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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


出題者によって正解は異なる

 EP6のマリアのクイズ、
『大きなチーズが1個あります。それをナイフで一回切り分けると2つになります。では、8個に切り分けるには、最低何回、切ればいいでしょう。』

 本来であればイラストのチーズを踏まえて3回が正解であるが、問題文のみで出題されたことから一回が正解となった。
 無限に解釈を許される魔女の問題であれば、あらゆる解釈の中で最も少ない回数のものが正解であるからだ。

 そこでさらに一つの条件を加えてみよう。
「出題者が想定していた回数を正解とする。」
 これでクイズはがらりと色を変える。

 客観的な真実よりも、出題者の主観的な真実を。
 全ての人が考えた中で最も少ない回数こそが客観的に最も正しい真実だと言えるだろう。
 しかし、出題者の主観的な真実はそれと一致するとは限らない。
 チーズを一塊と考えている出題者であったならば、正解は3回。
 形を変える一枚のチーズでも良いと考える出題者であれば、正解は1回になる。
 つまり、出題者によって正解が変わるのだ。

 蔵臼曰く、「こういうものは想定の回数より少なく出来るものと相場が決まっている。」
 ある種の真理ではある。
 チェス盤を引っ繰り返せば、そうなるように出題者が作った。
 出題者には勝ち筋があり、その想定の内に納めれば出題者の勝ち。
 出題者が想定した解答者には、どの程度の答えまで辿り着けるものなのか。

 解答者は2次元で考えて8回と答えるだろう想定している出題者であれば、3回が出題者が用意した正解であろう。
 解答者はチーズを一塊と考えて3回と答えるだろうと想定している出題者であれば、1回が出題者が用意した正解であろう。

 普通の人間が出題者であれば、戦人やヱリカが1回こそが最も少ない回数だと言おうとも、3回である可能性こそが最も高いと私なら判断する。
 そしてこれがベアトリーチェが出題者であれば、1回が正解であると揺ぎ無く確信できる。


 出題者への信頼こそが、出題者の真実へ至る道である。
 故に出題者に対する信頼の仕方が異なれば、当然出題者の真実に至る道は異なり、至る真実もまた異なる。

 出題者は回答者の答えを想定し、それを上回ろうとする。
 ならば出題者の想定する解答者の答えとは何か。
 解答者をどの程度だと見込んでいるのか。
 どうやって解答者を引っ掛けようとしているのか。
 小さな個別の事件から、大きなゲームの対戦まで。
 そうして出来上がった出題者の人物像を信頼してこそ、出題者の用意した解答であると確信できる。

 出題者が人間には不可能だと解答者に思わせたいという意図であったなら、正解はその反対である人間に可能であればどんな答えだろうと正解となり、一つの答えには絞ることはできない。

 人間に可能なある一つの答えこそが正解だと思わせたいのであれば、その反対にこそ正解はあり、であればこそ一つの答えにまで絞れるだろう。
 出題者がアンチミステリーで戦うからこそ、解答者はミステリーを貫くことができるのだと思う。


 私にとって、ベアトリーチェという出題者は、常に想定を上回ろうとする出題者だ。
 少しずつ問題のレベルを上げて行き、過去の問題と解答を前提としてさらに想定を上回ろうとする問題を出し続ける。
 過去問の正解者の想定をも上回ろうし、決して思考停止を許さない。
 先に先にと思考を続け、物語の最後の最後になろうとも、最後まで上回ろうとその意志を貫く。
 絶対の意志で、無限の問題を作る。
 そんな、出題者なのだ。


 他の皆のベアトリーチェはどのような人物なのだろうか。


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  1. 2016/05/28(土) 19:54:09|
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ゲームと勝敗とコミュニケーションと

 ベアトのゲームはチェスに喩えられる。
 そして、ベアトの綴ったメッセージボトルはベアトの棋譜だ。
 本来なら交互に一手ずつ指すところを、ベアトは己の分の手を全て記した。
 それに対し、我々読者は自分の分の手を指し加えることで棋譜を完成させる。

 本来なら交互に打つできところを、ベアトは自分の分をまとめて打っている。
 それはこちらがどんな手を打つか読めているからこそできることだろう。

 そもそもチェスは相手の手を一手先二手先と読み合うゲーム。
 一手先を読めば、自分が打った後に相手がどこに打つかがわかる。
 つまり、そこに相手の手を打たせるために、自分の駒を置くことが可能というわけだ。

 ベアトが読者の推理を誘導しようとしていたという前提に立てば、ベアトが読者を誘導して勝利するものと、読者がそれに読み勝って勝利するものの2つの棋譜ができあがる。
 勝負には勝ちと負けがあり、GMならその両方の結末を用意しなければならない。
 ベアトは勝利を目指しながらも、負ける余地を作った。


 これはテーブルトークRPGでGMをやる場合を考えれば解りやすいだろう。
 プレイヤーに選択肢を迫るならば、どちらが選ばれてもそれぞれの結末に辿り着くようにシナリオを作るはずだ。

 まあ、ノベルゲームに喩えても良い、選択肢がある場合、それに合わせて別のエンドが用意されているのが当然だろう。

 そうなると、プレイヤーとしては選択肢は全て選び全ての結末を見るのが正しい楽しみ方だ。
 選択肢をひとつしか選ばず、ひとつの結末しか見ないのは、もしかしたら間違っていたのかもしれない。


 読者の大半は勝利を目指したと思う。
 私もそうだ。

 私の場合は、勝利を目的とし、誘導や引っ掛けの逆を行くという手段を用いて。
 喩えるなら、ベアトが自身が勝利する棋譜の話題を繰り広げようとしているところを遮って、こうすれば引っ繰り返ると反論し、自分の勝利する棋譜の話を只管にした。
 コミュ力低すぎだと自分でも思う。

 勝利を目的として、コミュニケーションを手段として用いたゆえの陥穽なのだろう。
 きっとコミュニケーションを目的として、勝負を手段とするべきだったのだ。
 そうすれば、自身の負けの話題すら話を広げて楽しめた。

 EP2で南條が金蔵に言っていた。
 チェスの目的は勝利を目指すことだけではなく、親しい友と時間を過ごすことだと。
 正にその言葉通りだったわけだ。

 コミュニケーションを絶対の意志でするなら、勝利の話も敗北の話も、さらにはファンタジーやアンチファンタジーの話もできることだろう。
 それがベアトが求めた理想の相手なのではないかと思う。

 たぶん、そういう人ならベアトのゲームが終わった後も話を広げることができるのだろう。



 ま、私はそこまでの境地には達していない。
 私は勝利を、即ち解いて終わることを目指して推理した。
 もちろん愛したのは、私が勝つ棋譜。
 なので、負ける場合の棋譜とは注ぐ愛の差が歴然とある。
 私の愛するものが愛しているから認めているだけど、同じほど愛しているわけではない。

 つまり、三角関係なわけだ。
 いや、ベアトにとって娘のようなものなので、結婚したらこぶつきだったって感じだろうか。
 EP5の戦人の気持ちが何となくわかる気がする。

 そんな思いがここ暫くの記事にモロに影響が現れているのだと思う。


  1. 2015/03/28(土) 21:28:14|
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入水自殺と魔法・手品エンド

 並び立つ真実の内のひとつ、黄金の真実。
 それは猫箱の中でしか生きられない。
 なぜなら猫箱に閉じ込められなかった場合、幻想が成り立つ基盤が失われるからだ。

 1986年の親族会議の日に紗音にプロポーズすると譲治が決意したら、紗音はプロポーズを受け、そして嘉音は六軒島をでてしまう。
 そうなればヤスの幻想は成り立たず、別の黄金の真実に代えなければならなくなる。

 つまり、猫箱に閉じ込められた二日間の六軒島は、黄金の真実であるヤスが生きるために作られた世界と言っても過言ではないだろう。


 それを踏まえて件の入水自殺を解釈してみる。


 六軒島からの脱出。
 それは猫箱からの脱出だ。
 猫箱に閉じ込められた二つの真実。
 赤き真実と黄金の真実。
 出せば黄金の真実は消え、赤き真実だけが残る。

 戦人=読者とする。
 戦人はベアトと共に島を出て共に生きようと言った。
 それは六軒島で得た答えを明確な形で明らかになって良いだろうということ。
 得た答えと共に生きようということ。
 ベアトリーチェという答えが、六軒島で得られた宝だからだ。

『お前に罪があるなら。それを犯させた俺にも罪がある。……だから、お前の十字架は、俺たち二人で背負おう。』

 これは読者の推理の中で、犯人が罪を犯したことを指すと見ることもできる。
 推理で導き出した犯人は推理した者の心の中にだけいて、現実にいる犯人とは同一でありながら別人なのだ。
 推理の中で犯人が犯した罪は、推理した者の責任である。
 推理する者には、自身がした推理に責任を持たなくてはならない。

 だから猫箱から出よう、と。


 目を閉じてのキスは、推理が結ばれたことの暗示。
 目を閉じている時に確かにいたベアトが目を開いたら消えてしまったのは、いざなぎが冥府からいざなみを連れ出そうとしたことを連想させる。

 目を開けた光の世界は生きる者の世界で、「うみねこ」においては現実の世界。
 目を閉じた暗闇の世界は死んだ者の世界で、「うみねこ」においては幻想が存在することを許された魔女の闇。

 目を開けたから幻想は消え去った。
 得たはずの真実は幻想の存在であるという証だ。


 そもそも黄金の真実を本当の真実と思い込ませようという魔法は、幻想を真実としようとする試みだ。
 それは同時に、本来なら真実であるものを幻想の存在にするということでもある。
 要するに、現実に存在するベアトは、自身が幻想の存在になる決意をしていたということだ。

 そう見ると、ベアトが海に飛び込んだのは、自身の片割れたる黄金の魔女と共に心中しようとしてのことと解釈できる。

 愛されることを願っていたくせに、自身が愛した黄金の魔女ベアトリーチェと共に死ぬ。
 これは三角関係と言えばいいのかな。

 戦人に愛(推理)されることを願っていたが、6年の間に戦人のために生み出した謎であるベアトリーチェを愛して(謎として作って)しまった。
 愛されるために、愛を込めて謎を作った。
 それがいつか手段と目的が入れ替わった。
 愛を込めて作った謎のために、愛してもらおうと。
 黄金の魔女を愛してしまったのだ。
 それと心中するほどに。


 猫箱を出て生きるとは、己が片割れを忘れろということだ。
 現実のベアトは幻想のベアトリーチェを裏切れない。
 だから海に飛び込んだ。

 戦人(読者)視点だと、
 プレイヤーは魔女の闇の中を推理し、その果てに確信に至った感触(キス)を得て結ばれた。
 だが真実は幻想の世界へと逃れ、目に見える形の真実を得るできなかった。
 それでも手に入れたはずの真実を手放したくないのであれば、幻想の世界の中に飛び込んで追わなければならない。
 戦人はそれを追った。

 一度掴んだ後に光の世界と闇の世界に引き離されたのは、これもまた生きる世界が違うという暗示。
 なのでその後にベアトに追いついた戦人は、現実の存在ではなく幻想の存在。
 推理をしたプレイヤーとしての読者といったところか。

 さくたろうは真里亞の駒だが殺し方は二つある。
 ひとつは依代を壊すこと。
 もうひとつはプレイヤーたる真里亞の死。
 これはさくたろうに対する興味の喪失と言っていい。
 プレイヤーとしての死が、即ち駒の死。

 読者と犯人の関係もそれだ。
 駒たる犯人の死は、プレイヤーたる読者の死である。

 プレイヤーたる読者が駒たる犯人と運命を共にする。
 幻想の生きる世界、猫箱の中に。
 正解したか間違ったかそれすら定まらぬプレイヤーとして猫箱の住人となる。
 忘却の深淵の底でいつか消え去るその時まで、ひとつに寄り添うのだ。


『フェザリーヌは、その海に一輪、黄金の薔薇を放る。
 静かに眠る猫箱への手向けとして。
 その黄金の薔薇の物語をもって、……この長かった物語のピリオドとしよう。』


 この入水自殺の物語は、全てを捨てた八城十八が、猫箱の中に残った嘗ての己とその最愛の片割れの魔女に向けた手向けの花。

 答えを明確にせずに終わるが故に、現実を生きる読者には顧みないで現実の世界に返って欲しい。
 一度でも追ってきてくれるなら、それは存外の喜びである。
 だから孤独に消えてもかまわないのだ、と。
 そう思っているであろうベアトに、本当に望んでいた願いが叶ったことを伝える、

 ――――黄金の真実。



 自説と永遠を共にすると誓えるほど信じることができたならば、それは“結ばれた”と認めることができる。
 その時、自説を信じることができるのは、それまでの推理の道程があるからこそだろう。

 推理の結果に得られるのが真実であるのなら、それまでの推理の過程こそが愛である。
 愛がなければ視えないのに、赤き真実で目に見える形にしてしまえば、愛がなくても見えることになる。
 それではもはや愛は不要と言っているようなもの。

 見えないものを視るためには愛が必要である。
 そして、愛を得たのであれば、目に見える真実がなくとも、永遠を共にできる。

 その愛を認めることができるのは、黄金の真実だけである。


 赤き真実は“真実”を語り、黄金の真実は“愛”を認める。
 と、考えてみたしだい。



 ついでに手品ルートも解釈してみる。

 縁寿は天草と船長に自身の推理を聞かせ、その反応から真実に至ったと確信し、彼らの口から真実を聞くことなく殺した。
 真実が明かされなくても、自身の推理に確信を持ったことを以ってして、自身の手で謎を殺して物語を終えるのがこのルート。

 人は謎。真実が閉じ込められた猫箱。
 解いた謎にはもはや興味はない。
 謎を殺すことで、謎を解くプレイヤーである自分を殺す。
 至ったと確信したならば、答えが明かされるまでもなく殺す。
 そして、退屈を紛らわす新たな謎を探しに行く。

 要するに、航海者エンド。


 そうすると、それと対比されるだろう魔法エンドを改めて見ればその意味も見えてくる。
 真実に至った後、手品エンドが謎を殺すのなら、魔法エンドは謎を生かすものと見るべきだろう。

 真実に至った上で謎と共に猫箱の中で生きる。
 真実に至った上に行うものと言えば、ベアトの黄金の魔法だ。
 真実の上に幻想を飾り立てる。
 即ち、謎を作る。

 つまり、プレイヤーからGMに昇格し、至った真実を用いて新たな謎を作りゲームを行う、領主エンド。
 現実で言えば、偽書作家エンド。

 あるいは、そこまで行かずとも、至った真実に影響を多少受ける程度でも、“生きている”と言えるのかもしれない。
 寿縁の姿が示すように、ベアトのゲームに拘らずに、創造主への道を推奨はしているだろうけれども。


 共に生きようと共に死のうと、それは既に結ばれているからこそ選べる道だ。
 結ばれた時点で、ベアトの物語、縁寿にとっての過去の物語に決着がついた。
 だからその後に選ぶのは未来の道。
 その未来の物語では、過去の物語が影響するのかしないのか。

 どんなものにも影響されないのであれば、真実に意味はない。
 どんな物語を読み終えようと、自分の物語には何の影響もない。

 だが真実に意味ができればそれに影響される。
 これからの自分の物語の中でその真実は生きる。
 真実になった幻想も、幻想となった真実も同様。
 ベアトの物語から心が伝わったから、縁寿は自分の心を伝える物語を綴った。

 物語は決着し、死者は過去になる。
 死者は未来に影響を与えない。与えられない。
 それでもなお与えたのなら、それは死してなお生きていると言えるだろう。


  1. 2015/02/14(土) 23:31:30|
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観劇者権限

 ウィルがベルンに与えられた観劇者権限。
 それによって劇を見ることが出来た。
 ならばその劇を作った者は誰なのだろう?
 そして、本来その権限を持っている観劇者とは誰なのか?


『ノックス第9条、観測者は自分の判断・解釈を主張することが許される。』

 観測者は自分が見た真実を、好きなように解釈した主張を提示しても良い。
 魔女はその主張を“目に見える形”で提示する。
 それがブラウン管裁判でGMがしていること。
 つまり、観劇者の見ている“劇”とはそれのことだ。

 戯曲の魔女は、真実を基に戯曲を作り、それを劇として見せる。
 そして、観劇の魔女はその劇を見る。
 その劇に加えられている“主張”。
 それが俗に言う“幻想描写”だろう。

 それに対して観劇者は、ノックス第9条によって自分の判断・解釈を主張することができる。

 これがブラウン管裁判であり、ベアトのゲームの根幹だ。


 さて、GMが劇を見せる戯曲の魔女であるであれば、その対となる観劇者とはプレイヤーのことに違いない。

 そして、GMがベアトであればPLは戦人であるのが当然だ。

 ……が、そうだろうか。
 そんな当然のことは、観劇者権限などというもので改めて提示するほどのものではないのでは?
 今、第7のゲームだからこそ提示したいものであるはずだ。


 ウィルに観劇者権限を与えて解かせようとしていたのは、ベアトリーチェ殺人事件。
 殺せる者は2人。理御とベアトを演じていた者。
 理御については作中で説明されたので、問われているのはベアトを演じていた者だ。

 ベアトを生み、演じて、謎を出題した者。
 謎とは即ち、ミステリーだ。
 魔法を“目に見える形”で主張した場合、それは人に可能な形でなければならない。
 劇を目に見える形、戯曲として文字で書き起こすことで、人に可能なことに納まるのだ。
 即ち、メッセージボトルの作者こそが大元の観測者なのだ。

 そして、その対となるメッセージボトルの読者こそが大元の観劇者。
 即ち、プレイヤーだ。



 真実と幻想が入り混じった劇。
 それは我々読者が見ているものそのものだ。
 メッセージボトルがそれを読んだ者に当てられたものなら、そのメッセージボトルに描かれた劇はその読者が観劇者であるということ。

 解くべき謎を劇として見る権限。
 それは謎を推理する人間側のプレイヤーに与えられた権利だ。
 それがなければ推理することもできはしない。

 劇の出演者であるウィルは、その権限を与えられたことでプレイヤーと同等の権利を得たのだ。
 即ち、見た劇を“自分の判断・解釈を主張”する権利を。

 戦人もまた同様だ。
 劇中の登場人物である戦人は、劇中劇を推理していく。
 読者にこのようにゲームを行うのだと教える役目を負っているのだ。


 観測者が観測したものが観測者の真実。
 犯人であるベアトは、無論、事件の真実を知っている。
 知っていて、魔法殺人であるという解釈を主張し、それを戦人に見せてゲームを行った。

 同様にウィルは、金蔵などの観測者の解釈した主張を見せられた。

 そして、それらを作者が文字で記し、我々読者は劇という形で見ているというのがうみねこの構図なのだろう。


 要するに、観劇者権限を提示した意図は、うみねこの物語を見ている大元の観劇者は誰かのか、という問い掛けを浮かび上がらせるものであり、同時に、その観劇者に劇を見せている大本の観測者は誰かのかを問うもの、ということなのだ。



 うみねこの物語は全て“劇”。
 信用できる記述などない。
 しかし、“劇”を見せたかったのは確実なことだ。
 そして、そこに意図があることもまた確かなことだろう。

 さらには、第7のゲームで観劇者特権と同時に、それを与えられた“心を蔑ろにしない”探偵ウィルが登場したことも合わせて考えれば。
 要するに、観劇者は心を蔑ろにしないように、観測者の意図を探れと言いたいのだろう。


 さて、観測者の真実とそれを覆い隠す観測者の主張があるなら、その2つは明確に異なり、故に主張は真実から目を逸らさせるための手段であることが解る。
 そして、真実から逸らそうと企てているのなら、それはGMとして勝ちを狙い続けているということの証左でもある。
 だからその逆側にこそ真実はある。


 真実から逸らそうとすることは、真実を指し示すも同然の行いである。
 故に、うみねこは推理可能である。
 だからこの主張を覆してみろ。
 それが第7のゲームで言いたかったことじゃないだろうか。





 散ではミステリーvsアンチミステリーをやった。
 第5のゲームでは、下位世界で犯人が誤った真実を作り上げる様を、その上のメタ世界視点で俯瞰し。
 第6のゲームでは、メタ世界のゲームで、GMが並び立つ真実を構築する様を、その上の観劇者視点で眺め。
 第7のゲームでは、観測者が作った劇を観劇者に見せる様を、外側から第三者視点で見てみた。

 こう並べると解り易いように段階的にヒントを出していることが見て取れるなぁ。


  1. 2014/10/11(土) 21:38:32|
  2. アンチミステリー
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究極にして一なる原始のトリック

 私の解釈するアンチミステリー、並び立つ真実についてからすると、ラムダが語ったベアトの魔法大系の核である「究極にして一なる原始のトリック」の「原始のトリック」とは、「偽りの真実を信じさせようとする」ことだと考えることができる。

 ミステリーにおける犯人は、自身の犯行を誤魔化すために「自分には犯行は不可能である」と信じさせようとする。
 または、さらに一歩踏み込んで、「別人が犯人である。故に自分は犯人ではない」と信じさせようとする。
 そのために犯人はトリックを使用する。
 つまり、「偽りの真実を信じさせようとする」のだ。

 「魔法」を信じさせるのが「魔女」であるというのなら、「魔女」が信じさせようとするものが「魔法」だ。
 即ち、「偽りの真実」が「魔法」なのだ。
 

 真犯人は真実に至ることを「奇跡」と定義し、そのために「偽りの真実を信じさせる」ことを「絶対の意思」で生み出そうとした。
 「絶対」のトリック。
 つまり、「究極のトリック」だ。


 ヱリカ曰く、ミステリーで暴くべき謎は3つある。
 フーダニット。誰が犯人か。
 ハウダニット。どうやって犯行したか。
 ホワイダニット。どうして犯行に及んだか。

 「偽りの犯人」「偽りの犯行」「偽りの動機」を揃えれば、「偽りの真実」によって「本当の真実」を完璧に覆い隠すことができる。
 その3つを兼ね備えたものを核として話を膨らませた「偽りの物語」。
 「偽りの物語」も愛(推理)されれば真実と成る。

 「偽りの物語」が愛されるとは、「偽りの犯人」が愛されることであり、「偽りの犯行」が愛されることであり、「偽りの動機」が愛されることである。
 それは即ち存在しない人間が、存在する人間と同格に扱われるということ。
 即ち、「一人分の魂を持った人間」に成ることを意味する。

 そんな「人間」を生み出すと言うことは、偽りの犯人の経歴、動機に至った思いの変遷を生み出さなければならない。
 生きてきた歴史があり、感情があり、心がある。
 その結果の犯行がある。
 そういう「一人の人間の物語」を生み出さなければならない。

 そして、読者に愛がなければ視えないのであれば、作者には愛がなければ作れない。
 だから、己が生み出した駒であるベアトを一人の人間として愛したことだろう。
 まぁ、娘のようなものだな。
 その娘を人に愛されるように、絶対の意志でトリックを生み出したことだろう。



 完璧なトリックとは即ち、否定されないトリックだ。
 否定できないが故に真実に取って代われる。
 そのためにもその「物語」、トリックは「可能」でなければならない。
 「偽りの犯人」に「可能な犯行」でなければ信じてもらえない。
 勿論、真犯人にも「可能な犯行」でなければならないのは言うまでもないだろう。

 この時、2つの「可能」が並び立つ。
 並び立つが故に互いを否定できず、どちらかを信じる者が現れた時のみ互いが互いの「物語」を殺しえる。
 赤き真実に並び立つ黄金の真実。
 それこそが「究極にして一なる原始のトリック」だ。

 逆を言えば、並び立つ状況でしか究極足り得ないのだ。


 通常のミステリーでは真実は解き明かされるのが普通である。
 それはある意味、その物語が真犯人の物語であるからと言えるだろう。
 真犯人の物語であるが故に、トリックである偽りの物語が殺され、真実である真犯人の物語が明かされる。
 そういうことではないだろうか。

 それに対し「うみねこ」は、真犯人が生み出した偽りの犯人である「ベアトの物語」だ。
 普通なら犯人は自身の犯行を誤魔化すためにトリックを用いる。
 しかし「うみねこ」の犯人は、「偽りの真実」を「一人分の魂を持つ人間の物語」にすることを目的にしている。
 手段と目的が入れ替わってしまっているのだ。


 殺されるべき「偽りの犯人」を、愛されるべき「一人の人間」として生み出そうとしてしまった。
 孤独から開放されるために理解できる者を望んだ。
 しかし、その孤独の時を共に過ごし、退屈を癒してくれたのは自らが生み出したベアトリーチェだけだった。

 結ばれるべきは、己か、己が愛した黄金の魔女なのか。
 作者である己が決めてしまえば、片方は必ず死ぬ。
 しかし、真実が並び立てばどちらの可能性も残すことが出来る。

 故に後は読者に運命を委ねることにしたのだろう。
 生かすも殺すも読者次第。
 どちらを愛しても構わない。愛した者を大切にしてくれるのなら。
 だから作中では真実が明かされることなく終わったのではないかと思う。





 聞きかじりで申し訳ないが、人の心理の傾向としてこんな話がある。

 他人に構ってもらえない子供が、悪戯をして構ってもらおうとすることがある。
 価値がないと扱われた子供は、自身に価値を見出すことができず、自身を蔑ろにすることがある。
 愛されなかった子供は、自分が与えられなかった分、自分の子供に愛情を注ごうとしたがる。

 その話が思いっきり当て嵌まってしまう。

 自分のことを知って欲しくて、考えて欲しくて悪戯を仕掛けた。
 他人にとって考える価値すらない自分を、価値のないもの無意味なものとして扱い、自分の命すら蔑ろにした。
 愛されなかった自分の代わりに、娘同然のベアトに愛情を注いだ。

 ベアトを生み出した者がどれほどベアトを愛していたのか、一つ前の記事を読んでもらえれば想像できると思う。

 愛されるべきは、価値のない自分か、それとも自分が愛情を注いだベアトなのか。
 そんな自問自答を長い間続けていたのではないか。
 そして、戦人が1986年に六軒島に帰ってくることが決まった時、その選択を自分以外の者に委ねたのだろう。





 ま、簡単に言えば、真里亞に対して「真里亞とさくたろうのどちらかしか生き残れないけど、どっちを選ぶ?」と聞くようなもの。
 選べないからルーレットに任せるしかないよねって。

 トリックも究極に至れば魂が宿るというお話。


  1. 2014/09/06(土) 23:30:01|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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