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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【WHEN THEY CRY】シリーズまとめ考察

 現在キコニアを考察しているが、うみねこやひぐらしにまで話が拡大してしまっているので、シリーズを通しての見解を示したい。



 まずひぐらし・うみねこ・キコニアの各ゲーム盤の製作者は同一人物。
 作中作者とでも言うべき存在の手によるもの。
 この「作中作者」の存在はゲームの最奥に隠されていて、この人物の心を推理するのが各ゲームの共通の目的。

 各ゲーム盤は「作中作者」の心の中に構築されたもので、つまり「作中作者」こそが各ゲーム盤で繰り広げられた舞台の観劇者にして物語の観測者。
 ゲーム盤世界の神とも言うべき存在。


 ひぐらしはこの「作中作者」が生きる力を取り戻すまでを描いている。

 作中作者=神=羽入。
 羽入は「作中作者」の分身の駒。

 祭囃し編や賽殺し編で神の設定が明かされた。
 神に成るためには、人であることを止め、人としての自分を殺し、人の世を去らなければならない。
 それは人生の舞台を自ら降り、己のいない舞台を延々と見続ける傍観者となるということ。

 ひぐらしの惨劇は、一人が死んで一人が消えるというもの。
 それらはセットであり不可分。
 必ず死ぬのが梨花であるなら、同時にもう一人が必ず消えていることになる。
 それがつまり羽入だ。
 ひぐらしは、死ぬはずだった梨花が生き延び、消えていた羽入が姿を取り戻すまでを描いた物語なのだ。

 梨花が懸命に生きる圭一の物語から生きて戦うことの意味を学んだように、羽入もまた懸命に生きる梨花の物語から生きて戦うことの大切さを学んだ。

 圭一の駒としての役割は、主人公の座を退いた梨花の代わりに主人公の役割を代わりに果たすこと。
 よって、梨花が生きる力を取り戻し運命と戦う決意をした時点で、その役割は終わり、主人公ではなくなったのだ。
 そして梨花の駒としての役割も、羽入という真の主人公の代理であり、それを覚醒させるための起爆剤。
 駒たちが懸命に生きる物語を見て、自分も懸命に生きようと決意する。

 強い意志で圭一が奇跡を起こし、次にそれを見て奮起した梨花が奇跡を起こした。
 だから次は羽入の番。


 「作中作者」が生きるために戦うという強い意志を得て、ひぐらしの舞台に幕が下りた。
 次の舞台、うみねこの幕が上がる。

 ひぐらしが未来に踏み出すための物語なら、うみねこは過去に決着をつけるための物語だろう。
 「作中作者」がなぜ人を止めて神となったのかが描かれている。

 いるといないの中間である小数点以下の存在。
 それはまさしく、舞台から姿を消し、けれどもまだそこにいる、未練を残した亡霊の如き「作中作者」を表している。
 19人目、そしてメッセージボトルの執筆者「右代宮真里亞」。
 そういう意味ではEP1の時点で、「作中作者」は確り登場しているんだよな。

 猫箱の中には「作中作者がニンゲンと存在している世界」と「作中作者がニンゲンとして存在していない世界」が入っている。
 「作中作者がニンゲンと存在している世界」での事件の犯人が「作中作者」であるなら、「作中作者がニンゲンとして存在していない世界」では代わりの犯人がいなくてはならない。
 主の代わりに殺人を行う駒、それが「ヤス」だ。

 片側の世界の犯人が「作中作者」で、もう片側の世界の犯人が「ヤス」で、それらが表裏を合わせて一つの真相を形作っている。
 それが言うなれば「一なる世界」とでも言うべきもの。
 この「一なる世界」を保つためには、両側の世界を隔てる平和の壁を支えなければならない。
 もう片方を圧し潰さないために。

 よって、明確に自分が犯人であると主張できない。
 「作中作者」即ち19人目は、自身を小数点以下の存在としてしか示せないし。
 「ヤス」は紗音と嘉音の人格が同一の肉体を共有しているとは示せない。
 できて「同一である可能性は否定できない」まで。
 必ず反対側に、「同一であると誤認させたい者がいる可能性」を置かねばならないからだ。
 ゆえに、両者ともニンゲンではなく家具。
 小数点以下の存在。

 家具から脱却しニンゲンになるために決闘が必要だった。
 「一なる世界」を壊し、一人分の魂を持つニンゲンとしてある世界に再構成するために。
 が、これは戦人が来ず開催せずに時間切れ、戦わずして決着してしまった。

 戦わなかったことの後悔と喪失。
 それが罪となり、それを払うための生贄として舞台を去り、神と成って紡いだのがひぐらし。
 そこから再び立ち上がって紡いだのがうみねこ。
 過去の清算。
 後悔を晴らし、望んだ未来を掴むために、今こそ決闘を。

 そんなわけでEP6で12年越しの決闘が行われた。
 喪失の後悔からか、天秤は「ヤス」を蘇らせる側に傾いた。
 だから次のEP7では「ヤス」側が存在感を色濃く出すものになった。
 だがその反対側の可能性も僅かながら残す形にはなっている。
 EP7のラストで示されたように、絶望の運命から二人揃って逃げ延びるというのがゲームの本質。
 両方のロジックを成立させられる道を作るというゲームなのだ。
 一つの真実しか認めない世界で、二人一緒に逃げ延びていつか奇跡を掴もうとしている。
 片翼の鳥は、二人一緒なら飛べるという意味。
 比翼の鳥は引き離しては生きていけないのだ。

 そして、黄金郷に至るまでの道を完成させた。
 そう、作ったのは道。
 読者が真相に至るまでの、二人が読者の心の世界に至るまでの、道。

 読者に運命を委ねた。
 でもこれは諦観でも消極的でもない。
 絶対の意志で、奇跡を掴むためのもの。
 待つだけの後悔はしきっているのだから。


 キコニアはうみねこで真相に至った読者、PLのターン。
 用意された道を辿り、絶望の運命を覆して奇跡を起こすための物語。

 要するに、「作中作者」が真相に至ったPLをゲームに取り込み、PLを含んだ三人で共にいられる世界を紡いでいるのだと思う。
 「なく頃に」三部作の完結として。


 うみねこの決闘で、駒を戦わせたのは読者というプレイヤー。
 駒の罪は、主の罪。
 片方の世界を選ぶということは、もう片方の世界を選ばないということ。
 それはつまり、「誰かがいない世界」を選ぶということ。

 例えば、「ヤスのいる世界」を選ぶということは、「嘉音のいない世界」を選ぶということ。
 独立した肉体と精神を持つ嘉音などいないという選択。
 「嘉音のいない世界」を選ぶということは、「嘉音を殺していた」ということ。
 「母のいない世界」を選ぶことは「母を殺していた」ということと同じ。
 つまり、嘉音を殺したのは、それを選んだ読者なのだ。

 読者にも罪がある。
 「誰かのいない世界」を選び、その「誰か」を殺したという罪が。

 キコニアの「神の代理人」はその罪滅ぼしとて、罪を赦し合える世界を紡ごうとしているのかもね。


 皆が罪を赦し合える世界はひぐらしで提唱されていた。
 つまり、原点回帰。
 ひぐらしが明白な答えだったり説教臭いのも、なく頃にシリーズのゲームの目的を明確にするためだったのだろう。
 目標さえ明確にできれば、過程は後から付いてくる。
 要するに、フェアなゲームということ。

 ひぐらしの一番最初の冒頭も、繰り返される謝罪で始まった。
 全てはそこから始まり、皆が赦し合える世界で終わる。
 極自然な決着。
 ひぐらしで目標を掲げ、うみねこで根本の原因にまで遡り、キコニアでゲームを構成する三者で罪を赦し合う。
 実に綺麗な流れじゃないかな。


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  1. 2020/07/11(土) 20:58:51|
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執筆者についてのまとめ

 キコニアから私の考察を読んでいる方は、私の言う「執筆者」って誰やねんよく分からんって感じだと思うので、できるだけ分かりやすいようにまとめてみたいと思う。


 私が執筆者と呼んでいるのは、「うみねこ」でメッセージボトルを執筆した「右代宮真里亞」の事。

 普通なら自分の人生の物語の主人公は自分自身だ。
 しかし彼女は自分が主人公であることを諦めた。
 そして満たされぬそれの代償行為として、別人を主人公とした物語を紡ぐことにした。
 その主人公こそが「ヤス」。

 「なく頃に」の格ゲーム盤は、この「執筆者真里亞」と「主人公ヤス」の相克を、別な形、別な設定として表現したもの。


 概要はこんな感じ。





 続いて詳細を説明する。


 彼女は金蔵によって六軒島に連れてこられた、夏妃の手で育てられるはずだった19年前の赤子。
 彼女は金蔵の魔法を継承するために隠されて育てられた。

 人間は環境によって作られる。
 孤独は妄想の糧。
 だから「孤独」という環境を与えられた。

 孤独。
 誰とも出会わず、何も起きず、自分の物語に何も記すことのない人生。
 だから彼女は、成りたい理想の自分、憧れた姿を想像することにした。
 それが「ヤス」だ。

 崖から落ちたことにされた後、隠し屋敷で育てられず、福音の家で育てられたというIFの自分。
 それが右代宮家の使用人に選ばれて六軒島へとやって来た。
 そこから「ヤス」の物語が始まった。

 その時実際にやってきたのは紗音なのだが、執筆者のゲーム盤では「ヤス」に置き換わり、弾き出された「紗音の駒」は同室の友達という設定になった。
 使用人ヤスの生活はうみねこEP7に詳しい。


 さて、使用人ヤスはやがて魔法に魅せられ魔女の道を選ぶ。
 自分の物語の上に、魔女の物語を上書きする。
 それによって彼女は駒からプレイヤーに昇格した。

 執筆者が自身の物語の上に「ヤスの物語」を上書きし、ヤスが自身の物語の上に「魔女の物語」を上書きする。
 三位一体の物語。


 普通の人間は自分一人の物語しか紡げない。
 だが彼女は三つの物語を紡ぐ。
 彼女が有頂天となるのも仕方あるまい。

 孤独な彼女の物語は、普通の人の物語と比べみすぼらしかった。
 それを彼女は恥じていた。
 その自分が今や人よりも三倍も豊かな物語を紡いでいる。
 だから人々は自分の物語に憧れてしかるべきだ。
 下々に憧れの物語を垣間見せてやろう。
 と、調子に乗ったわけだ。

 だけど実際は誰にも相手にされていなかった。
 それを知ってしまった。
 魔法によって三人分に拡張された物語。
 しかし実際は、一人分にも満たない小数点以下のみすぼらしい物語。

 彼女は反省し、次こそは絶対に見返してやると決意した。
 誰しもに自分の物語を読ませ、素晴らしい物語だと認めさせてやると。
 彼女が作家の道を志した始まりの記憶。


 そんな彼女の前に現れたのが戦人だ。
 戦人は紗音に対して、人の心を推理するのが大事なんだ、とか抜かしやがった。
 隠れてそれを聞いていた彼女は、彼なら「ヤス」の心を受け止めてくれると思った。
 心を認めてくれて、一人の人間にしてくれるのだと。

 彼女は戦人に読んでもらうための物語を紡ぐことにした。
 自分の代わりに「ヤス」の心が認められ、「ヤス」がニンゲンに成るという夢に向かって。
 それに対して「ヤス」は、自分もニンゲンに成るために頑張るから、貴女も人間に成るために頑張ってみないかと誘った。
 勇気を出して一歩を踏み出さないか、と。

 それに促され、怯えながらも「ヤス」と一緒になら頑張れると。
 二人で共に人間に成る夢を語り合い、励まし合いながら、魂が一人分に満たない家具たちは夢に向かって歩みだした。


 が、知ってのとおり戦人はやってこなかった。
 自分の人生とヤスの人生、二人分の人生を賭けた渾身の物語。
 その一歩が空回った。
 すでに心の賭け金は全てつぎ込んでいる。
 今更降りることはできない。

 年々変化していく状況。
 それに合わせて物語の設定変更を繰り返し、必死に取り繕い続けた。
 今や「ヤス」は自分の人生を縛り付ける鎖に変わった。

 役に立たない家具など要らない。
 それに対し「ヤス」は、子である自分を捨てるのか、物語を書き切らないのかと責める。
 心は負の感情で満たされ、それをゲーム盤に吐き出す。
 無限に繰り返される惨劇。
 もう物語も自分の心もぐちゃぐちゃだ。

 この絡まった物語に決着を。
 悪魔のルーレットに全てを託す。


 出た目はベアトの死。
 「ヤス」を殺して、それを猫箱に隠して、島を出る。
 今こそ自分自身の人生を歩もう。

 執筆者にとって物語は杖だ。
 それを使って少しずづ歩いてきた。
 それを捨てなくては自分の人生を自分の足で歩けない。
 けどそれなしではもう歩くことさえできない。

 愛していた。手放すべきではなかった。
 約束したのだ、立派な作家となり、物語の続きを書くのだと。
 愛する者を蘇らせるのだ。
 絶対の意志が、絶対の結果を紡ぎ出す。
 今度こそちゃんとした決闘を。
 どちらか片方が人間となる。
 あるいは奇跡が起きて両方ともにか。

 それが「右代宮真里亞」として書いたメッセ―ジボトルであり、「八城十八」として書いた偽書。


 事の経緯はだいたいこんな感じ。





 ゲーム盤についても説明しよう。


 ゲーム盤は執筆者の心の中にある。
 それは階層を成し、それに合わせて駒にも階級が存在する。

 まずは心の総体である「神」「造物主」。
 これは現実だけではなく様々なカケラも加えて、増設・拡張された自己の総体。
 曰く、八百万を束ねて超える。
 うみねこではフェザリーヌ。ひぐらしでは羽入。
 全てを受容する運命の傍観者。
 全てから切り離され、よって全ての感情から切り離された、超然とした自己。
 そこからすると、羽入は「父」よりなのだろう。

 神は自身の思考を割いて、己の分身である駒を生み出す。
 その駒がさらに思考を割いて分身を生み出す。
 それを繰り返して階層を築き、ゲーム盤に駒を満たす。
 我は我にして我らなり。
 全ての駒は神の分身なので、何かしらの要素を受け継いでいる。

 ゲームを飽きるまで繰り返したらお片付け。
 全ての駒を収納し、駒たちの経験や思考を己のものとする。
 この際、ゲーム盤の設定も変えれば、想像の幅、思考の幅がさらに広くなる。

 彼女はこうしてゲーム盤に自分を置くことで、想像の翼を広げ自由になるのだ。


 その神の部屋を支える二本の柱である「父」と「子」。
 ゲーム盤ではその相克が描かれている。


 神の本体を模した駒「父」。
 「神」より切り離された感情と人格を担う。
 不完全な姿の「神」であり、未熟な頃の「神」の姿でもある。
 ゲーム盤の罪を全て被り消え去ろうとしている一面と、「子」を殺してでも自身の願いを成し遂げようとする一面が混在している。
 うみねこでは執筆者右代宮真里亞。
 キコニアではミャオ。ひぐらしでは羽入。
 絶対の意志を以て世界を支えていることから、ラムダデルタ卿が当て嵌まる。
 世界を支えるために罪に塗れた底に落とされる地獄を味わった。
 ひぐらしで神を目指して「子」である梨花を殺める鷹野は、かつての「父」の姿。

 地獄の底から這い上がり神に至ろうとする父の姿が、鷹野。
 神の座から降り人の罪を被って地獄に堕ちようとする父の姿が、羽入。
 上昇と下降。
 「父」が完全な姿を取り戻すことは、即ち「子」を死に追いやることを意味する。
 「子」を守るためには自ら崩れ落ちなければならない。


 神の半身たる駒「子」。
 物語の主役。
 うみねこではヤス。ひぐらしでは古手梨花。キコニアでは都雄。
 神の言葉を伝える巫女にして朗読者。
 神にとっての奇跡の具現たるベルンカステル卿が当て嵌まる。
 主に代わり物語の生き延びる道筋を見つけるまで閉じ込められる地獄を味わった。


 二本の柱たるプレイヤーに生み出された駒たち「聖霊」。
 魔女ベアト。
 二本の柱が二つの心臓だとすると、それを包み込む体に相当する。
 簡単に言えば、その他の駒全部。


 父子聖霊が三位一体となったのが神。





 駒の階級について、解り易くうみねこに傾けて話す。

 一番上がフェザリーヌ。
 全ての物語を紡ぎながら、その全てより切り離された傍観者。

 次がラムダデルタとベルンカステル。
 航海者としてカケラの海を彷徨い退屈をしのぐため物語を探す。

 その下が領地持ち。
 それぞれが担当するゲーム盤のGMを任される。

 下層が格ゲーム盤の駒であるニンゲン。

 最下層が全ての罪を被る零落した神。


 基本はこんな感じ。
 ゲームによっては階層は適時増設される。
 そして上の者が下の者を弄んでいる。
 行き場のない感情をぶつけるためのサンドバックのようなもの。
 一番上が一番下というのが何とも言えず。
 また全部同一人物であるというのも何とも言えない。
 さらには、その全てから引き離された最上層まで作っちゃてるのもまた何とも言えん。

 愛しているがゆえに手放せず。
 憎んでいるがゆえに傷付けずにはおれない。
 自縄自縛の地獄。

 物語としての幸せは、誰かに読まれること。
 謎としての幸せは、誰かに解かれること。
 人としての幸せは、誰かに認められること。
 彼女は今もなお、人と成る夢を見てゲームを開催する。

 同時に自己満足のために。
 片方の物語を、もう片方が読み。
 片方の謎を、もう片方が解き。
 片方の人格を、もう片方が認める。
 そういうものでもあるわけだ。





 私の愛しい執筆者殿は、真正の脳内引きこもり。
 普段は全然表に出てこないのだけど、ふとした瞬間に覗かせる顔が可愛いのなんの。
 ゲフンゲフン。

 んー、ま、こんなところかな。
 解り易いようにしたつもりだけど解り難いかも。
 駒についてはごちゃごちゃしてるからね。
 一つの心を切り分けた存在だから、切り口を変えられると同定が困難になる。
 場合によってはさらに複数に切り分けたり、束ねて一つにしたりするだろうし。
 とは言え、全体を合わせると一つの心なんだと見れば分かり易くはなる。
 盤面を整理するということは、心を整理するということだからね。
 とは言え、人の心ほど複雑で分かり難いものはない。

 まぁこれで私の手の内はさらけ出したようなもの。
 私の簡易的な推理考察マニュアルみたいなものだから。


 さて、19人目の右代宮真里亞なんて、私以外の人にはどうでも良いのだろうけども。
 ヤスの物語の執筆者という部分は重要だよ。
 執筆者はヤス本人なのか? って問題だね。
 疑問に思う人は少数だろうし、その疑問も最終的には戦人=十八で吸収しちゃう作りになっているのだけれども。

 ホント嫌らしい仕掛け。
 完璧だよ、出来過ぎなくらい。
 掌より逃がさないという絶対の意志を感じる。
 ひねくれ過ぎだぜ、愛してる!

 ……ゲフンゲフン。
 それに対してキコニアは、端的に言えば、神について考えてくれと言っている。

 駒を生み出した造物主。
 アルファにしてオメガ。全ての始まりにして終わり。
 物語を記している執筆者。

 だからこそ私はうみねこのプレイヤーにこそ、キコニアをプレイして欲しいと思っている。
 そして、うみねこを振り返って欲しいと。
 ヤスが犯人で執筆者という狭い掌から出れば、もっと広い世界が広がっているよと。

 とは言え、他人に言われてやる人なんていない。
 自分で実感しなければね。
 だからこそプレイして欲しいのだけど。

 この自分で実感しなければならないという自縄自縛に、プレイヤー側もGM側も縛られているのが、まぁ「なく頃に」のゲームなんだよね。
 あ~、ややこしや、ややこしや。


  1. 2020/01/18(土) 19:42:25|
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なく頃にシリーズの執筆者

 前回、執筆者の動機が「うみねこ」から「キコニア」へと連続していると感じた。
 以前に書いた、八城が「キコニア」の執筆者であるという思い付き、真剣に考えた方が良いと思ったので何か書いてみる。


 無論、なく頃にシリーズの作者は竜騎士さんだ。
 だがうみねこでは、物語は作中作であり、作者と物語の間に“作中の作者”(以下、執筆者)がいた。
 よって、「ひぐらし」や「キコニア」にも作者と物語の間に執筆者がいるという裏設定があっても不思議ではない。

 うみねこ風に言えば、執筆者とは竜騎士さんの代わりとなって物語を紡ぐ駒。
 なく頃にシリーズの世界というゲーム盤に置かれた代理の駒。
 なぜそんな代理の駒が必要かというと、その虚構の世界の中には竜騎士さんは存在しないからだ。
 外側の現実にいるのだから当然だが。


 「うみねこ」のゲーム盤の構造もこれと同様。
 執筆者=真犯人なのだが、現実を模したゲーム盤には自身の代わりとなる駒を置き、その代理の駒の犯行を物語として描いた。
 これが私の考える「うみねこ」の真相。


 なく頃にシリーズに共通の執筆者がいると仮定して。
 「ひぐらし」と「キコニア」では執筆者の存在は隠されているわけだがら、執筆者に言及している「うみねこ」が一番執筆者のいる世界に近いと考えるべきだろう。
 いや、執筆者の真実についてを問うていたのが「うみねこ」だったと言うべきだから、「うみねこ」における現実の階層が執筆者のいる世界であるのだろう。

 つまり、「うみねこ」がなく頃にシリーズの中心となる世界であると思うわけだ。

 そんなわけで、かつて「ひぐらし」のキャラが「うみねこ」にも流用されていると言われていたが、それは逆で「うみねこ」のキャラが「ひぐらし」に流用されていると見るべきじゃなかろうか。


 「ひぐらし」の登場人物である羽入は、「うみねこ」のフェザリーヌ=八城が元となっている。
 羽入は「ひぐらし」のゲーム盤上の駒たちには認識されず、ゲーム盤の運命を俯瞰できる力を持つ。
 物語の最後では、そんな存在が駒たちの輪の中に迎え入れられる。
 そのことから読者の代理のキャラと言われていたが、正確には執筆者の代理だったのではないか。

 その視点で羽入の設定を考えると頷ける点が多い。

 羽入は世界を観測する際、登場人物の後を付けるという特徴を持つ。
 「うみねこ」において執筆者は、自分の代理の駒がいる世界を観測するとき、駒の思考をトレースして駒視点で観測するという方法をとっていると、まあ私は考えているわけだけど。
 トレース、即ち、追跡。
 ゲーム盤の住人からすれば、執筆者とは自分の一歩後ろを憑いてくる目に見えない存在なのだろう。


 続いて羽入の巫女である古手梨花は、「うみねこ」ではフェザリーヌの巫女であるベルンカステルであり、執筆者右代宮真里亞こと八城幾子の代理の駒である犯人ヤス。
 で、羽入は梨花の脳に寄生する寄生虫なのだが、これは「キコニア」ではパラレルプロセッサーという設定となっており、元の「うみねこ」では頭の中に作ったゲーム盤に置かれた自ら考える駒である。

 現実ではヤスは執筆者の頭の中に住んでいる存在だが、表と裏を引っ繰り返した虚構の世界では、ヤスが肉体を持ち、執筆者は肉体を持たない。
 つまり、ヤスの頭に寄生していると、解釈できるわけだ。

 要は、「ひぐらし」も「うみねこ」も「キコニア」も、パラレルプロセッサーの話なんだよね。
 そんな特殊の話が三度続いたなら、ひぐらし風に言えばそれは必然。
 強い意志が反映されていると見るべきだ。
 そしてうみねこ風に言えば、繰り返して描写されたならそれこそが主張したいこと、理解して欲しいところである。

 つまり、同一人物による強い執筆動機があると。
 私はより強く確信するに至るわけである。


 で、「キコニア」だけど。
 “神”が管理する仮想現実が、「うみねこ」の造物主の頭の中に広がるゲーム盤世界に対応。
 全人類の脳を繋いだ巨大サーバーが、フェザリーヌの八百万を束ねて超える思考に対応している。

 これはつまり、世界の変更。
 元々脳内世界だから、舞台設定ごと変えることができるわけだ。
 ゲーム盤の舞台を雛見沢にすれば「ひぐらし」、六軒島にすれば「うみねこ」、A3Wにすれば「キコニア」。
 さらには、魔法解釈にしたり、オカルト解釈や寄生虫解釈にしたり、SF解釈にしたりした。
 道理で同じ駒が使い回されたりするわけだ。

 それでキコニアは仮想現実をぶち壊して外に出る話。
 つまり、親を殺すことで子が生きる力を得る、というものなのだけど。
 うみねこも、親である主の真実を殺すことで、子である駒の真実が生きられる、蘇られるという話だし。
 ひぐらしも、羽入が子に殺されることで雛見沢の歴史が始まるのだ。

 ひぐらしのこの話は当時唐突に感じたものだけど、こうして振り返ると必要な話だったんだなって感じる。



 執筆動機についてだけど。
 「ひぐらし」で描かれたのは、自身の代わりの駒が生き延びる運命を紡ぐまで。
 壊れる運命にある夢の続きを望んでいる。
 さらに言えば、作者が虚構の世界に入り、その仲間に入れてもらってハッピーエンド。
 夢だけあれば幸せであるという、現実逃避の幼い願望。
 執筆者の幼少時の願いが仮託されていると思われる。
 殺した母を輪に受け入れて終わるのだから、これは黄金郷なのだろうね。

 「うみねこ」は現実と向かい合おうとする葛藤が描かれている。
 正確には、人間と向き合おうなのかもしれないが。
 互いに人に成ろうと願い努力し、しかし人にとって真実は一つしかないから、勝ち残れるのは一人だけ。
 互いに相手こそ人に成って生き残って欲しいと願い、捻じれた螺旋の物語。
 壊れた夢を拾い集めて蘇らせる話であり、死者に会うために冥界に下る話。
 つまり、死者と生者を交換する話。
 自身の代わりに人々に愛される物語になって欲しいという願望。
 人として人に愛される幸せと、世に物語を送り出す作家としての幸せを天秤に掛けている。
 執筆者の現在。
 願いに決着が着くまでの話。

 「キコニア」はその後に託す希望が描かれるのだろう。
 己の死と引き換えに産み落とした物語が、力強く生きていくことを願う気持ちが仮託されている。
 自身が叶えられなかった夢を、子に託す。
 老人は若者を搾取するが、老人は死に、未来は若者が作る。
 人としての尊厳を取り戻す話。


 そんな感じかな。





 至高天に到達した感で満足感が強くて、そろそろ思考停止しそう。
 ここまで考えたから良いだろ的な。

 キコニアのタイトルが以前は別のタイトルが仮に付けられてたみたいだけど、キコニアより直接的と言うと、赤ちゃんのなく頃にとかかな。


  1. 2019/12/07(土) 20:14:55|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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