FC2ブログ

うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】仮想体験発表会の考察

 フラグメント『仮想体験発表会』は、世界が仮想である可能性を示唆している。
 そしてその仮想体験を作る際のデータの流用は、既存のゲーム(うみねこ)のデータを流用していることの暗示しているのだろう。
 そんな風に考えたわけだけど、どうまとめようか。

 キコニアは、脳を取り出されて巨大サーバーに繋がれ、仮想世界に閉じ込められていてそこからの脱出を描いている。
 そしてその「脱出劇」に、うみねこのゲームデータが流用、見立てられている。

 実はこの2つって反発するんだよね。
 前者の世界観にまとめようとすると、うみねこのデータはどこから来たのかとか、うみねこに見立てる動機とかが説明できなくなる。
 なので、もう一つ上の層を作り、そこで後者の見立てられた物語が紡がれているとする必要があるわけだ。

 で、その「物語」という部分を「仮想体験」に置き換えることが可能なんだよね。
 つまり、「仮想世界から脱出する」という「仮想体験」をしているという感じに。
 この設定だと最上層を作中で説明しやすい部分はある。
 「物語」の方だと最上層は暈される可能性がある。

 ま、私はどちらでも構わないんだけどね。
 だって表現の仕方が違うだけで、どちらも同じなのだから。
 いざという時に切り替え可能なストックとしてとっておこう。



 さて、ここからが本題。
 「仮想体験」はキコニアのゲーム盤を暗示している。
 なら各人のシチュエーションにも意味が込められているだろうと思うのだ。
 そう、例えば、ゲームに何を求めるのか、とか。

 リリャのシチュは、周りの食べられない者たちの前で食べるというもの。
 「食べる=知る」であるならば、誰も知らないことを知ることの快楽を表してるのではないだろうか。
 知的快楽と優越感と言ったところか。

 ジェイデンのシチュは分かりやすい。
 ゲームの勝負に勝った達成感を味わうというものだろう。

 都雄のシチュは、一緒に戦うことの一体感。

 コーシュカのシチュは何だろな?
 微睡み、夢。
 夢から覚めぬままに味わう。
 これはGMが望むことかな。
 GMは夢が消えることは望んでいない。
 「夢」と「現実」の両立を望んでいるのだから。

 ギュンヒルドのシチュは、私には分かるぞ。
 うみねこのメジャーな推理は「犯人はヤス」の類。
 私の推理はマイナーだ。
 そのマイナーなものがようやく正当な評価を受けたとしたら。
 それを推していた皆と喜びを分かち合いたいものだ。
 ま、私にとってその“皆”とは、GMとその背後の皆くらい。
 奇跡は皆が望んだことだからね、喜びを分かち合えたら嬉しいぞ。


 で、最後のクロエのシチュ。
 世界の最期に味わうのは、絶望感だ。
 絶望をしっかり抱きしめる。
 故に、自身の頭を吹き飛ばすことができるのだ。

 作中での都雄の「世界を滅ぼしたいなら、自分の頭を吹き飛ばせばいいのにな」に対する答えがこれ。
 未練がある限り死ねないんだよ。
 しっかり死ぬためには、一切の希望が絶えたという事実が必要なのだ。

 つまりこのクロエのシチュは、自殺するための絶望をゲームに求めているということを表しているのだろう。



 そんな感じかな。
 プレイヤーが求めるものも重なっているが、これは全てGMがゲームに求めているものなのだろう。
 たった一人の人間の中には複雑な思いが詰まっているということだろうね。
 それを六分割したからこれだけ分かり易くなっているだけで。

 AOUのガントレット自体、神の七つの霊として“母”を分割したピースだと思うから、ピースである各人の役割に沿った感じの願いになっているのではないかとも思う。
(ジェイデンはそこから外れる微妙な立ち位置だけど。
 逆を言えば、ジェイデンのシチュはプレイヤーの願望がより反映しているのだろう。
 勝利のビジョンが貧困なのも、まだ勝利していないから具体性が欠けるというなのかもしれない。)

 記憶を保持するだろう『パンドラの箱』を擁するコーシュカは、永遠の夢の中で微睡み続けることを望んでいるのだろう。

 どんな人格にも成れるだろう『粘土の少女』であるリリャは、あらゆる人格(物語)を食らい、未知を既知とする快楽に耽るのだろう。

 物語の主人公である都雄は、自身の物語というゲーム盤で共に遊ぶプレイヤーを求めている。

 聖霊であるギュンヒルドは、助け手として主の本当の望みである奇跡が叶うことを応援している。

 そして、最上位として下層を圧し潰す力を与えられたクロエは、下層を圧し潰さないために、頭を吹き飛ばすに足る絶望を抱きしめる。


 たぶんこんな感じ。
 中でも重要なのは、クロエの担当する絶望感だと思う。

 なにが面倒って、絶望感で満足しようとしているところ。
 心理学における心の防衛機構に逆転というのがあるみたいなんだけど。
 愛情を憎しみに、サディズム傾向をマゾヒズム傾向に変えるなど、受けたダメージを加工して受け入れやすくするものらしいのだが。
 絶望感を逆転して満足感に変換しているのかも。

 あるいは、同じく心理学の防衛機構の合理化かもしれない。
 これは酸っぱい葡萄理論だね。
 “子”の幸せな姿が見られれば満足して死ねる。
 本当は自分も死にたくないし、幸せになりたい、でもそれができないからあれで満足するという自己欺瞞。

 多分両方ある。
 絶望に満足して死のうという、絶望を思考して嗜好して志向する絶望的状況。
 ホントやっかい。

 さらに辛いのは、これらに自覚的だということ。
 自分で物語として文章化しているということは、自己分析しているということで、自覚しているということ。
 つまり、自分で自分を騙す必要があるということ。
 自分に魔法を掛けることが一番難しいのだ。

 ちなみに、この地獄の逆、天国を志向する意思も同時に存在する。
 こちらも自分に魔法を掛けるのが難しい。

 天国に行きたい、地獄に行きたい。
 でも今は宙ぶらりんな煉獄にいる。
 だから、どちらの結末でもいいから自分の物語を終わらせて欲しいのだ。

 地獄にいるのだと信じさせて欲しい。
 あるいは、天国に行けたのだと信じさせて欲しい。
 ということだろう。

 正しく欲求を満たせないから欺瞞に走るわけで。
 要するに、正しく欲求を満たせられたら良いのだ。
 それがゲームのゴール。


 私が思い描くのは、二人が共にニンゲンとなることができて、一緒に居られる世界。
 だって、彼女は長い年月、大事な愛する者を守るために必死に頑張ってきた。
 それと同時に、大事な自分自身のことも守り通していた。
 たいていの人は自分一人分のところ、二人分の重みを背負って歯を食いしばってきた。
 その努力は報われても良いじゃないか。

 片方だけ幸せになるのは次善の選択だ。
 それが選ばれたら、なんかもっと早くに諦めていればという気がしてしまう。
 なんだろ、掛けた長い年月に意味があって欲しいのかな、私は。
 もっと早くに幸せになれていれば良かった。それは確かにそうだ。
 しかし、掛けた年月は無駄にはならない。
 長い年月を掛けたからこその成果がある。
 より素晴らしい物語となったのだと思うのだ。


 ん、この辺にしておこうか。


 前にも書いたことがあると思うが、ゲーム盤は箱庭療法的な世界でもあると思うんだよね。
 箱庭の中に人形などを置いて小さな世界を完成させる。
 それは心を明らかにするためのもので、そこに表されたのは心の世界。
 だからゲーム盤に置かれた駒には必ず何らかの意味があり、不要なものなど存在しない。
 特にキコニアの駒の置き方は整然としているので、比較的分かりやすい形になっているんじゃないかな。
 今回の仮想体験発表会なんかは、AOUのメンバーが揃って同じお題だから、サンプルとして良質だと思う。

 その箱庭世界をゲーム盤として、プレイヤーを箱庭世界に招いているわけで、それってつまり自分の心の中に踏み込ませているってことで。
 だからプレイヤーたる読者には、ゲーム盤の主のことをちゃんと見据えて欲しいと思っちゃうんだよね。
 一人で食べるか、複数人で食べるかで、味は変わるのだから。


 キコニアをSFと見るなら、ミステリーには見えない。
 だが箱庭と見るなら、そこに心を見出すことができる。
 ホワイダニット。
 心を推理するゲーム。
 よって私にとってキコニアは立派なミステリーである。


スポンサーサイト



  1. 2020/08/01(土) 20:52:05|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】ゲームをショートカット

 Phase1の最初で都雄とジェイデンが一戦交えていたけど、あのシーンに何かの意味を含めているはず。
 ひぐらしもうみねこも冒頭は超重要なことが書かれているからな。
 罪を赦し合う世界に至るひぐらしでは、延々と繰り返される謝罪。
 うみねこでは、ボトルメッセージは遺言ではなく、生きている間にベアトリーチェの微笑みを見たい、見るまで死ねないという意思を示している。
 両作品とも冒頭では物語の執筆動機を描いているんだよね。
 キコニアでもそうだとは言わないけど、まあ重要なことをその辺で示唆しているはずだとは思う。

 最初のガントレットナイトの説明を飛ばすと、冒頭は都雄とジェイデンの一戦になる。
 ガントレットナイト同士の戦いは、うみねこの論戦バトルの見立てだ。
 とすると、この一戦はキコニアのゲームを占うものになりそうだ。
 つまりは先行体験。
 こういうゲーム進行になるだろうという計画、またはこういうゲーム進行に成って欲しいという願望。
 あるいはこういうゲーム進行をしたほうがいいよという推奨なのかも。

 ジェイデンの姿が現実の読者、つまり我々プレイヤーなのだとしたら、ミサイル他を迎撃しながらビルを迂回する通常ルートではなく、ゲーム盤の構造を解析してショートカットを仕掛けてくることを“期待”されているのだろうね。
 Phase1の難易度は、かなりの上級。
 つまり、かなりの上級者なら当然のようにショートカットしてくるだろうと。
 序盤や中盤など一切を省き、いきなり終盤戦を仕掛けてくるのだと。

“目的を見つけよ。手段は後からついてくる”
 結果を決めたら、過程は後から書き足せばいい。
 それが造物主の戦い方だったよな。
 となれば、神同士の戦いはそれになるのか。
 なるほど。



 とりあえず、私の真相考察が合っていると仮定して解釈する。

 まずキコニアのゲーム盤は、うみねこのゲームを俯瞰したものを下地としている。
 よって、うみねこのゲームの真相を熟知している者なら、キコニアのゲーム盤をショートカットできるはずである。
 この既存のデータをゲーム盤の下地として流用というのは、フラグメントの仮想体験発表会で繰り返しヒントが出されている。

 三人の王は神の三位一体を表す。
 うみねこの三位一体は、一なる三人の魔女だ。
 そしてその一なる三人の魔女であるベアトリーチェが3つの物語を紡いでいる。
 恋の決闘はその三人の魔女がそれぞれ紡ぐ物語の内、どれを真実に昇華するかの戦いである。
 本命の奇跡は、3つの物語が一つに纏まった一なる物語であるのだけどね。
 この計4つの物語がキコニアの四陣営に相当し、残りのLATOは元老院や天界大法院に相当し、各勢力間のバランスを保っている。

 そこまで把握できれば、三人の王による人類存続を賭けた人類間による滅亡戦争や、人類の上に存在するGMが主導する天からのゲームメイクが理解できる。
 そして、あくまで人類のことは人類で決めるという三人の王と、天が決めるというGM(代理)の争いも。

 だがそれらの争いがどういう過程を経ようと、結果はもう決まっている。
 うみねこのゲームはもう終わっているのだ。
 うみねこの結末は、黄金の真実の勝利で終わる。
 それがうみねこのGMの意思。ゲームメイク。
 それが執筆者が紡いだ物語。

 だからうみねこを下地としたキコニアの真のゲームは、うみねこのゲームをなぞった結末から、あるいはその直前から始まる。
 つまり、ショートカットが可能なのだよね。
 要はGMにダイレクトアタックをぶちかまそうということ。

 これがジェイデンがショートカットが表していることじゃないかな。
 超天才だからできるショートカットということだね。


 その続きは、ショトカのダイレクトアタックを緊急回避の上で、死角に置いた爆弾。
 GMを注視した結果できた死角、上即ち天からの攻撃という点から、ゲーム内PLがGM代理をしているという仕掛けを暗示しているのだろう。
 現実のプレイヤーに対して、GM代理としてゲーム内PLが現れるのは意表を突くものになっている。
 実際、私も引っ掛かったしな。

 で、落下、上即ち天に対して下という点から、地の底や深淵に向かうことの暗示。
 左手のガントレットが停止しているのは、“母”即ちミャオが眠っていること。
 残る右手で殴り合うのは、“子”即ち都雄単独で戦うことの示唆。
 決着後の、実戦だったらガントレットが再起動して自分が勝っていたというのは、“母”が目覚め二人揃った状態なら勝てたということだろう。


 プレイヤーであるこちらも実戦で二人が揃うことを願っている。
 だからきっとあれは、絶対の未来を約束した先行体験。
 始まった時には、すでに終わっている。
 Phase1のラストのラッシュも合わせて考えれば、再戦(デート)の約束なのは明らか。
 これこそキコニアの執筆動機と言って良いんじゃないの?
 GMの目覚める宣言だよね。


 しかし、まだ序盤なのにもう終盤戦とかどんだけー。
 いや、終盤戦を思い描きながら序盤を指すはある意味当然なことなのかもしれないけど……。
 対戦する両者が同じ終盤の盤面を思い描いているのなら、序盤中盤はもはやただのセレモニーと化す。
 約束された終盤戦というわけだ。

 うーん、やはりセレモニー。
 先行体験同士で戦えば、勝負は最後の最後で決する。
 それまでは両者同意の元による演舞の如き様になる。
 そして最後の最後までそれを貫けば、もはや勝敗に意味はない。
 結末は両者の合意のものであり、信頼し合った末の未来なのだから。


 ショートカットが仕様なら、それが正規ルート。
 ゲームメイクが神懸ってる。

 しかし、うみねことある意味真逆のゲーム構成だな。
 うみねこは一面ずつしっかりクリアして順番に一段ずつ登っていかなければならなかった。
 前のステージをクリアせずに考えないまま次のステージに進むと、途端にトゥルーエンドに到達できないという鬼畜仕様だった。

 それに対してキコニアは、一つずつ覚えてくのはもううみねこでやっただろ、チュートリアルとか途中の戦闘とかかったるいのはすっ飛ばしてラスボスだぁああ! 的な。

 ……これ、どう例えたらいいのだろう。
 あ、そうだ。
 竜騎士さんのインタビューで、「学校理論」というのが出たんだけど。
 ひぐらしを6年育てて卒業させた、次はうみねこを一年生から育てる、みたいな。
 でその中で、うみねこは一年生だけど読者は六年生なんだというのがあった。

 その例えを借りると、キコニアは一年生だけどプレイヤーは六年生、ひぐらしも含めれば十二年生になる。
 一年生から学び直すなんてやってられない。
 学力に合わせた課題が出されるのが普通だろう。
 あるいはさっさと飛び級してもらうか。

 プレイヤー歴一年なら、一から操作方法を覚え、弱い敵から順番に倒していくことになる。
 でも前作のレベル99のデータを引き継いだプレイヤーは、それに相応しいレベル帯の敵と戦いたいわけだ。

 んー、ストーリーを順番に見なければならないRPGでは例えが悪いか。
 じゃあアクションゲームにしよう。
 前作を熟知したプレイヤーが前作を継承した次作を始めた時、初心者同士の対戦から始めるか? ということ。
 上級者同士の対戦をやりたいに決まっている。
 初心者同士の対戦から始めてランクを上げることを強要するクソ仕様はNG。

 つまり、上級者にはそれに相応しい敵と戦うところまでショートカットしてもらう仕様は神なんだよな~。
 考えれば考えるほどアイテムが手に入って、そのアイテムで打ち破れる難関が用意されているとか、やりがいがある。
 やり込みゲーはやり込んでなんぼ。
 ここまでうみねこ考察してきて良かったと思える。
 強くてニューゲームとか、紛うことなき神ゲーなんだよな~。





 話は変わるが、ジェイデンが飛び級で同期を置いてきぼりにしたというエピソード、親近感沸くんだよね。
 私も周囲と一緒に推理していくタイプではなく、一人で思考を進めるタイプで、さらには考えるのが面白くてどんどん先に進んで行った感じだから。
 これは多数派・少数派に関係するのかな。

 多数派ということは、細かな差異はあれども意見が一致している。
 つまり、ある程度知識が共有されている状態なわけだ。
 得た知識を共有しながら推理を進めるためには、全体の知識を底上げしながらすることになる。
 まあ要するに、時間を掛けて一段ずつ皆で進まなければならないわけだ。

 それが少数派、特に一人なら話が別だ。
 知識が共有されるのを待つ必要がない。
 一人で勝手に進めて行くことができる。
 まあ気軽なわけだよ。

 時折私も、もっと議論に参加して自分の知識を落としていった方が良かったかなぁと思うこともある。
 けど同時に、議論に時を費やしていたら今のところまで辿り着くことはできなかっただろうなとも思うのだ。

 議論するということは、相手に合わせるということでもある。
 足の速い者が遅い者に歩調を合わせなければならない。
 それはつまり、先に進むのが遅れるということになる。

 知識の共有は、後から来た者からすれば早道である。
 議論を活発にするためにも、全体の底上げは必要だ。
 教えるという行為は、ただ知るよりも力量が必要になるから、自分のためにもなる。
 だがしかしそれは、足踏みして地面を固めるようなもので、先に進むためのものではない。

 未知を得るためには先に進まなければならない。
 その楽しさを求めれば、周りを気にせずどんどん先へ先へと進むことになる。
 となれば必然独りぼっちになるわけだ。

 こうなると知識の共有は断絶することになる。
 別の方向に進化して、その進化をさらに押し進めたのだから当然なんだけど。


 この意識の断絶をどう表現しようかな。
 積み木に喩えるか。

 魔女幻想を一つのパーツとすると、その隣にヤスが犯人である世界のパーツを置いたのが大多数の人の積み木。
 とすると、さらにその隣に19人目が犯人である世界というパーツを置き、それらを一つに纏め合わせた執筆者が紡ぐ世界をそれら3つの上に置き、その上にさらにキコニアでPLが加わった世界を置いた感じ。
 単純計算で、パーツ数で2.5倍、高さにして二段上。
 それが私が勝手に見定めた差になる。

 自分が必死に推理してその末に至った真実を、たんたる積み木の1パーツとして積み木遊びに使用するという感覚、視点。
 容易に理解できないと思う。
 理解出来たらそいつはバケモノじゃい。


 ま、なんだ。
 誰も知らないことを知ることは楽しく、それを味わうために突っ走ってきてしまった。
 思考停止が死であるならば、走り続けるのがプレイヤーの性だと思う。
 止まれば死ぬんだから。
 私はその性に正直だっただけなのだ。
 なら仕方ないよね。

 まあちょっと反省しているので、思考は積極的に開示している。
 後は好きに考察の糧にでもして欲しい。


  1. 2020/07/26(日) 20:21:26|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】着飾った言葉、着飾らない言葉

 うみねこ完結後、新たな考察陣に「うみねこは読解」と言われたりしていたが、私的には「読解」というより「解読」ではないかと思っている。
 読解とは書かれている文章を理解することだけど、それはつまり書かれている部分からしか読み解けないということ。
 書かれていない部分からは読み取れない。
 隠されていることは見付けられない。
 変換されているものは元には戻せない。

 うみねこは行間を読むゲームだけど、その度合いをどれくらい見積もっているのかという話。
 私は解読、つまり、今ある物語を一度元の物語に戻す必要があるのだと思っている。
 解かなければ物語を読むことすらできないのだと。


 ひぐらしは羽入が真の主人公で、その羽入が舞台を降りている間は梨花が代理で主人公をしており、その梨花まで主人公の座から降りている間は圭一が主人公の席に座っていた。
 圭一の強い意志が奇跡を起こし、それを見た梨花は戦う意志、生きる意思を取り戻し主人公に返り咲き、そしてそんな梨花たちを見て羽入も生きて戦う意思を取り戻した。
 三人の主人公、三つの物語。

 ひぐらしの一部の読者が「羽入はいらない」とか言っているがとんでもない。
 羽入がいなかったら、梨花の物語はないし、圭一の物語もなかった。
 羽入がいて、さらには舞台から降りたから、梨花の出番がやってきたのだから。

 羽入がいなければ、梨花は生まれない。
 さらには、例えば、梨花が主人公のままだったら、圭一が主人公の物語はなかった。
 梨花がループしながら出口を探す物語になっていただろう。
 そしてそもそもの話をすれば、羽入が自分の人生を生きていれば、梨花が主人公の物語も紡がれなかった。

 なのでつまり、「羽入はいらない」と言っている人は、羽入の物語が読めなかったということになる。

 元の物語は羽入が主人公の話で、それを梨花の主人公の話が覆い隠していて、さらにその上に圭一が主人公の話が被さっていた。
 ひぐらしの問題編だけだと主人公は完全に圭一にしか見えない。
 暇潰し編で梨花がループを経験していることは示唆されているので、梨花が主人公の話を想像できるようにはできているのだけど、実際当時にそれを想像できていた人ってどれほどいるのだろうか。

 ひぐらしは要するに、元の物語へ帰ろうとする話で、それはうみねこも同じ。
 ラストの福音の家のは、欠けたピースが戻り世界が完成する、世界が元に戻るというもの。
 ひぐらしが三人の主人公による3つの物語で、うみねこも3つの物語。
 だからきっとうみねこも三人の主人公による物語。
 欠けた最後の一人が帰還して、元の完成された世界に戻るのだろう。

 私は読解では三番目の物語は読めないと思うんだよ。
 書かれたままの文と、書かれたことから読み取れるもの、二重の物語までは読解で読める。
 でも三重の物語は視えないだろうと。
 三重の物語は解読しなければ読めない暗号のようなもの。
 今ある物語を元の物語に変換しなければならないのだと。

 羽入の話をするためには、圭一の話からしなければならないという迂遠さ。
 素直からほど遠いよな。



 前置き終わり。
 さて、キコニアの話をしようか。

 ジェイデンとミャオのデートでの、仲間たちの脳内助言についてだ。
 あれこそ一つの台詞の裏に複数のニンゲンの台詞が混じったものの具体例である。
 読者視点では舞台裏まで見せてもらっているから理解できるものになっているが、脳内会議の様子が省かれていたらまったく理解できない台詞の応酬に見えたことだろう。

 サイズが合わない靴を履いてきた。
 そのたった一つの事に、何重もの意図が隠されていて、脳内で何人もの人間がそれぞれの視点から意味を持たせていたと理解できただろうか。

 一つの言葉に、複数の意味を飾る。
 一つの物語に、複数の物語を飾る。
 ゲームの製作者がしていることはそういうこと。
 物語を着飾らせるのはたいへんで時間が掛かる。
 だからデートに遅れても笑って受け入れたい。

 デートは二人でするもの。
 即ち対戦ゲーム。
 一つの口から一度に複数の人格が喋り、それを聖徳太子並みに聞き取って、それぞれの人格に対して答える。
 それはまるでジェイデンとミャオの意味わからん会話のよう。

 その類がゲームでの応酬というのだから意味わからんよね。
 私も分けわからなくなることがある。
 全部把握するのは難しいし、こんがらがる。
 聖徳太子用のゲームとか人類には難易度高い。

 やはり色々と飾られた迂遠な言葉よりも、自分を飾らない言葉が一番。
 でもそれが素直にできないのがここの文化。
 その文化に飛び込むなら、そこの文化と付き合っていかなければならないんだよね。

 ま、要するに、ジェイデンとミャオのデートと脳内会議は、ゲームの風景を切り取ったもの。
 パラレルプロセッサーとのゲームはこうだぞ、っていう。

 本当パラレルプロセッサーとゲームをするのはたいへんだよ。
 一人なのに同時に複数の主張をし、異なるロジックを同時に作り上げ、真実を並び立たせて来る。
 一つ迎撃できても、必ずもう一つにやられてしまう。
 推理の矢が一本しかない人は必ず負ける。
 それがパラレルプロセッサーとの戦いというもの。

 パラレルプロセッサーと戦うということは、内包される複数の人格と対峙するということ。
 その全てを同時に打ち破らなければならない。
 読解の選択問題のように正解を一つ選ぶのではなく、正解だと思われる選択肢を複数作らなければならないみたいな。
 さらには、それらを飾らない素直な言葉に変換せよ、みたいな。
 真実は複数。しかれども全てを合わせた真相は一つ。みたいな。



 ひぐらし・うみねこでは三人主人公の3つの物語だから、キコニアも同様なんだろうと思う。
 生き残る人類の人数のことだけど。
 生き残るのは二人。それよりも少し多く。
 だからきっと三人。

 都雄の物語、ミャオの物語、ジェイデンの物語。
 それらが一つの物語に纏まる。
 そんな感じになるんじゃないかな。

 飾らない素直な一言は、「一緒にいたい」「共に生きたい」「ここにいることを許して欲しい」と言ったところ。
 それが着飾ればキコニアの物語になる。
 たった一言がここの文化に掛かれば物語に変換されるんだよな~。


  1. 2020/07/18(土) 20:48:50|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】始まった時にはもう、終わっている

 今回はめっちゃ短い。


 ひぐらし礼、うみねこ咲を見て思ったけど、キコニアって始まった時にはもう終わっているよね。

 私の考えるキコニアって、うみねこを下地としてPLがGM宛に紡いだメッセージで、母と子が一緒にいられることこそがハッピーエンドだとGMの心に届けるまでを描くゲームなんだけど。

 ひぐらしで“子”は“母”と共にいられる世界を選んだ。
 そして“母”は“子”と共に人として生きるために戦うことを選んだ。
 うみねこでPLと戦い、そのPLがキコニアのシナリオを書いたということは、そのPLも“母”と“子”が共にいられる世界を望んでいるということ。

 この時点でゲームに関わる三者の意見が一致しているので、“母”と“子”が共にいられる世界が紡がれる結末に辿り着くことは決まったと言っていいだろう。

 キコニアはその結末に辿り着くまでの過程を描いた物語だから、始まった時にはもう終わっているんだよね。
 もはやセレモニー。


 PLがシナリオを紡いでいると言ったが、そもそもその上層には本物のGMがいて物語を紡いでいると思っている。
 PLはGMが取り込んで既知としている、つまりすでにPLのメッセージを受け取っている状態。
 よって、キコニアの物語はそれを示すためのセレモニーなのだと思う。

 内外にそれを示すための「式典」。
 それを祝うための「祭り」。

“予告される惨劇は、計画か妄想か、未来か現実か。”

 私の答えは、セレモニー。


  1. 2020/07/04(土) 20:04:21|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

【キコニア】加工された物語、伝統の味付け

※PCをPLに修正。



“正体不明の誰かが調理した食事など、不気味で誰も食べないはずなのに。それが情報だと、誰が加工したかも考えずに鵜呑みにして信じる。……そういう馬鹿が世界中にいてくれるから、我々はひと稼ぎが出来るわけですが。”

 与えられた情報は、誰かが加工したものである。
 ならば与えられた物語は、誰かが加工したものであることだろう。
 例えば、ラストの様々なシーンの切り取りやフラグメントなんかはそういうのが際立っている。
 誰があれを切り抜いてきたの? と。

 そうなると「誰」が加工したのか、物語に加工される前の「素」の状態はどういうものだったのかが気になるところ。


 さらにこれに関連するだろうフラグメントが存在する。
 「臭い料理対決!」だ。
 “料理”を“物語”に変換すればだいたい通じるんじゃないかな。

『物語。それは世界各地で独自に育まれてきた個性豊かな文化。
 読書が人類最高の快楽の1つであることを否定できる者はおるまい。
 時代を問わず、場所を問わず、人類は物語に美味を追求してきた。
 その結果、世界各地で素晴らしい物語が育まれることとなる。
 しかし、進化とは時に、必ずしも正方向へは進まない。
 普通なら、より味が良いように良いように進化していく。
 ほとんどの場合、そうなのだが、……時に、少し偏った進化を見せる時がある。
 どんな物語でも、ずっと食べていると飽きる。変化や驚きが欲しくなってくる。
 その変化や驚きが一定の域を超えると、……地元民にとっては美味な伝統の味でも、それ以外の人間の口には到底合わない代物が誕生する場合がある……。
 そのような進化のズレたモノは、多くの場合、外国人旅行者の悪評によって見直されて正気に戻るものなのだが……。
 ……時に。
 むしろ外国人撃退に特化したかのような、恐ろしいモノを生み出してしまう時がある。』

 って感じ。
 つまり、サルミアッキ=キコニアのなく頃に。
 そう読み換えると、断然キコニアを理解できると思う。

 サルミアッキとは北欧の言葉で、塩化アンモニウムを意味する。
 つまり“アンモニア臭”がする。
 アンモニア臭と言えば、A3Wで主にする臭いがそれ。
 要は、サルミアッキ=キコニアだと言いたいのだろう。
 北欧人(比喩)以外には食えない味だと。

 そして北欧人(比喩)は何でもかんでもサルミアッキで味付ける。
 ひぐらしでも、うみねこでも、それ以外の作品ですら。
 それが北欧人(比喩)の伝統の物語の味付けなのだ。


 長年その土地で育まれたってところで、一般社会とは隔絶した環境で長年過ごしたことを窺わせる。
 肉体を捨ててでも魂を重視する傾向にある価値観は、一般社会の常識とは大きく乖離している。

 現代の日本では、魂より命の方が重視されている。
 延命できるならできる限り延命をする。
 安楽死は禁止されているし、意識が戻らなくても延命装置に繋ぎ続ける。
 どういう形でも生きていてくれる方が良いという傾向がある。
 極端に言えば、「命は地球より重い」という価値観。

 それに対して、魂の方を重視するというのは、場合によっては魂を守るために命すら捨てるということ。
 極端に言えば、「生きるために死ぬ」という思想。


 物語の正方向への進化は、一概には言えないけど、より万人受けるように分かりやすい、直接的なメッセージなどが込められた物語だろう。
 その反対は、分かりにくい迂遠的なメッセージが込められた物語となる。
 そっち方面に進化してしまったのは、世間と隔絶されていたから。
 つまり、交流がなかったから。
 要は拗らせてるんだな。

 うみねこも推理して欲しい、理解して欲しいというのと同時に、理解できるはずがない的な防衛的攻撃性が垣間見えるからな。
 所謂ハリネズミのジレンマってヤツ。
 その攻撃性も引っ繰り返せば、これを考えてーっていう道案内なんだよね。
 こっち来ないでーって言いながら、こっち来てーっていう。
 アンビバレンツな心理なのだろう。
 「逃げるから追ってきて」は、うみねこの当初からある伝統文化と言っていい。。

 うみねこでは3つの物語を紡いだのだから、物語の味わいは三段階に分かれているのだと思う。
 見れば分かる物語と、考えれば分かる物語と、より深く考えなければ分からない物語とに。
 相手に何かを信じさせたい時、こちらが主張したことをそのまま信じてもらうのは難しい。
 こちらの主張に反発する勢力が必ず出るから。
 だから答えを明かすのではなく、相手が自分から気付かせるのが良い。
 その気付きは相手のもので、ゆえに反発は起こらない。
 マジックでもあるよね、相手にこちらが選んで欲しいカードを選ばせるってヤツ。

 つまり、人って自分がそれに気付いた時、そこで思考停止してしまうのだ。
 一歩進んだ、しかしその一歩で歩みを止めてしまう。
 あるいは、勢いで二歩目、三歩目くらいは進むこともあるだろう。
 しかし、一を聞いて十を知るほどは進まない。
 途中で満足してしまう。
 思考を止めなければ、まだまだ味わうことができるかもしれないのにもかかわらず。

 なく頃には、一つの真実を異なる角度から色々と味わうことができるというコンセプト。
 色々な味を味わうには、読者側のテクニックが必要になる。
 場合によっては、製作者側も想定していない味わい方すら開発することも可能だろう。

 これはどれが偉いという話ではなく、そこの文化に馴染めるのかどうかという話。
 物語は読んでもらうということは、広く世間に公開されるわけだから、より多くの人の口に合うように進化するのが正方向。
 しかしその逆に進化してしまったのは、ただ一人の王子を待っているからだろう。
 なく頃にの物語は読者に対して広く開放されていて、どうぞ好きに解釈してくださいとなっている。
 しかし最後の一線だけは踏み込ませないイメージ。
 そこは王子だけが踏み入れることが許されているのだろうね。

 きっとキコニアもその伝統を受け継いでいるじゃないかな。


“ところがところが! 恐ろしいことに(笑えることに)、北欧人はサルミアッキが自分たち以外の口には合わないことを、知っていて外国人に勧めてくることがあるのだ!
 そかもその上、にやにやしながら、食べるところを動画で撮ってもいいかと聞いてくることさえ……!!”


 これは、お前もじゃねーか! っていうツッコミ待ちに違いあるまい。
 物語を的確に咀嚼できないだろう者たちに食わせて、その反応を見て楽しむという悪趣味な一面があるということだろう。

 確かうみねこのインタビューでくさやの話があったな。
 知的な背伸びの話で、挑発されたらつい食ってしまう的な。

 自分の土地の文化、物語の味をちゃんと理解して味わってくれる人を探しながらも、そういう人は滅多にいないから、口に合わない者の反応を見て楽しもう方向に行っているのかな。
 一番嫌なのが、食ってくれない、反応してくれないことだと思うので。
 反応を返してくれるだけで嬉しいのだろうね。

 ま、一種の自己紹介の様なもの。
 こういう文化の者ですってね。


 で、その後の料理対決は、「神のシナリオ」と「神の代理人のシナリオ」のことなのだろう。
 PLからの、じゃあ次はお前が食ってみろよ的な。
 注文したのを忘れてしまい、料理ができるまで時間が掛かっているというのは、都雄が天災のお子様ランチを注文したことに掛かっているのだろう。



 そんなわけでこのフラグメントは見方によっては、物語本編に対する自己言及的なものになる。
 うみねこのTIPS、小冊子も大半はそんな感じだった。
 普通に見るとただのサイドストーリー、でもメタ的に見ると作品の解説書的な。

 物語の中で物語について、暗喩的に自己言及をする。
 そうすることで自らの尾を飲み込むウロボロスの如く、元の位置からより高次の存在になる。
 自己に言及するということは、自己を俯瞰する自己を作るということだから。
 要するにメタ構造のゲーム盤を構築できる。
 なく頃にのゲーム盤はそれがデフォだろう。





 さて、物語を加工しているなら、メタの領域にいる誰かがそれをしていることになる。
 ミステリー的には、
 フーダニット。誰が加工しているのか?
 ハウダニット。どうやって加工したのか?
 ホワイダニット。どんな意図で加工したのか?
 これらを解けばいいってことになる。

 さらに言えば、加工される前の「素」の状態はどんなものなのか?
 そういうのも問われているんだろう。


 私的にはやっぱり「素」はうみねこのゲーム内容だと思うんだよね。
 うみねこのゲーム結果を素材として作成・加工されたゲームがキコニア。

 ベアトが紡いだ3つの物語、幻想1、真実2。
 そしてそれらを包括した真相1を加えて計4つの物語。
 それがキコニアの四陣営で、それらが相争い読者の心の世界への移住を賭けて争っている。

 その争いはヨハネの黙示録に見立てられており、そこで良く用いられる七人一組に都雄たち仲間が組み分けられる。
 COUの6人+ミャオ(ジェストレス)が赤い龍。
 ABNの6人+都雄が七人の御使い(子羊)。
 ACRの6人+ギュンヒルドが黙示録の獣。
 AOUの6人(ジェイデンとミャオを入れ替え)+フィーアが神の七つの霊。

 そして神がフィーアで、神の代理人が藤治郎でその分身がジェイデン。
 LATOの2人はジェイデンと組んで三人一組となり争いを管理する。

 そんなイメージが個人的にはぴったり合うと思っている。


 ん~このイメージって、私の記事を読んでいる人と共有できているのかな?
 自分で言うのもなんだけど、私のうみねこの見解は世間一般とは乖離しているので。
 今頃までうみねこ・キコニアを考察している人で、「ヤスの肉体が犯人」にあらずんばうみねこにあらずって極端な人はいないと思うが、どうなんだろう。


 1つ目の物語は、魔女であるベアトが犯人の物語。
 2つ目の物語は、ニンゲンであるヤスが犯人の物語。
 ここまでは普通に共通認識で良いと思う。
 残りの3つ目に、赤字を抜けることができて、かつ犯人がヤス以外の人間の物語と仮定する。

 真実は並び立つことがあると知っている人なら、信じるかどうかは別として、この仮定をイメージすることはできるはず。

 で、3つの物語と、それを纏めた4つ目の物語だけど。
 これは真里亞とさくたろうを例に出すとイメージしやすいかな。

 個別の物語は、真里亞がいない世界を(人間として)生きるさくたろうの物語と、さくたろうがいない世界を生きる真里亞の物語。
 纏めた物語は、真里亞とさくたろうが一緒に生きている世界の物語。

 真里亞がいない世界を生きるさくたろうは、ひぐらし礼の「賽殺し編」の羽入のいない世界で生きることに決めた梨花を想像すると分かりやすいと思う。
 羽入と一緒にいた世界を夢として忘れて、今いる世界の生を全うしようとしている。

 それがイメージできれば、二人一緒にいたいというのが本当の願いだと分かるはず。
 しかし読者に認められるための決闘が行われ、3つの物語はバラバラになるため、纏めた4つ目の物語は奇跡が起こらなければ勝つことはできない。
 そしてファンタジーである幻想の物語も勝ち残ることはほぼ不可能。
 となると残る真実の物語2つでタイマンとなる。

 また同じもので例えるけど、主人格である真里亞がさくたろうを殺せるわけがない。
 よって、さくたろうが勝ち残るという結末に辿り着く。
 これが私から見たうみねこの結末のイメージ。

 それに対して否を唱えたのが、読者の一部であるPL。
 さくたろうが一人残されるのはハッピーエンドではない、真里亞と一緒にいられてこそハッピーエンドであると、物語を編集しているのがキコニアのゲーム。
 さくたろう視点で言えば、一人で生きること否を唱え、PLに真里亞と一緒にいられる物語を要望し、PLはそれに応えたって感じになる。

 そして、PLはそのうみねこの結果を素材として物語に加工した。
 二人一緒にいられるハッピーエンドにするために。
 そんな感じのイメージ。


 私が気に入っているのは、物語を加工しているのがPLであること。
 トリック的には、習慣的にGMに焦点を合わせようとしたら、盲点だったPLがゲームを進行しる点とか。
 ある意味GMの一方的だったうみねこのゲームのリベンジを、今度は逆にPLがする的なところも続編のゲーム的で良い。

 自分は死んだ方が良いというGMに対し、PLは生きても良いんだと言う。
 これはまさしくひぐらし・うみねこのラストで繰り返されたもの。
 鷹野に対して富竹が。
 ベアトに対して戦人が、罪を赦す。
 生きて罪を償おう、一緒にいるから、自分を取り戻していこう、と。
 このラストはひぐらし・うみねこで共通したもの。
 だからきっとキコニアでも踏襲されるはず。
 それが綺麗な流れだから。

 全ての罪を背負って死ぬというのは羽入も同様で、こちらは欠けを埋めることを選んだ梨花によって救われる。
 これは先ほどのさくたろうの例え、さくたろうが真里亞と一緒にいることを望むイメージ。
 物語からの要望。即ち、注文。
 そして神の代理人はそれを形にする。

“…傍観者を気取った少女が、舞台に上がる決意をし、…もう充分と思い、降りようとした。
 ……舞台の上の輝かしい瞬間を思い出に、…舞台を降りようとした時、…その袖が引っ張られ、止められた。
 舞台の上に、いてもいいんだよ。
 気付けば、自分はまだ舞台の上にいて、……しかもこれからも舞台を降りなくていいのだ。
 カーテンコールにも自分の居場所があり、…私はもう傍観者などでは断じてないというのだ…。
 それは、…ありえない奇跡。
 …台本にない役なのに、…私はいなくていいはずなのに、…存在が認められる奇跡。”


 これは祭囃子編の全てが解決された時の地の文だけど、この“舞台”という表現はうみねこでも用いられている。
 EP7ではもろだし、ヱリカにもよく使われている。
 それまでいなかったヱリカが舞台に上がり、殺し直すことで全ての罪を背負い、舞台から退場する。
 これは羽入と同じプロトコル。
 EP7のクレル、EP8のベルン、ラストノートのピースも同様。
 それまで舞台に上がらなかった者が舞台に上がり、何らかの罪を背負い消えることで、舞台上に和を取り戻す。

 リフレイン。
 何度も繰り返されるということは、それが言いたいことであり、考えて欲しいことだということ。
 メッセージでありプロトコル。
 舞台に上がり、その後舞台から降りようとするから、それを引き留めて、という。

 ピースがヱリカに似ているというが、それは当然なのだ。
 同じ役割を持たされた駒なのだから。

 ヱリカは舞台から降りた後、忘却の深淵に捨てられた。
 そしてEP8でベルンに勝ったらヱリカを救うと約束した。
 舞台から降りた者を、再び舞台に上げるために勝負する。
 それがPCに課された目的。

 ヱリカが駒としての本来の役割を果たしたEP6で、羽入に相当するフェザリーヌが登場するのも、フェザリーヌ即ち八城が舞台の上に上がらない者という暗示だろう。


 造物主、即ち神については、ひぐらしを参考にしようか。
 祭囃し編のラストの鷹野と羽入のやりとりから抜粋。

「そなたの右手に持つ鉄の火で。己が生に別れを告げるがいい。……神の座に肉の器は不要。人にその姿を認められようなどと思ってはならぬ。」

「何故に嫌か。常に、人の世で和を求めるためには、1つのケガレに1つの生贄がいる。…それが人の世の理、罪の禊の方法ではなかったのか。
 ……そなたの望む未来に1人の少女を生贄に求めたのはそれを理解していたからではなかったのか。」

「…私は、…人間でよかった…。ただただ、人間として生きていいよって、誰かに赦してもらいたかった…! 生きてもいいよって許してもらいたかっただけなのッ!!」


 神の座に就くには、肉体を捨てる必要がある。
 自身の姿、即ち自身の真実を認められようとしてはならない。
 要するに、舞台の上から姿を消し、傍観者としてあらねばならない。
 それが神であり造物主。
 それが羽入でありフェザリーヌなのだろう。

 神に至ろうとしていたが、本当の願いは人間としていいよと誰かに赦してもらうことだった。
 そのために、1人の少女を生贄に求めた。
 逆に神に至るためには、自分が生贄となり舞台から消える必要がある。

 要するに、ニンゲンとして生きることが赦されない家具が、ニンゲンとして生きることを赦されるために、罪を1人の少女に着せて生贄に捧げることにしたが。
 それを厭い、代わりに自分が罪を着て舞台から消えることで、少女の生きる世界の和を取り持ったと。
 その後、舞台の陰から少女の生を見守り、それに満足したら完全に消える。

 そうして世界という舞台から消えて、満足して永遠の眠りに就くのが「賽殺し編」の世界。
 だが少女、梨花はその世界を選ばず、羽入と共にいられる世界を選んだ。
 これまで自覚なく母を殺し続けていたという自覚を得て。

 愛する魔女のために、神を捨てて人に還る。
 散った花が咲く。
 それがラストノートに込められた願いだろう。

 そしてキコニアで“雨乞い”がされた。
 物語からの要請を受けて、PLが物語を加工する。

 ジジ抜きの欠けたピースが埋まり物語に和を取り戻し、共に罪を背負い、共に罪を赦し合い、過去と決別し、人としてこれからを生きる。


 やはり綺麗な流れ。
 人は高きに歩き、水は低きに流れる。
 ひぐらし、うみねこ、キコニアのこの流れは、水が高きより低きに流れるように、これは自然の道理なのではないかと思う。





 そういえば、賽殺し編のラストを見ていて気付いたが、小此木について記憶違いしてたわ。
 あいつ、自分が負けたら、鷹野に自死を強要していた。
 再考察での小此木について修正すべきだな。

 小此木が読者に重ね合わされているというのは変わらない。
 小此木が示す読者像は、負けることでそれをちゃんと認めるというもの。

 つまり、自分が負けたことで、自分が守っていた“真実”を見捨て、自死を強要した。
 それは要するに、“真実”が本当の真実であると信じていたのではない。
 世間に認められるかどうかが重要だったということ。
 だって、本当の真実だと信じているのであれば、たとえ負けたとしても“真実”を守り続けるはずだから。

 私的には、負けたら共に忘却の深淵に消えて行く、うみねこEP8の戦人の方が断然良いね。
 本当の真実だと信じなのなら、その真実を握りしめて離さないようにしなきゃだめだよ。

 やはり鷹野にとってのヒーローは富竹だな。
 キコニアでもよろしく頼むぞ。

 実際、キコニアでも舞台から消えようとする予兆はあるからな。
 都雄の前にプレイヤーが現れるというミャオの台詞。
 あれ、自分たちの前ではなく、都雄の前だから、自分のことは含めてないんだよね。
 都雄のことはプレイヤーに任せて自分は消えるという、別れの前振り、伏線だと思う。
 今回のゲームでも舞台から消えようとしているから、ちゃんと引き留めないと。


  1. 2020/06/20(土) 20:40:06|
  2. Phase1
  3. | trackback 0
  4. | comment 0

NEW ENTRY | BLOG TOP |  OLD ENTRY>>

プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

現在時刻

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

咲 (3)

来訪者数

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR

Designed by U-BOX