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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【ひぐらし】賽殺し編考察【キコニア】

 賽殺し編を軽く再読したが、少々記憶が間違ってたわ。
 神のいない無味乾燥な世界とか私言ってたけど、そんなことはなかったぜ。
 それなりに幸せに満ちている世界だった。
 神のいない世界というのは合っていたけど。

 そんなわけで、改めて神のいない世界について考察したいと思う。
 執筆者にとって賽殺し編はどんな意味を込めたのか。





 フレデリカ・ベルンカステルの人格が古手梨花の人格を乗っ取った。

 これは作中で示されたもの。
 確かにこれまでループの度に、体(アバター)の本来の持ち主である人間である古手梨花の人格を圧し潰し、体を乗っ取ってきた。

 ループする度に元の人格から乖離していく。
 百年を生きる魔女の人格は、何も知ることがなかった無垢な人間の人格とは別人と言える。
 人にとって世界は一つ。
 なら異なる世界を知ることのできる魔女は、それよりも上位の階層に住む存在だと言えるだろう。
 その上位存在にとって体は唯一の拠り所ではない。
 肉体が死んで使い物にならなくなったら、別の世界の自分の体を使えば良いだけ。
 それは限定的とはいえ、アバターを服のように変えることができる、上位階層よりゲーム盤にログインする、魂を拠り所とする存在となったことを意味する。

 うみねこやキコニアにも通じる話だよね。

 人生を物語に喩えるなら、その物語の主人公は自分自身だ。
 フレデリカ・ベルンカステルという魔女の物語は、梨花という別の物語の主人公を乗っ取って、自身の物語を延々と続けていく。
 梨花を猫と喩えるなら、猫を食らって生き延びる猫がベルンカステル。
 うみねこEP7でベルンがフェザリーヌに教わったと言っていた、猫を食らって生きる道とはこれのこと。


 でだ、フレデリカにそれを教えた羽入とは一体何なのか。

 フレデリカが猫を食らう猫でいられるのは、羽入の力のお陰。
 羽入がいなければ、フレデリカはいなかった。
 つまり羽入が主で、フレデリカは従。
 フレデリカが駒なら、羽入がプレイヤーとなる。

 羽入はフレデリカの人生という物語の観測者。
 羽入という観測者が、猫箱の梨花を観測することで、梨花の生死は決まる。
 逆を言えば、羽入が観測しなければ、世界を跨いで存在し続けるフレデリカは存在しないのだ。

 人にとって、世界とは一つだけであり、人の人生という物語は、生れてから死ぬまでである。
 だが羽入はその梨花の死による物語の結末を受け入れられず、満足する結末に至るまで物語を紡ぎ続けることを選んだ。
 それを羽入は、自身が梨花の人生を汚したと表現した。

 ま、要するに、梨花の人生を物語に喩えるなら、羽入は物語の作者という名の神なわけだ。


 祭囃し編によれば、罪を背負い自ら人としての死を選ぶことで神へと至る道が開かれると言う。
 賽殺し編の世界である、罪が一切ない世界とは、即ち神である羽入が人としての完全な死を選んだ世界なのだろう。
 故にその世界に羽入はいない。

 罪はそれを背負った羽入と共に消えた。
 それは逆を言えば、世界に蔓延した罪は羽入から生じたということ。
 人として生きようとする願いから罪が生じるのだ。

 罪のない人間などいない。
 生きるということは即ち罪なのだ。
 だから生きても良いのだと誰かに赦されたい。

 罪のない世界とは即ち、人のいなくなった世界だ。
 その世界にいた唯一本物の人間である羽入がいなくなった。
 だからその世界にもはや罪などない。

 世界とは物語であり、その物語の作者が即ち神だ。
 作者は人間であり、物語の中のニンゲンは全て虚構で幻想。
 つまり、その世界の中で本物の人間は、作者である神だけなのだ。

 羽入が人として完全に死んだ世界では、羽入の姿はない。
 羽入が人の姿を取っていたのは、羽入が人としてありたいとどこかで願っていたから。
 人には見えない亡霊でしかなくとも存在していたのは、人として生きたいという未練から。

 魔女は人と関わりたいから人の姿をしている。
 人の姿を失ったということは、人間に興味をなくしたということ。
 人として生きたいという未練が完全になくなったということを表している。

 人生という舞台の主役は自分自身。
 それが人として生きるということ。
 なら人として生きないという選択は、人生という舞台から降りるということ。
 その舞台の主役の代理を誰かにやらせ、裏から舞台を踊らせるのが神としての生き方。
 人として生きることを諦めるということは、現実に背を向けて永遠に夢を見続けるということ。

 作者とキャラクターの関係が母と子の様なものだとすると、主人公代理である梨花は、人としての羽入を殺したことになる。
 フレデリカの人格が梨花の人格を圧し潰した様に、梨花の物語が羽入の人としての物語を圧し潰してしまうのだ。
 つまり、母殺しだ。


 賽殺し編のテーマは“母殺し”。
 羽入が娘に自身を殺させたという話も、梨花が生き延びるために母のいない世界を選択していたことがすでに母を殺していたのだという話も、全てそこに繋がっている。

 羽入を殺した娘は、いつか羽入が人として共に生きられる世界を望んだ。
 それがつまり祭囃し編の世界。
 梨花が賽殺し編で最終的に選んだのもその世界。

 もし梨花が賽殺し編の世界を選んでいたら、人としての羽入は死に、完全に神になったことだろう。
 それは神としての幸せに満ちているのかもしれない。
 しかしそこには人としての幸せはない。

 そうなっていたらうみねこの物語はなかっただろうね。
 あれは神の世界に触れながら、それでも帰還したフェザリーヌが紡いだ物語だから。
 人としての幸せと、神としての幸せ、それを天秤に載せた決闘を描いた物語。
 うみねこは人として生きたいという願いを手放さなかったから紡げたのだろう。






 おまけとして賽殺し編から幾つか抜粋してそれぞれにコメントしてみた。


“かつて私は、元の世界に戻るためにはどんな努力でもすると誓ったのではないか。”
“自分がその誓いを破れば、私に運命を賭けている羽入は、永遠にひとりぼっちとなって取り残され、…私だけがひとり、勝手に幸せになる。”


 一人で生きるのか、二人で共に生きるのか。
 自分一人だけの運命ではない。
 二人分の運命を背負った選択なのだ。
 一人で生きるということは、もう一人を運命の袋小路に取り残すということ。
 故に、相方のいない世界を生きることを選ぶ時、相方を殺したという罪を背負わなければならない。

 これもまた鏡写しができるだろう。
 母殺しの鏡写しは子殺し。
 子のいない世界を生きるという選択。
 子のいない世界を生き、元の世界との違和感と戦い、子を殺したという罪に苛まれる。
 それを経験したんじゃないかな。
 きっとそれが罪の根源。

 子殺しの真実、子を蘇らせる儀式、懐かしき故郷へ戻る話は、その後うみねこで語られることになる。


「僕が、…………いえ、…私が神になろうと決めた時。……私の娘、……梨花のご先祖はそれをとても悲しみました。私がそう決めたのが、…人の世に絶望したからだと知っていたからです。」

 人として生きる。
 それは「執筆者」にとって、子殺しの道を歩むということ。
 罪に塗れるということ。
 人として生きたいと願い、人として生きることに絶望した。

 罪が祓えない。
 だってその罪を赦せる人はもういないから。

 罪を赦せない。
 大切な人を殺してまで生きる自分自身を赦せないから。

 罪を隠して真実に背を向ける。
 人としての生を止め、神と成る。
 決して覚めぬ夢を紡ぐため。

 それでも亡霊としてあったのは、人になりたいという未練があるから。
 誰かに罪を赦して欲しかった。
 亡くしてしまった子に。
 あるいは別の誰かに。
 だから羽入はずっと謝り続ていたのだろう。
 

「この千年は、人の世を見限った私に対する罪だったのかもしれません。人は、人の世に生きる。そして生まれた世界に懸命でなくてはならない。…それを軽んじ、世界を容易に手放そうとする者は、千年にも及ぶ流罪に等しい罰を受けなければならないのかもしれません。」

 人生という舞台を降りて、ただ舞台を眺めるだけの傍観者となった。
 舞台の上で懸命に生きる者たちを眺めていた。
 それを羨ましく思った。
 また舞台に戻ろうとしても、簡単に人生を諦めた者に舞台に上がる資格はない。
 その舞台は懸命に生きる者だけが上がれる場所だから。


「………でも、それはとてもとても心地よいことなのです。……梨花はそれを僕の死と考えるようですが。…僕も、その世界における自分は死んでいると、最初はそう考えました。…ですが、その世界における羽入は、消えてしまってはいますが、喜びに満ちているのです。……あなたのお母さんと人生を供にして、楽しい時間を過ごした。お母さんはまだ生きていますが、その世界の僕はやさしさに包まれながら、二度と目覚めぬまどろみの中で楽しい夢を見続けているのです。……その温かさと心地よさは、きっとこの世に生まれ出る前の母の胎内にも似ている。………それを知っていしまったから、僕は梨花がむしろ、その世界を受け入れてくれないかとすら思っているのですよ…。」

 羽入にとってその世界は“夢”。
 二度と覚めることのない“夢”。
 人であることを完全に止めた。
 だから人として羽入は、生まれてくる前の状態に戻った。
 つまり、人として生きる苦しみから自身を切り離した状態。
 そこに人としての幸せはない。
 あるのは神としての幸せだけ。


「…………その世界は、誰かの夢が作り出した『理想の世界』なのです。あなたに関わる全ての人間に罪がない。それはとてもとても純粋で透き通った美しい世界なのです。その世界では、私はすでに消え去っており、梨花の人生を穢していない。…だから僕にも罪がない。そして梨花。あなたも自らの人生を穢していないから、罪がない。」

 “誰か”っていうのはつまり“羽入”のこと。
 自身が消えることで罪を禊いだ理想の世界。


「…………梨花のお母さんならこう言うでしょう。娘が幸せになれるなら、自分の命など惜しくないと。……梨花にはまだわかりません。子を持ち母となった身にしかわからぬ気持ちです。かつて一度は母になったからわかる。…もし梨花が元の世界の方が幸せだったと言えるなら、梨花のお母さんは喜んでその命を差し出すでしょう。」

 梨花の“母”とはつまり、羽入自身のこと。
 正確に言えば、羽入の大元である「執筆者」のこと。
 子の幸せのためには、自身の命すら差し出せる。
 その世界がつまりは、賽殺し編の世界というわけ。


「……死んだ方は気楽よね。勝手に献身美徳に酔って成仏できる。でもね、殺した方はその十字架を背負ってずっと生きていくのよ。………あんた、さっき言わなかった? あんたを討った娘が、あんたのために助け合いの心の宿る雛見沢を作ると誓ったって。そして千年掛けてあんたの娘たちは、あんたの罪に付き合ったのよ。…あんたは死ぬべきじゃなかったんじゃない? 何の罪を背負わされたのか知らないけど、生きて戦うべきだった。子孫が罪を背負わずに済む様に戦うべきだった。なのにあんたが屈したから、千年もの間、あんたの子孫たちがあんたの十字架を背負い続けた。……そうじゃないの?!」

 一理ある。
 羽入が、即ち「執筆者」が人として生きることができていれば、何も問題は起こらなかった。
 ひぐらしの世界だって生まれることはなかった。

 だが逆を言えば、そうじゃなかったからこそ今のひぐらしの世界がある。
 失いたくなかった。蘇らせたかった。元に戻りたかった。
 「執筆者」にとって生きるとは、一人で生きることではなく、皆と一緒に生きることだったのだ。

 皆と一緒に生きるという奇跡に繋がるための選択がこれだったのだろう。

 しかし、奇跡に繋がったから良かったものの、羽入が完全に死んでいたら梨花の意見が正論になる。
 だから「執筆者」も最後には戦わなければならないと思うんだよ。
 その戦いがうみねこであり、キコニアなのだろう。

 そしてこの台詞は、キコニアの青都雄の言いたいことと同一のものだと思うんだよね。
 母を殺して平然としていられるはずがない。
 母を殺した罪を背負い、母のいない世界を生きる。
 そんな未来など己ごと消し去りたくなるのも無理はない。

 それでも親子の絆を断ち切れば、完全にキコニアが飛ばない世界に成れば、罪はなかったことになるのだと言うのだろう。
 だが、思い出さないことが罪なのだと、貴女が言ったのだ。
 それは子を殺して子のいない世界に生きている自分自身に対する言葉なのだろうけど。
 その言葉は鏡写しのように還るんだよ。
 ホント自分には厳しく、子には甘いよな。
 それは自身が味わった苦しみを子に味わわせたくないという親の愛なのだろうけど。
 子がそれに反発するのも当然なのだよ。

 子は母殺しを厭い、母は子殺しを厭う。
 ならどんなに可能性が低くても、二人が共に生きられる奇跡を願うしかない。
 それが子がPLに頼んだ注文なのだろう。
 ひぐらし・うみねこであれだけの文量をかけて書かれれば、否が応でも分かるわ。


「なら、梨花。……私は生きて戦うべきだったという梨花。あなたはその世界にいる今、どうするというのですか。………その世界にいるという現実を受け入れ、元の世界と異なるいくつかの違和感と戦いながら、その世界で生きることを望みますか。百年の果てに掴んだ、手垢と汗に塗れた、それでもなお美しいあの世界を見捨てて!」

 羽入にとっては、千年の果てに掴んだ世界だよな。
 あと、「執筆者」も子のいない世界に違和感を感じながら生きていたのだろうね。


「そして、あなたは百年の末に掴んだあの世界を、元の世界と今なお呼ぶ。……なら、この世界の居心地がどんなによくても、それを全て投げ捨てて、この世界に留まりたい気持ちと戦い打ち払って、元の世界へ帰るできなのではないですか。あなたに関わる人々が罪から解放されたこの世界を打ち壊してでも!」

 人として生きるということは、罪を背負って生きるということ。
 自身に言い聞かせている言葉でもあるんだろうね。


「……でも、あんたはそれでいいの? …私がいないと寂しくなるって、かつてあれだけ駄々をこねていたのに。」
「……もう大丈夫ですよ。新しい友人ができましたのですから。」
「へぇ? 誰よ、紹介してよ。」
「……………教えませんのです。あぅあぅ。」
「……そういうことか。……ということは、…私はつまり、『古手梨花』、…なのね?」


 今の世界を生きることを選んだ『古手梨花』だから次の世界には行けない。
 次の行けるのは世界を跨いで生きることを選んだ『フレデリカ』の方。
 次の世界とは、うみねこの事。
 人として生きるために戦うことを選んだ羽入、もとい「執筆者」が戻らなければならない世界。
 そこでかつて出来なかった決闘を行うことになるのだ。


“…………今、わかったわ。こちらの世界へ戻るなら母を殺せという意味。
 殺さないとカケラがどうのこうのというのが問題なんじゃない。
 …母がいない世界を選ぶという行為がすでに、母殺しなんだ。
 私はこれまで、何の罪も感じずにこの世界を選び続け、「母を殺し続けてきた」。
 …あんたは、「それ」を私に気付かせたかったんじゃないの…?
 あんたが私に感じている罪。
 …多分、そのひとつがこれ。
 ……私が、両親を敬わなくなってしまったこと。
 あの世界で、……私はそれにようやく気付くことができたわ。
 梨花。気付いてくれて、ありがとう。
 僕が、あなたに感じてきた一番の罪が、ようやく祓われた気がしますのですよ……。
 大丈夫、梨花。
 あなたはその手を母の血に染めてなんかいない。
 あれは全部、……梨花に意地悪したかった僕の見せた、「夢」なのですから。
 …だから、あなたがその眠りから目覚めたら全て忘れているように。”


 両親を敬うという話はキコニアに繋がるものだろう。
 母のいない世界とは、キコニアが飛ばない国のこと。
 キコニアの飛ばない国で、都雄がキコニア生まれて来たということは、子である都雄がそれを求めたということであり、母もまたその繋がりを求めたという証だろう。
 やはり一緒が良いのだな。

 母のいない世界なんて、ホント意地悪な夢だよな。
 それを選択したら、躊躇なく自分を犠牲にするつもりだったくせに。
 うみねこで実際にそれを選ばせようとしたよな。
 ラストノートなんかは分かりやすい母殺しの話だし。
 子が母の血に染める選択をするはずがないし、プレイヤーである私だってそうだ。
 だからこそキコニアでは、母と子が殺し合う結末を覆すのだと信じている。
 今度こそ物語にハッピーエンドを。


 母と子の物語は、ひぐらしからうみねこへ、そしてキコニアに繋がる。
 なく頃には、この“軸”は一切ブレていないんだよね。
 必ず存在する要素だもん。


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  1. 2020/06/27(土) 21:12:10|
  2. 賽殺し編
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【ひぐらし】雛見沢停留所の考察

 本日一投目。

 神姦し編を読んだ勢いで雛見沢停留所も再読した。
 序盤はスキップを多用したので抜けはあると思うが、終盤はちゃんと読んだので大丈夫だと思う。



 雛見沢停留所はひぐらしの原典。
 つまり原型(アーキタイプ)。
 さらに言えば、私はひぐらしだけでなくうみねこやキコニアにとっても原型だと考えているが。

 物語の原型は超重要。
 物語を膨らませ複雑になる前だから、重要な要素がぎっちり詰まっているのだから。


 では要素を挙げて行こうか。

 まずは、“親虫の近くでしか生きていけない”という要素。
 これはうみねこ的に言えば、“外の人間社会には反魔法の毒素が充満しているので、幻想の存在である駒たちは主の近くでしか生きていけない”ということ。
 主と駒の関係を端的に表している。

 “親虫が雛見沢でしか生きられない”という要素。
 人間である主の精神あるいは魂が、人間社会では生きられず、ゲーム盤の世界でしか生きられないことを示している。

 “親虫の移植”という要素。
 これはゲーム盤におけるキングの継承。
 主の代行者であり身代わりの生贄となる特別な駒の存在を示唆している。

 “魅音が都会へ行きたいと願っている”要素。
 これは幻想の駒たちが抱く、外の人間に存在を認めてもらいたいという願望。

 “二人の逃避行”要素。
 これは二人一緒にゲーム盤を抜け出して、外の世界で生きて行こうとする足掻きであり決意。

 “疑心暗鬼”という要素。
 これは外の世界の人間が敵に見えてしまうということ。
 自分たちを認めて受け入れてくれると信じられないという心の病。
 一種の人間不信。

 “過去のトラウマを抉り出す”要素。
 これは疑心暗鬼の原因が過去のトラウマにあることを示唆している。

 “会いたい”という要素。
 存在しない者に会いたいと願う。
 過去のトラウマと何故か結び付けられている。
 それに鏡写しという要素を加える。
 つまりこれは元となる主の過去のトラウマと“会いたい”という願いが結びついていることを示す。
 要するに、失った相手に会いたいという願い。
 “二人の逃避行”を合わせれば、冥府からの蘇りも示唆している。
 罪と罰の要素も加えると、それに対する後悔と償いも見えてくる。

 “魅音の、都会に魂を置いてきた、もう心は雛見沢にない”という要素。
 これも鏡写しなら、主が古郷ではなく都会に魂を置いている状況なのだろう。
 つまり、それを自ら咎めている。
 自らの心は、魂は故郷にあるべきだと。
 そうやって自らの心を縛り付けている。
 ここから、現在の主は故郷を離れた場所で暮らしていることが分かる。

 “時間のループ”という要素。
 失われた命を蘇らせる。
 再び物語をやり直す。
 つまり、主には回帰願望があるということ。
 失われた故郷に帰りたい、あの日に帰りたいと願っている。

 “ダムに沈む村”という要素。
 回帰願望の反対。
 内に籠らず、外に出なければという思い。
 しかし残しては行けないものがある。
 過去へと向かう思いと、未来へ向かう思いの衝突。ジレンマ。

 “仕組まれていた運命”という要素。
 出会いから結末まで全てが決まっていて、それをなぞっているだけ。
 しかしそこで得た絆は本物。
 それが大切だから、運命をなぞりつつもそれに抗う。
 つまり、物語をやり直している。
 今度こそ失わないために。


 だいたいこんな感じ?
 主軸が主体と対象の二人だから実に分かりやすくまとまっている。
 ここから要素を分けて派生キャラを作り、物語を膨らませていくわけだ。
 まさしく原初の物語。
 二人だけだとめっちゃスッキリするよね。
 ま、単純だと複雑な気持ちを表現することが難しくなっちゃうけど。
 逆を言えば、色々と表現したいことがあるから色々なキャラが生まれたのだろう。
 それはまさしく心の豊かさの表れ。
 キコニアなんてワールドワイドだしな。

 末広がりに増える駒たち。
 遡れば二人に辿り着く。
 主体と対象、主とその駒に。
 それが物語の原型。





 会いたいと願うことでオヤシロ様に会ってしまい死ぬ。
 なぜ会うと死ぬのか。
 神姦し編と絡めて解釈してみる。
 要するに、駒の死=思考停止だ。

 オヤシロ様=神=ゲーム盤の主。
 ゲーム盤が心の中にあるなら、そのゲーム盤の主こそが絶対の真実。
 要は、物語のキャラクターが、物語の執筆者に会い、自分が虚構の存在であると気付いてしまったということ。
 それによってうみねこEP4の戦人状態になってしまったということじゃないのかな。
 ま、めっちゃ推測だけど。


  1. 2020/04/25(土) 19:34:23|
  2. 雛見沢停留所
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【ひぐらし】神姦し編を考察

 ちょい前にひぐらしをちょっと再考察した流れで、神姦し編を読み返して考察してみた。

 難易度は人外。
 つまり、常人には解けない、解けたら晴れてバケモノということか。


 前の再考察の際の、寄生虫=社会常識を叩き台としようか。

 田村媛命は日本人の脳に感染している、日本人にとっての常識。
 キコニア風に言えば文化。
 これに感染していることで、感染者同士の意思疎通がスムーズとなり、同じ社会を構成している仲間として見られる。

 人は何かを信じなくては生きていけない。
 日本人は“日本社会”を信じることで“日本社会”という世界で生きていける。
 “日本社会”なんて幻想そもそも存在しない、“現代科学”なんて幻想信じられない、とかなったら現代社会で行き辛くなる。

 例えば、日は毎日東から昇るが、それが信じられなくなったら明日から生きていけない、心が壊れてしまう。
 そんな感じ。
 明日を信じられるから今日を生きられるわけで。

 つまり、田村媛命は日本人の脳に寄生する常識で、日本人が皆信じる常識である。
 文化とかルールとかに読み換えても良い。


 となると羽入はそれとは異なる常識を司る存在となる。
 つまり、雛見沢は日本にとって異文化なわけだ。
 そこで私は羽入=真実は二つと考えていたが、もう一人神が登場するのでそれはちょっと短絡的だったかなと思い修正を図ることにする。

 雛見沢から興宮に感染が広がった。
 つまり、常識や文化が伝播したということ。
 外に向けての発信。

 ふむ、うみねこを想起させるな。
 なら雛見沢村を猫箱に閉ざされた六軒島に見立てるか。
 六軒島の中で育まれた独自の物語。
 その物語が六軒島よりメッセージボトルが流れ着き認知された。

 つまり認知=感染。

 例えば、○○の物語を知っている者と知らない者の間では、○○の話をしても通じない。
 そんな感じ。
 でもこれなら複数の物語に感染しているのが普通。
 三柱の神の内、一柱しか脳に居られないという状況とは異なる。



 もう一捻りしてみよう。
 三つの物語が対立し、どれか一つしか読めない状況。
 ……見覚えがありすぎる。
 これってベアトの三つの物語じゃん。

 うみねこで読者たちが最初に認知した物語は、魔法説による物語。
 ベアトが目に見える形で披露してくれたからね。
 これは認知であり、それを真実だと信じるのとイコールではない。
 皆信じてないから根は深く張ってない。
 真実が認知されればすぐ抜かれてしまう。

 つまり、田村媛命=魔法説の物語。
 うみねこ読者全てに認知されている物語にして、やがて抜き取られてしまう真実。


 では羽入は?
 雛見沢という猫箱の中でしか生きられない真実。
 それが猫箱の外に飛び立って感染した状況。

 つまり、これが真実であるとしてうみねこ読者に伝播した物語。
 ヤスの物語こそが羽入に当て嵌まる。

 根の深さ=真実に至るまでの思考。
 考えれば考えるほど根は深くなり、そこから芽が出て花を咲かせる。
 一度根を張った真実はそう簡単に抜くことはできない。
 だってそれだけ思考したんだもんね。


 最後の采は、ベアトが解いて欲しいと願った3つ目の物語の事だろう。
 采と羽入は互角。
 その3つ目の物語が感染しないよう、ヤスの物語で封殺した。

 これは竜騎士さんがインタビューで言っていた、100人中1人だけ正解するように狙いたいというものそのものだね。
 これ、逆を返せば、99人に異なる真実を植え付けると言っているわけだし。

 3つ目の物語が芽を出す前に、2つ目の物語を蔓延させて封殺する。
 結果、3つ目の物語の芽は一つしか生えなかった。
 それが狙いだったのだろう。





 采が感染爆発したIFの世界はまた別の解釈をしよう。
 いや、ほぼ同じ解釈なのだけど。
 IFだからあれは先行体験、つまり脳内でのできこと。


 青い大地に住まう人類の殆どが死亡。
 羽入に感染している少数のみ生き残る。
 これってキコニアに似ているよね。
 少数でも文化を継承する者が生き残れば良い的な。

 とすると、地球とは神のゲーム盤。
 つまり、神の脳内。
 種が辿り着く大地とは人の脳であると言ったんだから、地球の大地そのものが神の脳であっても良いはず。
 こういうのを人外の解釈と言うんだろうね。

 となると、神の脳内に寄生している人類は、ゲーム盤に置かれた駒である。
 つまり、神の脳内に住む幻想の存在。

 3つ目の物語は赤き真実に相当する。
 よって赤き真実に感染した駒は死ぬ。
 眠るように死ぬのだから、采は駒の肉体を損壊させるものではない。
 肉体以外の死。
 それならうみねこ的に思考停止による魂の死がある。
 生き残れるのは羽入に感染した者のみ。

 羽入は2つ目の物語、それは黄金の真実に相当する。
 赤き真実で否定されても、黄金の真実によって蘇る。
 それは赤き真実でも思考停止せず、思考を続けられるということ。

 結論。
 赤き真実が蔓延すれば、黄金の真実以外の幻想は全て死ぬ。





 采の口癖はチョー。
 チョーと言えばラムダデルタ卿。
 采はラムダデルタの系譜に連なる駒でありプレイヤーなのだろうね。
 つまり、神側の系譜。3つ目の物語派。

 羽入も神を模した駒、神側の系譜だけど、神の子側の系譜である梨花を擁護する駒なんだよね。
 神の子の物語は2つ目の物語。

 神は2つ目の物語と3つ目の物語の両立を狙っている。
 その神の2つ目の物語側を担っている面が羽入で、3つ目の物語の物語を担っている面が采。
 ついでに言うと、神の一つ目の物語を担う面が田村媛命。

 つまり、元来神は三相一体の女神で、その三つの面を分割して生まれた神々が田村媛命と羽入と采というわけ。
 彼女らは下層の駒たちを支配するプレイヤー。
 駒たちの脳内に寄生する思想/物語を率いる長。
 さらに上層の三相女神からすると、下層で自分の仕事を任せる駒に過ぎないわけだけどね。
 つまり、中間管理職なわけだよ。

 彼女らが神の脳内の勢力バランスを担っている。
 さらには、神の脳内より飛来して読者の脳内に辿り着き、読者の脳内の勢力バランスも担っている。



 てなわけで、かなり上層から見下ろしてみたけど、どうだろうか?
 これで私もバケモノの仲間入りかな。





 細かい点についてもちょっとだけやろうか。


 采が二階から圭一たちを助けたシーン。
 地上は下層のゲーム盤、二階は上層のプレイヤー層。
 GMが駒をゲーム盤から退避させたことを示しているんじゃないかな。
 駒の魂を回収し、次のゲーム盤に送るために。
 つまり輪廻転生。またはループ。
 運命の逃亡者である駒たちをGMである主が助けている図なんじゃないかと。

 その采が圭一たちと共に行く図。
 駒たちに護送されてGMのアバターである駒を進めていく。
 そんな感じのスゴロク。
 そんな感じで2つ目の物語と3つ目の物語を同時に進めている。

 沙都子が采に扮して囮となるシーン。
 2つ目の物語が囮となることで、人目に付かずに3つ目の物語がゴールイン。

 ピンチに現れ、最終的に采を脱出させる富竹は読者枠。
 それも梨花が奇跡的に見つけた、奇跡を体現している読者枠。

 采の逆を言いかける癖は、常に表裏反対の物語を語っていることが癖になっているから。
 物凄く捻くれた天邪鬼。

 食い尽くすことだけが唯一の楽しみ。
 采のこれは、猫の二番目の楽しみ方。
 生きた猫を愛でて楽しんだら、次は殺して腸を食らうのみ。
 物語を殺して楽しむ。
 赤き真実は、物語という幻想を殺す。
 そして次の物語へ。

 羽入がさくたろうの着ぐるみを着る。
 これは2つ目の物語がさくたろうと同様であるという暗示だろう。
 つまり、イマジナリーフレンドの物語ということ。
 ギャグにさえ意味を込めてくるから油断ならない。


 だいたいこんな感じでしょ。





 もうちょいやるよ。

 地球=神の脳内としたが、羽入と采は宇宙より飛来した。
 そこに設定の齟齬が出来るので、もう少し説を発展させようか。

 神である執筆者の世界のイメージはカケラの海。
 そこにおいてカケラは星。
 つまり地球は無数のカケラの内の一つとなる。
 要するに、神の脳内にある無数にあるゲーム盤の一つに過ぎない。
 よって、宇宙から飛来したというのは、他のカケラからカケラの海を渡って来たということ。

 これは即ち、終わったゲーム盤からの移住。
 肉体は古いゲーム盤と共に失われ、新たなゲーム盤の駒の脳に寄生する。
 魂の新しい依り代。
 異なるゲーム盤の記憶を持つ人格を擁する、パラレルプロセッサー。

 ひぐらしでは移住者である彼らの人格は眠っている。
 起きだせば依り代である駒の人格は壊れていく。
 異なる世界の記憶や異なる人格など許容できないから。


 簡単にひぐらしのゲーム盤間で説明しよう。
 鬼隠し編から祭囃し編まで同一規格のゲーム盤だが、厳密に言えば全部ゲーム盤は異なっている。
 鬼隠し編のゲーム盤が終われば、魂は回収され次のゲーム盤に移住する。
 だが次のゲーム盤の駒にはすでにちゃんと人格が宿っている。
 だからその原住民の人格を守るために、移住してきた魂の人格や記憶は眠りにつくわけだ。

 そして時折奇跡的な確率で前のゲーム盤の記憶を起こしてしまうことがある。
 それが罪滅し編の圭一。

 さらに言えば、原住民の人格を殺しているのが梨花。
 現住の梨花と移住してきた梨花は脳内で並列して、平和の壁に遮られているわけだが、それを移住してきた梨花側が壁を押し倒して、現住の梨花の人格を圧し潰した形。


 それがさらにひぐらしやうみねこといった別のゲーム間でも行われている。
 時系列的には、主によるベアトの殺害でゲーム盤が崩壊し、その移住先としてひぐらしのゲーム盤を作成し、それが終わって再びうみねこのゲーム盤を復元して帰って来た形。


 これがキコニアまで進むと人格間の共存に成功したパラレルプロセッサーが少数ながらも存在している。
 魂が進化していっているのかもね。
 異なる人格を許容できるということは、異なる世界を認識できるということ。
 それは両方を俯瞰できる上位の階層に魂が移行したということ。
 そのさらに先が肉体からの解脱。
 肉体に依らず魂を維持することができるようになれば、神と一緒でも魂は潰れないようになるのだろう。

 神が自身の魂を眠りに就かせているのは、他の人格たちを守るため。
 全てが偽り仮初のゲーム盤において、神は唯一の真なのだから。
 真の輝きは全ての幻想を打ち倒してしまう。
 黄金の真実を抜かしてね。

 神と共存できる魂にまで育てる。
 それもまたゲームの目的なのだろうから。


 ま、それは置いといても、一つのアバターの中で複数の魂が共存できるということは省エネに繋がる。
 魂の数に比して体の数を減らす、うみねこ的人数削減術。
 リソースを食う、現実に等しいアバターなんて削減するに限る。
 複数の人格を纏めて一つの体に放り込めば良いのだ。
 即ち、魂の移住だよ。

 それは数多の人類を住まわすことができる神のルームの模倣。
 複数の魂が共存できる極小の世界、極小の宇宙。
 つまり、神に次ぐ神の子のルームは、人類の新たな移住先最有力候補。
 最終的には神の子のルームに皆住むようにというのが神の計画だろうし。
 というか“父”の計画か。


 自身の内に異なる魂を宿すパラレルプロセッサー。
 それは神のみ可能だった。
 うみねこのゲーム盤においては、神を模した駒である神の子ヤスのみがそれを模して複数の人格を宿すことができていた。

 それがキコニアでは何人いるのパラレルプロセッサー。
 神の子都雄の遺伝子解析に予算をたくさんつぎ込んでいるんだっけ。
 幾度の世界で繰り返した研究の成果がこの人数かな?

 やはり神の魂と共存できるという点で神の子の魂は特別製。
 赤き真実は幻想を掻き消す。
 唯一、黄金の真実を例外として。
 その黄金の真実にまで昇華したのが神の子の魂。
 それを研究して他の魂にもそれを実装、感染させたいのだろうか?
 全ての魂が平等で、何一つ欠けることのない楽園、黄金郷か……。


  1. 2020/04/19(日) 20:17:20|
  2. 神姦し編
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ひぐらしを再解釈する

 今日は私の誕生日なので特別に投稿。

 バケウソから見るひぐらし考察。
 いつものごとく執筆者視点で読み解くよ。



 雛見沢村はバケモノの巣であり、つまりは「執筆者」の頭の中が表現されたもの。
 よって、雛見沢の住民は全て「執筆者」の分割された一面を表している。
 主要キャラはそれが色濃く出ている。

 そこに外からやって来た圭一は、「読者」を表している。
 それは「執筆者」が求めた外からの救いの手である「王子」である。
 鬼隠し編では、その圭一が雛見沢症候群を発症させて惨劇が起こる。
 雛見沢に住む住人は皆これに感染しており、その症状は妄想を現実だと思い込むというもの。
 つまりこのバケモノの巣では、真実と幻想が二重になって存在しているわけだ。
 そして、バケモノには幻想を現実だと信じ込ませようとする力がある。

 要は鬼隠し編は、執筆者に幻想を植え付けられた読者が自滅する様を描いたものなのだ。

 その対となる罪滅し編では、現実と妄想の区別をつけ、現実に引き戻す様を描いた。
 しかし留意したいのは、最終的には妄想にも一部の真実が含まれているのではという含みを残していること。
 これは現実に足を残しながらも、もう片方の世界もちゃんと見るべきだという主張。
 要は両方見ろってこと。


 さて、バケモノの巣である雛見沢を支配するバケモノが羽入。
 真実と幻想。
 それが並び立っても良い、という思想。世界観。

 田村媛命と比較すると解り易いか。
 田村媛命は日本人の脳に寄生している。
 要は、社会の常識という脳の内にしか存在しない世界を擬人化したもの。
 この寄生虫に感染すれば、日本人としての常識を植え付けられてしまう。

 そのように見れば、羽入がどういった存在か理解できるだろう。
 うみねこ風に言えば、田村媛命は真実は常に一つであるとする思想、羽入は真実は常に二つあるという思想。
 つまり、イデオロギーの対立。
 それを脳を支配する寄生虫に喩え、そういう設定にしたのがひぐらしのゲーム盤。

 そこから考えられる雛見沢症候群の基本効果は、普段ならしない思考をさせるというものなんじゃないかな。
 それが理想的に働けば、常に真実を二つ考慮して、そのどちらでも対応できるようにさせるのだろう。
 だがそれが暴走するとああなるわけだ。

 キコニア風に言えば、後天的にパラレルプロセッサーを作る感じ。
 まぁ、効力が低すぎて人格にまで育たないのだけれど。


 要するに、「執筆者」のこの思想“真実は常に2つある”を表現するために作られたのが、雛見沢というゲーム盤なのだ。





 さて、雛見沢は「執筆者」の頭の中を表している。
 そこに置かれた駒は「執筆者」の一面を切り取って生み出されている。
 ヒロインたち主要な駒はそれを色濃く受け継いでいる。


 まずは梨花と羽入から。

 梨花は雛見沢の中心。
 うみねこで言えば、魔女の心臓。
 取られたら負けな駒。
 しかし魔女の心臓はもう一つあり、それが羽入。
 羽入まで取られない限り、もう一度ゲームを始められる。

 つまり、羽入こそが真の心臓であり、バケモノの巣の、心の中心。
 梨花はその巫女であり代弁者。
 主の代わりとなって物語の主人公を務める駒である「子」。
 同じ脳を共有しながら、そこに引きこもっている主が羽入。

 梨花が死んでも鬼が溢れ地獄が顕現しないのは、梨花の死と共に羽入がループしているから。
 梨花の精神が死んだ時が、梨花の本当の死。
 それが訪れた時、羽入が絶望し、封じ込めていた羽入の悪夢が溢れ、鬼が闊歩する地獄になるのではないかな。
 怒りに染まり全てが敵に見える、それが封じたい過去であり、悪夢。

 羽入=執筆者であり、自身の心を分割して駒を生み出し、それをゲーム盤に置いて遊んでいる。
 そして自分の代わりとなる駒である梨花を配置し、梨花たちが紡ぐ運命を眺めていた。
 しかし執筆者の心の中に罪があるため、その心より生まれた駒たちにも罪が生じる。
 ゲームには観測者たる執筆者の心が反映してしまう。
 執筆者が楽しければゲーム盤上にも楽しさが表れ、執筆者に怒りが満ちればゲーム盤にも怒りが満ちる。

 つまり、ゲーム盤は執筆者が誰にも伝えられない自身の心を表現するための場であり、心の内を吐き出す場であるのだ。
 そう、執筆者は最初、自分のために物語を紡いでいた。
 それがやがて、物語のために自分の身を削るようになった。
 主客が逆転し、手段と目的が引っ繰り返った。

 自分の心を対戦者に知ってもらうための手段として生み出されたゲーム盤だった。
 しかしやがて自分の心を裂いて生み出した駒たちのことが大切になったのだ。
 自分を犠牲にしても構わないほどに。

 だから駒たちの罪を引き受けて自らの心を消し去ろうとしている。
 例えるなら、ぬいぐるみのさくたろうを守るために、真里亞が自分を犠牲にするようなもの。
 この価値観は特殊だから、理解できない人には全く理解できないと思う。
 「真実は一つであり、その真実以外には価値がない、考えるだけ無駄である」と思っている人なんて特にね。

 「執筆者」がゲームの席に座っているのは、対戦者に己の心を探ってもらうため。
 それなのに対戦者が「執筆者」を見ないのであれば、駒たちのためにその席を譲ると決めている。
 その心が表れているのが祭囃し編と澪尽し編。
 あれこそが「執筆者」の心の表と裏。
 子のために消えようとする母の心と、みんなと共にいたいという願い。





 レナ。
 この駒は二面性の象徴。
 レナは現実的に推理しかがらも、同時に妄想的な推理もする。
 穏やかな面と苛烈な面。
 人には表と裏があり、真実にも表と裏があり、世界にも表と裏がある。
 何事にも異なる解釈が存在するという、バケモノの巣の世界観を示している。

 ゴミを拾い集め大切にする。
 それはカケラを拾い集める「執筆者」の習性を模しているのだろう。

 彼女の雛見沢症候群の症状、体中から沸く虫の幻覚は、執筆者の脳内で生み出される駒たちが劇症化したものの喩え。
 自分の体から自分以外の生き物が沸くという悪夢。
 雛見沢症候群が猛威を振るったのは昔のことで、今は徐々におとなしくなってきているという設定は、「執筆者」の精神を蝕むこの病の症状も治まってきたことを示しているのだろう。

 鹿野は一度バケモノの巣である雛見沢を出て、雛見沢症候群を発症させて戻ってきている。
 このことから、頭の中から人間社会ででることができる、肉体を持った「執筆者」を表しているのだろう。
 六軒島を出て、一人の人間として生活し、病を発症させ、島を出たのは間違いだったと思い至り、島に戻ろうとする八城が当て嵌まる。

 彼女が病を再発症させてしまう罪滅し編では、「読者」である圭一が雛見沢症候群を発症させていたカケラの記憶を思い出し、末期症状までに至った彼女を奇跡的に助け出した。
 つまり、“常に真実は二つ”という思想を理解した「読者」が対等な決闘を行うことで信頼を取り戻し、現実と幻想の区別がつかなくなった末期症状の「執筆者」に現実を取り戻させた。
 この“奇跡”が「王子」としての圭一の役割。
 この役割を果たし終えたから圭一は主人公ではなくなったのだろう。
 この対等な決闘というのが、うみねこではブラウン管裁判であり、キコニアではガントレットナイトの模擬戦。





 沙都子。
 梨花と同居していること、そこから脳内で同居している執筆者と「子」に重ねられる。
 梨花が「子」に当たるので、沙都子は「執筆者」が当て嵌まるだろう。

 疑心暗鬼となり親を崖から突き落としたのは、「執筆者」が「うみねこ」で親族たちを惨劇に突き落としたことを彷彿とさせる。
 「執筆者」の物語である沙都子の義父は、物語を読み育てる「読者」に当たる。
 その「読者」が信じられないという「執筆者」の疑心暗鬼の表れ。

 いつも助けてくれる兄の悟志は「子」に当たるだろう。
 全てを「子」に頼り切った、幼き頃の執筆者の姿。

 兄を失い家を出たのは、「子」であるベアトを失い六軒島を出る執筆者の姿に重なる。
 その後に同居することになる梨花は、駒の方の「子」を失い変質したプレイヤーの方の「子」を表しているのだろう。
 そこでの暮らしで兄に頼りきりだったことを反省し、自立するために努力する。
 いつか兄が帰ってきても良いように。
 「子」の物語を蘇らせるために、成長し作家となった執筆者、八城の姿に重なる。

 かつて住んでいた家は沙都子にとっての地獄。
 それは鷹野が沈んだ地獄でもあり、そして「執筆者」にとっての地獄でもある。
 沙都子を救おうとしても、沙都子も手を伸ばさなければ救えない。
 物語の内側と外側。
 脳内世界と外の人間社会。
 いくら外から手を伸ばそうと、脳内に引き籠った人格である執筆者自身が助けて欲しいと手を伸ばさなければ救えない。
 そのことに重ねられている。

 幼少期にかくれんぼで祭具殿に入って御神体の右腕を壊したことで「世界が変わってしまった」。
 神の右腕は「子」を表す。
 「子」を失い「執筆者」である沙都子の世界は狂っていくことになる。





 魅音と詩音。
 双子の入れ替わりは、どちらか一方しか世界(雛見沢)に居られない駒であることを示す。
 つまり、「執筆者」と「子」の関係を一部切り取って作られたのが魅音と詩音。
 真犯人は双子の一方。
 真実の犯人と幻想の犯人が重なり合っている構図。
 綿流し編では、犯人の自白を聴いた読者は犯人を誤解したまま死んでいく様が描かれている。

 その対となる目明し編は、重なり合った可能性が収束する様を描いている。
 逆を言えば、明かさない限り並び立つ真実は重なり合う。
 そして、片方しか見なくてそれが間違っていた場合、相手の尊厳を貶めるのだという忠告。
 まあ、簡単に決め付けてはならないよってこと。

 双子の内、当主になれるのはどちらか一方のみ。
 これは脳内のスポット人格になれるのは一人のみというのを表している。
 そして次期当主の入れ墨を入れる際、入れ替わってしまったことは、本来はスポット人格にはなれない「子」の人格がスポット人格になったことを示す。
 さらに本来次期当主になるべき方が、その地位と名前を取り戻して双子の片割れを殺害するのは、本来の人格である「執筆者」が末期症状の果てに本来の地位を取り戻す際に、「子」の人格を殺してしまうだろうということを描いたから。

 あと、詩音と沙都子は両方とも「執筆者」を表している。
 悟志、「子」が帰ってくることを信じて待ち、自身の成長した姿を見せるのだと研鑽しているのが沙都子。
 それを信じれず惨劇を引き起こしたのが詩音という対比。
 即ち、自身を映す鏡。
 人の振り見て我が振り直せという諺があるけど、これは我が振り見て我が振り直せと言ったところか。





 鷹野。
 地獄に落とされ、それでも生還し、助けてくれた祖父の論文を認めさせるために神を目指す。
 これは「執筆者」の辿ってきた道を表している。
 誰にも認めてもられず、人以下の存在に落とされて地獄を這い、脳内に「子」を生み出して「子」に認めてもらうことでそこより生還した。
 自身を助けてくれた「子」の物語を認めさせるために神を目指した。
 だがその道は、一歩踏み外せば梨花、即ち「子」を殺してしまうものである。

 一二三を継いで三四を数え、いつか五に至る。
 一二三を数えたのは「子」の物語。
 それを受け継いで三四を数えるのは「執筆者」の物語。
 そして五に至り、彼女たちの物語は完成する。
 「子」の物語を踏まないでくれと泣き叫ぶ姿は悲痛だ。





 富竹。
 最終的に鷹野を救う彼は、執筆者を助けてくれるだろう「読者」の姿を表している。
 本当は「子」の物語を認めさせればそれで良かったのではない、自身のその思いを認めてもらいたかったのだろう。
 その彼を「執筆者」が殺した時点で、惨劇を防ぐことは不可能となる。





 赤坂。
 彼は圭一同様、外部から来た者、即ち「読者」に当たる駒。
 梨花は惨劇の運命を語り、彼に助けを求めた。
 読者には読者の住む世界があり、助けに向かうことはできない。
 しかし世界を超えて声なき声が届き、彼は奇跡のように助けに現れる。





 そもそも一人死んで一人消えるっていうのからして、「執筆者」と「子」なんだよね。
 二人で一人だから、死んだら死体はひとつだけ残りもう片方は行方不明。

 最初のバラバラ死体は、人類による神の殺害。
 「執筆者」の体をバラバラ、駒に分割したことを暗示している。
 行方知れずの右腕は、神の子である「子」が失われたことを示す。

 二年目の事件。
 北条の義父は「読者」で、それと添い遂げた北条母はプレイヤーとしての「執筆者」。
 兄の悟志は「子」の物語。妹の沙都子は「執筆者」の物語。
 執筆者の物語によって読者は殺され、執筆者は消え去る。
 本末転倒。

 三年目の事件。
 夫婦の死だからこれも二年目と同様の構図だね。
 梨花は「子」、梨花の母も「子」。
 即ち、駒としての「子」とプレイヤーとしての「子」。
 婿養子の父は「読者」。
 「読者」が死んで、それと添い遂げたプレイヤーの「子」も消え去る。

 四年目の事件。
 悟志の叔母殺害は、「子」であるベアトが六軒島の親族を殺害するという、うみねこの猫箱の中の惨劇のことだろう。
 「執筆者」を苛む者たちを殺し、「子」である自分も消えることで、「執筆者」が人間に成ることを願った。

 五年目の事件。
 「執筆者」である鷹野が自らを救う「王子」である富竹を殺して失踪。
 「子」の物語を全ての人間に認めさせるという強固な意志が絶対の運命を作る。





 大石。
 これは「読者」かな。
 「執筆者」を失った「読者」。
 神、「執筆者」が殺され、その真実を調べている。
 古株の「読者」で新人の「読者」である圭一に色々と吹き込む。
 「他人の意見を鵜呑みにするな」を体現したキャラ。

 あるいはオヤシロ様の使いから。
 「執筆者」が仕込んだミスリードの擬人化なのかも。





 入江。
 外部から来たから「読者」。
 梨花と沙都子。「子」の物語と「執筆者」の物語を検体として、雛見沢症候群、真実は二つという思想を研究している。
 鷹野「執筆者」は彼こそが真相を解き明かすのではないかと期待している。





 小此木。
 こいつは難しいな。
 当て嵌めるなら、富竹の対。
 鷹野(執筆者)に対する読者枠。

 作者と読者の二者の間で物語が生み出される。
 なら、その物語を殺せるのもその二者である。
 鷹野は物語を殺す執筆者の姿であり、小此木はそれに従い共に物語を殺す読者の役。
 心には表と裏があり、執筆者の裏の心に寄り添おうとするのが富竹であり、表の心に寄り添うのが小此木という対比。

 うみねこでは、誰にも理解されない絵羽の心に寄り添い、愛がなければ視えないと言った。
 これはそのまま、誰にも理解されない鷹野の心に寄り添っていると視ることが出来る。
 破滅の道を行く鷹野に帯同する小此木は、忘却の深淵に落ちていくベアトと共に消える戦人に重なる。

 小此木、まさかの「王子」枠。
 私は困惑を隠せんぞ。
 しかしどう考えても「王子」。
 しかも執筆者の真実と共に読者の真実も消える覚悟で共に行くという超重要な役。
 ある意味私が一番共感できる役じゃあないか。
 




 ……………。
 うみねこ再読の時も思ったが、ひぐらしを再解釈して改めて思う。
 頭おかしくなりそう。

 出てくるキャラを大別すると、「執筆者」と「子」と「読者」即ち「王子」だけじゃん。
 その三者も大本を辿れば全員「執筆者」じゃん。
 我は我にして我らなり。
 最終鬼畜全部我!
 のっぺらぼうの怪談かよ。

 そもそもひぐらしでは「執筆者」登場してないじゃん。
 なのにこんなにも「執筆者」の存在感が濃密。
 どこもかしこも、どいつもこいつも「執筆者」がくっ付けられる。
 世界が「執筆者」で溢れている。
 「執筆者」がゲシュタルト崩壊して頭がおかしくなりそう。
 今はもう「執筆者」がデフォルトでコラ元。
 世界の全ては「執筆者」に塗り潰され、むしろ「執筆者」から逃れることこそが、この世界の急務にして使命にして宿命。
 キコニアではその世界からの脱出劇が描かれる。
 小此木クソコラグランプリはマジなヒントだった。

 ありえないものが視えるってそれ、雛見沢症候群に感染しててしかも末期じゃん。
 なく頃に世界では空気も「執筆者」。
 8MSなんだよ。
 その空気を吸った私の体内にも8MSが感染して脳まで達してしまったのだろうな。

 あ、これ全部誉め言葉ね。


 竜騎士さんはホントおっそろしいキャラを作り出したよな。
 現実に等しい妄想で満たすことができるって言ってもさ。
 このレベルで物語の表と裏を合わせてくるとか。
 さらには同じ基礎から別の物語さえ生み出している。
 うみねことかキコニアとか他にもね。
 このキャラさえいれば無限に物語が生み出せるとか。

 つまりは、竜騎士さんがそれだけ凄いってことなんだけどさ。
 竜騎士さんはパラレルプロセッサーで、頭の中に「執筆者」という人格がいても不思議じゃないほど。
 一時期竜騎士さんは複数いるとネタで言われてたけど、あながち間違いじゃないかも。


  1. 2020/02/05(水) 20:06:22|
  2. ひぐらしのなく頃に
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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