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うみねこのなく頃に 考察 境界より視やる

PCゲーム「うみねこのなく頃に」の個人的な考察ブログ。「キコニアのなく頃に」についてもガッツリやっている。


【キコニア】忘却の深淵に眠る地獄/明けの明星が昇る

 本日二投目。


 忘却の深淵は、神の部屋の中に作られた忘れたい記憶を隔離する場所。
 隔離することで人格を保護するフィルターであり、永遠の時の中でいつか忘却するためのゴミ箱。
 〈次元斬〉で斬ったものの行く異次元がここ。
 さらにはディメンションコンテナの大本。
 コーシュカがディメンジョンコンテナが小さいのは、〈パンドラの箱〉の絶対記憶によって、忘れることが可能な一時記憶領域が少ないためだと思われる。


 神はその忘却の深淵に、自らの忘れたい記憶を封じているはずである。
 それは神にとっての地獄。
 即ち、神自身が体験した原初の地獄、脳工場。
 その地獄は、天井や壁、床などどいう概念さえない海の底に封じられている。
 地獄の窯が開く時、そこよりこの地獄が溢れ出す。
 それが終端において約束されている地獄。
 神の悪夢が現実となり、人類は脳を収穫される。
 そしてそれを積み上げて八百万の脳を作り、神が復活するのだ。

 それを回避するために生み出されたのが神の子であり、神の子が殺すようプログラムされた対象は神自身。
 神=ミャオは都雄の中にいるので会っていることにはならない。
 つまり、ミャオの体はどこかに存在しているということ。
 それが即ちジェストレス。

 神=世界。神=龍。世界=バビロン。
 バビロン即ち世界はこの世に溢れる全ての罪、人より別たれた穢れた魂、全ての苦しみ忘れたい記憶、即ち悪霊を一身に引き受けて燃やされる。

 獣と偽預言者が投げ込まれる“火と硫黄との池”は、脳工場で肉体が廃棄場所をイメージしたもの。
 神の見る地獄の光景だろう。
 即ち、地獄が封じられた忘却の深淵。
 龍もまたそこへ投げ込まれる運命にある。


 人類は地の底や海の底より霊素を汲み上げている。
 この霊とは深淵に封じられた神の記憶なのではないだろうか。
 つまり、地獄の窯より地獄そのものを汲み上げているのでは?
 これが地獄本体が現れるカウントダウン。

 ナオミの感情と記憶を消して処理速度を上げる能力は、この忘却の深淵由来のものなのだろう。
 つまり、忘却の深淵より隔離されていた感情と記憶が噴き出すことは、世界の処理速度を下げる結果となり、さまざまな天災に繋がっていると思われる。





 地獄の一部が漏れ出た時に、神の意識も忘却の深淵より出てこれたのではなかろうか。
 そして、神の子を産む役割を課された聖母フィーアに宿り、さらに神の子都雄の中に宿った。
 もしかしたら逆かもしれないが。
 神の子と共にフィーアの胎に宿り、そこよりフィーアをアバターとして動かしていたのかも。

 どちらにせよフィーアは神の意識に触れ、神に傾倒し、神の叡智の翻訳する趣味に目覚めたのだろう。
 マリオの星に尊厳を取り戻す仕事と、責務を果たした後の尊厳ある死を見て、フィーアは意味ありげに称賛した。
 それは自身の、神=世界の尊厳を取り戻す仕事と、その責務を果たした後の塵に戻れる尊厳を思ってだろう。

 神が完全なる姿を取り戻すには、バラバラとなった神の魂、即ち全人類の魂を神へと返さなくてはならない。
 それはもはや人の住めない世界だけど、それこそが自然な姿。

“それを聞き、数人がケタケタと笑いながら再び拍手を浴びせるが、意味がわかっているのかは怪しい。……それとも、意味を完璧に理解した上で、さらに3周くらい回ったうえでケタケタと笑っているのか。”

 神の尊厳を取り戻す、これが星の尊厳を取り戻すことを理解した上で、さらに3周回った解釈だろう。

「尊厳とは?」
「自らの運命を、自らに委ねることと、吾輩は考えるのでありますッ」

 神が自らの運命を人類に委ねていることが世界を歪ませている。
 人類は自らが豊かに繁栄するために、神=世界より搾取し、汚し、踏み付けてきた。
 挙句は地獄の窯を開こうとしている。

「自分の尻は自分で拭くのが、美学だったという訳ね」
“ここはそのようなものとは一切、無縁な場所だと思っていたけれど。”

 “ここ”とは世界を指す。
 世界には、自分の尻を神に拭かせる者たちしかいない。
 そうフィーアは思っていたのだろう。
 だからこそ、マリオを称賛した。

“……この完成は、マリオだけが望んだことではない、……ということか。
 …………………………。”

 これは、星の尊厳を取り戻す、あるいは神の尊厳を取り戻したいと無意識で願っている人類がそれなりにいることを示しているのか?
 だとするならば、やはり神が尊厳を取り戻す機運が高まっているのだろう。

 叡智の眩い金色の輝きで塵となったマリオは、叡智=神のカケラに自らを捧げたということだろうか?

“セシャトはゆっくりと、手に握りしめたそれを掲げる。
 指の間からは、暁の輝きにも似た光が、溢れ出していた………。”

 龍が暁の輝きを取り戻す。

 明けの明星はルシフェルを示す。
 彼は堕天使の長であり、サタンの別名でもある。
 そしてかつては天使の長であり、神の次の位にあった。
 またヨハネの黙示録では、イエスのことが「輝く明けの明星」と呼ばれている。

 神の子と龍は鏡写しの存在。
 その彼が暁の輝きを取り戻すことは、本来の天使の長に戻ることを指すだろう。

 つまりセシャトは、零落し堕天した神=ミャオが本来の姿、天上にて光をもたらす者、明けの明星としての姿を取り戻させようとしているのではなかろうか。
 神の復権、尊厳ある姿を取り戻させること。
 それがセシャトの目的なら、フィーアと同じだ。
 それぞれ天使側、悪魔側で、図らずも同じ目的で動いているのだろう。

 もし、セシャトの持つ暁の輝きの叡智が、マリオが使った叡智であるのなら、マリオの魂はその叡智を介して神へと帰ったのだろう。
 一番最初に神へと殉じた魂として。

 だから断じて神はひとりぼっちではない。
 神に闇を擦り付けるのが人であるならば、神に光を取り戻させるのも人であるのだ。


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  1. 2020/01/04(土) 20:01:29|
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【キコニア】フラグメントから見える敵プレイヤーの考え

 三連投の一投目。

 ゲームを通して敵プレイヤーが何を言いたいのか、何を考えているのか、そういうメッセージを受け取ることが重要であると考える。
 そんなわけで作中にどんな敵プレイヤーのメッセージがあったのか、私が見つけたものを簡単に上げてみたい。
 とは言え、本編のを抜き出してくるのは面倒臭いのでフラグメントのだけで済ませたい。

 以下、ネタバレ注意。











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  1. 2019/11/02(土) 19:50:56|
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二つを得るために、一つを生贄に捧げよ

 魔女が存在するためには、謎という猫箱が必要。
 謎を生み出すには、真実を殺さなくてはならない。
 だから六軒島の人々は死ななければならない。
 真犯人自身の真実諸共に。

 己の真実を殺すこと、それこそが魔女への愛を証明している。
 もはや誰も魔女を否定できない。
 なぜなら魔女を殺すことができる真実は、猫箱という密室の中で、真犯人が殺してあるのだから。

 猫箱の中には、生きた猫と死んだ猫が入っている。
 片方を生かすなら、もう片方は死ななければならない。


 というわけで、何かを得るために生贄に捧げる、というのはどこかで見た覚えがある、取り合えず当て嵌めてみようと試みることにする。


『以下に掲げる三つの内。
 二つを得るために、一つを生贄に捧げよ。

 一.自分の命
 二.愛する者の命
 三.それ以外の全員の命

 何れも選ばねば、上記の全てを失う。』


 推理とは愛であり、作者と読者は謎を通して愛し合う。
 世界を作り出す最少人数は2人。
 駒に対する関心を失えば、駒は死ぬ。
 ゲームに対する興味を失えば、プレイヤーも死ぬ。

 命を真実と解釈すれば。
 作者にとって、一は自身の真実。
 二は愛する真実。三はそれ以外の人が信じる真実。

 作者は一を犠牲にしてゲーム盤を作成し、それを公開することで三を集い、その果てにて二を

共有しようとした。

 こういう解釈もありだろう。
 とすると、猫箱という密室内で犯人が殺したのは真実だった、と言える。


 とはいえこれはテストなのだから、我々読者に対して問われたものであると受け取るべきだろ

う。

 一は、推理して出した自身が信じる真実。
 二は、愛する作者が辿り着かせたい真実。
 三は、それ以外の人たちが信じる真実。

 普通に考えれば、最も優先すべきは自身の真実。
 次に愛する者の真実。
 よって生贄に捧げるのは、それ以外の人たちの真実となる。

 これは読者が真に相対すべきは作者であり、同じ境遇の読者ではない、ということ。

 この選択の意義的には、真実は一つであらなければならないとする一般論の排除。
 即ち、並び立つ2つの真実があることを選ぶということにある。


 次は二を生贄に選んだ場合。
 これは喩えるなら、愛より友情を選んだようなもの。
 真実は解らないのだから、筋の通る仮説は全て可能性を否定できない。
 作者に対して一線を引き、深く踏み込まないでおこうというもの。


 最後に一を生贄に選んだ場合。
 作者と同じ選択肢であり、推理的には自殺に等しい。
 つまり、後追い自殺であり心中だ。
 EP8の戦人とベアトの六軒島脱出の結末が重なる。
 猫箱から出られるのは二だけ、猫箱の外にあれるのは二と三。

 意義的には、推理するプレイヤーとしての死。
 これからは作者と同じく、出題者側のプレイヤーとして生まれ変わる、ということだろう。


  1. 2018/05/12(土) 20:13:55|
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愛と憎しみと、箱の中の黄金

 EP8を語りたい。


 これまでのEPでは、真実を暴き幻想を殺せ、とそのように焚き付けられてきた。
 それなのにEP8では、真実を暴く者から幻想――黄金郷を守る、というストーリーとなっている。
 これまで言ってきたことと違うじゃないか、矛盾している。

 ――が、まあそんなわけはない。
 そんな徒労のためにあんなに長々と物語を書くことなどできようはずがないのだ。
 矛盾に感じるなら、それを解消すれば良い。

 例えば、それらは手順の順番である、とか。
 まずは真実を暴き、魔女の心臓を握る。
 その上で、猫箱を開けて止めを刺さずに、猫箱の中にある黄金郷を守って欲しい。
 そういうメッセージだろう。

 つまり、真実を暴こうともせずただ幻想をそのままにすることと、真実を暴きその上で幻想を生かすこと、それらは全く異なることであると真犯人、あるいは筆者は考えているということ。

 ではさらに真犯人あるいは筆者の考えを読み解こう。


 猫箱の中身を喰らう山羊は、猫箱の真実についての仮説の象徴だ。
 本質的に、真実だと主張することは、他の主張を真実ではないと否定することも含んでしまう。
 猫箱があるからこそ、それらはどちらも否定することができないだけだ。
 ブラウン管裁判は、猫箱によって、中身の真実と外の仮説が隔てられているからこそ成り立つのである。
 仮説を猫箱の中に投じれば、真実を喰らうことになるのは当然の結果だろう。
 それをなさない唯一のものは、真実と一致する仮説のみである。

 それを踏まえれば、自分の心という猫箱の中にある真実を喰らおうとする、外から来る山羊たちに対する、怒りと悲しみを感じることができる。

 しかし、真犯人の動機は復讐ではない。

 描写でも、猫箱の中を守ろうとするものであり、その外側に対して攻撃するものではない。
 物語は猫箱を開けずに終わる。
 つまり、猫箱を開けないことで、守れるものがあるということ。

 それは何なのか?

 まず、猫箱の中にあるものといえば、本当の真実。
 これは猫箱を開けても開けなくても、変わらずに存在する。
 開けることで損なわれることはないので除外。

 では、本当の真実に辿り着いた者であるのか。
 猫箱を開けなければ、本当の真実はその者だけのもの。
 開ければ、それ以外の者にも等しく分け与えられてしまう。
 だが描写では、猫箱の中身で最後まで守ろうとしたのは黄金郷なのだ。
 つまり、幻想である。

 本当の真実の自分とはみすぼらしいものだと、そう真犯人は卑下している。
 相対的に、真犯人が大切にしているのは、自身が生み出した黄金の真実である、愛しのベアトリーチェなのだ。

 そう、真犯人が殺人を犯した動機は、ベアトリーチェへの愛ゆえに。
 猫箱の中に黄金の真実を生み出すこと。
 それを目的とした犯行なのだ。

 だから最後まで猫箱を開けずに守ったのだ。


 そこまでわかれば、なぜ真実を暴いた者に黄金郷を守って欲しいと願ったのかもわかる。
 猫箱に入った2つの真実。
 赤き真実と黄金の真実。
 そのどちらをも託した。
 だが愛ゆえに、真犯人自身の真実よりも、愛しのベアトの真実をこそ大切にして欲しいのかもしれない。

 そして、だからこそ、その黄金の真実がどんなものかもわかる。
『真実を暴こうともせずただ幻想をそのままにすることと、真実を暴きその上で幻想を生かすこと、それらは全く異なることであると真犯人、あるいは筆者は考えている』
 真実に至らずとも誰にでも手に入る幻想と、真実に至った者にだけ解る幻想と、どちらが黄金なのか。
 言わなくとも明白だろう。

 手品か、魔法か。
 魔法なら、それはどんな魔法が視えたのか。
 何を魔法と認め、讃えたのか。
 EP8では、それが問い掛けられていたのではないか。


 ああ、だからこそ、私は思う。
 至った者たちが偽書を作り、新たな謎を広めることを、最初の黄金の魔女が喜ぶのだろう、と。
 謎という猫箱の中こそ、彼の魔女の住処なのだから。 


  1. 2018/02/17(土) 20:10:14|
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ルールXYZ

 追加TIPSでベルンカステルが話したルールX・Y・Z。
 それを私なりに解釈すると、ルールXは絶対、ルールYは無限、ルールZは黄金となる。


 ルールXはベルン曰く、
ラムダデルタは、このゲーム盤に私は“絶対”に勝てないと豪語している。
 その時点で、逆説的にルールXは判明しているの。本当に馬鹿な子ね。
 つまり、物語が常に6月20日から始まるようなもの。恐らくこれが、ベアトリーチェなる魔女の心臓部でしょう。

とのこと。

 ラムダが絶対であると保証したということは、魔法的に考えれば絶対の意志であると認めたということではないだろうか。
 ベアトリーチェの心臓とは、推理によって至れる核心部分。
 この物語はベアトの意志によって生み出された。
 よって推理すべきは、ベアトの意志。
 その意志が気紛れであるならば、推理は不可能だろう。
 しかし、その意志が強固で絶対であるならば、それは変更不可能であり、至られれば命を握られたも同然となる。

 ベアトの絶対の意志によって、事件が引き起こされ、ゲーム盤が作られ、物語が生み出された。
 つまり、全ての根本こそがこのルールXというわけだ。


 続いてルールY。
 ベルン曰く、
なるほど、だとするとこのベアトリーチェという魔女は確かに面白い。
 私もあの子も、そして貴方も知らなかった世界を、彼女は切り拓いている。
 それを魔法の根源とする、ルールY。
 ラムダデルタも少しは触れたようだけれど、彼女の域には到底及んでいない。
 もしこれこそを魔法と呼ぶならば、ベアトリーチェを除き、私たちは誰一人魔女などと名乗れないに違いないわ。
 その意味において、自らの魔法体系を組み上げた彼女は、魔女としては初心の部類に入りながらも、その域は魔女をすでに凌駕して、…貴方の域にまで踏み込み掛けていると言えるかもしれない。

しかしそれにしても、実に面白い。このルールYこそが、魔女ベアトリーチェの存在そのものではないかと見ているの。
とのこと。

 絶対の意志、即ち、絶対の魔法なら、何度繰り返そうとも“必ず”殺す。
 しかしベアトは、異なる順番、異なる方法で異なるゲーム盤を作り、そこで百殺している。
 絶対の意志によって運命は“必ず”に収束するはずなのに、絶対の意志によって生み出された結果が百にすることが可能な魔法。
 百の結果を生み出すルーレット、それがベアトが組み上げた魔法体系である無限の魔法、ルールY。

 起こり得る全ての偶然を想定し、その全てに対応できる計画。
 それは1%の確率で起こるカケラを百個を束ね1とした計画。
 これが計画できたら人類最高峰と認めるのも吝かではないのかもしれない。

 ラムダも少し触れたよう~というのは思うに、ひぐらしのルールX、それも真犯人が意図した部分、鷹野の研究ノートのことではないだろうか。
 ランダムで偶然を引き込むルーレットの役割を持ち、引き起こしたい結果を大雑把には想定していて、それを見て愉しんでいる。
 が、想定が甘すぎて掌から出てしまうことを許してしまい、場合によっては大誤算となる結果すら生み出してしまっている。


 そして肝はルールZ。
 ベルン曰く、
私は取り合えずこのルールZを、真相から煙に巻く、迷路的な存在だと仮定してみた。
 つまり、ルールXとYに私を近付けまいとする迷路ね。
 私の力は、百年を掛けて迷路の全ての分岐を確かめて地図を書き上げるのに似ている。
 つまり、どんなに複雑な迷路であろうとも、いつかは必ず攻略できるということ。

つまり、……地図を書いていくことが意味のない迷路。
 例えば、ぐにゃぐにゃと常に形を変える不定形の迷路とでも言えばいいのか。

……概念では理解できるの。でもルールとして捉えようとすると、全く理解ができない。
 だってルールとは本来、不変なものでしょう?
 不定形なるものがルールであるなんて、私の知る常識を超えている。
 固体でなければならないのに、液体のような一面を持つなんて。……まるで水銀ね。
 水銀はラテン語で“生きた銀”。 そして不老不死に通じると信じられ、錬金術師たちの研究対象として珍重された。
 皮肉ね。つまりはまさに、彼女の自称する魔女や錬金術につながるということ。
 このルールZが解けない限り、……いいえ、解けないからこそ、ベアトリーチェはまさに魔女であるということ。

とのこと。

 ルールXとルールYから生み出されたのがベアトのゲーム盤。
 ルールXは、絶対の意志を持った人物が意図した通りの事件を実現させるというもの。
 つまり、その人物ができることしかできない。
 それが“絶対”のルール。

 ルールYは、その人物が意図し実現できる事件の数を無限に増やすというもの。
 それだと迷路の数を増やすことしかできない。
 つまり、1つのゲームにつき、1つの迷路、1つの答え。
 そしてその迷路の形はルールXにより絶対不変だ。

 にも拘らず、それが不定形であるのなら、その迷路はルールXとYによって生み出された物ではないということ。
 迷路とは入り口と出口が繋がっている、つまりその2つを繋ぐ道こそがロジック。
 そのロジックが変更可能であるなら、そのロジックは真実ではなく虚偽。
 幻想の迷路だから真実であるルールXとYに近づけさせないことができる。

 虚偽、幻想、即ち魔法。
 魔法を信じさせるのが魔女。
 幻想を信じさせることで真実から遠ざけることができる。
 故に、ルールZが解けなければ、ベアトリーチェは魔女ということになる。



 ルールXは、作者は絶対に解けるような物語にする。
 ルールYは、犯人は全ての偶然を想定してそれに対応した事件を起こす。
 ルールZは、GMは過程を修飾するロジック(魔法)を構築して信じさせようとする。
 でもって、ルールYの無限創造とルールZの魔法実現を合わせて無限実現としたのがベアトのゲーム。


 出題編ではルールZによってアンチファンタジーが並列し、ルールXとYに近付くことを妨げていた。
 散ではルールXが保証されたが、それだけではルールYとZは解らない。
 ルールYとZによって、真実と幻想を切り分けることが可能となる。

 ルールXとZにより、ベアトは常に引っ掛けようとしてくる。
 それを思考の杖とすれば、騙されずに済む。
 Aであると疑わせたいのならば、疑わせたくないのはAではないものである。
 常に逆の箱に真実は入っている。

 ルールXとYにより、ベアトは全てを想定したゲームを作っている。
 それを思考の杖とすれば、想定外のことが起きるわけがないと判る。
 真実なら想定可能であるならば、想定不可能なら幻想である。
 後はどのように想定したのかを考える。

 その2つが、私が使った思考の杖。


 ゲームとして見るなら、ルールXはゲームをするという絶対の意志。
 それがないならゲームにならず、勝敗は無効となる。

 ルールYは魔女の敗北条件、ルールZは魔女の勝利条件を作り出す。
 そうすることでどちらにも勝ち目がある公平なゲームとなる。

 これら3つのルールがゲームを成立させる最低限の要素と言えるだろう。





 思うに、誰が犯人だと思うのかを訊ねるより、ルールをどう考えているのかを知る方が、どういう推理をしているのかを把握しやすいのではなかろうか。
 これまで魔法だトリックだと長~く書いてきたが、3行で十分だった気がしないでもない。


  1. 2014/04/19(土) 23:24:34|
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プロフィール

フラット・ホームズ

Author:フラット・ホームズ
「うみねこのなく頃に」の某公式サイトで推理を投稿していた。
その時使っていた名前は察してください。
スタイルは、アンチミステリーをチェス盤で引っ繰り返す、というもの。
キコニアでは、世界を箱庭に見立て、そこにどんな駒を置いたのか、それらを動かして最終的にどういう形に持って行くのか、的な感じのを主にやっている。

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