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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


キコニアの新情報が出たらしい

 本日、二本目。

 なんかキコニアの話が出たらしい。
 聞くところによると、どうやらプレイヤーの指定席は用意されていないらしい。
 プレイヤーは席に着くために戦うのか? 的な。

 うみねこはプレイヤーが座る席が指定されていて、対戦相手も正面から相対してくれていた、実にやさしいゲームだったからなぁ。

 プレイヤーはどこに座ればいいのかわからない。
 どこを向けばいいのかもわからない。
 敵はどこに座っているのかわからない。
 どこを向いているのかもわからない。

 最悪な状況からゲームスタート、と言ったところか。

 これまでのなく頃にシリーズ的に、プレイヤーが参加することで何かが変わるというゲーム性は変わらないだろう。
 つまり、プレイヤーが考えることに何か意味があるはず。

 どこに座ればいいかわからない、というのが、座れそうな席がたくさんあるということであれば。
 多国籍で様々な立場の人が集まっているようだし。
 とりあえず、うみねこで学んだやり方を提案しよう。

 席がたくさんあってどれを選べばいいかわからないのであれば、全部に座ればいいじゃない。
 思考を分割し、それぞれの立場からそれぞれ考えればいい。
 人間技じゃない。
 八城さんを呼ぼう。

 でもまあ、その席を隠されていたら、まずは探すことから始めなければならないのだが。


 次に気になるのは、今回の運命、即ち、それを作り出す人の意志。
 ひぐらしは『絶対』で一人の意志から生み出されたシンプルなものだった。
 うみねこは『無限』で一人の意志から生み出されたが、作り出した人物が複雑の極みに達している人材なので、かなり複雑だった。
 それを踏まえての第三弾。
 個人が生み出す複雑さではうみねこが最高峰だろう。
 それよりも複雑な運命を生み出すとしたら、想定されるのは個人ではなく複数の意志より生み出される混沌。

 例えば、絶対の意志を持つ者が複数存在しているとする。
 そうすると絶対の運命同士が衝突することになる。
 偶然の要素を加えると、どれが、どのように、どの順番で、という感じで誰にも予想できない運命の奔流が生まれそう。

 私が想像できる最悪がこれ。
 複数の勢力が入り乱れているだろうことから、これは想定に入れておきたいところだ。
 しかし、これは一人の人間に推理可能なものなのだろうか?


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  1. 2019/04/27(土) 21:21:39|
  2. キコニアのなく頃に
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ミステリーをするということ

 本日、一本目。

 考えた人と考えなかった人に同じ答えを与えない、の仕組みについてやったので、根本の“考える”とはどのようなことなのか考えてみたい。

 いつから考えたのかで考えてみよう。

 オチだけ人から教えてもらい読むこともしなかった人。
 オチを知ってから読んだ人。
 オチまで読んでから考え始めた人。
 読んでいる途中から考え始めた人。
 最初から考えながら読んでいた人。

 こんな感じか。
 しかし、一番の下の最初から考えていた人でも、ヤスに引っかかってしまっている。
 ならばさらにその上があると想定できる。

 何が足りないのか?
 失礼だが、KEIYAさんを例にしたい。



 皆さんご存知と思うが、KEIYAさんはなく頃にシリーズの考察第一人者である。
 作品内で使われたモチーフや物語の構成などからの考察はたいへん参考になるもので、「最終考察」は私も愛読させてもらっている。
 KEIYAさんの考察に対する姿勢は素晴らしく、自らが考察するだけでなく、考察の楽しみを広げようという趣旨で考察しているのが節々から感じられる尊敬に値する御仁だ。

 そのKEIYAさんのうみねこ考察であるが、仕事として引き受けたことが枷になっていた印象を受けた。

 月一連載で割かれる紙面も限られている、そのことからまず分量が少なかったのではないかと思う。
 限られた分量でまとめなければならない。
 それは何を重視し、何を軽視するかの選択をしなければならないということ。
 そして、それは回を重ねるごとに積み上げられ、思考を偏らせることとなる。


 それで何を重視したかというと、それは読者である。
 それが仕事なので当然なのだが。

 読者に分かり易く、読者が理解できるものを、読者がついてこれるように。
 万人が理解できる推理。
 それを極端に突き詰めると、考えない人にも答えが解るものになる。

 方向性の問題だ。
 うみねこは、万人に理解できるものとは逆に振っている。
 ならば、万人向けの推理は相性が悪いことだろう。


 さらに、読者が考察する時の参考になるように作ったこともまずかったと思う。
 いや、そのこと自体は賞賛すべきことなのだが。

 これを参考に戦って欲しい。
 それは戦いを読者に委ねるということ。

 本気で戦うということは、完膚なきまでに徹底的に、他人に委ねる余地など一切残さずに勝利することではないのか?

 つまり、本気で推理したのなら、私はこれでぶっ倒した、みたいな武勇伝となることだろう。



 たぶん、これが本気で考えた者とそこまでではなかった者の差ではないかと思う。
 私は枷が付いていなかったKEIYAさんの推理が見てみたかった。
 でも、この皆も共にというのがKEIYAさんなのだよなぁ。

 真実が2つ並び立った場合の愛の話とかを、KEIYAさんがどう考えるのかとか知りたかったんだよなぁ。
 咲の後、考察を書いてくれたりするのかな?



 話を戻そう。

 つまり、推理をする、ミステリーをする、には二種類ある。
 ミステリーをしている、という現在進行形。
 ミステリーをした、という完了形。

 ベアトは膨大なリスクと引き換えの奇跡を願った。
 ならば、対戦相手であるこちらにもそれは求められる。
 リスクを前にして二の足を踏むなら、勝利を得ることはできない。
 リスクを踏み越えてこそ、勝利の目が出てくる。
 リスクとは、即ち、情報が全て揃っているかわからない状態だ。
 であるにも関わらず、これで勝利できる、とか、勝利したのだ、とか豪語できる。

 完了形の人がネットに参加する際は、私はこうぶっ倒したけど皆はどんな感じでぶっ倒した? などと言って現れることだろう。
 完了形の人たちは、そこから議論が始まる。


 そして、そうであるのなら、『Land of the golden witch』がどんなものだったか予想できる。
 竜騎士さんが期待していたのがそういう奴らがたくさんいる状況なら、推理したと豪語する王者の傲慢を持つ者たちに対し、それが本物であるかどうかを試すものとなったことだろう。

 LandがEP4~6までがまとめて襲い掛かってくるものという情報からそれは裏付けられる。
 EP6で行われたのは、並び立つ真実による決闘。
 EP4と5もその流れにあった。

 幻想対真実なら、真実を貫ける。
 では、真実対真実だったなら?
 それでも自分の真実を貫けるだろうか。
 それを試されたはず。

 たぶん、EP2の幻想対真実で幻想に屈していた人が多数出たから取り止めたのだろう。

 そんなレベルのがEP3の時点できたら悪夢だ。
 提示された真実を真実だと信じて思考停止する者が続出する、死屍累々の状況となっていただろう。
 死んだことにも気付かないゾンビたちが犇めく中をサバイバル。

 でも、王者の傲慢を持つ、金蔵レベルの猛者たちだから。
 金蔵さんたちならやりかねませんな。
 みたいな感じだったかも。
 むしろ金蔵が団体でいる方が悪夢だ。
 金蔵たちがヒャッハーしてるとか、いよいよ世紀末感が溢れるアポカリプスナウな状況。
 中には蘇生する者も現れたりする、希望溢れる光景が見られるかもしれない。

 で、以降のゲームではさらに振るい落としにかかると。


 でもまあ、王者の傲慢を試してやろうというのは、いかにもベアトらしくて好きだな。





 真実対真実の戦いについては、EP6の第一の晩の描写を参考にできるだろう。

 譲治はだいぶ前から戦う準備をしてきたプレイヤー。
 朱志香は戦う決意ができたばかりのプレイヤー。

 譲治に対応するプレイヤーと戦った絵羽は、プレイヤーに戦い方や考え方を教えてきた出題者、執筆者である。
 つまり、執筆者は思い通りにプレイヤーを教育してきており、その最後に相応しい嫁、即ち、答えまで与えようとしている。
 読者の推理を一から十まで全て自分が与え、読者の自立を阻止しようとする作者の姿だ。
 それに対して、このプレイヤーは自分が決めた答えと生涯を共にすると答えた。
 これが真実対真実。

 朱志香に対応するプレイヤーが殺した霧江は、真実の正妻戦争に負けて愛人として居座っている真実である。
 準備が足らずに負けた。
 負けた結果、今はその真実を正妻だと認めるしかない。
 だが、自身が真実であることを諦めきれない。
 いつの日か奇跡が起こったなら、自身が正妻になれるかもしれない。
 その日まで嫉妬し続けることになる。
 だから、戦いの日がいつ来てもいいように、準備と覚悟を怠ってはならない。

 楼座は、戦うべき時に戦わなかった者の末路。
 後になってあの時に戦うべきだったと知る。
 戦っていれば、自身が得た真実を失わなくて良かったと。

 最後に雛ベアトの戦い。
 他人から聞いたもっともらしい真実で戦い、その他人の手によって戦いに勝った。
 そんなプレイヤーの姿が重ねられている。



 竜騎士さんはインタビューでEP3を差し替えた際、戦い方がわからない方が多かったから戦い方を教えた、本来ならその戦い方も自力で学んでほしかった、みたいなことをおっしゃっていた。
 つまり、熱心な教育を施されながらも自立のために戦う譲治タイプのプレイヤーよりも上に、自力で学び取っていくプレイヤーが想定されていたことがわかる。
 それが竜騎士さんの理想のプレイヤー、理想の読者、理想のミステリーをする人、なのだろう。


 理想。
 理想の読者。理想の犯人。理想の探偵。
 ミステリー好きは、理想というものがよほど好きなのか。

 理想である、ミステリーをする人。
 そんな人物が現実に居ないから、作品内で探偵がその理想を体現した姿で描かれているのだ。

 皆がそれぞれ異なる真実を信じているように。
 皆がそれぞれ異なる理想のミステリーを抱いている。
 だから、これはミステリー、これはミステリーではない、などと言いたがる。
 ただ、自分の好みのタイプではなかったというだけ。

 推理は恋愛に似ている。
 皆それぞれ好みがあり、理想がある。
 故に、えり好みをする。
 そして、相性というものが出る。

 理想を追求すればするほど、それはとがったものになる。
 万人に理解できるミステリーは相手を問わない。
 皆に愛される、皆を愛する、偶像のアイドル。
 それはそれで素晴らしいだろう。

 万人が愛してくれるものではないのかもしれない。
 しかし、「これこそが竜騎士の理想とするミステリーである」と堂々と描いてみせたのではないか?


 では、これは理想だけを追求した作品だったのかというと、それは違う。
 これが連載でなかったら自慰的な作品になっていたことだろう。
 だがうみねこは連載で、竜騎士さんが相手していたのは理想の読者ではなく、現実の読者。
 コミュニケーションを取り、難易度を調整してきた。

 理想のミステリーを題材に、現実で読者とゲームをする。

 それこそが竜騎士さんの、ミステリーをする、ということだったのではないだろうか。


 なんだか普通の結論になってしまったな。
 でもまあ、これこそが本質だろう。
 ミステリーかどうかではない。
 ミステリーをしたかどうかだ。

 答えは見るものではなく、触れるものである。
 だから、見ているだけじゃなく、やってみよう。
 読み物であるが、同時に、そしてそれ以上にゲームなのだ。


  1. 2019/04/27(土) 19:34:37|
  2. うみねこ咲へ向けて
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私のうみねこスタンス

 本日、5連投、5本目。


 私は真相に至ったと豪語しており、芸術だと、至宝だと評価している。
 ならば、その価値を世間に啓蒙する責任があるのだろうか?

 そこに人類の至宝があり、それを知るのは私ひとり。
 ならば芸術を、ミステリーを愛する者として、それを知らしめる責務がある……のかもしれない。

 そんな気が多少湧いてくるが、私にはそのつもりはない。
 皆でこの楽しみを共有したいとは思う。
 だが、そこに辿り着くのは自分自身の力で、とも思っているからだ。

 その辺のことを説明するには、私のうみねこでのスタンスを説明する必要があるだろう。



 そんなわけで、唐突な自分語り。

 EP1の発売直後、公式掲示板に「自分は真相に辿り着いた、皆はどうだ」的な意味わからんことを書いた覚えがある。
 金蔵、金蔵と。
 あれは黒歴史だ。

 そんなわけで、自分なりの真実に辿り着き、それでぶっ飛ばした感触もある、そんな状態になり、他の人はどうだろうかと公式掲示板に参加したわけだ。

 次に書き込んだのは「第一の晩の魔法陣を犯人は何故描いたのか?」に対してだったと思う。
 その辺には自信があったので、「発見されたいが、すぐには発見されたくない、つまり時間稼ぎでは?」みたいなことを。
 のだけれど、自己解決しましたと返された。

 私は自分の考えが一番楽しいと思っていたが、まあ相手も自分の考えが一番楽しいのだろうと。
 なら、議論はせずに披露だけしようと思い、その後にできた皆集に一番乗りしたわけだ。
 皆集は、皆の意見を集めるというアンケートタイプのもので、自分にはピッタリだろうと。
 その節は大変お世話になりました。

 実に私の性に合っていて、それを説明するには別のエピソードを披露した方がいいか。


 唐突だが、Townmemoryさんをご存じだろうか?
 「さいごのかぎ」という考察ブログを書いて、ゲーム盤の外、作品の外を主に考察している第一人者で、凄く本質に迫っていて、それでいて実に読み手に分かり易く表現している方だ。

 そのTownmemoryさんが公式掲示板に参加した時、私は突っかかっていってしまったことがある。
 今思えば、感情的で支離滅裂なことを言ってしまったと思う。

 確かTownmemoryさんは、竜騎士さんは自分が提示した答えを読者が覆すことが可能な仕組みとして作っていて、竜騎士さんはそれを楽しんで欲しいと思っているはずだ、だから我々は協力して作者の答えを否定しよう、そんなことを書き込んでいたと思う。
 竜騎士さんは二次創作で一次創作を打ち破ることができる画期的な作品を作ったのだ、と。
 赤き真実は絶対ではないのだと。


 確かに、多数の者が真実だと信じれば、それが社会的には真実になる。
 それを作品内でも描いている。
 そこは私も同意見だった。
 しかし、だからこそ、多数意見こそを真実であると妄信せず、作者が用意した真実を見つけ出さなければならないのではないかと私は思う。

 客観的な真実を構築することは不可能だとしても、犯人の主観的真実には辿り着ける。
 そこに意志さえ介在すれば、それを読み解けるだろう、と。

 そんなことをごちゃごちゃと反論していたはず。
 まあ、支離滅裂にすぎたのだが。
 こう、犯人の意志を蔑ろにしてはならない、的なことを熱心に書き込んでいたと、そう覚えている。


 今ならば、それらも客観的に視れる。

 つまり当時の私の目にはこんな感じに映っていたのだ。

 皆の輪に入れない子がいるとする。
 その子は輪の中に入るため、一生懸命ゲームを作った。
 そのゲームを持って、ビクビクとしながらも勇気を持って皆の方へ踏み出した。
 だが、そのゲームを見て面白いと言って、その子からゲームを取り上げる者が現れ、皆でその子を無視してこのゲームを遊ぼうぜと扇動しだした。
 “私”を含めた皆に。
 だから反発した。


 だがそんなわけがない。
 逆側から見ればわかる。

 そもそもそんな子は目に入っていなかった。
 だからTownmemoryさんに悪意は全くないのだ。


 これは視ているものが全く違ったという話。

 Townmemoryさんは作者を竜騎士さんとして見ていて、私は作者をベアトリーチェだとして見ていた。
 Townmemoryさんはルールそのものを見ていて、私はルールを作った者の意志を見ていた。
 Townmemoryさんはゲームの外側を見ていて、私はゲームの内側を見ていた。

 話が合うはずもない。

 Townmemoryさんは、赤き真実が絶対とは限らないのに皆なぜそれを信じるのかと不思議がっていた。
 だが、絶対性を保証するものがあったとして、その保証を保証してくれるものなければ何の意味もない。
 無限に後退するだけだ。
 要は赤き真実を作った者の意志はどうなのかであって、だからとりあえず信じたことにしてゲームに参加すればいい、その内分かる。
 暗黙の了解のようなものだろう。
 そんな立場から見れば、なんでそこに拘るのだろうと不思議がっていたものだ。

 簡単に言えば、平行線の向こう側ということだ。



 話を戻そう。

 そんなわけで、私は犯人の意志を大事にするスタイル。
 だから公式掲示板では、家の子はこんなところが自慢だよ~と皆で披露し合うような感覚だったのでは、と思う。
 だから皆集は性に合っていたのだと。

 そんな感じでいるとやがて、他の人も一生懸命考えていて、それを大事に大事にしているのだろう思えてくる。
 その人にとってはそれは宝で、その宝を取り上げて、私の宝を与えて宝に思え、なんてすることに何の意味があるのだろうか。
 自分で辿り着かなくては何の意味もない。
 宝も宝にならない。


 そんな感じだな。
 私の真実を皆に証明する必要はない。
 ただ、自分に対して証明できればいい。

 だから、私の考察記事は、付いてこれる奴だけ突いてこいスタイルなのだが。
 突っ走っていて説明不足的な。
 あるいは感覚的で乱雑な。
 そんなね。



 とは言え、現状のうみねこ界隈はやばいと思うんだよな。

 うみねこは天秤の両側に別なものを置いて釣り合いを取ることに終始している。
 終わる時もそう。
 998対1くらいで釣り合いを取っていたのではないか。
 インタビューでは、笑っていいとも!の100分の1アンケートやりたいと仰っていたし。

 私としては天秤に影響を与えたくなくて、こんな場末に引っ込んで考察を書いているという点もある。
 とは言え、こんなところでいくら考察を書いて、どれだけ錘を乗せても天秤はピクリとも動かないと思って、気兼ねなく良い空気を吸いながら好き勝手考察しているわけだが。


 今うみねこを始める人は、そのほとんどが考えずにEP8まで読んでしまい、そこから考察を始めてしまっているのでは?
 戦わなくてはならない時というのはEP6。
 EP8から戦い始めるとか、ある意味遅すぎる。

 与えられた答えから考察はできるだろう。
 しかし、戦うことだけはできない。
 そういう人たちの考察をさらに新しい人が読んでいく。

 それはつまり、片側に際限なく錘を乗せることを意味するわけで。
 人の考えは、収束しながらも拡散しなければならないのに、収束しかしていない。


 それだと犯人はヤスではないと考えている新人さんには可哀想な状況だと言える。
 今のネットでは見える範囲には、犯人はヤスの人しかいないように見えるだろうし。
 古参は様々な意見が実際にあった大海で生きていた記憶を持っているけど、新参は犯人はヤスという井の中に住んでしまうからなぁ。
 色々な意見があっても良いと言ったって許容範囲というものはあって、極端なことを言えば、犯人ヤスにあらずんば推理にあらず、なんて言いかねない人もいそうだし。

 とはいえ、ちゃんと考えてきたのであれば、他人の意見に左右されるはずもない。
 放っておいても芽を出すに違いない。

 というのが私の感覚。
 期待のハードルが高過ぎる気もするが、飛ばなければ届くことはないだろうからなぁ。
 責任は感じないことにする。
 私は一考察者なので、考察だけしていればいいやと。

 皆好き勝手に推理してきたのだから、そこは皆の勝手だろう。
 各自の宝を大事にしていれば、それで良いだろう。

 天秤のことなら、直に公式から咲が出るから、どうにかしてくれるはず。

 収束してしまったことで新しい物語が見つけられなくなってフェザリーヌが退屈したから執筆しだした、とか想像したら、案外ありえそう。


 以上、自分語り終わり。


  1. 2019/04/20(土) 23:31:16|
  2. うみねこ咲へ向けて
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うみねこは芸術である

 本日、5連投、4本目。


 芸術のこともミステリーのことも全く知らない私が、うみねこを芸術的だなと思ったところを書きたい。


 竜騎士さんはインタビューで度々、考えた人にはわかり、考えなかった人にはわからないように作ったと仰っている。
 その考えなかった人とはどういう人なのか?
 インタビューを繰り返し読んで私が考えたところ、狭義では、考えないのに答えを得ようとする人のことではないかと。

 つまり。
 負けたくないから負けない状況になってから参戦する人。
 推理を外したくないから情報が全て揃わなければ推理を始めない人。

 そんな人に答えを与えないためにはどうすればいいのか?

 作中のようにチェスで例えよう。

 負けたくない人が参戦する様は、さながら盤上に全ての情報、即ち味方の駒が揃い、敵のキングが詰みを待つ状況になって初めてプレイヤー、つまりキングが盤上に現れるようなもの。

 遅れてくるプレイヤーのキングを打ち取るには、まずそのキングが現れざるを得ない状況を作る必要がある。
 そして現れたキングをすかさず打ち取ればいい。

 つまり、情報が出揃ったと思わせ、出てきたところを味方のふりをした駒全てで囲い込んで確殺する。

 誘引、包囲、殲滅。
 これが、戦争芸術……!
 考えずに答えを得ようとする人を殺すことに特化した合理性の極み!

 あまりにも完璧に決まりすぎて、殺されたことにも気づかせない。
 暗殺の極み…!
 殺しの芸術…!


 さらにさらに、そこまで状況を整えるやり方に目を見張るものがある。

 考えない人が、情報が全て揃わなければ推理を始めない人であるならば。
 考える人は、情報が揃わない状況からでも推理し始める人である。

 よって、後から幻想の混じった情報を少しずつ少しずつ毒のように混ぜていけば、前者は濃くなった毒を一気に飲んでしまい、後者は少しずつ毒を摂取して耐性を付けて毒が毒にならない。

 これは後から出た推理で真相が引っ繰り返されることがあるから、全ての情報が揃わない間は推理は不可能である、とする後期クイーン問題を逆手に取ったトリックである。
 言うなれば、ミステリー史を使ったトリック!

 ミステリーでミステリーをする実にミステリー的なミステリー!
 あまりにもミステリー過ぎる……。


 それからそれから、作品に使ったモチーフも良い。

 一つの作品の中で、真実と幻想を同居させる。
 数多の芸術家たちが挑んだだろう芸術的すぎるモチーフ。

 同居できないもの同士を同居させるファンタジー。
 それをミステリーを用いて表現している。

 片方だけでは未完成、片翼しかない。
 両方揃って完成。二人揃って一つの魂。

 さらに、この作品は観る者がいて初めて完成する。
 ミロのビーナスの欠けた腕を想像することで、理想のビーナス像が完成するように。
 現実にはいない理想の女性ベアトリーチェ、二人で一つの魂を視る。

 完璧、あまりにも完璧。
 圧倒的芸術…!

 しかも、それは犯人像。
 各々が思い描く理想の犯人。
 完璧な犯人…!
 ミステリーの本懐…!

 さらに、その芸術作品を、視る者の心の中に飾れる。
 感謝…! 圧倒的感謝…!


 止めに、それらを組み合わせることで起こる殺人。

 心の中に入り込んだ理想の犯人像の片割れが、推理する者を殺す…!
 思考を殺し、停止させる。
 芸術が思考を殺す。
 ミステリーはミステリーをするものがいて、初めてミステリー足り得る。
 ミステリーしたことで生まれたミステリーが、そのミステリーする者を殺す…!
 あぁ、何て美しくも倒錯した構図…!
 あまりにも芸術的過ぎるアンチミステリー…!

 愛がなければ視えない。
 愛が私を殺す。
 愛に、芸術に包まれて死ぬ…!
 作品との一体化…!
 あまりにも芸術的過ぎる死…!


 しかし、それでもまだ片手落ち。
 今のは片方のベアトリーチェが順手でナイフを持ち殺しただけ。
 裏ではもう片方のベアトリーチェがナイフを逆手でもって殺している。

 推理は山に登ることに似ている。
 頂上にまで至ったとしても、そこまで至る別の順路があることは否定できない。
 山の裏側の道。
 それは考えぬ者が至る答えと考える者が至る答えが別であることから導き出される。

 煉獄山の二つの道。
 それに至れば山を空から俯瞰すべく、天国への道が開かれる。

 作品という密室の中で、一人の理想の犯人に殺された私と、別の理想の犯人に殺された別の私、その2つが重なり合っている。
 それをさらに、ベアトリーチェによって天へと導かれた別の私が見下ろしているという構図。
 それが作品の真の姿。

 片側の真実だけを推理すれば、それで思考停止してもう片側の真実は視えない、というアンチミステリー。
 両側とも推理すれば真実は2つとなり、それもまたアンチミステリー。

 しかし、思考停止した二人の私の死体が並んでいるが、天にいる私は思考をしている。
 何故真実は並びえるのか。
 それを謎として推理しようと思考すれば、アンチミステリーもまたミステリーとなる。

『ミステリーする者がミステリーする限り、それはミステリーである。
 人の子よ、ミステリーをせよ。
 ミステリーすることでミステリーは生まれる。
 生めよ、増やせよ、地に満ちよ。
 お前たちの愛によって世界を満たすのだ。

 P.S.
 面白き物語を見つけたならば、我が元へ届けよ。
 我が退屈を癒すのだ。』

 それが神の啓示である。
 ああ、なんて神々しすぎるミステリー…!



 うみねこは芸術…!
 最後は爆発…!
 爆発は芸術…!
 何もかもが芸術的過ぎる…!
 語彙が死ぬ…!
 芸術的過ぎて死ぬ…!

 評論家の方は今すぐうみねこをやって、真相に至って、的確な表現で評価して…!
 お願い…、お願い…。


  1. 2019/04/20(土) 21:24:17|
  2. うみねこ咲へ向けて
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私の体が人を殺した。人を殺すのは心。だから私は人を殺していない。

 本日、5連投、3本目。


 ベアト、即ちヤスを人であると認めさせる。
 それは心を認めさせるということ。

 心が人を殺す。
 認めさせたい心はヤスのもの。
 ならば、ヤスの心が殺人を犯さなければならない。

 つまりだ。
 殺人の動機があるのはヤスの方で、真犯人にはない、ということもありえる。

 要するに、“一なる真実”で真犯人がヤス、即ちベアトを殺したように、それ以外のルーレットの出目全てで“真犯人”を殺したのではないか。


 通常、一つの肉体の中で、駒のベアトとプレイヤーの“真犯人”が存在している。
 そこでベアトをプレイヤーに昇格させ、逆に“真犯人”を駒に格下げする。
 つまり、主犯がベアトで従犯が真犯人。

 殺人をした肉体は真犯人のもの。
 しかし、その肉体を動かしていたのは別人だった。


 そう解釈するとEP4の赤字も説明が付く。

『そなたの罪により、この島の人間が、大勢死ぬ。誰も逃さぬ、全て死ぬ。』

 “死ね”であり“殺す”ではない。
 しかし、“逃れられぬ”ではなく“逃さぬ”。

 “逃さぬ”は、“私が”お前たちを“逃さぬ”。
 “私が”主体の言葉なのだが、私が“殺す”ではない。

 “お前たち”が“死ぬ”という状況を説明しているのに、“お前たち”には“逃れられぬ”ではない。

 つまり、私は貴方たちを逃さないけど、殺すのは私ではないよ、と解釈できるのだ。
 そうすると“罪”を罪であるとしているのはこのベアトではなく、引っ込んだベアトということになる。


 戦人に忘れた罪を問うたのはヤス。
 ヤスは答えを得られず気力を失い、別のベアトに交代。

 これは“肉体”を駒として動かしているプライヤーが交代したということ。
 それはつまり、これまでの殺人はヤスだったが、この後に“肉体”を使って戦人を殺したのはヤスではない別のベアトだったということになる。

 よって、私はだぁれ? の“私”はヤスではありえない。
 そして質問の真意は、“私たち”の内、この“私”はだぁれ? と解釈できる。



 ゾクッとした。
 ……何だろうこの気持ちは?

 そうだな……。
 私はこの物語に満ちている怒りや悲しみは真犯人のものだと考えてきた。
 だからこれまでも真犯人のものと解釈して推理してきた。
 私が書いた昔の記事程、その角度のものとなっていると思う。

 しかし今回、動機はヤスのものだと気付いた。
 それは、物語に満ちていた怒りや悲しみがヤスのものであるということ。
 ベアトのための物語で、ベアトの心を描くための物語なのだからそれは当然なのだろう。
(真犯人の心が仮託されているとしても)

 前の認識では物語のどこにでも“私”がいた。
 それが、“私”がいなくなりそれと交代する形で“ヤス”がどこにでもいることになった。

 だから私は、物語に満ちている“心”の中で、ここだけ“私(のみの心)”がポッと出てきたことに驚いたのだ。
 人がいないはずの場所で、いないはずの人間を見てしまった。
 そのことにゾッとしたのだ。

 まぁ、ただの錯覚で、意識の隙を突かれたからなのだが。
 もしかしたら、私は今初めて、真犯人を見たのかもしれない。



 考察を続けよう。

 “私”は戦人とバトルしていたベアトから分かれて出現した。
 つまり、そのベアトと“私”は別のベアト。
 そしてヤスは引っ込んでいるので、ヤスとも別のベアト。

 よって、ベアトは3人いることが確定する。

 戦人と戦っていたベアトは、負ける運命が確定している。
 負けが確定しているのはファンタジー、即ち、魔法説を体現するベアト。

 それから罪を問うたのはヤス。

 で、“私”で3人。


 これを出題編でやっているのは本当に凄い。


  1. 2019/04/20(土) 20:41:14|
  2. うみねこ咲へ向けて
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一番最初に真相が書かれている

 本日、5連投、2本目。


 EP1の冒頭、金蔵と南條と源治のシーンでの金蔵の言葉。
 それを真犯人のものとすると、そこに事件の真相が書かれていたことが解る。

 金蔵=八城にならないルートの真犯人
 遺言=メッセージボトル、八城の偽書
 ベアト=ヤス、幻想の住人

 裸一貫で生まれ、裸一貫で死ぬ=肉体以外なにも持たない
 築き上げたもの=生み出した世界、黄金郷
 魂を残せない=誰にも認識されず、誰の心にも留まることがない

 逃がさぬ=幻想の中には
 会いたい=現実で

 こんな感じで読み解けば、事件の真犯人の動機が理解できる。
 私の考察をここまで読んでくれた方なら理解してくれるだろう。


 つまり、誰にも理解されない自分は、現実を生きる人間には何も残せない。
 ならば、愛する幻想に抱かれながら死にたい。
 死ぬその瞬間に微笑んで欲しい。

 そんなことを告白している。
 ここからその目的も類推できる。
 要は、現実と幻想の合一。真実の錬成。愛する者とひとつに結ばれること。
 そんな無理を通すのだと。

 この真犯人はメッセージボトルを残すことはないだろう。

 逆を言えば、偽書を記した八城が何をしたいのかも、ここから理解できる。
 残したいが残せないものを誰かに受け継がせようと。
 現実と幻想に引き裂かれた二人が結ばれる。
 その目的を引き継ぐ者を見つけようと。


 インタビューで言ってた、最初の町で見えるけど手に入らない宝箱って、これのことだろう。
 これ、EP6で気付くべきだったな。
 私は愚鈍だ。
 これさえあれば、EP7も8も楽勝だったろうに。
 10年近く迷走してしまった。

 でも迷走した方が楽しいとインタビューでも言っていたので、それはそれで良かったのかもしれない。
 色々な角度やニュアンスで視てきたから、かなり立体的に視えているだろうしな。
 まあ結果オーライということで。

 それはそれとして。
 冒頭で真相が書かれているミステリーは傑作。
 ほんとうみねこは凄まじい……。





 次いでなので、八城視点での入水自殺の解釈をする。
 八城視点で何故かここだけやってなかったのでやってみたい。


 戦人とベアトの二人は、勿論、かつての八城、つまり真犯人とヤスの二人。
 ヤスと共に沈んでいったのは、猫箱の中に共に残ることを選んだ真犯人で、水面に上昇していったのが八城となる。

「俺たちの世界では、何の罪も犯しちゃいないさ。」

 これは、ヤスが犯したのは幻想の世界であって、現実の世界では罪を犯していないという意味。
 それに対する「いいや、そんなことはないぞ。」は、現実に影響を及ぼしたという意味。
 無論、これらは現実とならなかった別の並行世界の話なのだが。

「お前に罪があるなら。それを犯させた俺にも罪がある。……だから、お前の十字架は、俺たち二人で背負おう。」

 これは、ヤスに罪を犯させたのは、自分がそう物語を作ったからという意味。
 そして、そういう物語しか作れなかったという意味。

「妾は、………生きていけるだろうか……。」

 これは、幻想の中でしか生きることができない自分が、島の外で生きていけるだろうかという意味。

「もしお前が、幾百の罪を償おうと思うなら、生きて生き抜け。生の限りを尽くして、……精一杯を生きろ。それだけが、お前の罪を償う方法だ。」

 これは、幻想を真実に昇華することで、幻想の人間であるヤスが現実に存在する人間となって生きたいと願った、そのために幾百の罪を重ねた。
 その罪を償おうと思うなら、人間として生き抜け、という意味。

「馬鹿な男め……。黄金郷より魔女を連れ出した呪いを受けるがいい。」

 これは、八城にかけられたヤスとの誓いを一生忘れなくする呪い。

 だから、八城の前からヤスが消えてしまったとしても、八城は一生忘れることはなく、ヤスを人間とするために、ヤスと真犯人を永遠に一緒でいさせるために、物語を綴る道を歩むこととなる。
 約束を果たす、その日まで。

 一方、幻想として消えていくヤスと、それを最後の時まで離さない、消える時は一緒だと共に落ちていく真犯人。

 それを八城が綴っている。

 このシーンは本当に美しい。


 この2人、いや八城も含めると3人。
 思わず応援したくなってしまう。
 罪を犯す犯人なのに。
 まぁ、共感してしまったからなぁ。



 とりあえず、この考察によって、八城が選んだ道がこちらだということが解った。
 よって、手品エンドの八城は、ヤスと決別して一人で生きることを決めたイフの八城ということになる。
 約束を守りそして果たした八城は、絶対にそちらの道は選んでいない。


  1. 2019/04/20(土) 19:50:55|
  2. うみねこ咲へ向けて
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ラストノートという題について予測

 本日、5連投、1本目。


 咲のタイトルはどうやらラストノートの模様。

 香水の香り立ちは最初にトップノート、次にミドルノート、その後にラストノートと移り変わりるのだとか。
 だとすると、一つ目、二つ目の物語に続く、三つ目の物語を明かすものになるのかもしれない。

 全てのベースとなる物語であり、最後に表れイメージを決定付ける。
 内容はまだわからないが、最後に相応しいタイトルのように思える。


 とりあえずラストノートは3つ目の物語だと仮定して話を進める。
 とすると、トップノートとミドルノートは出題編と散に当て嵌まるのだろう。

 出題編では「人間には不可能=魔女の仕業」という香りが濃厚に立ち込めていたが、散に入ると形骸と化した。
 それに取って代わるように、「人間の仕業、それもヤスという人間の」という香りが濃厚となった。
 ならば次は、ミドルノートの香りが薄れ、隠されていたラストノートの香りがするようになるはず。

 ラストノートの香りを濃厚に漂わせるものとしては「我らの告白」がある。
 区分的には完全にラストノートに入るだろう。
 あの連鎖密室のトリックは、3つ目の物語があることを明確に示している。
 EP1~8までのトリックは私にとって明白だが、それは私の心証に過ぎない。
 だが、マスターキーを置いて行かせたのは物証レベルだろう。
 それは「犯人はヤス」を否定するものではないが、「3つ目の物語」を強く肯定するものだ。

 喩えるなら、これまでは影しか残していなかった犯人が、足跡を残したようなもの。

 にもかかわらず世間では、「犯人はヤス」のトリックの答え合わせが来た、で意見は一致。
 謎を謎と気付く者はおらず、よって謎を解こうとする者もいない。
 ということが示されてしまっているわけだが。

 それを踏まえて咲はどこまで踏み込むのだろうか?

 トップノート、ミドルノート、ラストノートの区分けは、ファンタジー対アンチファンタジーとアンチミステリー対ミステリーを重ねることでその三区分が見えてくる。
 即ち、ファンタジー、ミステリー、そしてアンチファンタジーとアンチミステリーが重なる所の三区分。

 ミドルノートからラストノートに移るには、アンチミステリー対ミステリーをしっかりやらなくてはならないだろう。
 アンチミステリーとは、並び立つ2つの真実。
 まずは真実を2つ並べてみるところから始めるべきか。
 「我らの告白」辺りを題材に、トリックを両方の立場から順番に並べ、そこからEP1から順に。
 終わったら止揚するために、天から俯瞰する執筆者が論点となる。
 コンフリクトからアウフヘーベンへ。

 これが常道だと思うが、さてどうなるだろうか?

 執筆者関連は丸々やっていないので議論のし甲斐はたっぷりある。
 その果てに至高天へ。


 だがそんなに素直に行かせてくれはしないだろう。
 どこかで絶対に煙に巻くはず。
 匂いはすれども姿は見せず。
 そんな感じになるんじゃないのか、ラストノート的に。


  1. 2019/04/20(土) 19:21:26|
  2. うみねこ咲へ向けて
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痛みを伴う成長

 真犯人は、可能性が分岐した並行世界や黄金の魔法による裏の世界、真里亜視点を借りた魔法世界など、新たな視点を得ることによる世界の拡張を志向している。
 それは逆説的に、小さな世界に住んでいたことを示している。

 そんな人物が、戦人の心の推理という視点と出会って何を得たのかを考えてみたい。


 人の心が人を殺す。
 心を推理するということは、その心を認めるということ。
 ならば、存在しなベアトリーチェの心が認められたなら、それは人であると認められたということになる。
 ベアトを生み出した真犯人は、心を推理するという戦人の台詞を聞いてそれを目指したのではないだろうか。

 それに伴い、心の推理、ホワイダニットを取り入れた。

 それまでは、イタズラをすることでヤスの居える場所を作っていた。
 それはトリック、ハウダニットを重視していたということ。
 そこにホワイダニットが新たに加わることで、世界は奥行きを得たのではないか?

 つまり、真犯人の心の裏側にあるヤスの心を生み出す。
 ベアトリーチェに心を与えることができるということ。


 だが、心を与えるということは、その心に応えなければいけないということ。
 それは真犯人の行動、運命を縛る鎖となることでもある。

 さらには、心を推理してもらうには、これまでのやりかたであるトリックの実演だけでは不足だ。
 トリックの実演は、一人でする人形劇のようなもの。
 例えるなら、真里亜がぬいぐるみを動かしながらしゃべらせることで、さくたろうをその場に生み出しているように。

 だから、心を表現するために、物語を記す作家の道に進むことになる。

 一人遊びから、大勢に己の世界を広める作家へ。
 子供から大人への成長。
 作家寿縁が歩んだ道に仮託されたように。

 それを戦人が促したと見ることもできる。



 というわけで、今回は真犯人とベアトの関係性の変化についてをやりたい。


 真犯人にとって、現実世界とヤスのいる裏の世界は、触れることができない観測するしかない世界という意味で同等である。
 離れた場所から観測する、それが真犯人の原点。
 最終的に辿り着く、数多の真実を俯瞰する境地に至るまでの道の始まり。

 現実世界と触れ合うことができない小さな世界に住む真犯人にとって、ヤス―ーベアト――は初めて世界を広げてくれた人であり、観測しなくとも存在する現実とは違い、観測しなくては消えてしまう、守らなければならない者でもある。

 戦人の心の推理によって、いつかヤスの心が認められる時がやってくる。
 心を持つ一人の人間として、現在に至る過去が与えられ、未来に至る夢が与えられる。
 それは人としての成長。

 成長は痛みを伴い、関係性を変化させる。
 真犯人が人形劇を卒業し、作家の道を歩むように。
 その道が定まった、ベアトを殺し猫箱を出るより以前、その時までは子供と大人が入り混じった成長の過渡期であったと言えるだろう。


 子供で表されるのは、一人での人形劇。
 自分の肉体を用いたトリックの実演。
 それによってベアトの居える場所を作ること。

 それはベアトを自分に縛り付ける行為と言い換えることができる。
 常に一緒であるという、独占欲の発露。
 それがベアトを猫箱に閉じ込めることに繋がっている。

 決して離さない。
 どこにも逃がさない。
 引き離されるくらいなら、共に死ぬ。
 そして蘇り、同じ日を無限に繰り返す。
 何もかもを閉じ込める牢獄の中で。


 大人で表されるのは、作家となって綴った物語。
 大勢の人に“心”を届ける仕事。
 それによって人々の心の中にベアトの居場所を作ること。

 それはベアトを自分より解放する行為と言い換えることができる。
 別の道を歩むという、成長の証。
 それがベアトを猫箱から出すことに繋がっている。

 決して消させない。
 どこへでも行ける。
 共に夢を叶えるために、今は別離を。


 関係性は変化する。
 トリックの実演により隣にいたものが、物語に記すことで上から下に見下ろすことに。
 心を重視するミステリーを描くということは、犠牲者の心も重視することを意味する。
 作家はキャラクター達を、ある種平等に扱うのだ。

 真犯人にとって、犠牲者の真実を得るということは、異なる視点を得て世界を広げることに繋がる。
 だからきっと、島の外へ出てもっと色々な真実を知りたいと願ったことだろう。
 願いの原点が、小さな世界を抜け出して広い世界に行きたいというものだから。

 作家になる道は、真犯人ひとりの幸せのためだけではない。
 ベアトの幸せも考えている。
 真犯人がベアトに縛られているように、ベアトも真犯人に縛られている。
 真犯人の心の中で、どこにも辿り着けないボトルメールがベアトなのだ。
 ベアトの未来も無限の可能性がある。
 だから真犯人から解放され、ベアトが広い世界へと旅立っていけるように願って物語を作った。

 そして、死んだベアトに戦人と結ばれる物語を届けた様は、まるで独身の子供に死後嫁を宛がって結婚させてから冥府に送り出す冥婚のよう。

 これは死んだベアトに届ける葬送の物語であり、新たな世界に飛び立つベアトを祝福する送別の物語なのだ。



 成長には痛みが伴う。
 別れが人を大人にする。
 だからうみねこはビター。

 しかし、どちらの選択も全力投入すぎる。
 どちらの選択が選ばれても後悔しないためだろう。

 愛する人(幻想)のために世界の全て(現実)を敵に回す覚悟、か。



 EP8のエンディングで2人はどうなったのだろうか?


 ベアトを殺し大人になった真犯人は、永遠を誓った幼き日の真犯人とはもはや別人。
 だからベアトと一緒になれるのは、幼き日の真犯人だけ。

 戦人がベアトを島から連れ出そうとしたシーンは、真犯人とベアトの姿に重なる。

 ベアトとしては外に連れ出そうとしてくれただけで満足。
 島を生きて出られないから死を選ぶベアト。
 そのベアトと共にするのは、大人となる真犯人から分かれた幼き日の真犯人。

 大人となった真犯人の心の海の底、そこに2人は眠っている。

 あるいは、真相に至った読者の心の海の底で2人は眠っている。

 それだけのお話。


 ベアトと共にいるのが真の真犯人。
 だから、ここにいる大人となった自分は、かつての自分と同じだとは認めない。
 それが十八の葛藤に仮託されているのだろう。

 幼き日の自分は、果たせなかった約束への未練。
 それを果たすために筆を執った。

 そして未練は果たされ、幼き日の自分は天国、黄金郷に迎え入れられ、ベアトと再会を果たした。
 それは大人となった真犯人にとっては完全なる決別。
 だからそこはきっと、真相に至った読者の心の中。
 2人が共に居ても良い場所。


 そこを見つけることが大人となった真犯人、執筆者の目的だった。
 それが一番胸にストンと落ちる。

 これは大変なものを受け取ってしまったな。
 大事にしなくては。

 しかし、旅の終着点が読者自身の心の中だとはなぁ。
 まるで青い鳥のようなオチだ。


 やっぱ、綺麗に終わっているよな。
 咲、どうするんだろう。


  1. 2019/04/13(土) 20:19:28|
  2. うみねこ咲へ向けて
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思考の果て/ゲームを始めるために

 咲とキコニアの紹介ページが開設された記念に投稿。
 長くてまとまってないがご容赦を。


 うみねこの物語を記述する最上位者は誰なのか?
 この“記述”とは、紙面に書くことだけでなく、頭の中で物語を作ることも含める。
 八城幾子は頭の中で物語を作り、それを紙に記述し、パソコンで打ち直す、の3度手間をしているとか。
 要するに、物語の全てを観測し生み出している最上位の観測者のことである。

 大別すると2つ。
 人間が記述しているのか、魔女が記述しているのか。
 ミステリーか、ファンタジーか。
 現実の上に魔女の世界があることを許すのか、魔女の世界もまた人間の想像が生み出したものとするのか。

 ミステリー、即ち全て人間の仕業であると突き詰めていくならば、行き着く果ては「うみねこの全ては作中の人間が記述した作中作である」となるだろう。
 創作であるなら何でもありだから考えるだけ無駄と感じるが、物語の執筆者の推理して欲しいという意思を信じることができたなら推理は可能なのである。
 と前回辺りで書いたと思う。
 人間の思考より生み出されたものは、その思考を辿れば解けるのである。



 魔女が用意したゲーム盤で起こる惨劇のパターンは複数あり、それらが現実であるとすると並行世界があることになりファンタジーになる。
 それをミステリーで解釈するならば、それらの並行世界は思考の産物となる。

 起こり得る偶然を網羅し、それぞれに対応する惨劇を用意し、無数の並行世界を作り出す、通称悪魔のルーレット。
 これはある種の思考実験と言ったところか。
 そしてベアトのゲームはそれを用いた思考ゲームである。
 よって、その思考は現実的でないと否定するのは無意味だ。
 このゲームは思考を辿り、心を推理することを目的としている。
 現実のみを推理することは目的ではない。


 EP7においてベアトリーチェ殺人事件が起こる。
 ベアトリーチェはそれを生み出した者自身の手によって殺された。
 現実においてベアトは誰も殺していない。

 無数の惨劇は現実とならず、よってその犯人も存在できず、主の頭の中で生まれそして殺された。
 犯人ベアトリーチェを知る者はおらず、その物語は主の心の海を揺蕩いて忘却の深淵に消えていくのみだった。
 にも拘わらずその物語を拾い上げ現実の海へと投げ放った。

 なぜベアトリーチェを生み出したのか?
 なぜベアトリーチェに何もさせずに殺したのか?
 なぜ自分が殺したベアトリーチェの物語を人々に知らしめたのか?

 これらの疑問に対して、起こった事実のみでは答えにならない。
 事件の日に起きた現実は、膨大な思考という過程の果てに辿り着いた結果に過ぎないのだから。。
 現実は氷山の一角に過ぎず、その正体の大部分は海の下、即ち心の中、思考の海の中にある。
 つまり、思考を辿り心を推理することが肝要なのである。


 ベアトリーチェは主の思考より生まれ、思考の中で惨劇を起こし、現実に何もなせずに殺された。
 全てが思考のみで完結した存在。
 思考実験の産物。

 ベアトリーチェのゲームはそれを用いたもの。
 純粋に思考のみで成り立っている。

 思考ゲームは思考を楽しむもの。
 だから、考えても無駄だから考えない、という姿勢こそが無意味であろう。
 娯楽は無駄を楽しむもの。
 その無駄だというものを楽しむのだから。

 ベアトのゲームは思考することの楽しさを教えてくれる。
 ベアトリーチェという思考実験が余程楽しかったのだろう。
 メッセージボトルを作って自分の思考を辿らせようとしたくらいだ。

 実際楽しい。
 真実を異なる角度から見れば違う顔を見せてくれる。
 真実に辿り着いて終わりではない。
 思考する限り、楽しむことが可能なのだ。

 真実が1か0かなら、1を得て終わりか、0だから無駄に終わるかになる。
 真実が1と0の間なら、その揺らぎが無限を生む。

 EP8で語られたのは、知ろうとしないことを良しとしたのではない。
 知ることの楽しさを失わないために、考えることを楽しみ続けるために、知ることによる思考停止を戒めているだけなのだろう。



 閑話休題。



 さて、メッセージボトルを流さなければ、ベアトリーチェは忘却の深淵に消えていた。
 ではなぜメッセージボトルを流したのか。
 これは明白だろう。
 EP1ですでに書かれている。

 皆が認めなければ存在できないベアトリーチェを、認めさせること。

 一周回って戻ってきたが、これまでの思考の旅路の結果、異なる意味合いが見えてくる。
 要は、当初魔女ベアトリーチェのことだと思われていたのが、実は犯人ベアトリーチェのことだったということ。

 思考上の事件の思考上の犯人。
 現実に存在しない人間を認めさせる。

 そのための無限の惨劇。そのためのベアト殺害。そのためのメッセージボトル。

 ベアトを殺したのは、ゲームの対戦相手にベアトを新しく生み出させるため。
 即ち、ベアトを蘇らせるために、まずはベアトを殺した。


 まあ論理的ではある。
 生きているなら蘇らせる必要はないのだから。

 思考だけで終わっておけばただの思考実験だったのだろうけど、思考の結果を現実に反映させてしまっているからなあ。
 思考が信念になったのだろうが、これは狂気的ではある。
 例えるなら、真里亞が楼座にさくたろうを認めさせ蘇らせるために、自身の手でさくたろうの首を捩じ切ったようなもの。
 他の人間に認めさせたいほどに大切な存在を、結果が保証されていないのに壊したのだから。

 そして、結果が現れたということは、それに至る過程の証明となる。
 過程がなければ結果には至らない。
 よって、結果があれば過程は存在する。

 結果を伴う魔法。
 その魔法とは即ち、過程であり思考である。
 結果を伴う魔法は、表と裏が合うように辻褄合わせをしなければならない。
 よって、結果を伴う魔法とは、辻褄を合わせた結果である。
 なので辻褄を合わせる必要がなければその結果には至らない。
 要するに、結果が魔法の存在を証明する。

 魔法という解釈が、執筆者の思考上に存在することを証明するのだ。
 これが悪魔を証明するということ。
 つまり、悪魔は人の心の中に棲んでいる。
 トンチかな。


 ベアトリーチェが存在しなければ無限の惨劇は作られず、悪魔のルーレットは回らず、ベアト殺害は起こらず、猫箱を作る必要はなく、メッセージボトルは記されることもなかった。
 それらがあったということは、ベアトリーチェは確かにその主の心の中に存在していたということ。
 その真実を誰も否定することはできない。

 現実でないならそれは幻想。
 だが幻想ならそれは全て嘘なのだろうか。
 嘘ではないのなら、その幻想は真実なのだ。
 真実だから結果が伴う。
 自身の人生を左右するほどの決断を下せる。
 現実に影響を与える幻想は、その幻想が存在することを証明している。


 人を殺すのは、人の心。
 だから心を推理する。

 心を推理してほしいから、心から生まれた物語を送った。
 ならそれを推理するのに物語以外、神から見た現実は必要ないだろう。


 悪魔の証明を証明するには、悪魔が姿を現さずに証明しなければ意味がない。
 それを突き詰めた結果がベアト殺害なのかもしれない。

 ベアトの存在を動機とした殺人は、ベアトが動機として存在することを目に見える形で証明することになる。
 つまりは悪魔を連れ出したようなもの。
 悪魔が姿を現さずに証明するためには、それらの事件も幻想とするしかない。

 悪魔のルーレットに身を委ねることで、その結果、起こらなかった事件を幻想とした。
 しかしそれは、ルーレットに身を委ねるという意思が嘘であったなら、それら全ての幻想が嘘だったことになってしまう。
 よって、絶対の意思でルーレットを回したのだろう。

 ルーレットの出目によって、姿を現して殺人を犯して証明し、または姿を現さずにその証明を試みる。
 ベアトが存在した証とするという意味ではどちらでも満足する。
 だが思考実験としては、より突き詰めた姿を現さないままの証明こそが本命のはず。
 本命を成し遂げるために、本命を行わないことも容認する。

 本命の実現という目的のためにルーレットという手段をとったが、手段であるはずのルーレットを作るのが目的となり、本命は出目のひとつとしてルーレットが行う手段のひとつになり下がったが、ルーレットの上には依然として本命が大目的として不動のまま鎮座している。
 と実に倒錯的だ。
 そしてそれを思考で留めず現実にしようとするのは狂気的だ。

 決断できないからルーレットに委ねる。
 どれでも構わないからルーレットに委ねる。
 それなら実に人間的だ。
 だが、明確に出したい目があるのに平然とルーレットに委ねるのは、人間離れしている。
 たとえそれが、ルーレットに委ねた上で出た目でなければならないのだとしても。

 人間に可能な決断には思えない。
 理解は難しいな。
 感覚的な納得は、論理では量れない。
 同様に、論理的な正しさを、感覚では捉えられない。
 彼のモンティホール問題の答えのように。

 ルーレットに運命を委ねる苦悩と葛藤、即ち感情は理解できる。
 ルーレットを形作る思考と論理、即ち理屈も理解できる。
 出したい出目があるにも拘らずルーレットに身を投じる感覚は完全には理解できない。
 人の感覚から離れているように思う。



 現実の自分を俯瞰して見下ろしているもう一人の自分がいるという感覚。
 まるでゲーム画面を眺めるかのように。
 現実の自分をゲーム盤の駒として見下ろし、さらには複数の盤面を用意し、大勢ある自分という駒の中のひとつとして扱う神の如き視点。

 並行世界の自分の集合体こそが真の自分という感覚か。
 はたまた、それらを見下ろす神の如き視点こそが真の自分という感覚か。
 現実の自分の命が失われても、真の自分は存在し続けるかのような決断のように思える。

 ゲーム盤から駒を除外しても、プレイヤーは存在し続けるように。
 駒として扱っている現実の自分の命を除外しても、プレイヤーとしての自分は存在し続けると。

 まあ、それは錯覚に過ぎない。
 肉体があるから、意識はある。
 その逆はない。
 もしあるとしても人間には関知できない。
 だから現実的には、存在し続けると錯覚したまま、肉体ごとその意識は消え失せることになるだろう。


 だがしかし。
 ルーレットの中にひとつだけ、その神の如き感覚を、意識を保ったまま猫箱を生きて出られる出目が存在する。
 それが本命の目。
 それ以外の目は本命のための捨て駒。

 確率が低い賭けに勝った時には魔法が宿るという金蔵理論。
 魔法だから勝つのではない。
 勝ったから魔法が宿るのだ。
 優れるから勝つのではない。
 勝ったから優れるのだ。
 未来の真実が過去の真実を書き換えるのだ。

 自分自身に魔法を掛けるのが一番難しいという。
 信じようとも信じきれないものを、自身に信じさせようとしたのか。


 ほぼ確実に猫箱の中で死ぬことが決まっていたのに、奇跡的な出目でひとつだけ入れていた当りを引いた。
 賭けに勝ったモーセの前で海が割れたように。
 無論、それはただの偶然に過ぎない。
 だがそれが実際に起きた時、人はそれを奇跡だと信じる。

 根拠なき錯覚に根拠が与えられ、偶然は奇跡となり、石は金となり、人は神となる。
 人以上の存在を魔女とするならば、自分は魔女であると。
 それを認める証として奇跡が起こるのだと。

 同じ結果を得ようとも、自らの手で成し遂げなければ達成感は得られない。
 山の登頂を達成したという実感が、それまでの道程を肯定する。

 百聞は一見に如かず。
 論より証拠。
 百の思考よりも、一の実践あるのみ。
 一回奇跡を起こしてみせれば、それを根拠として信じることができる。

 強烈な神秘体験こそが、神秘を真実だと信じさせる。
 悪魔のルーレットに打ち勝ったという自負が、人の領域を超えたのだという自覚を齎すのか。
 ベアトリーチェを殺したあの瞬間、神懸った、ある種の悟りを開いたかのような精神状態だったのではなかろうか。
 ベアトのゲーム盤の赤き真実が真に絶対のものになったのはこの瞬間だったのかもしれない。
 それは即ち、親の総取り、ルーレットの全てを掌握したということ。
 そしてそれをもってベアトリーチェの存在を世に問う準備が整ったということ。
 全ては再びベアトリーチェに微笑んでもらうために。
 これについては、EP1の時点ですでに金蔵が語っているのだよな……。


 これが実現すれば、神の如き感覚を己のものとし、現実はゲーム盤のひとつになり、現実の自分すらも駒と認識することが当然となる。
 それは肉体と精神の乖離を促す。

 主観を肉体に置かず、俯瞰視点を主観に定める。
 現実の出来事をまるで画面越しに見るかのように、肉体と精神の距離が遠い出来事のように感じることだろう。
 人を見る時、肉体ではなく精神を見る、肉体<精神の価値観。
 肉体に価値を見出さない。
 それどころか魂を縛る檻と感じ忌避している。
 太陽の七の魔法陣は檻からの脱出。
 それを組み込んだ儀式の完遂は、その価値観の完成を意味しているのではないか。

 そうなれば肉体に付属する苦悩や葛藤は相対的に矮小化され、純粋に思考を楽しむことができるようになるだろう。

 ああ、これで自身の負の感情が渦巻く惨劇を使って、思考を楽しむゲームを共にしようとする矛盾に説明がついてしまうな。


 今思えばEP6のラストで縁寿が八城にした質問は核心を突いていたのだろう。
 八城がフェザリーヌなのか、フェザリーヌが八城なのか。
 どちらが主なのか。

 ミステリーで考えるなら、無数の惨劇の真犯人は人間であり、物語を執筆した最上層にいるものは人間となる。
 それに間違いはない、
 だがそれだけで足りるのだろうか?

 例えば、私が探偵となって「八城幾子、貴方が真犯人だ」と追い詰めたとして、参ったと言うだろうか疑問だ。
 真実が二つ並び立つ時、どちらも同時に塞がなくてはならない。
 片方だけだと、もう片方から逃げられるだけなのだから。
 つまり、「フェザリーヌ、貴方が真犯人だ」も同時に突きつけなくてはきっと降参しないのではないだろうか。

 ラスボスを倒したと思ったら裏ボスがいた気分だ。
 裏ボスを倒さなくてもエンディングを迎えられるという意味でも。

 現実においては、ペンを持ち紙面に記述しているのは人間である八城幾子である。
 しかし、幾子も言った通り、紙に書く前に頭の中で物語を記述しているのだ。
 頭の中で物語を記述しているのは、人間の八城なのか、それともフェザリーヌなのか。
 八城視点なのか、フェザリーヌ視点なのか。

 事件は思考上にしかなく、全ては物語として記述されたもので、推理すべきは真犯人にとっての真実である。
 現実はそれに付随する一要素に過ぎない。

 言えるのは、フェザリーヌを追い詰めない限り、推理は片手落ちだということだけだろう。
 八城とフェザリーヌは同一人物であるが、それと同時に別人であるというのが彼女の真実だろうから。



 よって結論は、「うみねこ」はミステリーであると同時にファンタジーでもある。
 そしてそれらを記述しているのは人間である。

 精神をどれほど高めようと、それは人間に可能なことだろうから。
 人間を超えようと、人間は人間である。

 しかし、八城幾子は、人間から神に成り上がったのか、それとも人間から駒に成り下がったのか。
 ベアトのゲームは他人を駒として弄んでいるが、それも間違ってはいないが、本質は自分自身を駒として弄ぶことにあるのだろうからなあ。





 この奇跡の魔法について、勢いのまま書いたので分かりにくかったと思うので、異なる角度から色々な表現に挑戦してみる。


 某インタビューで瓶の蓋を開ける話があったのでそれに倣おう。

 固い瓶の蓋は、開けられると思ってやらなくては開けられない。
 開けられないと思っていれば、ある程度で開けるのを諦める。
 物語本編でも魔法の話で、極小の可能性でもやれば叶う可能性があり、やらなければゼロであると言明されていた。

 その結果得られるのが奇跡の魔法。
 それは困難を打ち勝ったという達成感。
 困難が大きければ大きいほど、それは得られるだろう。

 それでそれはどう精神に影響するだろうか。
 その道に詳しくない私ではわからないが、とりあえずは二つばかり精神論的なのは思いつく。

 スポーツの練習で本番の試合よりも困難なことをやらせて、それを克服できればそれ以下の困難である試合は困難ではないの思わせるやり方があるとかなんとか。

 闘犬を育てる時、最初の闘いの前に噛ませ犬を用意し、勝利の味を味合わせるとかなんとか。
 逆を言えば、噛ませ犬を使わず初戦で負ければ負け癖が付くのだろう。

 これらも一種の魔法と言える。

 最初の瓶を開けた者は、次の瓶も開けられると信じる。
 だから困難だとしても諦めることはない。

 極限の苦難を乗り越えた者は、あらゆる苦難に対して諦めない精神力を身に着けられる。
 言うなれば、究極の勝ち癖。

 リスクを背負いそれに打ち勝つことで、絶対に勝つという意志力を得る。
 それが金蔵の魔法。
 金蔵は常に勝つことを考え、勝つ方策が思いつかなければ自爆する覚悟をしている。
 その意志力の前では、凡百の輩は戦うまでもなく膝を屈するしかないだろう。

 そして、その奇跡の魔力を得る前にそれを豪語するのが王者の傲慢。
 勝とうとしなければ勝つことはできない。
 絶対の意思が絶対の結果を紡ぎだす。
 とは言え結果が出るまでは、それを認めるのは自分だけ。
 逆を言えば、結果が出ればそれは追認される。
 絶対の結果が絶対の意思を保証するのだ。

 結果が伴う魔法は、結果が伴わなくては魔法とならない。
 ある意味虚勢に過ぎなかったそれが、結果を得ることで本物に化け実勢になる。
 そしてその結果により、過去に遡って真実が書き換えられる。
 その意志は本物であったと。


 結果だけが、意思を証明してくれる。
 誰にも視えない、誰にも認められないそれを。

 人の意思が事件を起こす。
 意思が事を成す。
 事を成すには意思の力がいる。
 意思の力を信じるには、事を成しそれを証明せねばならない。

 ベアトリーチェを認めさせる。
 それを成すには、まず絶対の意思を得なければならない。
 それを得る為に、悪魔のルーレットに打ち勝つ必要があったのではないか。

 黄金の真実を飾り立てるには、まず土台となる赤き真実が必要となる。
 それを己に信じさせるために、悪魔のルーレットを踏破した。
 そして満を持して黄金の真実を世に問うためにメッセージボトルを流した。
 己に黄金の真実を信じさせる奇跡を願って。


 奇跡を起こすために、まずは最初の奇跡を起こす。
 瓶を開ける為に、まずは最初の瓶を開ける。

 その信条はベアトのゲームにも反映されているのではないか?
 具体的には、各ゲームとして。

 つまり、9つのエピソード、8つのゲーム盤、8つの瓶。
 最初の瓶を開けられたなら、その後の瓶も開けられるだろう。
 しかし、最初の瓶が開けられないなら、その後の瓶も開けられないだろう。

 要するに、「うみねこ」を八つの山の連なりと見るのだ。
 それを大きな一つの山だと見てしまえば、最初のひとつのゲーム盤だけでは情報不足であると判断してしまうだろう。
 あるいは、うまく開かないからと別の開けやすいものを開けることにするか。

 そういうコンセプトのゲームなのだろう。
 奇跡を得ることで絶対の意思で思考できるようになった八城は、対戦相手に同じことを求めたとすれば辻褄は合う。



 思うに「うみねこ」は、観測することによって異なる世界を新たに生み出せるのか、という思考実験だったのでは。


 真実は2種類ある。
 観測せずとも存在している真実と、観測することによって生じる真実だ。

 それに伴い世界も2種類に分けられる。
 観測せずとも存在する真実によって構成されている世界と、観測によって生まれた真実によって構成されている世界とに。

 では、世界と観測者のどちらが先なのか。。
 先に世界があり、そこより観測者が生まれたのか。
 それとも、先に観測者がいて、世界を生み出したのか。
 物が先か、心が先か。

 もし、心が世界を生み出すのであれば、思考によって別の新しい世界も生み出せるのではないか。
 別の可能性、異なる視点、新たな解釈。
 それらによって生み出される様々なカケラ世界。

 仮に、絶対の意思で思考し、絶対に思考を止めない存在がいるとするならば、無限に世界を生み出すことが可能なのではないか。
 その仮想の存在をフェザリーヌと仮に名付ける。


 殺人儀式は、それを現実において人工的にその模造品を作ろうという実験。
 オカルト的に解釈すれば、その仮想の超越存在の召喚儀式。
 と見なすことができる。

 だが現実的に考えるなら、世界は一つしかない。
 だからこそ、他人の心の中に新しい世界を生み出すことにした。

 現実と同時並列的に観測可能な別の世界を他人の心の中に生み出せたなら、その世界を己の観測によって生み出したのだと、その者に認証してもらえる。
 それをもって証明終了。

 全ては人間に可能なこと。
 そして、ベアトリーチェは“い”る。


 後は悪魔のルーレットを突破できる方法か。
 これは現実で通用する理屈であることよりも、自身に信じさせることができる理屈であることが重要。

 悪魔のルーレットには極小の確率で生還できる目が存在する。
 これを試行一回で当てるのはほぼ不可能。

 ならば試行回数を増やせば良い。
 現実で試せるのは一回だけなので、可能性を分岐させて複数の並行世界で試行すれば良い。
 がこれは、自分を百人に増やして99人を捨て駒にして一人成功すればいいという考え方。
 自分がその成功する一人になれるかわからない。
 自分ではない成功した自分は、かつて自分だったが、もはや別人である。
 つまり、回数を増やそうが、成功した自分に成れる確率は変動しないのだ。

 この理屈でも二の足を踏むのは避けられない。

 では並行世界を俯瞰する存在を仮定しよう。
 それは依代に憑くことで世界に留まることができる。
 そして、悪魔のルーレットの目の数にだけ分裂した依代を通して複数の世界を観測していた。
 が、10月6日時点で生きている依代は一人だけ。

 つまり、俯瞰存在は必ず依代に憑きながら猫箱を生還できる。
 そして、俯瞰存在が観測する真実は、猫箱の中で拡散し、箱の外に出ると収束する。

 収束し全ての自分を統合した存在をこそ“自分”であると信じることができれば、捨て駒である全ての自分を救うことができる。


 さて、この時統合されるのは何か、もう少し詳しくやってみよう。

 まず統合されるのは肉体ではない。
 なので、精神や魂の類となるだろう。

 そしてそれは、猫箱の中では拡散し、外に出ると収束する性質を持つ。
 ある時は波のように振る舞い、ある時は粒子のように振る舞う、まるで量子のようなもの。
 魂をそう定義すれば、魂は生還した自分、あるいはそれに依り憑く俯瞰存在に統合されることによって確実に救われる。

 また、魂は真実であると看做すこともできる。
 真実もまた量子のように振る舞う。
 観測する度に姿を変え、猫箱の中では波のようであり、外では一つのように視える。

 さらに、統合される真実は、真犯人のモノだけでなく、被害者たちの真実も含まれていることだろう。
 カケラ世界を生み出す時、被害者たちの真実が定まっていなければその者たちの行動は確定しない。

 儀式殺人を第十の晩まで完成する=そのカケラの全ての人間の真実が定まる。
 第十の晩に至る=黄金郷の扉が開き、そこに迎え入れられる。
 つまり、黄金郷は死んだ全ての人間の真実を迎え入れる場所と定義できる。
 そこでは全ての真実が平等である。

 真実=魂であるのなら、黄金郷とは死者の魂が向かう所、即ち冥界。
 その冥界の支配者が俯瞰存在。


 魂を定義し、その行く先を論じるのは宗教の領分。
 魂を救済し、死を受け入れる。
 宗教とは、世界を体系化して説明するもの。
 誰よりも真実というものについて考えたであろう人物は、その独自の解釈で世界を体系化したことだろう。
 それは多分そんな感じだったのではないかと思う次第。


 ファンタジー的な魔法面は決断の後押しとなる。
 後はそれをどう現実的に落とし込むか。


 真実は他を排斥する性質を持つ。
 頭の中に放り込めば、そこにある他の真実を排して一つになろうとする。
 まあ、これは真実の性質というより、人の頭の性質と言った方がいいが。

 人の数だけ真実が存在するというが、それはつまり、一人に一つの真実しか存在しないということ。
 一人の頭の中に許容できる真実は一つなのだ

 それを前提に一人の頭の中に複数の真実を並び立たせる方法はないか?

 とりあえず思考を分割してみる。
 そして分割した思考それぞれに別の目的を設定する。
 例えば、Aが犯人である可能性とBが犯人である可能性をそれぞれ思考させることで、異なる真実を構築させる。
 そうすれば、それぞれが異なる真実を信じる別々の人格が誕生する。
 人格を人間として扱うなら、頭の中に複数の人間を住まわせてたことになる。

 一人一つの真実しか持てないなら、頭の中に複数の人間を住まわせればいいじゃない。

 複数の人格を住まわせる頭の中=黄金郷。
 思考によってそれは生み出せる。


 これの問題点としては、全ての真実を平等に扱うために、それらをまとめ上げる人格は、どんな真実にも縛られないことが求められる。
 これがベアトリーチェ殺害の原因のひとつであるのかもしれない。


 この他の人物の知識や経験を己に追加するのは、EP1で記述されている。
 未熟な子供が精神面で他者と差別化を図るときによくやる方法として。
 例えば、千年を生きる魔女が憑依したとして、「自己+千年の魔女」の経験を得ようとするように。
 そうして異なる可能性を辿った自分や裏の世界のヤス、他人の視点などを自身の魂に追加してきたのだろう。

 千年の魔女を額面通りに受け止めれば、猫箱の2日を18万2500回ほど繰り返していることになる。
 人数に直せば18万2500人ほど。
 金蔵の魔法は挑戦する者が多いほど魔力を集めるという。
 つまり、悪魔のルーレットに挑む異なる可能性の真犯人たちが多ければ多いほど、勝った真犯人は多くの魔力を得るのだろう。


 とりあえず、ここから適当に理屈を作ってみる。
 確率についての論理と感覚のギャップを使おうか。

 18万2500分の一の確率で成功する時、試行回数が一回で成功すると思うことができるのか?
 常識的に考えれば、何度も繰り返さなければ出せないと考えるだろう。

 さて、現実において試行一回でその目が出るというありえないことが起きた時、何を思うのか?
 常識的な感覚では一回で出るはずがない。
 だから、実際には目に見えない所で何度も繰り返し試行されていたのだと、そう考える者もいるかもしれない。
 可能性によって分岐した並行世界について考えているものは、その並行世界で試行が繰り返されたのだと信じてしまうかもしれない。

 奇跡の出目が出たという結果から、その結果に至る試行n回数分の過程を生み出し修飾する。
 そういう理屈付けすれば、一回やるだけで仮想のプラスn回分の経験を付け足すことができる。
 つまり、現実において真犯人がベアトを殺したその時、傍目にはわからないが千年を経たのだ。
 人間にはわからない魔女の理屈で。


 人間は現実に起こったことを重視する。
 だから起こらなかった可能性は、起こらなかった時点で意味はなくなる。
 しかし、魔女は起こらなかった可能性にも意味があるとする。

 現実は観測せずとも存在する。
 人は観測することで世界を、真実を生み出す。
 その際、主観によって歪む。
 人は内なる真実をもとにして行動し、それは現実を変化させる。
 その2種類の世界はそうやって相互に生成し合う関係にある。

 故に人が抱いた幻想が現実に爪痕を残すこともありうるのだ。
 よって結果から、そこに至る思考という過程を辿らなくては真実は見えてこない。


 あの事件があった日に現実に起こったことなど、実につまらない。
 真犯人は事件を起こさず降参し、連続殺人の原因は事故でそこからなし崩し。
 綿密な計画などなく、事件発覚前に全てを終わらせようとするもの。
 もちろん密室殺人などはない。

 観劇者のことを考慮しない駄作と言っていい。
 いや、観劇者のことを考慮した事件を作る犯人の方がおかしいわけだが。

 事件を起こすのは人。
 観劇者を考慮した事件は、人に見てもらうために行うもの。
 人に見てもらって初めて意味を持つ。
 人に見てもらえなければ意味をなさない。

 人と対峙するのは人。
 そこで行われるゲームにおいて、勝敗という結果だけを見ても面白くないだろう。
 そこに至る過程こそが面白いのだから。

 よって、真実に意味はなく、勝敗も意味がない。
 そこに至るまでの過程、思考にこそ意味があるのだから。






 何度も同じことを繰り返して書いてしまった。
 それが言いたかったからこそなのだが。

 まあいいか。

 ルーレットに打ち勝つ奇跡については大分理解できてきたと思う。
 でもこの考察はEP3時点でしておきたかったなあ。
 ルーレットとそれに託した奇跡については、出題編までで金蔵が何度も言っていたし、ヘンペルのカラスの「自身が優秀である証明」はルーレットの奇跡のことそのものだろうし。
 人を超えたという自身に証明するために。
 それに未来の縁寿が登場したことで、執筆者が未来に生きていることは推測できただろうし。

 無限の魔法、奇跡の魔法、執筆者の生存。
 これは出題編で考察可能なんだよなあ。
 そこまで至れば、黄金の魔法にも手が届いただろうに。

 当時の私の不甲斐なさよ。
 本気で推理していなかった証左だな。
 執筆者の本気に見合っていなかった。





 オマケ。

 うーん、作中現実との整合性を考えれば、未来の出来事は現実となっているはず。
 とは言え、その作中現実の上にいる我々読者が直接観測したわけではない。
 私は確信しているが、確定ではない。

 つまり、私が観測した物語は、執筆者が思考上に生み出したものであり、それを現実化させた後の可能性もあるが、現実化する前である可能性も微粒子レベルで存在する。
 得る前に豪語するのが王者の傲慢なのだから。
 よって、現実の時間軸が事件前である可能性を論じることも可能。

 記述された未来の出来事は、絶対の意思による思考で生み出された、疑似的な未来予知。
 それを例えば戦人が事件前に読むことで、疑似的に未来を知りそれを変えることが可能になる。

 我々読者は、作中現実で物語を誰が記述しているかは観測できる。
 だが、作中現実でその物語を誰が読んでいるかは観測不可能。
 未来において縁寿が読んでいるのは確実だが、それも物語の中に収まっている以上確定ではない。

 作中現実の読者ではない、その上層にいる我々現実の読者には、作中現実を知りえないということを理由に、ハッピーエンドの奇跡を得る魔法を構築可能。
 「物語が記述された」という結果を変えず、「いつ記述されいつ読まれたか」という過程を変えたカケラを生み出せる。


 では現実であるのかどうかだが、私はそれは現実ではないと思う。
 事件の前だったというのは、大どんでん返しというよりはちゃぶ台返しのようなもの。
 それに結果が伴わなくては魔法が真に完成しない。
 本気が証明されない。
 振り返って後悔することもない。

 取り返しがつかない。
 そういうビターな感じが「うみねこ」だと思うので。

 というか、ここまでゲームをやってきたのだから、対戦者の席を戦人に譲りたくはないというのが本音というところ。
 戦人には悪いが、対戦していたのは“私”で、だからこのゲームは“私たち”のもの。
 ゲームを終わらせるのは“私たち”2人でやらなければならないこと。
 黄金郷の扉を2人で閉ざすのが作法なように。

 だから、ゲームの決着を相手に委ね、答えを明かして終わりにしてくれると期待するのは、どれだけ推理していたとしても本気にはなれなかったということなのだろう。
 本気であるのなら決着は2人で着ける。
 それがEP8で示されたこと。
 スタートの案内文にあったように、最後くらいはゲームに参加したら良かったのだ。

 だからきっと、“自分たち”2人のゲームだと豪語して終わらせるべきなのだろう。
 物語の真の主人公は読者自身である。
 ミステリーの物語を読むのでなく、読者が“ミステリーをする”物語。
 読者自身が探偵になれるのは「うみねこ」だけ。
 そう言える「うみねこ」は、本当に最高の物語だと思う。


  1. 2019/04/06(土) 21:47:41|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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