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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


エピソード7 補足

●理御のいるカケラとベアトのいるカケラの相違点について

 私の見解では、ベアトのいるカケラは、金蔵がベアトの依り代を作ったカケラだ。
 ベアトの依り代がベアト足るに必要なものは全て用意され与えられている。
 逆を言えば、ベアトの依り代がいなければ、それらの用意も必要ないということ。

 理御のいるカケラではベアトの依り代がいないので、ベアトの依り代が行う碑文に見立てた殺人事件は起こらない。
 よって、碑文を設置する必要がない。

 さらに、ベアトの依り代が纏う魔女の怪談も、纏うベアトの依り代がいない。
 よって、黄金を与えてくれたとされるベアトリーチェを、金蔵が魔女であると語る必要もない。

 ベアトの依り代による殺人事件がないのであれば、それを覆い隠すために生み出される黄金の真実もまた存在しないことになる。
 つまり、犯人はヤスとするために必要な紗音という駒を用意する意味はない。
 
 黄金の魔女がいないのだから、黄金の魔法を生み出すメッセージボトルを書く者がいない。
 そうなると嘉音の名前のトリックが使用できないことになる。
 よって、嘉音という駒も必要ない。

 これら全てが理御のいるカケラにはないのは当然と言えるだろう。



●黄金の魔女と恋の芽

 魂の分割は無限の魔法だけによるものではない。
 黄金の魔法もまた、ある種の魂を分割する魔法と言える。
 恋の決闘の愛し愛される関係からすれば、こちらの方が本義
 無限の魔法が別の可能性の自分であるならば、黄金の魔法は自分とは異なる設定の分身と言える。
 分身の例としては、ある時は黄金の蝶になって空中を散歩したり、ヱリカとなって真実をでっち上げたりなどが挙げられる。

 他者にどう信じさせたいのか。
 本当の自分の姿なのか。それとも幻想を装った自分の姿なのか。
 どちらも信じさせたいのなら、それは自身の魂を分けた分身を生み出したようなものだろう。

『我は我にして我らなり。目覚めなさい、我らたち。そして新たな世界に羽ばたきなさい……。』

 推理するということは、犯人を思い描くということ。
 推理する者の数だけ、犯人は生まれる。
 犯人という駒は目覚め、そして推理した者の世界に羽ばたいていく。

 本来の自分(真犯人)とは異なる自分(犯人)を生み出し、その異なる自分を信じさせるのが黄金の魔女。
 異なる自分を信じさせたいのであれば、その異なる自分(犯人)の動機も用意しなくてはならないだろう。

 種も仕掛けもなくては手品は行えない。
 そのための動機という事件の原因となる種が必要だった。

 ちなみに、EP6の戦人に恋する気持ちをベアトに引き継がせたのと今回のは意味合いが異なると解釈している。
 EP6のは恋愛=推理の喩えで、EP7のは文字通りの恋愛のこと。
 「うみねこ」において『恋愛』という言葉は、2つの意味を持たせたダブルミーニング。
 それが魔法の「仕掛け」。


 幼い紗音が抱いてその末に諦めた恋。
 戦人への恋心。
 それを種として黄金の真実を作るために、その恋心を黄金の魔女に引き継がせた。

『世界を、変更。……恋の芽を、紗音からベアトリーチェに。』

 ベアトを演じる者が設定したベアトリーチェは、恋を知らなかった。
 でもこの設定変更で、恋を知ることに。

 ベアトを演じる者は、自身の本当の姿を理解してもらうために、戦人に謎を出したい。
 だから、姿を現すことができない自分の代わりにベアトリーチェに謎を出してもらう。
 その表向きのために、表向きの動機が必要だった。
 そして、それを得た。
 ベアトは恋心を知ってもらうために、戦人に謎を出しているという設定を。


 まとめてみよう。
 謎を出題する、という「結果」を作りたいとする。
 だが自分はできないから、分身を作り代わりに行ってもらうことにした。
 「自分」が行うという「過程」の上に、「分身」が行うという「過程」を修飾。
 しかし、「過程」を修飾すれば「原因」たる「動機」まで修飾しなければならない。
 そこで「推理」を「恋愛」に喩えることで、「恋愛」という言葉に二重の意味を持たせることにした。
 そして、「恋愛」という「動機」から謎を出題するという「結果」に至る「過程」を修飾することに。
 「恋愛」という「動機」を欲していたところ、紗音が戦人に恋をし後に諦めたという出来事が起きた。
 そこでそれを流用し、「分身」の「動機」を設定した。

 過去に紗音が戦人に恋をしていたという事実を『種』として仕込み、
 「恋愛」に二重の意味を持たせた『仕掛け』を施し、
 「犯人はヤス」という『魔法』を掛けた。

(ちなみに、恋心は紗音から預かっているだけで、紗音が取り戻したい時には紗音に返すことになる。
 それは「紗音は未練がない」という「現実」があるからこそ「紗音は未練がある」というのが「幻想」になる訳で、現実に「紗音は未練がある」状態に戻ったら「幻想」が「幻想」ではなくなってしまうから。
 ルーレットによってその目が出た場合は、潔くこの「幻想」を諦め、別の幻想を作り出すことになったことだろう。)


 紗音が過去に戦人に恋していたから犯人である、というのは幻想であると私は考える。
 夏妃が過去に蔵臼への恨み言を書いていたから犯人である、というのと同じ構図。
 ヱリカが自身の主張を信じさせるために夏妃の日記を持ち出してきたようなもの。
 対案を示さなければ、そのまま真実と成ってしまう。
 それを防ぎたければ、対案を示し、並び立つ真実の真贋を問わなければ成らない。



●碑文と黄金の魔女の復活

 ベアトを演じている者が謎を作る準備が整ったのを見て取った金蔵は、謎のお題として碑文を設置した。
 ベアトリーチェが復活するために殺人儀式を行う。それを謎としろと。

 黄金の魔女ベアトリーチェは、恋心を知ってもらうために事件を起こす。
 ベアトを演じる者は、自身の姿を知ってもらうために事件を起こす。
 表裏をすり合わせ、ゲーム盤を作ることに。

 この時、黄金の魔女は復活した。
 推理者の世界に飛び立つ前に、ベアトを演じる者の世界の中で。
 1986年に復活する魔女は、読者の世界でのことになる。


『魔女は賢者を讃え、四つの宝を授けるだろう。』

『一つは、黄金郷の全ての黄金。』
 黄金の魔女の作り出した黄金の真実の全て。

『一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。』
 全ての死者の本来の姿を心の中に蘇らせ。

『一つは、失われた愛すらも蘇らせる。』
 愛がないから視えない。愛が蘇れば視える。

『一つは、魔女を永遠の眠りにつかせよう。』
 答えを得たなら、謎を出す魔女の出番は終わり。

『安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ。』


 その結末をベアトを演じる者が望むが故に、黄金の魔女は復活する。
 金蔵が用意した運命に従い、金蔵が望む魔女が依り代の中で復活したのだ。


『……この碑文は、……………右代宮金蔵と呂ノ上源次の、二人にしかわからぬ、ある意味を持っていたのです。だから、これは運命なんかじゃない。……私は、カボチャの馬車からガラスの靴まで、全てを準備されたシンデレラに過ぎない。』

 金蔵が望んでいたのは、碑文の儀式によってベアトリーチェが復活すること。
 そして、忠臣である源次も、さらに奥の真意には気付いていなくても、碑文の儀式のことは承知していた。
 ベアトリーチェの依り代に、碑文の儀式を実行させようとしていることを。
 だからこれはベアトを演じる者の掴み取った運命じゃない。
 ベアトリーチェとして碑文の儀式を行わせるために、全ての準備を用意させ、それを演じさせられただけに過ぎない。

『……もし、ベアトリーチェが復活せずにいたならば。』
『……同じ1986年を迎えても、……事件はまったく違っていたかも知れねェ。』


 黄金の魔女が復活しなくても別の事件は起こり、猫箱に閉ざされる。
 それが金蔵が用意した無限の運命なのだから。

『結局、……私は生まれたその時から、運命の岐路においてはただの一度も。……私の意志では何の選択の権利も、与えられなかったのです。』
『あぁ、我こそは我にして我等なり。
 なれど我等、運命に抗えたるためしはただの一度もなし。
 我等など所詮は渦に舞う木の葉も同じ。
 どのように舞おうとも、渦に飲み込まれて消えるのみ……。』


 金蔵が用意した運命の中、どのような選択をしても金蔵の掌の内。選択させられたのだ。
 抗えぬ運命の渦の中をどのように舞おうとも、渦に飲み込まれて消えるのみ。

 被害者はベアトの掌から抜け出ることは出来ずに弄ばれる。
 だが犯人たるベアトもまた、さらに上位の存在である金蔵の掌から抜け出せることは出来ず弄ばれているのだ。



●決闘と1986年

『………あと1年、早ければ。……あるいは、遅ければ。』
『決闘の勝敗は、違う形ではあっても、ついただろうな。』


『……時間さえ、与えられれば。
 あるいはむしろ逆で、悩む時間さえ与えられなかったなら。』


 恋の決闘。
 EP6のは読者の心の中で行われ、EP7でのは作者の心の中で行われた。

 黄金の真実を暴き本当の真実を知って欲しいという願い。
 本当の真実を滅ぼし黄金の真実を信じて欲しいという願い。
 それは悲しみと怒りの決闘だ。
 1986年の時点、どちらの望みも拮抗していたから、その決着を運命に委ねたのだろう。
 もしも時期が違っていたら、本当の真実をカケラも残さずに滅ぼしつくし黄金の真実が真実であると明確に示される物語になっていたかもしれない。
 あるいは、黄金の真実が幻想であると暴かれ、本当の真実を滅ぼすことなく終わる物語だった可能性などもあったかもしれない。

『私は、私たちは、……自分たちの運命さえ決められなくて。全てを運命に託したのです。
 誰かが、報われるかもしれない。
 あるいは全員が結ばれて、開放されるかもしれない。
 さもなくば誰かがこの愚行を、止めてくれるかもしれない。』


 推理するということは、犯人を思い描くということ。
 推理する者の数だけ、犯人は生まれる。
 犯人という駒は目覚め、そして推理した者の世界に羽ばたいていく。

 そうすることで、羽ばたいた誰かは報われる。
 あるいは全員が結ばれて、開放されるかもしれない。

 1986年の事件は、全てを読者というルーレットに委ねた物語だと言えるだろう。


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  1. 2014/05/24(土) 22:12:09|
  2. エピソード7
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vs アンチミステリー

 作中において、ヤスが犯人であると解釈され主張された。
 もし、読者がそれに沿ったような答えを用意していた場合、答え合わせであると受け取ったことだろう。
 もし、答えを用意していなかった場合、解答が示されたと受け取ったことだろう。
 それらの人からすれば、答えは一つである。即ち「うみねこ」はミステリーであることだろう。

 しかし、異なる答えを用意していた場合は、用意していた自説とは異なるものを並び立つ真実として提示されたことになる。
 つまり、アンチミステリーだ。

 だが、これで終わってしまえば、両者引き分けで勝者なし。
 ゲームに勝つためには、そのアンチミステリーをミステリーで解かなくてはならない。

 エピソード8のミニゲームに例えると、自説が自分の選んだ箱だ。
 それに対し、作中で主張されたヤス犯人説は他者の意見だ。
 つまり、譲治が言ったように、自分が見出した箱の中の真実は、他者の意見で変化してしまうものなのかが問われている。

 何を信じているのか。それは信じるに足るものなのか。信じるに値するものをどれだけ積み上げたのか。
 もっともらしく見えるものを提示されることで、それを乗り越えられるかどうかで意志の強さを試されたわけだ。

 これまで積み上げたものを根拠に、強固な意志、絶対の意志で真実を選び取ること。
 それこそが絶対の意志で謎を出したベアトリーチェに答えるということだ。
 要するに、当てずっぽうで正解しても何の意味もない。

 互いの絶対が噛合えば、それは絶対の絆と、まあ言っていいだろう。
 姿を現さなくても、そこにいると解る。
 答えを明かさなくても、それが解る。
 肉欲を排除した絆。
 それがベアトリーチェの求めた純愛なのだろう。


  1. 2014/05/10(土) 22:11:53|
  2. アンチミステリー
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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