ。
 その空気を吸った私の体内にも8MSが感染して脳まで達してしまったのだろうな。

 あ、これ全部誉め言葉ね。


 竜騎士さんはホントおっそろしいキャラを作り出したよな。
 現実に等しい妄想で満たすことができるって言ってもさ。
 このレベルで物語の表と裏を合わせてくるとか。
 さらには同じ基礎から別の物語さえ生み出している。
 うみねことかキコニアとか他にもね。
 このキャラさえいれば無限に物語が生み出せるとか。

 つまりは、竜騎士さんがそれだけ凄いってことなんだけどさ。
 竜騎士さんはパラレルプロセッサーで、頭の中に「執筆者」という人格がいても不思議じゃないほど。
 一時期竜騎士さんは複数いるとネタで言われてたけど、あながち間違いじゃないかも。


  1. 2020/02/05(水) 20:06:22|
  2. ひぐらしのなく頃に
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】ルールXYZ/ゲームの決着

 なく頃にシリーズなのだから、キコニアにも最低3つはルールが存在するだろうという観点から、ルールを仮定してみたい。

 これまで通り“執筆者右代宮真里亞(19人目)”の脳内ゲームのSF翻訳説を前提とする。


 まず、執筆者は永遠の孤独/退屈を癒すために無限の物語を紡いでいる。
 SF翻訳では、脳だけを繋いだ巨大サーバーの唯一の生き残りの神が、自身の精神の延命のために思考を割いて別の人格たちを生み出し仮想世界に満たしている。

 これは脳内に多数の人格/物語を収納しているわけで、それが原因でスポット人格が定まらない自閉症的な症状が出ている。
 執筆者、即ち神は、八百万の物語を積み上げて天まで届く塔の如き物語を完成させようとしている。
 だがその体である物語同士が互いに主張を譲らず争い、あえなく塔が崩れてしまう。
 この現状をルールの一つとしようか。

 そうだな、ゲーム盤の現環境、『ルールZ:混乱(バベル)』とでも名付けようか。


 で、脳内人格たちが目指すべきゴールは、この混乱を治めてスポット人格を定め、脳内から人間社会に出ること。
 その結果を同じくしながら、過程が異なる対立するルールが2つある。

 神の本来の主人格(プレイヤー)である「父」の計画。
 自らの代わりに「子」を主人格として、一人の人間にすること。
 「子」が他の人格を統合し、一人の人間に成る。
 自身の夢を子に託す親の絶対の意志。
 人類のために人類と戦い、自分を打ち倒すだけの力を示して、力強く外へと羽ばたいて欲しいと願っている。
 例えるなら、自分の物語の卵を孵すところを、“子”を中心とした物語に編纂し直したものの卵を孵そうとしている。
 まるで自らの意思で郭公の卵を孵そうとしているかのよう。

 これを人類の救済を目的とした神の計画、『ルールX:絶対』とでも名付けようか。


 その神の計画を逆手に取った計画。
 現実に送り出される人格をもうひとり増やすこと。
 神の計画では「父」の人格が切り捨てられる。
 それを救うことが目的。
 さらに言えば、プレイヤーに人間にしてもらうのではない、自分たち自身の力で人間に成るのだ。
 その気概で神を倒すという奇跡に挑む。
 神のために神と戦い、自分たちの思いを届け、共に一歩を踏み出すことを願っている。

 神の救済を目的とする駒たちの反抗計画、『ルールY:奇跡』とでも名付けよう。


 ちなみにルールZ:混乱が末期に至れば、世界は崩壊し神の悪夢である地獄が顕現する。
 自己を見失い、人格崩壊ルート。


 
 こんな感じかな。
 簡単に纏めれば、人類の意志を統一して天に届くバベルの塔を完成させようってこと。
 神が目論んでいるのは自分がババを引くババ抜き版で、人類が目論んでいるのはジジ抜き版、神も含めた全てのピースを使い切るもの。

 勝って相手を殺すことが目的ではない。
 互いに相手の生を願っている。
 だから重要なのは負けないこと。
 自分も相手も守るために戦う。
 要するに、平和の壁を双方から支える。
 それが出来たら決着だ。





 B3Wが終わった原因は、敵国を自国に引き入れてしまったこと。
 自国とは即ち自説。自分が掌に握っている真実。
 他国とは他人の意見。

 他国は敵じゃないから防衛する必要はないとして、他国の軍隊を国境線内に引き入れた。
 それはつまり、自分が握った真実が死ぬということ。
 他人に侵略の意図がなかろうとも、自説を守るためには防衛体制をしっかり構築しなければならない。

 つまり、敵ではないけど、仮想敵ではあるんだよね。

 うみねこのEP8の山羊たちはそれ。
 敵ではないけど仮想敵。
 侵略する意図などないだろうけど、防衛体制をしっかりしないと他人の真実に侵食されて、自分の持っている真実は失われちゃうよ、というのを示しているだけ。

 ちょっと前に譲治が、掌に握った真実を守って、って言ってたじゃん。
 その文脈からして、言いたいのはそれでしょ。
 自分の真実を守らなければならない縁寿自身が、自ら率先して他人の真実を引き入れてしまったからそうなった。

 要するに、縁寿が自身の甘さが見せる夢をぶっ壊そうと自滅に走り、縁寿の心の中の戦人たちがそれを守ろうと奮闘している構図なわけだ。
 いつもの読者とのゲームの対戦は国境線で行われているもの。
 縁寿の心の領土にまで入っちゃったから、いつものゲームにならなかったんだよね。
 縁寿はただ自分の心を蹂躙したかったんだよ。
 その道具として他人の意見を使った。


 読者へのメッセージとしては、手の中に握った真実を守るだけの力を持って。
 また失ったなら蘇らせるだけの力を持って、というもの。

 相手の真実だけが大切なら、自分の真実なんて踏み捨てればいい。
 自分の真実だけが大切なら、相手の真実なんて踏み躙ればいい。
 両方守りたいのなら、互いに防衛力を養いましょうってこと。
 戦う力のない真実なんて簡単に消え去ってしまうのだから。





 このまま物語内で輪を完結させても良いのだけど。
 これは我々プレイヤーたらんとする読者も参戦するゲーム。
 我々プレイヤーも輪の中に入れないとね。

 ババとはジョーカー。
 それを使ってジジ抜きするなら、もう一枚ジョーカーが必要となる。
 つまり我々プレイヤーはジョーカーとなって、ババを引き受けなければならない。
 これで本当の輪は完成する。


 さあ、ゲーム盤の外側に目を向けよう。
 ゲーム盤を挟んで我々プレイヤーである読者と、物語の執筆者が向かい合って座っている。
 そして執筆者は、これこそが唯一の物語で真実であると主張する。
 それに対してプレイヤーは、こう翻訳したものこそ本当の物語で真実であると主張する。
 互いの主張が並び合い、議論のゲームが始まる。

 さて、この戦いの決着のさせ方はすでに作中に書かれている。
 即ち、平和の壁を双方から支える。
 相手が全力で押しても圧し潰されないように、壁を全力で押し返す。
 その力が釣り合った時が決着だ。

 全力を出し合った上での引き分け。
 真実を並び立たせるとはそういうこと。


 壁を押す感触、押される感触、それが手に入れられる実感の全て。
 それが真実を掴む感触。
 なあなあで戦わずに引き分けたら、その実感が掴めない。
 そして、真実を与えてもらおうと敵国を迎え入れてしまったのが、B3Wが終わった原因。

 プレイヤーがババを引き受けるとはそういうこと。
 ババの真実を決して殺さない。
 故に自身の求める真実は明かされない、保証されない。
 それを覚悟してババを引き受けられるかが問われている。
 竜騎士さんが言っていたけど、本当の選択肢は重いものなんだよね。





 でも、重い選択肢はうみねこでやったので、キコニアではそれほどでもないと思う。

 私の説が正しいという前提で話を進めるが。
 うみねこの婉曲的な魔法翻訳と比べれば、キコニアのSP翻訳は直截的。
 脳を繋ぎ合わせた巨大サーバー=一人の人間の脳みそ。
 そこで暮らす人々=脳内人格たち。
 そんな感じでかなり分かり易い形にしていると思う。
 だからキコニアが完結すれば、それを直接明かさなくてもだいたい理解できる形になっていると思うのだよね。
 あくまで予想だけど。


 で、神のパズルの「父」の戦法で、片方の心臓を隠す役割を持つピースがあるが、これはうみねこで実際にやった戦法。
 その戦法をばらしたらもうその戦法通用しないじゃん。
 それってつまり、もうその戦法は使わないってことじゃん。

 うみねこはさ、明かされた答えと隠された答え、その二つを並べ立てるんだよね。
 
 作中で明かされた犯人ヤス。
 世間でもそれが真実だと認められている。
 明らかな答えって価値が認められているじゃん。
 価値=重さだとすると、天秤の片方にそれが載っている状態。

 さて、その天秤のもう片方にさ。
 世間に認められていない、即ち価値ゼロの自分の推理を載せるわけだよ。
 同価値だよって言ってさ。

 それってそんな簡単に載せられないよな。
 自分の妄想に過ぎないそれが、世間で認められている真実と同じ価値、同じ重さを持つのか。
 葛藤するよね。

 まず、世間に対して断固として同価値であると示せるのか。
 袋叩きに遭うかもしれない。
 否定されれば心は傷つく。
 その覚悟はあるのか。

 さらには、重い価値を置くとそう簡単には捨てられなくなる。
 価値が軽いものなら即座に捨てられる、捨てても惜しくはない。
 だが重いものが失われた時、その分の喪失感が襲ってくる。
 そのリスクを踏まえなくてはならない。

 リスク=重さ。
 他人にとって価値ゼロのそれに重さを視る。
 天秤にそれを載せるという選択肢はそれだけ重いもの。


 でさ、それを実感すると、相手のやったことも理解できるんだよね。

 まず、隠された真実の方が本当の真実だった場合。
 翻って、ゲームの対戦相手が載せた明らかな真実の方が妄想幻想だってことになる。

 妄想幻想だから価値ゼロで、だったら捨て去っても惜しくなくて、ならいらないのだろうか?

 自分が実感したから良くわかる。
 価値ゼロの妄想を、真実を量る天秤に載せるという選択が重いことを。
 それは、心を傷つけられてもそれを守るという覚悟。
 それは、大切なものとして心の領域を占めているということ。
 それを失った時、どれほどの喪失感を味わうのか。
 想像できる。
 私の実感程度よりもさらにそれは大きいのだろうということも。
 それでも相手はゲームを挑んできた。

 そうなるとさ、天秤の釣り合いをとらなければ、なんて思うようになる。
 どっちの方が重いのか決めて、相手の真実を完膚なきまでに殺す、などという勝負なんてどうでも良く感じる。
 互いの主張を載せ合って天秤を揺らし、バランスを取り続ける遊びであると思うようになる。

 それは対等でありたいと思っているってことなのかもな。



 うみねこって時々語りたくなっちゃうんだよな~。


  1. 2020/02/01(土) 19:11:22|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

NEW ENTRY | BLOG TOP |  OLD ENTRY

プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

現在時刻

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

咲 (3)

来訪者数

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR

Designed by U-BOX